2011年12月2日金曜日

自動車通商問題ふたたび

日本のTPP交渉参加に米国の自動車業界団体が反対しているのだそうだ。理由は「日本市場における輸入車のシェアの低さ」だそうだ。

「多くの先進諸国では輸入車の比率が40%以上なのに日本では5%しかない。」

という事実を以て日本市場は閉鎖的だというわけだ。

しかし、

「自動車の関税はゼロ」

となっている以上、他に輸入車の販売を妨げる理由が分からない。

日米構造協議の時は、左ハンドルのまま輸入しても売れないのに、アメリカのごり押しで数値目標まで上げた。アメリカでの雇用増を求められて日本の部品会社までアメリカに進出したが、結果的にアメリカの自動車産業の基盤である部品製造まで日本企業が席巻する結果となった。日米間にあったのは日本市場への参入障壁ではなく、日米間の品質のギャップであった。品質が良くて安い自動車が売れないわけがない。

問題は米国の自動車が日本の自動車と変わらない品質になることと、その事の日本市場への浸透である。自国の製品より品質が悪くて高いものを買うのは酔狂であるから黙ってたって売れるようにはならない。

ビッグ4の経営危機でロビー活動によるごり押しではじり貧になると分かったと思っていたが、アメリカの自動車産業は政府の支援なしでは成り立たないことが良く分かった。

2011年11月20日日曜日

DeNAの横浜買収騒ぎについて

投稿し忘れの記事を投稿。

ココカラ…
DeNAの横浜買収に、自称"球界の盟主""新聞世界のナベツネ"が「出会い系」とやや偏った批判をして、驚くことに「出会い系もやってる通販会社」の楽天が相乗り。ソフトバンクは今や球団に頼らなくとも知名度が高い上に球団も強いので、この様子を遠巻きに見ている感じ。セ・リーグの話にパ・リーグの楽天が全力で難癖をつけるのは、元々は楽天が横浜を買収したかったからだろう。知名度が低くて弱い楽天で我慢しているのに、横からかっさらわれるのは嫌なもんだろう。

横浜は、中々Aクラス定着が出来ない。セ・リーグ6球団で上位半分の3つの席のうち、巨人は確定している。阪神と中日もかなりの確率でAクラス。残り1つを3球団が争うのだが、横浜は最下位になることが多い。

そんな横浜を買収するならば、それは企業の知名度を上げるためだ。しかし、楽天はパ・リーグだったために思ったよりも効果が出てない。いっそ、楽天を売却して、横浜買収を仕掛けることも考えていたろう。

美味い汁は吸わせねぇぜ。
…ココマデ

追記
ナベツネがDeNA創業者と面会して軟化したのには爆笑。たぶん、それまで彼女がハーバード出身のエリートとは知らなかったのだろう。結局、自分達側の人だと知ったから認めたのだ。なんとも"プロ野球村"の村長は尊大な人物だ。

2011年10月28日金曜日

郵政を片付けろ

郵政法案の修正協議を梃子に民主・自民・公明の三党融和を図る動きがある。民営化を進めた自民党も本音では民営化には消極的で、民主党は反小泉で民営化反対だっただけで明確なポリシーはない。公明党は、母体である宗教団体の教義を考えると、あまねく日本中に慈善を施す「ユニバーサルサービス」には積極的だろう。その点、元代表の保有する輸送会社が郵政の仕事をしている国民新党よりも公明党の考えの方がマシだ。

しかし、この「ユニバーサルサービス」を再考することが今は重要だ。

20世紀後半まで、経済成長や豊かになることは人々の生活圏が拡大することと同義であった。経済成長の基本は天然資源の採掘や農作物であったため、生産の拡大には広大な土地を必要とした。更に、都市の高層化技術が未熟だったため、経済成長とともに増える人口を都市は吸収出来ず、結果的に都市近郊に生活圏が拡大した。

「ユニバーサルサービス」は多くの人や産業を郊外や地方に分散させる為に国家が整備を約束したものだ。

ところが、今や日本に於ける経済成長の基盤は資源採掘や農生産から工業生産を経て知識産業やサービス業に以降した。これらは生産に必要な土地は少なくて良い。更に、高層建築技術の発展は都市の人口吸収力を倍加させ、生活圏はどんどん都市に吸い寄せられている。

地方や郊外に国民を住まわさざるを得なかったための「ユニバーサルサービス」は、全員が都市に住める様になれば不要となる。ニーズがなければ縮小して、それによって都市への人口集中を促すという発想があってよいではないかと思う。

そして、この愚にもつかない論争に幕を下ろしてもらいたい。

2011年10月6日木曜日

ジョブス その全てが伝説

Apple創業者のスティーブ・ジョブスが旅立った。生前禅に傾倒した彼は天国に辿りつくのか悟りに辿り着くのか。その死の発表がiPhone4S発表の翌日となったことも含めて、その全てが伝説となった。

iPhone4Sが「For Steve」を指すと言われて、それが嘘か誠か分からないが、説得力を持ってしまうところが尚も彼を彩る。

2011年9月29日木曜日

小沢一郎が政治家として不適格だと思う3つの理由

小沢一郎議員の元秘書に有罪判決が下った。被告は控訴するだろうから最終結論は未だ先の話だ。ここではこの疑惑や判決については何も論じない。事実も真実も闇の中。

ただ、僕は小沢一郎という人は3つの理由から政治家には不適格だと思う。1つ目は党争に弱いということだ。良かれ悪しかれ多数決を積み重ねて政策を決定し実現するのだから、意見を異にする党派間の争いに勝てなければ何も出来ない。小沢一郎は自民党経世会の主流争いに敗れ、非自民連立での主導権争いに敗れ、民主党でも引きずり下ろされた。党派争いに勝った試しがない。

次に、有権者を説得する力に欠けている。今の日本は、利益を如何に分配するかではなく、負担を如何に分配するかが問題だ。「国が何をしてくれるかではなく、国の為に何が出来るか」と訴え説得する力が必要なのだ。なのに彼は「口下手だから」となにも訴えない。

そして最後に、負けてもしがみつく、口下手で笑われようと形振り構わず訴える執念に欠けている。好対照なのは小泉首相だ。総裁選で負けても何度も挑戦し、郵政民営化の旗色が悪ければ解散してでも実現させる。人気が出たから皆が誉めるが演説は決して上手くない。それでも最後までしがみつく執念があった。

こう考えると、小沢一郎は「党争に勝つ力」も「人を説得する技」も「最後までやり抜く心」もない。これで横綱になれるわけがないじゃないか。

2011年9月11日日曜日

大臣の覚悟

鉢呂経済産業大臣が辞任した。就任9日目のことで、大臣在任期間は史上三番目の短さとなる。この辞任劇にあたっては様々なことが取り沙汰されている。

「死の町」という表現は適切であったか?
被災地を「死の町」と評したことは詩的な表現としては理解できる。被災地を見て受けた衝撃を素直に表したものだろう。だから、この表現が即座に被災地を侮辱するとは思わない。メディアは、この表現に問題を感じたならば何故その時に真意を糺さなかったのだろう。
メディアの「言葉狩り」との批判もあるが、それよりはその場で真意を明らかにする切り込みが出来ないメディアに失望した。なんのことはない。イギリス首相がついているのを忘れて失言したのを拾ったマイクと、この記者は一緒だ。人間である必要はない。
ちなみに、イギリス首相の失言はラジオで首相同席の場で放送され、キャスターは首相の真意に切り込んだ。録りっぱなし、流しっぱなしではないのだ。

放射能なすりつけはあったのか
辞任会見でも事実は分からなかった。フリーのジャーナリストから記者クラブでの発言で事実性に疑問があるのではと指摘されていたが、大臣にははっきりと答えられなかった。そういう"軽口"があってもおかしくないし、そういう素人っぽさが民主党議員はなかなか抜けないということだろう。ただ、辞任会見での記者側の混乱を知ると、報道側の問題もあったのではないかと思える。

鉢呂大臣に適格はあったか?
なかっただろうと思う。というのはこの程度で辞任するというのは大臣として為し遂げたい使命感に欠けていたと思うからだ。仮に、被災地の産業復興や経済再生、原発事故処理を自らが為し遂げるべき使命と思っていたら、簡単には辞めないからだ。惨めだろうと、しがみついてでも為し遂げただろう。
為すべき使命がなければ守るのは自分のプライドだけとなる。あの会見は自分を守るための会見で、辞任をショーアップするだけのものだ。たから記者の乱入もあったわけだ。こういう人は民間企業にもたくさんいて、得てして身内からの評価は高い。しかし、顧客や部下からの評価は散々で、組織を停滞させる。
そういう意味でこの人事は失敗だったわけだ。だから、野田首相が本来やるべきだったことは鉢呂大臣の罷免であった。任命権者の責任の取り方は具体的に自らの決断を否定することしかない。

2011年9月8日木曜日

原因と結果だけでなく、影響までも逆転

Newsweek日本版に「地球温暖化で緑化が進む?常識を覆す楽観論が登場」という記事が掲載されている。理屈としては、「かつて豊かな緑に覆われていたサハラ砂漠は気温の低下に伴って大気中の飽和水蒸気が減少したことで降雨が減ったために砂漠化した」ということ。つまり、低温化→飽和水蒸気減少=乾燥→降雨減少→砂漠化が、温暖化すると、温暖化→飽和水蒸気増加=湿潤→降雨増加→緑化となるわけだ。更に、大気中の二酸化炭素濃度が上がると植物の繁殖は大幅に拡大する。

温暖化については、そもそも二酸化炭素の増加→温暖化という因果関係が、実は温暖化→二酸化炭素の増加という関係ではないかと言われており、更に温暖化によって乾燥して砂漠化が進むと言われてきた。全ての因果関係と影響が逆転してしまうとしたら、IPCCmなんとお粗末なことだろう。

2011年8月30日火曜日

木馬は回る

5年に及ぶ小泉政権の跡を襲った自民・民主両党の政権は、ここまで例外なく一年前後の短期政権に終わった。海外では"回転木馬"と揶揄されているそうだ。池田信夫氏が言うように、政治家がこの程度でも日本が大過なく過ごせるのは国民の優秀さと官僚の優秀さによるものだろう。これほどの長期の不況と政治的混乱が続けばイギリスの様に暴動が起きてもおかしくない。

しかし、日本では暴動の代わりに首相の首のすげ替えが行われる。「金枝篇」で言う"王殺し"なのかもしれない。古代に天変地異が続くと"王の責任"として王は犠牲に捧げられ新しい王が誕生した。今の不況も避け得ない天変地異と思われているのかもしれない。

不況が続く限り首相の首はすげ替えられる。斯くして木馬は回転し続けるだろう。木馬の回転を止めた小泉政権期は今のところ最後の経済成長をもたらした。野田政権には小泉政権の功績を振り返ることからはじめて欲しいものだ。

2011年8月16日火曜日

五山送り火

まさに飛び火。

五山送り火で陸前高田の松を使おうというアイデアは良かったと思う。問題はあまりにも"放射能"過敏症が蔓延していたこと。藤沢氏が指摘する様に、今回検出された放射能は自然放射線レベルも出す能力がない。検出された放射性物質がどの程度のレベルなのかを京都市当局も保存会も、おそらく京都大学にいる優秀な専門家も、誰も責任を果たそうとしなかった。

ただ、「観光都市」京都としては、イメージを守るためには仕方なかったかもしれない。その内、ガムも禁止されるのだろう。「完璧な」安全とか清潔とか、その維持を貫くなら"穢れ"の松を受け入れなかったのも頷ける。京都は「平安京」のレベルに達したのかもしれない。

「羅生門」。門外に打ち捨てた貧困、犯罪、災害はなかったものに出来る。現実の問題に耳を塞ぎ、平和を祝ぐ詩を捻り、自己一身の平安だけを守った貴族たち。京都だけではない。我々は1000年前から何も変わっていない。

2011年8月1日月曜日

ある意味「補完関係」

「そして、自立へ」という投稿をしたというお知らせに以下の様なコメントをもらった。

「しかし 地方議員 役人と中央の議員 役人をくらべて地方が勝るとは思えないのです。自立あるいは独立したところで話は変らないと思います。」

国会議員や国家公務員の方が地方自治体の議員や地方公務員より優秀という考えがあるようです。たしかに、20世紀なら通用したでしょう。戦後20〜30年くらいの「答えが分かりきっている時代」ならば、先行事例の読解力や事務処理能力が必要だからです。しかし、20世紀の最後の四半世紀は様々なパラダイムが崩壊し、「答えのない時代」に突入したのです。

国会議員や国家公務員になるような頭の良さは頼りになりません。それがこの四半世紀の日本の停滞に現れています。つまり国が駄目で地方が良いのではなく、どっちも駄目なのです。それを打破するためには「統治のパラダイム」を変えてみてはどうかというのが僕の提案です。

モノの役に立たなくなった国会議員と国家公務員はなんで淘汰されないのでしょう。と考えてみたところで、「両者は互いに依存しあうことで淘汰を免れている」のだと気がつきました。国会議員には政策アイデアと政策立案能力がありません。国家公務員にはアイデアを実現する権威を持ちません。しかし、国家公務員のアイデアを彼らが法案にして、国会議員が国会を通せば、互いの能力を利用できます。

しかし、本来的には国会議員は自身や自身のスタッフで法案を纏めあげるべきです。国家公務員は成立した法案の実現にむけたオペレーションを作りあげるべきです。政策立案にお金をかけられない日本では、なかなか実現しないかもしれません。それでも、このしょうもない補完関係を解消して欲しいものです。

2011年7月29日金曜日

「高速鉄道事故」は中国の“あり方”のエポックとなるかもしれない

中国・浙江省で発生した高速鉄道の事故は温家宝首相が「高速鉄道整備において安全性の軽視があった」ことを示唆し、隠蔽疑惑の追求にも言及する事態となった。鉄道省の腐敗や特殊性などが取り上げられているが、首相の事故への全面的なコミットに少し驚いた。過去に起きた事故や不正では、基本的には政府の無謬を主張していた中国共産党政府がアッサリ瑕疵を認めたのだ。報道された鉄道省職員の対応や多額の賠償金などは中国政府の一般的な対応だった。

それが何故変わったのか?今回の事故の犠牲者は"高速"鉄道の利用者だ。普通の鉄道より高い運賃を払うのであろうから、ある程度の経済的余裕のある高所得層だろう。遺族もそれなりの所得がある都市生活者だろうから、社会的影響も強い。

中国が目覚ましい経済発展を遂げ、それが政府の軛を離れ国民が自信を強めたとき、「従順な国民を守る国家」という物語は力を失う。そこに「国家が威信を誇示するために国民の生命を犠牲にした」という疑惑が起きたのだ。中国という国のダイナミズムは国の形をどう変えていくだろうか。政府の力が弱まって、普通選挙といった政治的多様化が進むのか、逆に"天安門"のような引き締めが起きるのか。

前者であれば非常に大きな転換点となるだろう。

2011年7月26日火曜日

マーケット主義

「マーケットにニーズがあっても、求められている価格で提供出来なければ、その企業には存在価値がない。」破綻寸前の会社は概して「顧客のニーズと合わない商品やサービス」を売っている。しかし、顧客のニーズに合わない商品やサービスだから破綻するのではない。

例えば、あまり美味しくない、いや不味い定食屋。客もいないのに潰れもしない。おそらく、その店は地代などの固定費が安く、一見さんや物好きの客だけで成り立つのだろう。ニーズに見合ったコスト構造になっているわけだ。

或いは「副業」で定食屋をやってるだけで、不動産収入で食っていけるなどの場合もある。要は、キャッシュが続けば倒産はしない。まさに、"Cash is queen "。

「最初からニーズがある商品やサービスなんてない」。楽天の最初の出店は数軒はだった。システムや報酬など、数度にわたる改変を経て、日本一の仮想ショッピングモールになった。「小さな箱の洗剤」は幾ら市場調査してもニーズはなかった。商品やサービスが発売されてはじめて"出現する"ニーズもある。

潰れた会社は「ニーズに合った商品やサービスを提供出来てない」「僅かな収入でやっていける原価構造になってない」。更に重要なことは「商品やサービスを変えていない」ことだ。変えることを止めた商品やサービスは直ぐに他社にキャッチアップされる。変え続ければ顧客の満足は高まるし競争相手にもつけこまれない。

"変えること"や"変わること"を社是にする会社は多い。だが、"変えること"や"変わること"を評価する会社は少ない。大抵の場合は「最初に決めた目標を変えずに達成したか」が評価される。「部下の管理」で評価されるのなんて最悪だ。

マーケットを第一に考える人は"市場に正解がある"と思いがちだ。しかし、"結果として"市場でニーズが"確認"出来ることはあっても、商品やサービスのアイデアになるニーズが"存在する"ことは希だ。なら、若手芸人と同じ様に「これがウケるのではないか?」と試してみることだろう。一度に何個ものネタを試せば少しはウケ方も違ってくる。

どのネタがどれだけウケたか?は(笑)という成果の前では大した問題にならない。それよりもどうやって思いつくかが大事だ。市場に答えはないが、ネタを振りかければ市場は答えを出してくれる。だから、市場にニーズが"ある"なんて思ってはいけない。アイデアを試してニーズを"確認"すると思うべきだ。

2011年7月25日月曜日

何故、働くのか

デイル・ドーテンの「仕事は楽しいかね?」を読み返している。人は誰でも「凄い人材」になれる。自分を縛っているのは自分自身だ。その枠を外すのも自分だってことだ。
毎日違う自分になるっていう考え、試してみることに失敗はなあという金言は重要だ。怖じ気づいていることが馬鹿馬鹿しくなる。失敗するのは成功の基準があるからだが、それは夏の逃げ水の様なものだ。追いつけるわけがない。
仕事をするというのは「何か人と違うことをする」ってことなんだ。同じことをすることもあるだろうけど、それならなんでその人がやらないのか?無駄じゃないか?

「仕事を楽しくするのは僕自身だ」

試してみることのチャンスを逃さないようにしよう。

2011年7月5日火曜日

善悪を越える価値観を人は持ち得るのか

僕は「損得の問題じゃない」という言葉に説得力を感じない。「なら、何の問題なのか?」と聞きたい。大抵の場合、「人の気持ち」とか「正義」とか「他人への迷惑」とか、時には「神の思し召し」なんてものまで出てくる。
さて、これらが何を招いたか?目に見えない「人の気持ち」に迷って必要な決断が遅れたことはないか。「死んでいった英霊」の手前、やめられた戦いを負けるまで続けたではないか。
「正義」は人を熱狂させる。同調を強いて、犠牲を招く。「聖戦」による犠牲は何万といる。時には神さえも呼ぶ。
他人の迷惑というが、正確には「既得権者の迷惑」だ。人は"権利"を感じていないものに執着しない。迷惑と感じるのは既得権を脅かされるからだ。
こういったものが十把一からげに「善悪」と称される。善悪には妥協がない。何故なら「譲ることは正義に悖る」からで「自身の正統性を否定する」ことになるからだ。しかし、小さなコミュニティならまだしも、これだけグローバル化が進むと「善悪の衝突」は避けられない。それを「文明の衝突」という人もいるだろう。
「損得」はそんな衝突を回避出来るものとして考えられたのだろう。それが共通価値としての「貨幣」であり、「市場」なのだ。経済性で論じれば戦争は高くつくし、原発は維持不能かもしれない。貨幣で購えないものは"個人的"或いは"個別的"価値でしかなく、相手の好意によって尊重されるに過ぎない。或いは尊重すること自体を取り引きするか、だ。
そろそろ、本当の損得の話をしようか。

2011年6月27日月曜日

成長のために本当の意味で「IT化」をしよう

システム開発の目的には様々なものがある。コスト削減、利便性改善、新事業立ち上げ。エトセトラ…。
コスト削減は最も一般的な目的。システムは大抵の場合は限界費用が一番安い。なので、ビジネスプロセスの一部をシステムに置き換えると大きなコストダウンが見込める。ただし、なんでもシステムにすれば良いというものでもない。
システムにしてはいけないものは競争力の源泉になっているものだ。デザインが競争力の源泉であるアパレル企業がデザインをシステム化してはいけない。逆に、ありふれたデザインを安く提供するのが競争力の源泉であれば、デザインを思い切ってシステム化してしまえば良い。
システムによって利便性が増すときもある。システム導入で最後の障害は「使い辛い」という意見である。だが、これは慣れれば大した問題ではなくなる。基本的にシステムは反復作業の効率化など、圧倒的に使い易くなるものだ。
競争力の源泉はシステム化してはいけないと言ったが、システム化することで競争力の源泉になる場合もある。また、かつての競争力の源泉が、逆に重荷になっている場合はシステム化によって競争力を増すことも出来る。システムによって新しいビジネスモデルや利益モデルが出来ることもあるのだ。

だが、残念なことにシステムがこれらの目的を果たせないことは多い。というのは未だにシステムは「システム馬鹿」によって開発されていて、ビジネスとの統合が出来てないからだ。システム部門や開発会社の人材に、ビジネスプロセスとシステムの統合を再教育すれば、企業のバックオフィスやミドルオフィスを中心とした生産性の改善はまだまだ出来る。

2011年6月26日日曜日

土日まるまる仕事だった。来週もそうなる可能性が大。再来週に代休を取りたいが、やりたい仕事もある。どうしたものか。

2011年6月25日土曜日

原罪を認める真摯さ

スタジオジブリが「原発抜きの電気で映画が作りたい」という垂れ幕を掲げているらしい。文明の抜きがたい原罪を見つめてきた宮崎監督らしい思いつきだ。この思いつきを実現するのは実は簡単で、自家発電やガス発電を導入すれば良い。コストは高いが、ジブリなら出来そうだ。

原発ゼロの施設運営はそれを売りにすることが出来る。作品の売れ行きにも良い効果をもたらすだろう。しかし、宮崎作品を見ると「脱原発」に繋がる「自然との共生」というものに宮崎監督自身はあまり幻想を抱いてない気がする。クシャナであれ、エボシ御前であれ、文明を代表する人物が最後は文明の原罪を意識しながら社会を良導していく。

文明社会は"自然"とか"原始"に対してどうあっても一定の悪影響を及ぼす。採集・狩猟をベースにした原始社会であっても資源を食い散らかす。自然と調和している様に見えるのは人口の少なさ故にその影響が復元されてしまうからだ。

しかし、人間が種としての繁栄を求めるのであれば、人口の増加は避けられないし、その手段としての開墾という自然破壊は当たり前だ。それを原罪と認識し、受け入れた上で実りある社会を生み出すのが私たちの使命ではなかろうか。エネルギーを動力に変換する行為には、なにがしかの廃棄物質は発生する。だから、その量を如何に少なくするか?という視点が必要だ。"再生可能エネルギー"は自然界に希薄に存在するエネルギーを直接利用する為に自然破壊の規模が大きい。一番影響を小さくする方法は、エネルギーが凝縮したものを利用する場合で、化石燃料はエネルギーが年月をかけて凝縮したものだ。核物質はエネルギーが拡散する前の状態だ。

ならば、原発が最も自然との共生に向いている気がする。もちろん原発だって環境破壊は伴う。生命への影響が不明な放射線も伴う。それは他の発電でも同じなので、何をリスクとして許容するかという決断を誰がするかという問題だ。

全く"クリーン"なエネルギーはない。その原罪と真摯に向き合うべきだと思う。

2011年6月20日月曜日

強いリーダーは不要か?

大西宏さんの「発送電分離は国民の声でしか実現しない」という記事を読んで、政治に限らず、リーダーというものについて考えさせられた。記事の中で紹介されていた「強いリーダーに期待し、依存するのはもう発想が古い」という伊藤穣一さんの言葉(歴史は菅政権を必要とした、いざ「緑茶革命」へ JBpress(日本ビジネスプレス))について、「なら、リーダー不要の経営」ってどういうものだろうか。池田信夫さんが紹介している様に日本の組織構造が「中間組織による分散自律型」であるのならば、正に日本古来の組織こそが「リーダーを必要としない組織」と言えるのではないだろうか。

リーダー不在でもミドルアップによって経営される組織は"貴族階級"や"官僚"が社会運営を担う。大抵の場合、中間組織は社会全体の構成員のうちホンの一部であり、中間組織同士の協力によって円滑な社会運営が行われる反面、利害対立によって社会を歪ませることもある。また、自らの利益を優先して社会全体の利益を損なうこともある。中間組織を打倒して下層の構成員が政治に関与するのが近世の「革命」であったわけだ。

中間組織の代わりに成立したのが"有期独裁制"である民主主義だ。これは中間組織がない社会で政治的意思決定をどのように行うかということに対する一つの答えだ。すなわち、選挙を通じて構成員が権利をリーダーに委譲するという方法だ。ここには「独裁的な方法以外に社会を効率的に運営する方法がない」ということを示している。

単なる独裁ではなく、構成員の意思による権利の委譲がポイントだろう。リーダー不在とは権利を委譲するに足る人物がいないということだろう。逆に、リーダー不要の組織とは、構成員が権利をことごとに行使するということで、昨今流行りの「住民投票」や「国民投票」がこれである。しかし、これが本当に社会を良い方向に導くだろうか。

政治は本質的に"負担の分配"である。国民や住民に税を負担させて各種の公共サービスを提供する。負担より享受するサービスが大きい場合もあれば、少ない場合もある。この格差を"納得"させることが政治である。

それが全員参加の権利行使となれば、負担は避けられ先送りされる。これがこの二十年の日本の状況ではないか。避け得ない負担の不平等を説得する言葉を含めた強力なリーダーシップで納得させ、或いは強制する力を発揮出来なければ政治的に限らず、意思決定など出来ないのではないだろうか。

日本に必要なのは、失われたリーダーではなく、ここ百年持ち得なかったリーダーを持つということだと思う。

2011年6月15日水曜日

原発の安全基準に対して誰も責任を果たそうとしない

「浜岡ショック」は思った以上に深刻で、原発立地県の知事が次々に再開に慎重な姿勢を表明している。橋下知事の様に"脱原発"を叫ぶ人もいるが、多くは安全基準が不明確だからというものだ。

曰く「安全だという国の説明を信じて再稼働に応じた後、別の事実が出てきたらどうするのか」(日経新聞14日朝刊3面)

原発を受け入れて地域の更正を保っている以上、その安全基準は自分の責任ではなかろうか。原発によって補助金を得たり安価な電気を得て地域経済を活性化しようとしている以上、そのリスクは折り込むべきだ。リスクを回避するために安全性を高める基準を設け電力会社と協力すべきだろう。
この件に限らないが、責任は取るものではなく果たすものだ。政府や自治体の首長は責任を転嫁するのではなく、エネルギー問題と安全性と経済性のバランスのとれた選択によって責任を果たすべきだと思う。その選択が「原発停止」であるならば、電気料金値あげや節電要請に応じないといけない。
電力会社と経産省や関連企業との癒着によって電力事業が高コストになっている可能性はある。だが、高コストに一番影響を与えているのはなんといっても地域独占となっていることだろう。電気料金の高さを批判するのではなく、高くなる構造を改革しなければいけない。電力自由化を進めることで電気料金を下げることは出来ると思うが、この政策は「特定発電への補助金」とは矛盾する。自由化を諦めて「自然エネルギー発電」を優先するならば、電気料金は高くなる。自然エネルギー発電の経済性が十分であれば、「脱原発」の掛け声がなくとも既に事業化されているはずだ。
そういう条件も含めて総合的な政策判断としての「安全基準」は政治家が意思決定するしかない。自治体の首長は「国」などという曖昧なものに責任を求めたり、いつ代わるかしれない首相に責任を問うたりせずに、自らの責任で安全基準を作って原発を再開させれば良い。
そして政府から地域のエネルギー政策に関わる財源や権限を奪えば良い。民主党は「地方分権」が建前だから、地域の自主的な動きに抵抗は出来ないだろう。近隣自治体や地域住民とコミュニケートして、安全基準をまとめ原発再開に漕ぎ着けることが出来たなら、その首長は大宰相たる器があるのだと思う。とは言え、自治体首長が中央省庁の官僚出身者や人気先行のポピュリストで占められている現状では望むべくもない。

2011年6月14日火曜日

次の首相って言われてもね

次の首相には誰が相応しいか?っていう特集が論壇系の雑誌やタブロイド紙で盛り上がっている。多分、ネットでも。前原、野田、枝野、野党からも石破って名前が。まぁ、石原って名前まで出てくるところがウケる。

民主党政権になっても自民党政権と同じく役職たらい回しの調整型の人事が続いて見ている人はアレッて思っていたのだろう。そこに小沢・鳩山・菅で主導権争いをして、小泉政権の様に世論を見方につける工作もしないものだから呆れ返ったワケで。そこで次のって言われてもちょっと出てこないだろう。民主党のお歴々は演説を見てても有権者との対話に難があるし、圧倒的な支持を背景に党内を捩じ伏せてってことが出来ない。自民党も似たり寄ったりなんだけど、石破氏はキャラクターが親しみやすいのに論戦に強いのが好感されたのだろう。これで小泉並みの政治力があればと思うがどうだろう。

とは言え、選挙でもない限り次の首相も民主党から選出される。結論としては、次の首相に推したい人はいないということで早く民主党政権が瓦解して選挙しようってこと。

2011年6月9日木曜日

憲法改正論議を!

みんなの党の松田公太議員が「憲法を国民の手に」(http://ameblo.jp/koutamatsuda/entry-10915964306.html)という記事を投稿している。「憲法96条改正を目指す議員連盟」の設立総会に参加したというものだ。

> この世に完璧なものなどありません。
> 最も重要な原則は遵守しながら、時代にあわせて改善していく必要があるものは改善して行く。当たり前のことだと思います。

日本の憲法が制定後一度も改正されたことがないというのは異常である。というのも、今の憲法は実質的に被占領時代にアメリカによって「押し付けられた」ものと理解されているからだ。GHQによる”新”憲法の制定前には多くの政党が憲法改定草案を発表している。自由党や進歩党、共産党に社会党も発表している。面白いことに、社会党の発表した憲法改正草案では天皇が維持されていることだ。

これらの憲法改正論議がGHQ統治終了後になぜ再燃しなかったのかは不思議である。時の吉田茂首相が経済復興を優先して憲法改正をさせなかったという話しが真しやかに唱えられているが、憲法改正草案を提出していた左派政党が、GHQ撤退後に「護憲」に走っているのは不思議だ。反米独立を謳いながら、GHQ謹製憲法を守るというのは矛盾しているだろう。

結果的に、「護憲」は55年体制と言われた時代の自民党と社会党にとって都合が良いものだったのだろう。自民党にとっては安全保障の最重要関係国としてアメリカを寓する背景として、GHQ時代の憲法を死守して友好を示したものであろう。社会党にとっては、GHQ憲法の「国体弱体化」を狙う条項は都合が良かった。社会党が1946年に発表した改正要綱の3分の2以上は現在の憲法は満たしている。

それが長く憲法改正が実現しなかった背景であろう。それに加えて松田議員が紹介している96条の3分の2規定で改正のハードルが高くなっている。この改正を目指すということについては賛成する。賛成するが、この3分の2規定を改正すること自体が3分の2以上の賛成を要するというのは大きな矛盾であろう。

憲法改正にあたって、それが何条であろうと改正に反対する議員の数は3分の1以上いるということになる。その3分の1以上は、自分達のアドバンテージを弱める改正に賛成するのは通常であれば考えられない。それが実現するとすれば、この議員連盟側の粘り強い説得-言葉の力-によるしかないだろう。

2011年6月8日水曜日

忠誠と盲信の違い

「君が代」の起立斉唱を教職員に業務命令として強制できるかどうかということについて、大阪の橋下知事が条例を提出したり、最高裁で起立命令が合憲と判断されたりということで、話題になっている。この「君が代」問題は「国旗掲揚」問題と並んで定期的に公立教員業界=日教組を中心に騒動になる。君が代・日の丸への反対については理論の定石があり、
 
「君が代は帝国時代の国歌であり、歌詞は天皇崇拝の意味合いが強い」
「日の丸は侵略戦争を起こした軍隊の象徴である」
 
といった理由だ。
 
傍論としては、「敗戦国であるドイツが戦後国旗と国歌を変えたのに日本は"反省"がない」というものもある。
 
これらの主張に対する反論としては
 
「君が代の"君"とは天皇を特定するものではない」
「日の丸は多少のデザインの変遷はあるが、日本を示す意匠としては伝統があり相応しい」
「第二次大戦を"侵略戦争"ではない」
 
といったものがある。
 
こういったことは実はあまり本質ではない。というのも「国旗や国歌というものは当該国や民族の長い歴史の中で有識者や指導者によって恣意的に選定され制定される」ものだからだ。だから、「国民投票によって国歌や国旗を決めよう」といった話はあるが、これは何の正当性もない。そもそも、国民投票によって決めるということは反対者がいるということであり、反対者は決まった国旗や国歌に対する態度はどうするのか?という、ともすれば民族分裂!みたいな話にも発展する。だから、「俺達にも国旗や国歌を決める権利を与えろ」という主張は退けられて当然である。
 
では、この問題の本質は何か?ということである。これらの議論に通底しているのは、「国家主体に対する忠誠とは何か?」という問題である。国歌・国旗が象徴する主体がそれが天皇という個人であれ、国家という機関であれ、"忠誠"を誓うことに対する抵抗がこの反対には籠められている。だから、国歌や国旗が何であろうと反対は続く。
 
であれば、彼らはなぜ国家に忠誠を誓うことに反対するのだろうか。「太平洋戦争において無批判に戦争を受け入れたことが多くの犠牲を生んだ」というのは正しい。あの戦争では、誰の意思決定もなく、圧倒的な好戦ムードが戦争に対する批判を封殺した。好戦ムードは日中・日露・第一次の打ち続く戦争に連勝したことで醸成された。
 
誰の意思にも依らず始まった戦争は結局は国民には止められなかった。その贖罪意識が国家の否定に繋がっているならば、それは間違っている。それは国家に対する忠誠とは違うからだ。
 
忠誠とは「忠」と「誠」から成る。「忠」は相手に「真心を尽くす」という意味であり、「誠」と同義で最上級の真心を尽くすということだ。この真心を尽くすとは何か?忠の類義語からその真意が分かる。忠の類義語は「孝」である。
 
親に尽くす様に国家や主君に尽くすというのが忠誠の本当の意味だ。では、何がなんでも親に従うというのが孝行であろうか。中国の思想では忠孝とは「主君に/親に従い、その行為をなぞる」ものとされる。これは度重なる戦乱を抑える方便であったが、それによって中国は戦乱によってしか成長出来ない国として長く停滞した。
 
「君、君たらずば、臣、臣たらず」という言葉が示すのは、国を想い親を想って諫言することで、或いは既存の考えを覆すことで、より良い成長を遂げることの大切さを示している。これが真心を尽くすということではないだろうか。その意味で無批判に盲従することは不忠であり、不孝なのだと思う。

2011年6月3日金曜日

菅首相の退陣時期に対するドタバタについての所感

菅首相が"退陣宣言"と引き換えに不信任案否決を手にしたが、会見などで「福島原発の低温安定化などの一定のメド」がついてからの退陣という認識を明らかにしたことで、早くとも秋口、遅ければ来年初頭まで続投する意欲をみせた。鳩山由紀夫などは「約束が違う」と嘆いているだろうし、退陣宣言を聞いて否決に回った賛成派も「騙された」と感じただろう。昨日の昼間の退陣宣言でも「メドをつけてから」とは言っているらしいので菅首相が全く嘘を言っているわけではない。しかし、幾ら退陣宣言をしたからとは言え否決に転じた方も矛盾している。

野党の提出した不信任案に賛成しようとした人たちは「菅首相ではこの難局を乗りきれない」と口々に言っていた。なのに菅首相が「メドをつけて退陣する」と言ったら矛を収めるとは頭が悪い。「難局を乗りきれない」とは「メドをつけられない」ということだ。だから延々と続投することになる。不信任賛成派は菅首相が辞任会見をするまで手綱を緩めるべきではなかったが、善良な鳩山前首相に従ってしまった。

結果的に菅首相に続投のお墨付きを与えてしまった反対派は大量離党でもする以外にやることがなくなった。

2011年6月2日木曜日

こんな時期に不信任なんて非常識な!という意見に対する反論

自公が提出した内閣不信任案は否決となったが、提出以前から「こんな時期に不信任なんて」とか「被災者のことを考えろ」といった意見が聞かれた。そんな意見には反対だ。

不信任を否定する意見の骨子は

1)一時たりとも遅延させることの出来ない被災者支援の遅れにつながる
2)一時たりとも遅延させることの出来ない福島原発対応に穴が空く

しかし、今までの菅内閣の実績を見てみると、1)被災者支援はNPOに丸投げで補正予算は遅々として進まず、2)福島原発は初動を含めて対応がお粗末で、東電救済ばかりが目立つ。菅内閣が"遅い"だけなら未だしも優先順位が自分勝手で、国民の為になってない。

だから、一時的な停滞があったとしても、能力がないものを替えるというのは正しい。無能なものを替えないのは組織としては不誠実だろう。

2011年5月27日金曜日

QCD(F/S)->E/I

製品だろうがサービスだろうが、それを構成する要素はトレードオフの関係にある。品質:Quality、コスト:Cost、納期:Deliveryの三つは良く知られている。最高の品質を実現しようとするとコストは膨大になり、納期は長くなる。コストを最小にすると品質は犠牲になり、納期は無視される。とにかく納期を短くしようとすると品質は保証されず、コストは高くなる。

これは1)人材は有限であり、2)時間は有限であり、3)資源は有限であるという物理的な制約によるものだ。しかし、最近これら三つの要素に加えてもう一つ加えなければいけないのではないかと思う様になった。それは機能/サービスレベルである。機能やサービスレベルを品質に含めて考える場合が多いがそれでは混乱する。最高の鉛筆は機能はたった一つしかないが品質は上等である。

UNIQLOはスタンダードなカジュアル衣料に絞らながら、高品質を実現している。マクドナルドは規格化したオペレーションで安価で品質の良い食事を提供する。逆に、ディズニーリゾートは品質と機能を高めるためにコストは高い。しかし、その品質と機能が客の心を掴み高い価格でもリピーターを生むのだ。

Appleはどうか?iPod、iPhone、iPadは品質は良いが高い。購入までに待たされることもある。機能はと言えば、そんなに高機能ではない。機能はユーザー自身がインストールしたり、時には開発したりする。

ユーザー自身が開発するという点でこれらのiシリーズは正しくパーソナルコンピュータの後裔である。なら、こんな未完成なものにこれほど多くの人が魅了されるのだろうか。そこには体験:Experience や感動:Impression といったものがある。物理的な制約に閉じ込められたQCDF/Sと違い、これらには限界がない。問題があるとすればそのような製品やサービスを開発するにあたって、大抵の場合は"上司"という人には理解されないものだ。

だから、感動的な製品やサービスを生み出すのは多くの場合は上司を持たない起業家になるのだろう。

2011年5月26日木曜日

連続性で見るべきものを非連続に見、非連続で考えるものを連続的に考えるヒト

世の中には"連続的"に変化するものと"非連続的"に変容するものとがある。ビジネスで言えば"事業改善"と"事業改革"は連続的な打ち手と非連続な業態あるいは業容変化という違いがある。連続的な改善は「Kaizen」という国際語にもなっている様に今やトヨタ自動車のお家芸だ。しかし、そのトヨタも創業事業である豊田織機を見限って自動車製造に乗り出すのは連続的な発想では辿り着かない。それは「連続的に考えるべきもの」と「非連続に考えるべきもの」があるということだろう。

連続的に考えるものに日々の事業管理がある。前年や前月、前週や前日の結果を評価して何らかの打ち手を考え実行し、その結果を検証して次の手を考えて実行する。この所謂"PDCA"サイクルを回して改善を積み重ねるのは現場責任者だ。粘り強く端々に目配りする実直なタイプが合っている。

非連続な思考を要するのは事業環境の変化によって、改善では追いつかないほど悪化した事業の再生や改革などである。これは今の事業が置かれた環境の徹底したリサーチと深い洞察、あらゆる可能性を排除しない自由な発想が化学変化を起こして発現する。論理的な思考と論理を逸脱する発想を合わせ持ったバイタリティ豊かな人が必要だ。改革は一人では出来ないので周りを巻き込み没頭させるカリスマも必要だったりする。

ところが、連続的な改善を任された責任者が突拍子もないアイデアを振り回してみたり、非連続な改革も求められる人が改善テーマしか持ち出せなかったりする。例えば、コスト改善による収支改善を求められる製造部長が新しいサービスや商品開発に手を出すなどということだ。或いは、抜本的なコスト構造の改革を望まれているのに桁が一つ小さい改善テーマを持って来ることがある。これは一つにはその人の能力が足りないというのが理由だ。

連続的な改善を非連続なアイデアで乗りきろうとする人には基本的なオペレーション分析のスキルが不足しているケースが多い。なので何が問題なのかをデータで把握出来ない。そのために改善すべきポイントが分からず、改善点がないので思い切った手を打とうとする。重要なのは非連続な発想にもデータは必要なので、天才でもない限り、大抵は役に立たないということだ。

非連続に連続的な改善を持ち出す人も基本的なスキルが足りない。データに強い場合が多いので問題を把握しているのだが、アイデアの出し方が分からないので思い切った提案は難しい。しかし、どちらもその責任を負わせた側にも問題がある。能力が足りないものを何の教育も無しに責任を負わせるのは経営者の見識が足りない。

更に、非連続な発想を経営者としての信頼を背景として引き出せないのは経営者の責任だろう。大抵の場合、そういう立場の経営者も追い詰められていて、取り組む課題が混乱していることが多い。何を優先して、限られたリソースを何に注ぎ込むか?

そう。自分が投入出来るリソースが限られていることに気付いてないケースも多い。自分自身の時間も含めて、不調な事業にあっては投入出来るリソースが僅少のことが多い。なのに不要不急のことにかまけていることが多い。

事業にあたって、「連続的な」テーマと「非連続な」テーマがどちらかだけということは少ない。基本的に、連続的な改善で補えないギャップを戦略的に埋めるのが求められる姿だろう。しかし、見栄えの良い非連続な戦略的打ち手に真っ先に飛び付くヒトが多い。今の場面で求められているモードを見極めないといけない。

2011年5月13日金曜日

東北の復興が利権にならない政治家のリーダーシップを望む

SPA!5月17日号で勝谷誠彦が"塩害利権"に言及している。今回の津波で洗われた沿岸地域の農地を三年かけて土を入れ替えて"土地改良"するのだそうだ。こういうことには直ぐに補助金が出る。しかし、耕作放棄地が沢山あるのだから、こんなことにお金をかけずにそういう過疎地への移住を奨めるべきだという。

有明干拓事業でも感じたが、何故耕作不適地にわざわざ農地を拓こうとするのだろうか。あの干拓事業で農地が出来る長崎は入り江と山勝ちな地形で農業には不向きである。干拓事業が持ち上がったのは長崎の人口が今以上に増えて食料が不足するから干拓事業開始当初は増加する人口増に備えて農地を拡大して農業生産を増やすのは意味があっただろう。しかし、実際には人口は減少して農地拡大は不要になり、耕作放棄地の増加でも食料が不足することは全くおきてない。最初の条件が変わっても当初計画を変えられないのは官僚主義の悪弊である。

こういう無駄や矛盾を解消して全体最適を図るのが政治家の役割であろうと思う。

2011年5月12日木曜日

所謂“自然エネルギー”“再生可能エネルギー”で電力を賄う方法

「脱原発」は「脱温暖化ガス」と組み合わさると"自然エネルギー""再生可能エネルギー"による発電に繋がる。しかし、高コストはまだしも〜「安(心)全なら電気代が高くても良い」という意見に経済合理性では説得できない〜、安定した電力供給が出来ないのでは役に立たない。そこで、不安定な発電をカバーする方法を考えてみた。

方法は「揚水発電との組み合わせ」だ。

まず、需要電力の数倍の発電能力を持つ太陽光発電と風力発電、潮力発電などの"自然エネルギー"発電プラントを建設する。日照時間が長い時や風が長く吹いていたり、波が高い時に発電した余剰の電気でモーターを回し水を汲み上げ、日が弱かったり風や波が弱いときに水を落として発電して不足する電気を補う。この揚水ダムを作る為に、山奥の谷を潰し麓には溜池を沢山作ることになる。

日本中が黒光りする太陽光パネルに覆われ、風車が延々立ち並び、山は切り開かれ田畑は溜池と化すかもしれないが、それでも"再生可能エネルギー"だけで暮らせたら素晴らしいことではないか!

とは、決して思わない。

2011年5月3日火曜日

アメリカの“正義”

池田信夫氏のブログ記事「「テロとの戦い」とは何だったのか」http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51704144.htmlのコメントでikedfさんが次の様に書いている。

「「日本人ひとりひとりは礼儀正しいが集団となると恐ろしさを感じる」と言う外国人がいるが、アメリカ人に対してもときどき同様なものを感じる。」

アメリカ人に感じる畏怖は彼らが伝統の背景が希薄な人工国家であることと無縁ではない。アメリカには「建国の精神」なるものがある。それはキリスト教の原理主義的な部分から生み出されたもので、元々は建国時の有力者達が民衆をまとめる為に便宜的に編み出したものだろう。その理念があってこそ、アメリカは国家の体を成し得た。

しかし、この理念は非常に排他的な側面があり、非妥協的でもある。その事が決して有利ではなかったイギリスとの戦いを最後まで戦い抜く原動力となったのだろう。一方で非妥協的な理念は常に敵を必要とした。理念を浸透させる為には、敵を作って分かりやすい構図を用意すれば良い。

イギリス、スペイン、内戦を経て日本やソ連と移り、今では「テロリズム」という"行為"が敵となった。何らかの主体ではなく行為を敵とするならば、その戦いは果てしない。この曖昧模糊とした戦いに熱狂する国民をみた時に怖さを感じるのだ。

池田氏が言うように、この様な熱狂はいずれは冷めてベトナム戦争の時の様に反省がなされるのだろう。しかし、これはまた繰り返されることになると思う。ある意味、伝統を背景に持たないアメリカの"伝統"と言えるものだからだ。

2011年5月1日日曜日

戦時体制の爪痕

5月1日付けの日経新聞朝刊のコラム「春秋」に電力王と呼ばれた松永安左エ門のことが紹介されていた。民間資本による電力産業の発展を追い求めた松永。九州から駆け登り政財界から"王"と言わしめた理想を壊したのは"緊急事態"を盾にした戦中の統制経済と戦後のGHQによる分割だ。

戦中は「経済界の戦時体制への協力」を盾に自由競争を制限して数々の産業で合併を強制し、戦後は経済界が戦争に協力したとして会社を取り上げた。GHQに巣食っていたコミュニストにとって理想的な"無主の企業"が登場した。それは「ガバナンスの欠如」と同義だったわけだ。

今、盛んに東電処理で"国有化"が言われている。国有化が市場価格以上での株式の買い取りを意味するのであれば反対だ。東電を倒産させて〜100%減資させて政府がスポンサーとなって再生するならば良い。実際にはスポンサーになるのも政府とその他の企業が入札して争うべきだろう。

本当に東電が賠償を賄い切れないなら倒産すべきだし、その再生は自信を持って遂行出来る人に任せるべきだろう。

2011年4月29日金曜日

田中実

実直そうな字面ではないか。

俳優の仁科克基が田中実の自殺についてブログに書いている。ウルトラマンメビウスでの一年間の共演以前に、子供の頃に遊んでもらった記憶があると。ドラマ「刑事貴族」の時だろう。田中実の上司役が松方弘樹だった。

NHKの連続ドラマ小説「凛々と」で本格デビューして、その後刑事貴族で認められながら、あまり出演作には恵まれなかった。連続ドラマのレギュラー出演はウルトラマンメビウスが最後だったかもしれない。実直なイメージからなかなか役がつかなかったのかもしれない。

ご冥福をお祈りいたします。

2011年4月28日木曜日

優先順位に気を配る人は少ない

みんなの党の山内議員がドラッカーの次の言葉を紹介していた。

「リーダーが先頭に立って事にあたり、人々を引っ張っていく姿勢など、まったくもって必要ない。有能な経営者ほど決断が少ない。ただ、優先順位だけを決めている」

優先順位に気を配る人は少ない。リーダーに限らず優先順位をつけることは重要だ。政府は今回の震災以降にたくさんの会議を設置している。これも優先順位が決まっていないことに原因がある。優先順位を菅首相が決めていれば会議は一つで良い。

「緊急災害対策本部」

この会議の中で、優先順位の高い順に一つ一つ片付けて行けば良い。

ホリエモンの革命大冒険

城繁幸さんが次の様に呟いていた。

「joshigeyuki 革命なんて一言も言ってないホリエモンが捕まって、革命を掲げている日本共産党がピンピンしてるのは実に不思議だ。たぶん、前者は意図せずしてそこに踏み込んでしまい、後者はまるっきり見当違いな道を進んでいるんだろう。 」

確かに。はからずも革命児となってしまったホリエモンに比べると革命を明言している共産党には優しいものだ。何がホリエモンと共産党を分けたのであろう。

ホリエモンが立ち入った革命は"大貧民の革命"だったのだと思う。強い手札がある瞬間を境に弱くなるという革命。情報技術にせよ、市場取引にせよ、ホリエモンがしてみせた/しようとしたものは、大企業やメディアが持っている手札の価値をゼロにするような話だった。これが検察をして社会秩序を乱すと認識された理由ではなかろうか。

一方、共産党が目指すのは"資本家"や大企業が持っている手札を奪って自分のものにする、或いは手札を持たない人に分け与えるというものだ。この場合、手札の所有者が代わっても手札を切るゲームの構造自体は変わらない。つまり社会秩序は維持される。仮に共産党の革命が成功しても検察機構は残る。

しかし、ホリエモンは検察の構造自体を変えうる提案をしただろう。例えば、ある程度の摘発がシステムで自動的に行われるといった様に。自らの存在を脅かされた時に人が激発する様に、検察も危機を感じてホリエモンに襲いかかったのではないだろうか。

ホリエモンが摘発されたり、フジテレビ買収を断念させられたことで一番得をしたのはメディアである。テレビ局は実質的に買収することが出来なくなった。拒否権を行使できるオーナーがいないということは、テレビ局は社員の共同運営組織になるということだ。社員が解雇もされず一定の発言権を保障されるというのは共産党的な共同運営組織に近い。

ソ連崩壊が示したのはこの様な官僚組織が如何に堕落し、腐敗するのかということだ。ホリエモンを寄って集って潰したメディアが崩壊していくことになるのではないだろうか。

2011年4月25日月曜日

分析する心

"分析"という言葉の成り立ちはモノを刀で切り分ける意味の"分"と木を斧で斬り分ける意味の"析"であり、いずれも物事を分けるということだ。"わける"の二乗だから物凄く分けるということになる。しかし、分析をする時に、この分けることが足りないことが多い。

「売上げの分析をする」という時に、売上げ総額の推移だけを追っている場合がある。"売上分析"は本来ならば、商品分類別/顧客特性別が必須だ。商品分類も外形的な分類だけでも「形態/サービス内容」「シチュエーション」「価格」とあり、それぞれ三種類なら27分類になる。顧客も「年齢/創業」「年収/年商」「家族構成/事業構成」となり同じ様に27分類くらいはすぐに出来る。その組み合わせは729分類となるから膨大な分析作業が残される。実際には分析の前に簡単な感度シミュレーションをして、重要な分析に絞るが、「何故その分析を選んだのか」の説得力は同じ分析内容でも、網羅したなかから選んだのか適当に決めたのかで全然違う。

分析は、結局は、データによって他人に理解させることが目的だから、他人の反証を先回りして抑えないといけない。説明時点では、得てして用意したデータのほとんどが使わないものだが、その準備がないものは余り説得力を持たないものだ。だから、分析するには、一見して無駄になりそうなことを"背景"として愚直に実行する心が必要だと思う。

2011年4月22日金曜日

極私的な危機管理計画

震災から一ヶ月半になろうとしている。今回の様な震災も含めた極私的な危機管理計画について書いておく。

地震や大型台風などの避けえぬ災害について、まずはその発生タイミングによって何をするかを予め決めている。今回の震災の様に、平日の日中発生した場合、無理に帰宅することはしない。今回も最初の三十分で帰宅しないことに決めた。そもそも、ただでさえ電車で二時間もかかるのだからダイヤが乱れたら大人しくする方が賢い。

同僚の中には僕よりも遠いのに車で帰ろうと言い出す者もいたが、諦めさせた。次にこの危機にあたって"約束"は全て無しにした。あらゆる予定はご破算で改めてやり直すことにした。同僚の中には土曜日に家の工事があるからどうしても帰りたいという者もいたが、そんな約束はこの危機にあたって真っ先に破るべきだ。案の定、工事業者は来なかった。

家族の安否確認は一度だけにする。何度も確認したくなるが、一度確認がとれたら家族を信用して自分の身を一番に行動する。しかし、災害対応の渦中になるべく身を置く。この体験は貴重だ。

特に気を使ったのは、気を楽にすること。"ケ・セラセラ"なのだ。

リズムを作る

四月も下旬になって、新しいポジションでのミッションを自分なりに形成出来てきた。当初よりも低い位置から始めることになったが、それは仕方がない。

基本的には年商数十億円の事業所の番頭というところだが、番頭が目立つ会社に将来はない。だから、草々にお役ご免をしてもらうべく、"自動操縦"を目指すことにした。毎朝、意識しなくても顔を洗い歯を磨き、着替えをして電車に乗って通勤する様に、習慣を身につけることが大事だ。一日が24時間である様に、7日を一つの単位として経営のリズムを作っていく。

曜日ごとに必ずやる会議や資料を明示し、それに向かってそれぞれが作業するリズムを生み出す。思いつきの様に資料を要求し、報告を求めるのは良くない。調子の悪い事業所ほど思いつきの会議が多いか、逆に全く会議が無かったりする。"現場重視"の下に会議を軽視する向きもあるが、会議という"公式コミュニケーション"が下手な組織は非公式なコミュニケーションも下手である。

リズムを刻むマーチが経営には必要だろう。

2011年4月19日火曜日

地震で露呈したのは“都市の脆弱さ”ではなく“日本の首都圏生活者の異常な行動範囲の広さ”だった

あの震災で僕は東京に程近い千葉県市川市の会社に閉じ込められた。建物は液状化した道路に囲まれ、近隣の電車は〜特に京葉線は数日間〜止まってしまった。僕の自宅は遠く離れた横浜にあり、とても歩ける距離ではなかった。後からおびただしい人数が東京から千葉・埼玉・茨城・神奈川に歩いて帰ったと聞いた。

"都市の脆弱さ"と言われたが、仮に彼らが歩いて1〜2時間の場所に住んでいたらどうだっただろう。山手線の内側にいくつもの高層住宅があり、都内で働く人が住んでいれば、停電の不便はあったかもしれないが、帰れないことはなかっただろう。一晩歩いてやっと辿り着けるような場所に毎日通っていることが異常なのだ。

震災の後に自宅待機などしていた人も多い。歩いても自転車でも通えないところで働くことが、生産性を脅かしているのだと考えた方が良い。

僕も含めて…。

2011年4月12日火曜日

「捨てる勇気」は何故持てないか

池田信夫氏が呟き反響をよんだ件。

「捨てる勇気の時代」という記事で岸田航氏が指摘している「共感」との関係は面白い解釈だ。共感するから悲惨な震災の中でも秩序ある日本人でいられるのかもしれない。しかし、「目の前のことへの強い共感」は一方で残酷な無視も生む。「共感社会」の強力な連帯感は集団の中に強い「同調圧力」を生み、そのストレスは村八分という伝統的ないじめシステムになった。同調圧力は今回の自粛ムードを拡げたし、伝統的なメディア(テレビ・新聞・ラジオ)も新しいメディア(インターネット)も一様に自粛一色になった。

目の前の「犬」に感情移入して、人間の捜索からリソースを割くことや自治体の資源をペット保護に割くことは「八百万の神が坐す」日本では不思議ではなかろう。瓦礫の下から自衛隊員が写真を掘り起こすことも日本人なら微笑ましいエピソードだが、違う見方があるだろう。思うに、神坐す日本の民は今回の災害を"あるがまま"に受け入れ様としているのだ。ある種の諦観であろう。

この境地は震災の混乱から秩序を復旧する手助けになるだろうが、反省に繋がらない。先に投稿したように、津波被害が繰り返された土地に町を作ったことが被害を大きくしたが、それは津波を"避け得ざるもの"と諦めた点にある。過去に津波に襲われた地域が居住不適地として規制されていたならどれだけ助かっただろうか。

今回の震災は日本人の知らない日本人を知る契機となるだろう。

石原再選が示すもの

先に「東京都知事は石原慎太郎が当選するだろう」という記事を投稿した。結果はその通りで、対立候補は大差をつけられた。

先の記事では二つの指摘をした。東京都民は現状維持を求めるということと震災の不安に追い詰められて家父長的な石原を選択するだろうと。震災対応で行動する知事の姿は格好の選挙活動となった。有権者は先の見えない不安の中で、リスクが小さな石原氏を選んだ。

リスクは「何が起きるか予想のつかない程度」の問題だ。石原氏以外の候補者はどんな結果がでるかわからなかった。震災の不安はそれに拍車をかける結果となった。

2011年4月5日火曜日

なぜ「東日本大震災」なのだろうか

「3.11(さんてんいちいち)」という言い回しが流行っている。この言葉を発すれば何か時代の節目を鋭く捉えている錯覚を覚えるようだ。この言葉を発すれば何か分かったような気になって思考停止するようだ。会社がうまくいかないのも、勉強が手につかないのも、全て「3.11」のもたらしたもの。

だから、僕は意識的にこの言い回しを使わない。同様に「千年に一度」も使わない。「自粛ムード」もスルーして飲みに行く。

しかし、なぜ「3.11」つまり、「東日本大震災」なのか。「1.17」=「阪神淡路大震災」ではないのか、「3.20」=「地下鉄サリン事件」ではないのか、「9.30」=「東海村JCO臨界事故」ではないのか。阪神淡路大震災は関東大震災以来の都市直下型の大震災であり、地震直後の大規模な火災で多くの犠牲者が出る点でも関東大震災と同じだった。今回の被害と同様に過去の災害の教訓が生かされていないという点でもっと本質的な反省がなされるべきだった。

「地下鉄サリン事件」はたった数人で大都市のインフラを麻痺させることが可能であることが実証された。その後の千葉東京間の送電線切断事故や大雪、今回の震災も含めて大都市東京が如何に脆弱であるかが省みられていない。東海村の事故では二名の死者と数百人の被曝者を出したが、放射性物質による継続的な被害より、誤解や無知に基づいた風評被害の方が大きく、原子力事業者は公共への情報公開や内容について研究するべきだったろうが、今回の東電のお粗末さを見ると他山の石として我が身を振り返ることなどなかったのだろうと思う。

"あの"「9.11」でアメリカは広大な国土で輸送手段が100年前に逆戻りする経験をした。テレビ会議やインターネットの普及が加速することとなったが、加えて非常事態での事業継続に関する研究が盛んになった。今回の震災で多くの外資系企業が迅速に本社機能を大阪や香港などに移転したのは、その経験が生きているのだ。

欧米で過去の大災害や事故が取り上げられるとき、そこには被害を最小限に抑えるという未来志向がある。日本では未だに「阪神淡路大震災」の時の市民の英雄的な働きや被害の大きさ、復興の努力などは語られる。しかし、本来ならば、火災を拡大しにくい町作りや被害に遇いやすい居住不適地からの住民の移住などがあるべきだったろう。災害時の指揮命令の明確さに加えて、非常事態における最高指揮官である首相の心構えについても考えられておくべきだっただろう。災害は起きるし、原子力発電プラントの事故も起きる。それを前提とした対応策(コンティンジェンシープラン)を用意しておこうと思う。

何故「東日本大震災」なのか?忘れっぽいからだろう。掛け声で「忘れない」のではなく、具体的な対策を積み重ねていこう。

東京都知事は石原慎太郎が当選するだろう

と、予想する。

東京都知事は圧倒的に現職が強い。現職が出馬した選挙で対抗馬が勝ったことはない。当の石原知事がかつて美濃部亮吉の三選阻止を目指して望んだが敗北した。美濃部の社会主義政策で財政が悪化し行政は官僚化したにも関わらず、である。

鈴木俊一も三期目の箱モノ行政を批判されながら四選を勝った。だから、石原慎太郎の四選も勝つだろう。震災のショックで弱っている都民にとっては家父長的な石原の言動は受け入れられるのではないかと思う。

2011年3月30日水曜日

節電協力のために契約アンペアを一段階強制的に下げるというアイデアの実現可能性

夏には大規模な計画停電を招くなもしれない東電管内。「強制的に契約アンペアを下げれば良い」というアイデアが聞こえてくる。テレ東のWBSでもそんな話が。このアイデアの実現可能性はどれくらいあるだろうか?

全国の世帯数約5000万の内、三割以上が東電管内にある。およそ1500万世帯。アンペアを変えるためには最低1500万台のブレーカーを交換することになる。この交換が仮に一時間4台出来るとすると、375万時間かかる。

コストは最低でも40億円くらいだ。そもそも短期間にそれだけの工数の電気工を投入したら、ほかの電気工事は全く出来なくなるだろう。第一に1500万台のブレーカーは全国の15年分の数なので調達は出来ない。ブレーカーは使い回せば良いという意見もある。

電気アンペアには6種類あるが、仮に全ての契約が同数だとしても20アンペアのブレーカーを交換する15アンペアのブレーカーはないので(これをとったら15アンペアの世帯は電気が来なくなる)、250万世帯分は足りなくなる。全国の二年半の需要。

しかも、取り外して必要な世帯に運んでというロジスティックスはかなり大変だ。結果的に、100億くらいかかるんじゃないだろうか。

経済的にも物理的にも難しいと思う。

2011年3月26日土曜日

来るべき関東大震災では帰宅困難になることが最も心配

関東で暮らしていると、東日本大震災のことを思いつつも「いつか来る」と言われている関東大震災のことを思い悩む人も多いと思う。さて、この大震災で何が最も困るだろうか? 
 
【津波は心配ない】 
今回の震災と違って、関東の場合は津波についてはあまり心配しなくても良いそうだ。津波は今回のように海中での断層崩壊型の地震に伴って発生するが、関東の場合は大規模な者は東京湾沖や相模沖で発生することになる。東京湾のように袋状の海岸線では津波は低くなり、逆に陸前高田の様にV字型の入り江では高くなるのだそうだ。だから、東京の津波は50センチくらいと想定されている。たぶん、多少川が逆流したりするだろうが、建物が流されるほどの被害は受けないだろう。
 
【揺れは怖くない】
今回の長周期の振動と違い、関東大震災では直下型の短時間の揺れが想定されている。この様な揺れには最近建てられたビルなどは平気だろう。問題は耐震強度が弱い古いビルや木造の住宅だ。東京でも西側の山の手には古い町並みがあり、倒壊と火災のリスクが高いと言われる。しかし、地震の起きる時間帯にもよるが、多くの人が火災から避難する猶予はあるだろう。
 
【帰宅困難の被災者は数百万人】
今回の震災では多くの人が帰宅困難者となった。早々に帰宅を諦めて会社に泊まりこんだ人も相当数いた中で、あれほどの人が徒歩で家に帰ろうとした。しかし、都心を地震が襲ったとしたら、会社への泊まり込みも出来なくなるだろう。電車は止まり数百万人の人が道路に溢れる。
地震で道路は歩きづらくなっているだろう。そして都心を囲む様に流れている川、そこに架かる橋が落ちているところもあるだろう。多くの人が路上で過ごすだろう。そして、それは何日間か続くに違いない。
 
東京は、かつて徳川家康が侵入を妨げる様に作った"孤立した都市"である。だから、橋が落ちると物流は寸断され、物資を都心に送ることは不可能になる。帰宅困難者の食料は直ぐに枯渇するので、どうにかして被災地の外に逃げるしかない。
 
斯くして数百万人の帰宅困難者の列が都心から延々と続くのが最も心配なことだ。

2011年3月24日木曜日

本当に水から検出されたか分からない

小飼弾氏が紹介している。
「放射能ほど測定しやすいものはない」ってどんだけ?
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51658186.html

「1018というのは100万の3乗ですから、これは100万mm=1km立方の空間中に、1mm立方の粒が3つあるのと同じというたとえも出来ます。」

放射能を帯びているとそんな微量でも測定出来るとは驚き。だが、逆に測定しやすくて間違うということはないのだろうか?そんな繊細な測定で誤差はどの程度なのだろう。本当に水から検出されたのだろうか。

今日の朝刊で「東京で水道水は乳児に与えてはいけない」と言われて、同じ頃に測定された結果は十分の一の数値。店頭からミネラルウォーターがなくなっただけという結果。必要な発表だったのか、疑問が残る。

地震じゃなく津波被害

昨日、会社の同僚が4トントラックで通行出来る様になった東北道、一般道を通って首都圏から仙台まで走った。ベテランドライバーでもある彼が「疲れた」とこぼすほど道路の状態は悪く気を使ったようだ。みんなの党の松田公太議員が自らハンドルを握って被災地に行ったのは大変な苦労だったろうと思う。

仙台市内の様子は聞くと思ったほどの被害は無かったという。もちろん、激しい揺れで物が飛び散ったりはしたが、建物の倒壊はあまりなかったということだ。直下型だった阪神淡路と違い、地震の衝撃はそれほどでも無かったようだ。だからこそ、今回の津波被災地でも深刻に捉えられず避難が遅れたのかもしれない。

確かに地震の衝撃はあっただろうが、今回の災害は「東北広域大津波災害」と名付けるべきだろう。だから、これまでの「震災対応」とは違った対応をしなければいけないのではないかと思う。震災では災害地域は被災の程度が斑で、無事な場所を拠点に復旧作業にあたれた。しかし、津波の様に根こそぎ被災すると復旧は被災地全体を地ならしすることからはじめる形になる。火災と違い瓦礫が沢山残っているので、その撤去だけで大変な費用がかかる。

地ならしして町割りを最初からする市街地建設の中に、それまでの住民の一般生活を共存することは難しい。だから、津波の被災地からは住民を集団で避難させて復旧までの生活を支援するしかない。それには三年くらいかかるかもしれない。東北各県の自治体への集団避難が一番だが、それ以外の自治体への避難も検討するべきかもしれない。三年くらいとするか、「移住」とするかも考えた方が良いだろう。

2011年3月23日水曜日

たとえ放射線数値をいくら公開してもパニックは収まらない

福島原発の事故で放射性物質が漏れているという話が東京からのエクソダスパニックを招いている。

実際に経済的理由や、仕事の必要で行動に移せない人が相当数いるので、大規模なパニックには至ってないが、原発の状況が変わらないとパニックが拡大する可能性はある。各国大使館が業務を大阪に移管したり、外資が首都圏脱出や海外脱出をしているため、動揺している人は潜在的にはたくさんいるだろう。

パニックを静める為に政府は放射線の数値を公開して国民を安心させようという話は良くあるが、それは無理というもの。第一に、その数値が何を意味するか良く分からない。第二に、「日常生活の何倍」とか「CTスキャンと同じ」とか言われても、そのことと健康被害の関係は分からない。エックス線ならまだしも、CTスキャンなど一般人には縁遠いし、日常生活の何倍までなら大丈夫なのか分からない。第三に、政府や東電が本当のことを言っているか信用出来ない。

何よりも、パニックになっている人たちは「安心」を求めているのであって、それは本質的にはお母さんの抱かれなければ手に入らない。

政府はパニックを防ぐことは諦めてコントロールすることに力を注いだ方が良い。

2011年3月21日月曜日

教科書は印刷するな

今日、ある教材の出荷準備作業を手伝った。一日中作業してほど良い疲れを感じつつ、「この作業って必要だったの?」と疑問を感じた。もちろん、これで稼いでいるわけだから、あった方が実入りはあるわけだが、なんの意味が…という疑問は抑えられない。

「これって、児童にiPad配って配信したらいいんじゃない?」

まず、教材の印刷代が節約出来る。CDなども配布していたが音声はもとより動画だって配信可能だ。それらの製造費用もかからない。

仕分けや梱包・出荷などの作業が必要なくなり、費用が削減出来る。仕分けや配達ミスもなくなる。ストレスフリーになるわけだ。印刷ミスだって直ぐに修正出来る。

なのに何故大量の教科書や教材を印刷し、全国に配布しているのだろうか。無駄という他ない。

福島原発の事故は大した問題じゃない

今回の地震・津波の被害に福島原発の事故が加わったため、みんなの関心がそちらに向いているように思う。東京や神奈川に住んでいる人まで「福島原発はどうなった」とずっと騒いでいる。

騒ぎすぎ

福島原発の周辺に住む人にとっては放射線による被害や今後家に帰れるかを含めて心配だろう。これは、1)事故を招いた東電 2)原発誘致を決めた自治体 3)原発によるエネルギー調達を決断した国 の三者が誠実に対応すべきだ。しかし、福島原発から100キロも200キロも離れた関東の人が一々リアルタイムでニュースをチェックする必要はない。なぜなら原発からの放射性物質の飛散、放射線の漏洩は彼等には関係ないからだ。

彼等はあるはずもない放射線の影響に過度に騒ぎ立て、被害者の様に東電や政府を責める。しかし、彼等は被害者ではない。福島原発の電力の主な消費者は関東の住民や企業だ。彼等の為に原発周囲の人は身近にその建設を許したわけだ。

被害者でもなく、福島の地に原発が建設される一因とも言える人たちがあれほど原発に関心を持つ理由は分からない。もしかしたら、騒ぎ立てることで自分も被害者の列に並んでいるつもりかもしれない。

視察ではなくサプライズ激励を

菅首相が震災現場や福島原発付近の視察を計画しているらしい。こういう話が漏れ聞こえてくる時点で危機管理に問題を感じる。警備の問題などで批判的な論評が多い。

しかし、リーダーが最前線を慰労するのは悪いことではない。ただ、やり方は良く考えないといけない。

今の震災現場や原発事故対応の最前線は、日々目まぐるしく変わる状況対応に四苦八苦していて、当ながら"最大限"の努力をしている。この際に必要なのは、叱咤よりも共感だろう。言葉の選択ひとつで現場の士気に影響する。

かりに前線に菅首相が出張るのであれば、それを気づかせてはいけない。官邸のスタッフなどで準備して、短時間でサッと引き上げるべきだ。伝えることは、「苦労を分かち合う」こと「信頼している」こと「感謝している」ことだ。

2011年3月19日土曜日

エネルギーを浪費することを止めてはいけない

地震と津波で発電所が破壊され、電力不足が強まっている。"無計画"な計画停電や消費者の自発的な節電によってなんとか無秩序な停電は避けられている。節電意識は高まり、冬に逆戻りした悪天候のなか、暖房を使わなかった家庭や企業は多かったようだ。歌舞音曲をはじめ、およそアミューズメントに関するものは"自粛"すべしという風潮だ。都知事選挙の立候補まで自粛の体たらく。

しかし、豊かさとは"浪費"のことでもある。資源を使い、満足することが何より豊かなことなのだ。それを抑えるとどうなるか?昔の生活に戻るというが、それがどういうことか分かっているのだろうか。

短い寿命、高い乳幼児死亡率、狭い行動半径。暖房をいれて室温をあげると、それだけで人体の抵抗力は高まる。死亡率は高くなり、寿命も長くなる。

行動半径が狭いとストレスが高まる。ストレスは抵抗力を奪う。死亡率は高くなり、寿命も長くなる。

"人生を楽しもう"ではないか。

2011年3月18日金曜日

福島原発事故を”人災”というのであれば、今回の津波被害も”人災”と言える

福島原発事故は収拾のつかない状況になっている。次々と炉が発熱し、使用済み燃料にまで飛び火している。
 
「地震・津波は"天災"だが、福島原発事故は"人災"だ」という言説がある。なるほど、一見理に適っているみたいだ。曰く、「活断層の存在が疑われる場所に原発を建設すれば事故につながる」「津波の被害によって発電機が作動せずに事態の悪化を防げなかった」「安易に1号原発に沢山の炉を建設し、事故の同時多発を導いた」。しかし、これらのことが"人災"であるのならば、今回の地震・津波による被害も人災ということになるのではないだろうか。
 
まず、「活断層の上に〜」という点であるが、多くの民家・商業施設・道路・鉄道が活断層の上に建設されている。今回の地震ではこれらの施設が揺れに耐えられず崩壊したものもある。しかし、福島原発は地震に耐え、緊急停止して核反応を停止させることが出来た。これはむしろ天災に対して福島原発は耐え切ったということに他ならない。つまり、人為によって天災の被害を避けたという点で評価されて良い。
 
次に、「津波の被害〜」だが、福島原発が津波によって蒙った被害よりも津波が多くの人命や町を押し流した方が遥かに多い。福島原発も押し流された町も、津波のリスクのある沿海岸に建設されたという点で同じである。一方の福島原発の津波被害を人災と言うのであれば、それ以外の津波被害も人災と言えるではないか。
 
「安易に〜沢山の炉を〜」も同じである。安易に同じ沿海の同じ場所に沢山の住宅を建設し密集して居住していたことが被害が格段に大きくなった理由である。炉を集中したことが非難されるのであれば、人が密集していたことも非難されてしかるべきだ。
 
これらは全て同じ前提に基づいたことによる。即ち、「大きな地震は発生しても、堤防を越えるような大きな津波は発生しない」「津波に備えた各種訓練や装備で避けることが出来ない状況にはならない」「甚大な被害をもたらすような津波が広範囲に発生することはない」というものだ。津波の被害を低く見積もっていたことが、原発であれば「防水が不十分な発電設備、変電設備」を許したのだろうし、沿岸への多数の居住を許したのだろう。また、多くの重要な産業施設も沿岸に集中していた。
 
これは沿岸の低地に集中するというインセンティブが原発にも人にも働いていたということだ。原発の建設は「輸入するしかない化石燃料に頼った発電」から「安定した独自のエネルギー供給」に移行するために決断されたものである。その決断の可否は別に論じるとして、それが何故沿岸に建設されるか、それも集中して幾つも、というのは一つには建設費の安さ、一つには住民説得の(他に比較した場合の)容易さによる。同じく、人が低地に密集して暮らす理由も市街地の建設費の安さ、低地の方が便利なことから住民の移住説得の容易さによる。
 
「なぜ、20m級の津波に耐えられるような堤防を建設しなかったのか」「なぜ、高所に住宅地を建設しなかったのか」「なぜ、津波が来ても衣食住が事足りるような備蓄をしていなかったのか」というのは福島原発でもいえる。「なぜ、20m級の津波に耐えられるような防水処置を発電機にしておかなかったのか」「なぜ、高地に原発を建設しなかったのか」「なぜ、津波が来ても電力が途切れないように自家発電機を複数用意しておかなかったのか」。同じことだ。前提として、大津波は来ないとなっているからだ。
 
ここから教訓を得るとするならば、地質学の成果、歴史研究の成果を精査して、過去に津波襲来の実績がある場所から、住宅、各種生産設備、インフラを移転することだ。もしくは多額の投資で「スーパー堤防」を建設することだ。それがうまく進むだろうか。
 
もちろん、原発の事故が発生した後、次々に起こる状況の変化に対して有効な手を打てないという点には「人災」の部分もあると思う。今回の事故は予見されていた、という人もいるが、それは東海地震であったり、津波を伴わないものであったり、それらの想定が今回の地震・津波を指していたとは思えない。だから、この事態は「それまでの想定を超えた防げ得ない被害であった」と認識することによって「将来に備えて今回の被害あるいはそれを超える災害にも耐えうる都市、インフラ作りをしよう」という結論に至る。それが健全な思考だと思う。

2011年3月14日月曜日

災害復旧はロジスティックスの復旧である

東日本激甚震災は陸海空の全てのロジスティックスを崩壊させた。未だ沿岸で(空中から?)確認された数百の遺体が収容されないのは、そこまでの道路が寸断され、近づけないからだ。直接の災害地である東北各地だけでなく、都内で物資の欠乏が起きているのも、物資を供給する道路、鉄道、トラック及びそれらの運転手が不足するために起きる。忘れられ勝ちなのは、運転手という人的リソースの問題だ。

今回の電力不足による電鉄の減便は、特にトラック運転手の通勤に支障をきたし、輸送能力を大幅に損なう。また、電鉄減便によってマイカー移動が急増することで、トラックの運行は通常の二倍以上になっている。連続した運行は安全上避けなければならず、更に運転手が不足する結果となる。更に、燃料が不足してきている。

ガソリンや軽油などの輸送も減っており、不安心理により給油や備蓄が増えているため、スタンドの備蓄が底をついている。運送会社の備蓄は供給が減っているため同じく底をついてきている。こうして物流が滞ることで小売店頭の在庫が不足しはじめ、またも不安心理により買い占めが発生する。そして、通常よりも大きな、そしてパターンの違う需要が急増すると、倉庫や運送には予期せぬ発注が殺到する。

予期せぬ発注に場当たり的に対応すると、供給が偏り欠乏が頻発する。ポイントは巨大な輸送能力を持つ電車の減便だ。それがロジスティックスのバランスを崩している。

しかし、電力不足のために電車の減便は仕方がない。昼間の輸送能力には余裕があるだろうから、利用者の分散があればなんとかなる。だが、通勤時間=会社の営業時間を変えるというインセンティブは、福耳官房長官がいくらお願いしても働かない。そこで、一時的に電鉄会社に時間帯によって追加運賃を設定することを許可してはどうだろうか?

通常の通勤時間帯の運賃を高く設定するのだ。通勤費は固定費の中でもそれなりの比率になる。それを極端に言えば倍にしてしまえば会社側も営業時間のシフトや職種ごとのシフトを考えるだろう。システムの変更が必要になるが、運賃を転嫁すれば多少無理して開発させても良いだろう。

料金改訂のロジックはあるのだから、それを頻繁に行うということだ。追加運賃のチャージを券売機でさせれば、それが入場制限の役割も果たすだろう。ポイントは「通勤時間をずらすことが業績に影響しない」企業に営業時間を変えるインセンティブを働かせることだ。営業時間の死守が必要な、小売とそれに付随する物流はコストをかけることを了とするだろう。

ロジスティックス上の負荷が平準化されれば、供給能力は急激に改善される。被災地以外のロジスティックスが改善され余力が生まれると、被災地への供給能力の強化にあてられる。今の道路環境では、土木機械や資材の大量輸送もままならない。必要なものが必要な場所に届いてこそ、災害復旧はスタートする。

2011年3月10日木曜日

土肥議員はハニートラップにでもあったのか

民主党の土肥隆一議員が韓国の議員団と「竹島領有権の主張を撤回する」共同声明に参加したという話。

まぁ、「日本は日本人だけのものではない」と仰る総理大臣を輩出した政党なので、今更どんな主張をする人が出て来ようと驚きません。しかし、なかなか興味深い背景だなぁと思います。まず、この声明が「キリスト教議員団」の活動ということ。日本側の参加者は数人程度で今回の会合に出席したのは土肥議員だけだった模様。韓国では150人以上の議員がこの団体に参加していて、アジア最大のキリスト教国になった韓国の現在を伺い知ることが出来ます。

「右の頬を叩かれたら左の頬を差し出す」寛容さを説くキリスト教徒が、かたや「右の頬をぶったから左の頬も差し出せ」という振る舞いに僕などは戸惑います。しかし、それは当たり前かもしれません。左の頬を差し出すメンタリティを持つ民族にわざわざそんな道徳を説かないでしょう。その言葉があまりにも自分達の思想に衝撃を与えるからこそ布教は成功するのです。

それにしても、自分の党が政権運営で窮地に陥っている時に、党の要職にありながらこの行動は呆れます。そう言えば、かの国の要人達が中国にハニートラップを仕掛けられていたなぁ。土肥議員も仕掛けられたのかな?それくらいのやむにやまれない事情があって欲しいものです。土肥議員は個人的には「日本の竹島領有の主張に疑問がある」そうですが、そこいら辺の"文化人"がチヤホヤされるためにリップサービスで言うのと違うのですから。

経歴を見たら我が母校のお隣の進学校の出身ではないか。ん〜、ミッションスクールの僕が全くキリスト教に傾倒しなかったのに、あの学校から神学校に進むとは…。韓国はアジア最大のキリスト教国だから、熱心な日本のキリスト教徒は韓国に行きたがると聞いたことがあるが。

2011年3月8日火曜日

東京都知事選挙

東京都知事選挙の立候補者の顔ぶれが明らかになってきた。 
 
正式な出馬は 
小池晃                (共産党前参院議員) 
渡邉美樹        (ワタミ創業者) 
松沢成文        (神奈川県知事) 
ドクター・中松        (発明家) 
の四人 
新聞報道によると、 
丸山和也        (自民党参議院議員) 
蓮舫                (行政刷新担当相) 
東国原英夫        (前宮崎県知事) 
村林裕                (FC東京前社長) 
そして、 
石原慎太郎        (現職東京都知事) 
といったところか。 
 
ドクター中松は典型的な泡沫候補なので、紙面をにぎわす程度であろう。そういう意味で民間出身の政党色のない候補は渡邉美樹と村林裕くらい。 
 
都知事選を占うネタは以下の三点である。 
 
石原都知事は誰を支援するのか? 
自分自身の出馬も含めて、現職の都知事が誰を支持するのかというのは重要である。石原都政が三期も続いたのは、都民が(これは法人も含む)現状維持を強く望んだからで、多少の衝突はあったとしても都民は変革を求めていないという気がする。とすると、石原慎太郎が支援する候補には大きなアドバンテージがある。 
 
石原都知事を悪役化できるか? 
石原を継ぐにせよ、超克するにせよ、"石原"を否定するアプローチは重要だ。そこで必要なのは石原を悪役として描き出すこと。都政の、あるいは国政の障害を生み出す象徴としての石原慎太郎を印象付けることが出来なければ、都知事選に嵐は起きない。その意味では早くも石原継承を打ち出した松沢氏は安定しているが、嵐が起きると石原と共倒れになりかねない。 
 
既存政党は存在感を発揮できるか? 
現時点で都知事選に名乗りを上げている政党は共産党だけだ。自民党は現職知事の出身母体であり、党幹事長はその息子でもある。その中で現職の丸山参議院議員が名乗りを上げるとなれば混乱は必至だろう。かつて、埼玉県知事選で森田健作が立候補を巡ってもめた経緯もある。丸山氏は党歴も短いし、それほどの混乱はないかも知れないが禍根を残すだろう。 
民主党は深刻である。独自候補が蓮舫大臣以外に見つからない。それ以外では東国原氏を支援するくらいしか手はない。松沢氏は既に石原氏と連携を模索しているので出身母体の民主党とは距離を置くだろう。これほど国政政党が地方政治への影響力を失っているのだ。 
 
大本命は松沢氏になるだろう。対抗は蓮舫大臣あたりが出馬すれば話題になるだろう。大穴は渡邉美樹氏か?渡邉氏が都政の矛盾を石原氏にこめて攻撃すれば良い線いくと思う。東国原氏は出方が問題になる。あざとい立ち回りに見えないように工夫しないといけない。

2011年3月3日木曜日

入試が最優先の事業ならば、大学には常勤職員はいらない

日経オンライン「常識の源流探訪」〜携帯カンニング工夫するヒマに勉強しろよ!〜で伊東 乾が

「そうなんです、学生の単位取得だとか卒業だとか、あるいは卒業後の進路とか、そういうことは大学全体を揺るがすようなことにはなりません。逆に、入試で何かあったら、学長や入試責任者は下手すればクビが飛びかねないかもしれません。そういう現実認識が大学の中にあります。」

と語っている。

なるほど…。大学の本分が高等教育の授業と最高の学習環境の提供であれば、入試はそのサービスを受ける希望者(需要)が大学の定員数(供給)を超える場合にスクリーニングをする為に必要になる。大学の学生は、元々はタダみたいな授業料で教育を受けていた。そこには税金による補填があったので、入試によって税金を使っても、その後に公益に貢献できる優秀な人材を選別するという建前もあった。

文科省が予算を獲得するために無闇矢鱈と大学の新設を許したが、国からの補助金という"需要"があったために参入は盛んだった。通常、参入が盛んになると価格が下がって淘汰されるが、補助金と価格統制があるために価格競争の代わりに学生獲得競争が激化した。学生数は補助金額(売上)を決める要素だから、学生を入学させることが最重要事業となった。入試は実は学生の大学に対するロイヤリティを高める効果がある。

問題の難しさや頭の良い競争相手を叩きのめして勝ち上がっていく過程で学生はその大学の学籍を得ることに満足を得る。だから、そんなに沢山合格者が出て欲しくない。推薦入学やAO試験などは正規の入学者に「あいつらと違って俺の学籍には価値がある」と思わせる装置になる。金メダルでも純金製とメッキでは大違い。だが、推薦だろうと何だろうとメダルには違いないから彼等も満足だ。

斯くして入試という事業が拡大していく。その引き換えに本来の"最高の学習環境"というサービスはお座なりになってしまう。入試がメイン事業ならば、大学には常勤の職員は必要ない。精々冬の3ヶ月間必要になるだけだ。いっそのこと入試に合格したら卒業証書も上げれば良い。

2011年3月2日水曜日

松沢知事が東京都知事に立候補するのは、神奈川県知事の仕事が面白くないからだろう

松沢 神奈川県知事が東京都知事に立候補を表明した。石原知事の了承も取り付けるという政治家らしい根回しを忘れない。石原知事はこういう行為に好感を持つタイプだろうから、応援するに違いない。 
 
神奈川県知事の座を擲って東京都知事に挑戦するのは、それくらい神奈川県知事という仕事が面白くないからだろう。 
 
というのも、神奈川県は県内に横浜市、川崎市、相模原市と政令指定都市を三つも抱えている。神奈川県の人口は900万人で、三つの市を合計するとおよそ580万人。人口の約65%は政令指定都市で県の権限は及ばない。東京に面した三つの市が東京都の連携を阻む様に働いている。 
 
このことから神奈川県知事は「湘南市長」と揶揄されることも多く、日本で第二位の人口の県でありながら、県知事が及ぼせる影響の範囲は茨城県くらいなのだ。これではとてもではないが、面白かろうはずもない。 
 
石原都政を「継承」する方針であろうから、都民の選択が現状維持であれば松沢都知事が誕生するであろう。

痛快なり!松田公太

一昨日おきた「松田公太 菅首相即アポ事件」(By 山内康一)は息苦しい政界で久々に痛快な事件であった。 
 
松田公太の行動が痛快だったのは勿論だが、みんなの党の議員や幹部達がそろって面白がっているのが良い。 
 
こういう事件を笑い飛ばせる集団というのは苦境に強いものだと思う。

2011年3月1日火曜日

入学試験なんかしなければいいんだ

大学入試の問題が掲示板に流出した事件。大学は携帯や通信機能付きの端末を持ち込むことを禁止するそうだ。

ならばいっそのこと入試なんか止めてしまえば良いのに。入学希望者より大学の定員総数の方が多い時代に筆記試験などで合格判定をする意味はあまりない。それよりも入学希望者は全員入学させれば良い。

全員入学させた上で、今の様な出席してれば単位がとれるといったやり方を改め、一定以上の不合格者が出るやり方に変えて、卒業しづらくしたら良い。授業のレベルも上げて、本当に勉強する人しか卒業出来なくすれば、箔をつけるために入学することなんかしなくなる。大学のレベルが"特別に"高ければ、高校や専門学校のレベルも強化される。あの高校を卒業出来れば大学を卒業する力が養われるといった評判は大切だろう。

ソーシャルメディアが普及していて、軍隊が弱いのに、日本で“革命”が起きないのは何故か?

2月24日に「中東の"革命"を見て、中国でも民主化が進むと思ったら甘い!」で後ろ楯としての軍隊の存在が無ければ革命は成功しないと書いた。では、人々の不満や意識をつなぐソーシャルメディアが発達していて、デモも届け出れば自由に出来て、時の政権が民衆弾圧に軍隊を動員する可能性が殆どない日本で"革命"が起きないのは何故だろうか。

「日本は民主主義だし、革命の必要がない」というのは先日までは僕もそうだと思っていた。だが、その民主主義を体現する選挙で何が変わったろうか?幾人もの首相が生まれては消えたが、彼等の内の何人が選挙で約束したことを実現しただろうか。何人が約束を違えることを堂々と説明しただろうか。

中央省庁の役目が終わり、その整理縮小が叫ばれて久しいが、相変わらず官庁は膨張し続けている。あの小泉首相ですら官庁の解体には手をつけられなかった。官僚個人が悪いのではなく、不要なのに無くならないのが悪いのだ。そんな壁を破壊するのに古より政府打倒の暴力闘争があった。

エジプトの民衆蜂起は将にムバラク体制という壁にみんなが立ち向かったわけだ。軍隊が民衆蜂起に敵対しないという予想があったからこそだろう。でも、日本では霞ヶ関焼き討ちは起きない。決して軍隊に暴力で圧殺されたりしないのに。

日本で革命が起きないのは皆が幸せだと思っているからだろう。実際、世界で日本人は圧倒的に豊かだ。貧富の差も小さく、路上生活者ですら世界の貧困者より豊かだ。そんな幸せな社会を革命によってご破算にするのは大きな損失だ。

「茹で蛙」理論というものがある。グラグラ煮たった鍋に蛙をいれると直ぐに飛び出すが、水からゆっくり温めていくと蛙は温度が上がったのに気づかず茹で上がってしまうというもの。実際には水温の変化を感じて蛙は鍋から飛び出すらしい。

不安はあっても豊かな今の日本は蛙が飛び出すほどの温度にはなってないのだろう。政府や官僚が横柄な運営をしない限り、焼き討ちに至ることはないのだろう。とすれば、無能であっても人当たりが優しい菅首相の方が横柄な小沢一郎より、結果的に人を馬鹿にしてしまう鳩山よりマシというのが彼が首相をやれる理由かもしれない。

ならば、日本で革命を起こすには、強権的な政治手法の小沢一郎に首相をやらせてみるのが良いかもしれない。強権的な社会主義政策による財政悪化に疑獄事件が重なれば、民衆が鍋から飛び出す温度に近づくかもしれない。

地方の時代は田舎の時代ではない

「地方の時代」なのだそうである。 
 
宮崎の東国原県知事誕生に続き、大阪の橋下知事が支持を受け、名古屋では名古屋市長選挙と県議会リコール、愛知県知事選挙を川村市長大村候補連合が勝利するという出来事まで起きた。東京都知事選挙は波乱が期待できる。 
 
しかし、これは本当に「地方の時代」の体現なのだろうか? 
 
「地方の時代」という言葉は1970年代からあるのだそうだ。40年も言い続けてその時代にならないということはもう無理なんじゃない?という気もする。地方の時代は換言すれば「地方分権」である。地方の行政サービスは地域ごとの事情に合わせてやった方が良いのだから最小単位自治体に任せて、権限を中央省庁から委譲して欲しいという話しだ。 
 
しかし、掛け声だけで一向に進まない。それもその筈で、地方に財源と権限を渡して自由にさせると言っても、権限はいくらでも渡せるが財源となると疑問が出てくる。多くの地方自治体は、その地域の税収だけで行政サービスも産業振興も出来ない。人口と雇用が東京や名古屋・大阪などの大都市に集中しているため、都市以外の地方、つまり田舎には十分な財源がそもそもないのだ。地方交付税とは、端的に言えば東京で収奪して田舎にばら撒くというもので、これがないと維持できない地方自治体は多い。 
 
その証拠に、東国原知事は一期で知事を退いた。財源、税源が無く、地方交付税は用途が決まっている宮崎のような田舎では「地方の時代」を体現するような行政は決して行えない。つまり、地方分権では力のある中核都市以外は、そのままの姿では存続できないということである。だから、地方分権論議が盛り上がらないのだ。 
 
だから、「地方の時代」という言葉は誤解を招きやすいので「田舎の時代」と言い換えるべきだ。そうすると未だに実現してない理由が分かる。逆にこれからは池田信夫も言うように、「都市の時代」にならなければいけないのだと思う。 
 

日本郵政が赤字転落・・・は当たり前

「郵便事業会社の業績悪化が波及 郵便局会社も赤字転落へ」 
 
「郵便局会社は郵便事業会社やゆうちょ銀行、かんぽ生命保険からの業務委託手数料が収益の大半を占める。11年度の営業赤字を見込むのは、郵便物数の減少に加え、郵便貯金残高や生命保険の保有契約件数の減少で、収益が圧迫されるためだ。」 
 
郵便局を分社化して窓口業務の委託による収益を目指したのは、こういう成り行き任せの赤字を許さないためだった。「郵便物量の減少」「貯金残高の減少」「保険契約の減少」は予想されたことであった。パソコン通信の誕生時点から郵便が電子通信に置き換わるのは予想されたことだった。儀礼的な通信以外は電子化されるのは目に見えていた。しかし、郵便局は「郵便三事業を扱う窓口拠点」である以上はそれ以上の収益源を求めることは難しかった。 
 
そこで郵政民営化と四分社化であったのだと思う。即ち、郵便事業以外の業務受託が出来る自由度を郵便局に与えるということだ。完全に民営化すれば町のサービス拠点としてコンビニと同じ様な働きが出来たのではないかと思う。郵便局がコンビニのフランチャイズになるという選択肢もあった。しかし、民営化が逆行したことで望みのない郵政三事業依存に戻ってしまった。 
 
「郵便事業会社も同日、総務省に11年度の事業計画の認可を申請。1200億円近くの営業赤字を見込む今年度に続き、2期連続の営業赤字を見込んでいる。同社は12年度の営業黒字化を目指しており、今後は経費の約7割を占める人件費削減に向けた労使交渉が本格化する。」 
 
郵便事業の赤字は自業自得である。ペリカン便の統合に失敗して、1+1=1というミラクルな算術を展開してしまった。これで本業の郵便自体に対するサービスレベルの信頼度まで揺らぐ結果となった。日本郵政側が国営事業への返り咲きをたくらんでいる間に、郵便サービス自体の価値が毀損してしまったのだ。今は未だ郵便サービスが法的に独占保証されているので信書の配送は残っているが、ビジネスメール便やダイレクトメールはどんどんJP離れが進んでいる。 
 
郵便局は残業の削減を、郵便事業会社は人件費削減に向けて労使交渉をはじめるというが、日本郵政は亀井静香の肝煎りで非正規社員の正社員化が進んでいる。顧客離れが進んで、収入が減っているのに固定費である社員を増やすというわけの分からない事業方針を政治的に押し付けられて、なんとも不幸な会社であることかと思う。郵便サービスが儀礼的な信書が中心になっていく以上、繁閑の差は激しくなっていく。これを正規雇用で賄うと、よっぽど多能工化をしない限り収益性は良くならない。 
 
こういう結末になるのは去年の夏の騒ぎの頃から分かっていたが、いざこういう結末になると、官僚や政治家に商売に関わらせちゃいけないと強く思う。

2011年2月28日月曜日

デフレギャップの解消には「供給削減」か「需要拡大」しかないのか?

三橋貴明氏が日経オンラインで以下の様に書いている。
「何度でも言う、TPPは「インフレ対策」です」
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20110224/218588/?P=4&ST=money

「日本がデフレから脱却するためには、需給の乖離であるデフレギャップを縮小させる必要があるが、方法は2つある。すなわち「供給能力」を削るか、あるいは「需要」を拡大させるかである。」

そして、氏は

「供給能力の削減とは、企業の工場閉鎖や設備廃棄、それに人員削減などになってしまう。すなわち、リストラクチャリングだ。企業がリストラを推進すると、国内の失業率は上昇する。失業率が上昇すると、当然ながら個人消費は減少してしまう。」

と言い、民主党が政権奪取当初に麻生政権の補正予算を停止した件を批判し、「民主党は「総需要抑制策」をしている」と批判している。

批判はTPPにも向けられ、TPP参加によって日本の産業(農業)にダメージが及ぶと失業が発生しリストラと同じ効果を生むと説いている。

この論では三橋氏は「日本の総需要と総供給」を比較し、総供給に対して総需要が不足しているからデフレも止まらないし、そんな中でリストラすれば更に需要が不足してデフレが更に進むことになると主張している。しかし、この「総需要と総供給」を比較するという点に、「何の需要が不足」していて「何の供給が過多」なのかという視点が欠けているように思う。つまり、日本の需要側のニーズと供給側の構造のギャップに問題はないのかということだ。

例えば、多くの公共団体や公益法人の中にはその役目を終えても存続している企業が多くある。昔は求められていた技術や供給能力も今では不要になってしまったというものもある。JALの例などは、昔は飛行機旅行に対する憧れやそもそも一生に一度といった貴重な体験だったものが、日常的に飛行機を利用するようになったことで旅客航空に対するプレミアムが下がっていった。更に、海外の格安航空会社が示したのは「今の航空運賃が高すぎる」という事実であり、その中には従業員の高い給料や年金負担などがあったわけだ。それが、利用者が航空に感じる価値は下がり(今や出張でもない限りスーツで飛行機に乗り込む人はいない)、「厚サービス・高価格航空の需要は少なくなり」「薄サービス・低価格航空の需要が多くなった」ことで日航という会社は破綻に追い込まれるほどになってしまった。

本来であれば、もっと早い段階で破綻・新会社での再出発が行われ、その過程で給料の切り下げや年金の処理なども出来た。それが今までもつれることになったのは日本の労働環境が硬直的でニーズがなくなった産業やサービスを維持する構造になっていることだ。それが需要側にも消費意欲の減退をもたらし結果としてデフレになってしまっているわけだ。

ここで考え方を変えて、三つの改革を行うことで供給側の構造を変えて需要側のニーズを消費につなげることを目指さないといけない。一つは事業会社の破たん処理を促すということである。事業会社の破綻には、経営者・従業員以上に金融機関の事情により本来破綻するべき企業が破綻していないという背景がある。亀井静香の肝煎りで始まったモラトリアムは金融機関にとっては不良債権隠しのモラルハザードを引き起こした。コレによって破綻したくても出来ない企業がどんどん増えている。

これらの事業会社を、中小から大企業まで、速やかに破綻・再出発に移行できるように促すべきだろう。その為には二つ目に雇用規制の緩和が必要になる。事業会社が事業の一部を残して、他を整理縮小し再スタートを図ろうとしても、実質的に整理解雇が禁止されている状況下では従業員を抱え込んで共倒れするしかない。「知恵を絞って再建させる」といっても全て再建可能な話ばかりでもない。解雇が出来る様にすると共に、今では雇用継続の為にかけられている社会保障を再雇用のための訓練などにシフトしていけば、一時的に失業者が増えても労働力の移転が行われることで失業率は速やかに下がるだろう。

三つ目には産業規制である。各種の参入障壁や許認可を可能な限り撤廃して新規参入を容易にする。1000円バーバーの草分けのQBハウスは参入にあたって保健所の指導など様々な障害があったという。それを乗り越えてなんとか理容業界に参入した。確かに散髪価格が下がるという"デフレ状態"には陥っただろうが、例えば家庭でお母さんが子どもの髪の毛を切っていたケースの多くはQBハウスで切るようになっただろう。散髪をする総数は格段に増えて、QBハウスに続く参入者が既存業者も価格を下げることで、理髪業界は活発化している。これなどは参入障壁が乗り越えられないほど高かった場合は、供給と需要がミスマッチのまま理髪業界は衰退の一途を辿ったであろう。今ではQBハウスなどは海外進出まで果たしている。

確かに三橋氏が言うように、民主党は日本経済をダメにするような政策しか行っていない。「事業仕分け」などは本来ならば「規制仕分け」をするべきだったのだ。と同時に、「省庁仕分け」をして公務員を削減するべきだった。公務員ほど再雇用に有利なキャリアもないであろうから、そうやって労働市場に流出した人材が中小企業やベンチャーに入って新しい市場を生み出していけば、リストラのマイナス効果などあっという間に解決するだろう。三橋氏が言うように、「デフレなんだから需要を喚起する政策を」というのは分からなくもないが、ならば「どれだけの需要を喚起すれば」即ち「どれだけ公共投資をすれば」デフレが解消できるくらい需要が喚起されるのか?というのが問題になるだろう。40兆円などという人もいる。公共支出の乗数効果は高々三倍程度なので、それを期待しても13兆円以上の公共投資をしなければいけない。

この13兆円は一度きりで終わる保証はない。公共投資がはずみ車のように経済を順調に回転させるという実証はないのだ。仮に3年続けたとすると国債を40兆円発行しなければいけなくなる。とても現実味はない。三橋氏は基本的には「価格統制」論者であるようで、以前にも小泉内閣での自由化によってタクシー業界がダメージをうけ、タクシー料金が上がったという。逆に言えば、タクシー料金はそれが妥当だったという事ではないだろうか。規制緩和をすると、思いもかけない影響が様々に起きて、政府としては非常に面倒な状態が生まれる。価格統制や統制経済が好きな人は、こういう偶然性やトラブルが嫌いなのだろう。

しかし、こういうハプニングに挑戦する人がいなければ経済の発展など望めないと思うのだ。

2011年2月24日木曜日

中東の“革命”を見て、中国でも民主化が進むと思ったら甘い!

中東に吹き荒れる"革命"の嵐をみて、「すわ!中国でも」という意見もあるが、中国で中東の様な事態が起きることはないだろう。あったとしても天安門の悲劇が繰り返されるだけだ。

中東で何故政変が成功するのか?鍵となるのは軍だ。エジプトの現状が「軍政下」であることから分かるように、政権の移行とは軍令権の移行に他ならない。ムバラクは軍から見捨てられ退陣するしかなかった。カダフィは軍令権を保持しているが、そもそも部族連合に近いリビアではカダフィは国内の全ての軍事力を押さえているわけではない。

軍が掌握出来なければ、独裁は維持出来ない。逆に軍さえ押さえていればどれだけ民衆を虐げていても、独裁は揺るがない。北朝鮮を見れば良く分かる。

中国は共産党が軍を独占し、その支持は主席に向いている。基本的に政治的権力も軍令権も一致しているからタトエ民衆運動が激化して大規模デモに至っても、軍が制圧する。天安門の様に。だから、中国で民主化が進展するかもなんていう期待は馬鹿げている。

松木農水政務官が辞任・・・って言ってもねぇ

松木農水政務官が辞意 小沢氏処分「納得いかない」(東京新聞2011年2月24日 朝刊) 
 
> 松木謙公農水政務官(52)は二十三日、細野豪志首相補佐官を通じて、菅直人首相に辞意を伝えた。松木氏は二十四日、首相に辞表を提出する。首相は受理する方針。松木氏は民主党の小沢一郎元代表の側近で、党執行部が元代表の党員資格停止処分を決めたことや、首相の政権運営に抗議する意味があるとみられる。 
 
なら、離党する? 
そもそも、政党の事情で内閣の一員が辞表を提出するってどうなんだろう? 
内閣の決定に不満というよりも小沢氏への処分に不満というのであれば離党するべきだと思う。 
 
> 政務三役の一人がこうした理由で辞任することは菅政権にとって一層の打撃となる。 
 
蓄積されたダメージはこの程度ではちょっとしか増えない。良きにつけ、悪しきにつけ影響は軽微だろう。 
 
> 松木氏は二十三日深夜、記者会見し、辞意の理由について「人として、小沢氏への処分はどうしても納得いかない」と説明。消費税率引き上げや環太平洋連携協定(TPP)に前向きな首相の考えについても理由として挙げた。また「民主党は国民生活第一で集まった仲間だが、そういう方向に進んでいない。そういう中でやっていくのはつらい」と述べた。 
 
小沢さんの子分だからついていくんです・・・ってなもん。消費税やTPPはおまけ。第一、小沢一郎は消費税引き上げだってFTAだって賛成のはず。親分が馬鹿にされてだまっちゃいませんぜっていうヤクザの世界ですな。 
 
> ただ、松木氏は離党や会派離脱については否定した。 
 
与党の旨味は捨てられない。そんな不覚悟が政治への信頼を損なうんだろう。

2011年2月23日水曜日

小林麻央の妊娠発表

なんでこのタイミングで・・・?という意見もあるだろうが、逆にこれ以上遅く出来なかったというところではないだろうか。 
 
時期的には10月末から11月はじめにかけて妊娠したようで、件の事件の直前だったようだ。 
 
被害者・海老蔵が叩かれまくる異常な報道に、むしろ発表を控えてきたのだろうと思う。 
 
海老蔵の代役を勤めた愛之助も隠し子がいたなどと大騒ぎ。 
 
海老蔵にもいたんだから代役にも隠し子がいて何の不思議があろうか。 
 
しかし、マスコミは貴重な電波や時間や人的リソースや機材や・・・その他諸々をもっと有益な「報道」に振り向けないのかねぇ?

小椋久美子 結婚へ

オグシオの小椋久美子が結婚するのだそうだ。 
 
確か小椋の方がロンドンを目指すことに積極的だったはずで、それが潮田とのコンビ解消につながったと記憶している。 
 
結果的には意欲的だった小椋が故障に泣いて引退、結婚となり、潮田は新たなパートナーと共に現役を続けている。 
 
皮肉なものだ。

日本は「米作国」だ

菅首相が「第三の開国」と宣言したTPP参加。産業界は喜んでいるように見えるが、農業関係者は烈火のごとく怒っている。TPPは農業を滅ぼすという。食料自給率が下がって国民の安全が脅かされるという。 
 
菅政権の支持率が急落しているが、それよりも民主党にとって深刻なのは政権奪取の原動力となった農村地域の有権者の支持を失っていることだ。だいたい、山口の工業地帯出身の菅首相が農村地域の有権者の考えなど分かるわけもない。市民派政治家とは都市政治家と同義だから農村票とは反りが合わない。市民派政治家は「既得権益打破」が旗印だから既得権益の代表である農村利権を理解することは出来ない。 
 
さて、「日本の自給率を高める」ことを目的として民主党は「農家戸別補償制度」を打ち出して、それは農村票を取り込んで民主党の政権奪取を実現させた。その農業は日本の自給率を上げることが出来るのだろうか? 
 
「人口支持力」というものがある。単位面積当たりで何人の人を養うことが出来るかという指数だ。この指数が、狩猟採集生活では1人/1平方キロなのだそうである。これが農業と牧畜を組み合わせると100倍以上になるのだとか。日本の面積が38万平方キロなので、狩猟採集ではおおよそ30万人くらいしか養えない。実際に縄文時代の人口はその程度であったと推定されている。 
 
かと言って縄文人が貧しかったわけではない。一日に2〜3時間程度野山で狩猟と採集を行い十分に栄養は足りていたという。食材もバラエティに富んでいて、人口密度も低かったので近隣とのストレスなども少なかったとか。しかし、縄文人が豊かに、健康になって人口が増加してくると、行動半径の物理的な制約から、狩猟採集では生活を支えられなくなった。最初は焼畑のようなものからスタートしたのだろうが、やがて縄文人は定住農業によって糊口を凌がなくてはならなくなる。 
 
縄文人の文化が多彩であったことは縄文土器などから良く分かる。これは短時間の労働によって生活がなりたち、余暇時間を楽しんでいたことを示す。弥生式時は非常にシンプルなデザインで、手間がかかっていないことが分かる。これは農業を営んでいた弥生時代の人々の生活に余裕時間が少なかったことを示している。 
 
確かに農業は人口支持力は高いが長時間農作業に従事しないと成果が上げられない。更に、定住していることから人と家畜の糞尿を媒介した病気に悩まされることとなった。風土病が起きても人々はその土地から逃げることは出来ない。近年でも鳥インフルエンザや口蹄疫などの被害が発生しても、畜産家は他の土地に移動することはままならない。 
 
非常にストレスフルな農業社会において、人々のストレスを和らげる様々な装置が考えられたが、その一つが農業を神聖化する神話であろう。日本では天皇陛下が農作業の儀式を行い、天皇は百姓を代表するものという解釈もあるが、これなどは将に農業を神聖化する装置に他ならない。 
 
つまり、農業国日本と天皇は分かちがたく結びついているのだ。 
 
では農業の人口支持力はどの程度なのだろう。狩猟・採集の100倍以上はあるという。江戸時代は諸外国との交易が制限され、国内農業によって人口が支えられていたが、江戸初期に爆発的に人口が増加して後は、中期以降は3,000万人で安定していた。可住地域を考えたとしても、3,000万人〜4,000万人が日本の国土で支えられる人口の限界なのであろう。 
 
では、明治維新になって何故人口が増加したか。医学が輸入され、健康が大幅に改善されたことがあげられる。都市化や暖房の普及も日本人の抵抗力を高めて死亡率を下げた。食料供給は稲の品種改良や肥料の大量投入によって高められた。それでも、戦時中には配給制限が行われるほどになった。当時の人口は8,000万人程度。戦時中の戦地への輸出も合ったとは言え、基本的には日本国内の生産だけで支えるには限界があった。あの時に戦争が終わらなければ、国内で食料争奪の悲惨な現象がおきたかもしれない。事実、戦後には農家が都市生活者に法外な価格(高価な和服とわずかなコメの交換)で売っていた。 
 
そう考えてみると、食料自給率を上げる・・・というが、日本の国土で自給できる限界はどの程度なのか、正確に示す必要がある。仮に、8,000万人分が限界であれば、どう頑張っても食料自給率は70%を超えない。金額ベースの自給率は70%なので、それで十分という気もする。 
 
カロリーベースの自給率は40%を切ったりしているが、そもそもカロリーの半分をコメでカバーしていた時代から食が多様化してきたために、自給率が落ちているといえる。日本国内の農地は基本的には「米」を栽培することに特化して整備されており、飼料に適したトウモロコシや小麦などの栽培に適さない。米食への回帰が叫ばれているが、カロリーの半分を米単体で賄う「貧しい食卓」に今更回帰する必要はない。豊かになったのだから。それよりも、稲作メインの農地を多様な穀類の栽培に転換した方が良い。 
 
ただし、米に比べ他の穀類の販売価格は圧倒的に安い。米は政府によって保護されているため不当に高い価格が設定されているためだ。なので、農家には穀類への転作にインセンティブが働かない。 
 
こうしてみると、日本は「農業国」というよりは「米作国」であると言える。まるでプランテーションのようである。この様な異常な農業から離れないと、農業の振興などは到底無理であろう。

民主党のトロイカ体制の幻想

昨日、民主党の倫理委員会で小沢一郎元代表が弁明したという。どんな内容の弁明かは知らない。興味もない。所詮は民主党の茶番劇であり、何も決定されないのだろうから。

かつて民主党は鳩山・菅・小沢の"トロイカ体制"を誇っていた。鳩山の"資金力"・菅の"アピール力"・小沢の"選挙力"で万全と思ったのだろうか?しかし、鳩山の浮世離れした"鈍感力"・菅の理想家ならではの"妄想力"・小沢の田中角榮直系の"疑惑力"によって馬脚を現してしまった。サピオ誌上で落合信彦が「歴史上トロイカ体制は長続きした試しがない」と指摘していた。三頭だての馬車もこれほど不揃いでは真っ直ぐ進まないだろう。

更に言えば、馬車は馭者が居てこそ進めるものだ。自民党はその成立の経緯から常に権力闘争に明け暮れた。三角大福中とか角福とか実力伯仲する有力者はいたが、いずれも誰がリーダーとなって他を従えた。YKKと言われた山崎拓、加藤紘一、小泉純一郎も小泉首相が誕生する過程で他の二人は追い落とされた。

民主党のトロイカは闘争によって白黒つけることなく、代表の座をたらい回しにすることで協力関係をアピールした。結果的に民主党代表の権威が失墜する結果となった。寄せ集め…以前の話である。

民主党が今回の状況を逆手にとって代表の権威をどれだけ高めることが出来るか。まず、会派離脱をしようとしている16人を除名してはどうか?小沢一郎に対しても一段の強い処分をしてみては?反対する人は降格などどんどん処分すれば良い。どうせ今のままなら法案は通らないのだから、離反者がいくら出ても一緒なのだから。

2011年2月18日金曜日

テロに敗れる国家

農水省は今季の調査捕鯨を中止することを決定した。早速シーシェパードは凱歌を上げているようだ。 
 
かの団体はテロリストというよりも「海賊」である。船に掲げている旗は海賊旗を模しており、自覚しているようだ。しかも、オーストラリアやニュージーランドなどに公認された私掠船である。自ら「エコテロリスト」と名乗るように、彼らは"不法者"だ。その目的は「海洋哺乳類の保護」である。 
 
保護と言えば聞こえは良いが、「海洋魚類の天敵の保護」でもある。海洋哺乳類を食用にする食文化は同時に海洋魚類を食用にする文化でもある。海洋魚類を食用にする人間にとって海洋哺乳類は同じ獲物を求める競争相手である。しかし、海洋魚類を食用にする文化で海洋哺乳類を根絶するまで狩りつくした例はない。広大な海洋を背景として、あくまでも沿海漁業の範疇でのことで、そこに節度というものがあるわけだ。 
 
翻って、かつて陸地の食物連鎖の頂点にあった狼やライオンはどうか?その数は減少している。人間と草食動物を取り合う競争相手であったからだ。魚類を捕食する文化に乏しい内陸部では、この脅威に対抗するべく狼を狩りつくし、ライオンを追い立てた。それを生み出した畜産文化は非難されないのだろうか? 
 
いや、確かシーシェパードは「ベジタリアン」だったはずだ。魚を大量に喰らう海洋哺乳類を保護するのがベジタリアンとは、まるでパロディのようではないか。 
 
話を元に戻す。 
 
農水省はテロリストを恐れて捕鯨を中止した。本来であれば、捕鯨船に海上自衛隊の護衛艦が付き添っても良いくらいだが、日本の法解釈上はそれが出来ない。「軍隊を動かすくらいなら捕鯨をやめたほうが良い」という人が多いのだろう。しかし、一事が万事。これで日本という国はテロリストに屈するという評価が下ってしまうだろう。 
 
日本赤軍のダッカハイジャック事件と同じ年にドイツで起きたハイジャック事件が特殊部隊によって制圧されて以降、テロリストに対しては要求を聞くことなく武力をもって立ち向かうことが常識である。更に、シーシェパードはテロリストというよりも海賊に近く、捕鯨妨害に名を借りた海賊行為によって(寄付などの)収入を得ている。この様な勢力に生っちょろい憲法九条などの制約で敗れてしまうのは残念なことだ。 
 
来季の調査捕鯨には是非とも海上自衛隊の護衛艦を伴って欲しい。公海上での海賊行為は日本政府の公用船舶によって取り締まることが出来る。シーシェパードの海賊船を拿捕して日本まで曳航、あるいは撃沈し、彼らの意図を打ち砕いて欲しい。

数値分析〜高校ではもっと「統計学」を教えるべきだ

今日、少し時間が出来たので会社の数値分析をした。会計数値を使ったものだが、かなり妥当な当社の収益モデルが出来た。まぁ、一部の部門なので他の部門の収益モデルも作らなくてはいけないが。

こういう分析をして思うのは、高校などではもっと統計学を学ばせるべきだということだ。世界に冠たるトヨタをはじめとして、戦後日本の製造業の隆盛にはデミングが伝えた分散分析や仮説検定などの統計手法の応用が役立った。トヨタ方式にも統計分析がなくては始まらない。

なのに、学校教育で重視されていないのは問題だ。特に高校では実践的な課題解決を含めて力をいれるべきだと思う。

2011年2月15日火曜日

年金問題の解決案

鳴り物入りで民主党政権に入閣した与謝野大臣は「税と社会保障の一体改革」を担っている。団塊世代が年金受給期に入るに連れて急増する社会保障費。年金と保険は「付課方式」になっているが、年金を支払う世代が受け取る世代より遥かに多かった時代には維持出来たこの方式も、その構成比率が逆転した現在では持続可能な制度ではなくなっている。

年金にせよ、保険にせよ、"税金"とは違うのだから「再分配」の制度として扱ってはいけない。「積立て」=〉「運用」=〉「(必要な時に)受け取り」というサイクルが必要である。ところが、年金も社会保険も集めたものを基本的には単年度で支給する。だから、年金や保険は払う世代が多かった時代には支払いが安かった上に支給しても余ったので、バカみたいな「ハコモノ」が沢山建てられた。

基本的には積立て方式に以降するべきだと思うが、今受け取っている人には積立てがない。一方でこの世代が一番金融資産を保有している。ならば、ある程度の積立てが賄えるまで金融資産に課税すれば良い。

金融資産に課税した上で相続税や譲与税は廃止する。一定額の課税控除を設ければ、高齢者の手元で塩漬けになっている資産が若年層に移転する。若年層は社会保障が「積み立て方式」になることで無用な将来不安を持たなくなるため、活発に消費するようになる。資産が移転することで金融資産課税の徴収額は減るだろうが、消費が活発になることで税収は上がる。税収の一部を積み立てに補填する。

積み立て不足がある程度解消されたら、年金事業は民間に売却する。人員も含めて民営化し、政府機能をスリム化する。売却益は国債の償還にあて、国債利払いの軽減を図る。社会保障も民営化出来るものは民営化して、国債を少なくしていく。年金も保険も自動車保険の自賠責のような仕組み(強制)と希望者が入る二本立てにするべきだと思う。

2011年2月13日日曜日

エジプト ムバラク大統領失脚の捉え方

エジプトのムバラク大統領が9月の任期まで辞任しないという会見から一夜にして逃げる様に辞任した。民主化が成就したかの様な報道や中東や北アフリカ地域の独裁あるいはイスラム政権への影響などが取り沙汰されている。しかし、この政変にそういうポジティブな評価を単純に下すのはどうだろうか?

「極東ブログ」で指摘されているように、ムバラク大統領が全権を軍に委譲したことは、軍事クーデターであり、その軍と繋がりの深いアメリカが今回の政変を支持したのはエジプトの政治的態度が従来からは変わらないという確信があってこそだろう。イランが「民衆活動」としてのムバラク辞任を支持したのはアメリカから主導権を奪うためで、軍と反ムバラク民衆との離反を狙ってのことだろう。しかし、余程のことがない限りこの政変がイスラム革命に繋がることはないだろう。

軍の管理下におけるデモとそのデモを背景にムバラク独裁を軍が転覆したというのが今の状態であるなら、これが本当の民主化に繋がる保証はない。つまり、今回の政変が示したのは相変わらず中東や北アフリカでは軍が最強の政治的プレーヤーであり、これから幾多の民主化プロセスが踏まれるが、そう簡単な話ではあるまいということだ。

2011年2月3日木曜日

「八百長」を今更認める協会と国の欺瞞

大相撲の八百長問題が取り沙汰されている。部屋内での死亡に至ったいじめ、野球賭博に続きやっと本丸の「八百長疑惑」に手がかかった。

「ヤバい経済学<http://www.amazon.co.jp/%E3%83%A4%E3%83%90%E3%81%84%E7%B5%8C%E6%B8%88%E5%AD%A6-%E5%A2%97%E8%A3%9C%E6%94%B9%E8%A8%82%E7%89%88-%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%83%B3%E3%83%BBD%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%88-%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%83%B3%E3%83%BBJ%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%96%E3%83%8A%E3%83%BC/dp/4492313788>」

では大相撲のことが分析されている。

「勝ち越しが決まっている力士(A)とあと一勝で勝ち越し出来る力士(B)が当たったときの勝敗は、(B)の方が有意に勝率が高い」

というのがその統計的な分析結果です。このことから導き出されるのは、優勝争いに関係が無く、昇進や降格に関わる勝ち越しを決めた力士が、昇降格の線上にいる力士に勝ち星を売る八百長があることだ。

数字は嘘を言わない。

しかし、八百長の存在自体は週刊誌などで報じられ、協会は勿論、NHKだってマスコミだって、文科省だって承知のこと。

それにほっかむりしてきたことに問題があるのだ。

僕は、個人的な意見としては、「興行」であるのだから演出としての八百長はあるだろうし、否定は出来ないと思う。しかし、現在の相撲の興行が演出よりももっと真剣な「力比べ」である以上、また様々な格闘技やスポーツが真剣勝負を前提として人気を博している以上、「八百長」が起こりうるシステムを改めなければいけない。「番付」や「横綱の格」といったものは様式美としては美しいが、それは興行相撲として別に残し、真剣勝負の大相撲は手を抜くことが許されない試合システムにしなければいけないのではないだろうか。

2011年1月30日日曜日

菅政権を襲うたくさんの危機

菅首相は「たとえ支持率がゼロになろうとも」「石にかじりついてでも」総理の座から下りないと言っている。ただ、菅政権の支持率は民主党の支持率に影響を与えるので、さすがにゼロになったら与党からも圧力がかかるだろう。もしかしたら与党から賛成者が出て不信任が可決するかもしれない。

菅首相は予算関連法案を人質に野党を引きずり出そうとしているが、野党は是々非々であたるべきだ。菅首相には、有権者は協議に応じない野党を支持しないという期待を持っている。これはある程度実現するだろうが、それによって形振り構わない政治姿勢が認められれば支持率は急降下するのではないだろうか。

すると4月危機よりも予算成立後の5月や6月の危機もあるのではないか。

2011年1月27日木曜日

韓国は日本や中国よりも強い「学歴重視社会」をどの様に乗り越えるかが問題だ

日経ビジネスOnLineの記事より

記事要旨
1)韓国の国立大学KAISTの1年生が「成績が良くない」ことを悲観して自殺したことが社会問題となっている。
2)KAISTは成績が落ちるとその分高い授業料を払うことになっていて、高い場合は1,600万ウォンにのぼり、年収の三割を越す。
3)普通高校を出る学力がないとKAISTの授業にはついていけず、高い授業料を課せられ辞めたり、自殺を選ぶことがある。
4)官奴出身の朝鮮中期の科学者であり発明家として大活躍した蒋英実の様な人材はKAISTの様な制度では現れない。世宗大王が彼を抜擢したように、可能性を高めるような選抜方式が韓国には必要ではないか?

先に結論を言えば、仮にKAISTの様な「懲罰的学費」をやめて、経済的負担がない条件にしたとしても、成績を苦に自殺をする韓国の若者は減らないと思う。それは記事の中にある「ヤンバン(貴族)出身で、科挙を合格して」という歴史にある。この記事では詳細に解説されていないが、「ヤンバン(貴族)出身で、科挙を合格して」というキャリアパスは説明としては不正確である。当時の制度では科挙を受験する資格は貴族出身であることと科挙の受験資格がその家にあるかということの二つである。
受験資格が「家」に付与される上に、二代続けて科挙に合格できないと科挙の受験資格が剥奪されてしまう。つまり、貴族であっても下級貴族に転落してしまうことになる。受験資格の再交付はないから、一度転落したら再浮上の目はない。あるとすれば、その家の子女が後宮に上がって皇帝のお眼鏡に適うことである。
今は親の成績が悪いから大学を受験できないということはない。しかし、親の学力や出世と子どもの学力の相関は単純に信じられている上に長年にわたる「学歴重視傾向」が社会全体に良い成績を取らないといけないというプレッシャーを与えている。更に、それが「家」の名誉につながるために、簡単にはドロップアウト出来ない。授業料が安くなっても同じで、「良い成績」が「良い人生」や家の繁栄につながるわけだから、そう簡単に激烈な競争はなくならない。
「家」を重視したり、集団圧力が高いのは日本も同じだが、日本では江戸時代ですら武士・商人・農民の間の身分移動は行われていた。身分の低い人材の抜擢も度々あったので、学歴重視と実力重視がない交ぜになっている。しかし、韓国社会は「学歴」だけが重視されるので、こんな悲惨なことになる。
更に、成績のちょっとした差にも敏感だし、経歴上の傷は長く残る。韓国人の中での差別は激しく、北朝鮮からの脱北者や在日韓国人は韓国では差別の対象になる。同じ様に、普通高校の出身者は如何に「天才」と褒め称えられようと、いや天才と言われるからこそ激しい差別に晒される。

この宿痾を乗り越える明るい未来はあると思う。昨今の韓国人の海外留学は学歴秩序を崩壊させつつあると思う。世界に乗り出した韓国人が学歴には意味が無く「何をなしたのか」あるいは「何をなすことが出来るのか」が重視されるのだということを広く認識しはじめている。逆に元々学歴偏重ではなかった日本の方が、学歴にどんどん擦り寄っている気がする。

2011年1月25日火曜日

「一人ひとりを包摂する社会」特命チーム って恐ろしい…

菅首相官邸ブログで面白い提案があったそうです。

「第12話【孤立】「一人ひとりを包摂する社会」特命チームスタート!」
http://kanfullblog.kantei.go.jp/2011/01/20110119-3.html


「包摂」という言葉はマル経用語なんですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%85%E6%91%82

<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%85%E6%91%82>

Wikipediaの解説より引用

「経済・社会は、捨象して抽象化することが可能な人間相互の関係である。他方、現実の経済・社会は、自然科学の法則を合目的的にシステム化した技術、生物としての人間、自然環境、空間など、さまざまの外生的な存在を取り込まない限り存続することができない。
これらはいずれも、自然的存在であって、自然科学が究明する独自の運動法則をもつ統一体である。経済や社会は、このような自然的存在のうち有用な性質だけを取り込んで(包摂して)活用しようとするが、自然は統一体として存在しているのであるから、有用な性質の包摂は、同時に、経済・社会にとって障害となる要素も同時に包摂せざるを得ないことを意味する。その結果、この障害となる要素が、経済・社会にさまざまの否定的帰結をもたらす。これが、経済・社会にとって外生的なものの形式的包摂(formal
subsumption)である。
そこで、経済・社会の主体は、この自然の存在が障害をもたらさないように、この自然存在を作り変えなければいけない。これは、経済・社会による人為的な自然の生産過程である。人為的自然が適切に生産されれば、形式的包摂に際して存在していた障害は消滅する。これにより、経済・社会は、外生的な自然を実質的包摂(real
subsumption)したことになる。」

これを「人」に適用するのですか。経済・社会の外生的存在となっている「孤立した個人」を社会に取り込むが「一人暮らし高齢者、児童虐待、不登校、DV、離婚、貧困、非正規雇用、孤独死、そして自殺」という『障害』も取り込んでしまう(=形式的包摂)。だから障害が起こらないように「孤立した個人」を社会に適合するべく『作り変えないと』いけない(=実質的包摂)。

おお!恐ろしい。『再教育』ですか。収容所思想ではないですか!
もしかしたら、「孤立した個人」に適合するように社会を作り変える気かもしれません。
それまた恐ろしい全体主義ですね。

2011年1月21日金曜日

官僚の軍門に下った菅首相

『首相、事務次官に協力訴え 「政治家にも行き過ぎ」  「政治主導」修正、政官一体の取り組み指示』
http://www.nikkei.com/news/headline/related-article/g=96958A9C93819481E0E3E2E2918DE0E3E2E3E0E2E3E39C9CE2E2E2E2;bm=96958A9C93819481E0E3E2E2978DE0E3E2E3E0E2E3E39F9FE2E2E2E2

「菅直人首相は21日午前、首相官邸で各省の事務次官に訓示した。「事務次官と政治家が積極的な協力関係をつくり上げてほしい。政治家にも行き過ぎや不十分さがあった」と述べ、政権交代以来の「政治主導」を軌道修正した。」

菅民主党が官僚の軍門に下りました。恐らく、陰日なたに重ねられたであろう官僚のサボタージュの賜物です。

日本には権力と国民の間の中間集団は「官僚組織」しかありません。この官僚は解雇規制や人事院などというものに守られて永続的に権力と国民の間にあります。アメリカなどでは政権ごとに官僚組織の上層部は入れ替わります。これはそれぞれの政党がシンクタンク(政策立案集団)をもっているためで、政権をとると同時にそのシンクタンクのメンバーが官僚組織の上層部に入り、解雇された官僚は野党のシンクタンクに入ります。日本にシンクタンクが無いのは、喩え政権をとってもシンクタンクのメンバーを政治任用で官僚組織のトップ=事務次官に据えることが出来ないためです。シンクタンクにいても、政策実現には手出しが出来ないのであれば、実現可能性がない政策を自己満足で作文しているだけで、優秀であればあるほど他の道を選ぶでしょう。

菅首相や民主党が「政治主導」を目指したのは正しいことで、行き過ぎどころか最初の一歩すら踏み出していません。問題は政治家の打ち出すコンセプトを官僚組織を含めた既得権益者に遠慮しない政策に纏め上げ、それを実現可能なプランに落とし、その実現を官僚に強制する、能力と権力を持つ実務者がいないことです。既得権益の代表となってしまっている官僚にそれを求めることは出来ません。政治主導を本当に成し遂げたいのであれば、政治任用が出来るポストを拡大し、それと同時に一定以上の地位の官僚の解雇が出来る様にしていかなければいけません。

本来であれば、民主党が政権をとった直後にそれに着手するべきでした。しかし、官公労の抵抗にあった民主党は「政治主導」という掛け声だけで本当の意味での政治主導改革を怠ったのだと思います。

2011年1月19日水曜日

町工場が消える原因には日本の雇用環境の問題があるのではなかろうか?

日経新聞 1月19日 朝刊 九面
「消えゆく町工場」

日本の町工場集積地帯として有名な東京大田区と大阪東大阪市で過去20年間に町工場が半減したのだそうだ。記事では主な要因としてリーマンショックに端を発した金融危機をあげていて、付け足しの様に「後継者不足」を挙げていた。戦後50年代から70年代に30前後で起業した町工場のオーナーがこの20年間で次々に70才を超えて引退したであろうことを考えると、金融危機による需要減よりも後継者不足の方が主な要因であるように思う。

日本の町工場の加工技術に優れたものがあるとして、それは全ての工場に当てはまらない。大企業が頭を下げて発注するような町工場は数えるほどしかない。ほとんどの町工場はありふれた加工機械を操作して加工するだけである。機械を大切にメンテナンスするなどによって品質が安定するようなことはあるかもしれないが、技術革新によって「匠の技」がコンピュータで再現されると普通の町工場の仕事の多くは発注元が内製化してしまう。

引退間近の町工場のオーナーにそれを超えるイノベーションを求めるのは酷な話で、廃業に至るのはやむを得ないだろう。問題なのは廃業した後に新しく若い人が起業しないことで、それは日本の雇用環境にも問題があると思う。日本では「終身雇用神話」があり、「年功賃金」は長期雇用によって担保されるから、大抵の場合は起業のリスクをとるよりは企業への就職の方が人気がある。町工場のオーナーに幾ら優秀な子弟がいても、優秀だからこそ跡を継ごうとはしない。

更に、銀行が経営者に債務の個人保証をさせるために、たとえ優秀な従業員がいても譲ることが出来ない。だから、奇特な後継者に恵まれない限り町工場は一代で終わるしかない。それは日本の「モノ作り神話」の崩壊ではなく、如何に日本のビジネス環境が窮屈かというだけのことだ。大企業をリストラされた人が培った専門スキルと積み増しされた退職金で廃業する町工場を買うというのは、なかなか難しい面が多いだろう。

しかし、企業は自分達にとっては重要でなくなったスキルを持つ従業員を社内に飼い殺しにせざるを得ない。

2011年1月17日月曜日

仮に日本が破綻しても“大連立”に反対する

菅第二次改造内閣に自民党の枢要を担った与謝野氏が入ったことで、彼を橋渡しとする所謂"大連立"を待望する声が聞かれる。改造前から識者の中でも大連立を唱える人もいるし、彼の大新聞の主筆は熱心に働きかけている。しかし、敢えて言う。

「譬え、日本が破綻しようとも大連立には反対する」

反対の理由は「人は満腹になってもお菓子に手を出すもの」だからだ。空腹を満たすという当初の目的が果たされても、そこにお菓子があれば手を出してしまうものだ。「自民党」は「防共」「社会党対策」の為に"大連立"から合併に至った。それがソ連崩壊、中国の転向と目的が果たされても合併したままだった。

あまつさえ、社会党を保守対抗馬としておだてあげることで、その延命に協力した。自民党という一種の「一党独裁体制」は戦後日本を共産革命の浸透から守り、敗戦から素早く立ち直るための「方便」に過ぎなかった。それが「戦後は終わった」と言われても維持されたのは、自民党という共同体が権力を手放したくなかったからだ。それは小沢一郎の「反乱」によって崩壊するかに見えたが、自民党という共同体を破壊したのは小泉純一郎という奇才の登壇まで待たなければいけなかった。

"一党独裁"自民党支配が終焉を迎えた今、日本は改めて多党政治—民主化—に進まなければいけない。"防共"を理由にした保守合同や戦争を理由にした翼攅会政治の再来は民度の成熟を妨げるだけだ。「たちあがれ日本」は保守理念の旗を掲げた。「みんなの党」はリバタリアンに近い。自民党と民主党はどちらもコミュニタリアンとリベラリストが混在していて有権者の選択を妨げる。

日本経済が破綻に直面して危機だからというのは理由にしてはならない。私たちは再び民主化の機会を逃す。第一、敗戦という最大の破綻を短期間で克服した私たちが、財政破綻程度を恐れてはいけない。それよりも二度と破綻しない社会をどのように再建するかを徹底的に議論して選択するべきだろう。

2011年1月12日水曜日

谷垣総裁は上品すぎて政権奪取できそうに思えない

中曽根大勲位が谷垣総裁と会談して、野党第一党として政権を狙え、もっと"バンカラ"に、と言ったそうだ。

谷垣総裁は"あの"加藤紘一の子分だった人だ。加藤紘一は"あの"加藤の乱を起こし政界から弾き出された人だ。何のために未だに議員をやっているのかさっぱり分からない。

加藤紘一は宏池会を河野洋平から奪い、加藤の乱の失敗で谷垣総裁に譲った。河野洋平は総理になれなかった唯一の自民党総裁だ。加藤紘一はYKK(山崎拓、加藤紘一、小泉純一郎)の中で最も総理に近い男と言われた。谷垣総裁はこのままでいくと総理になれないかもしれない。宏池会の会長には"呪い"がかかっているのかもしれない。

河野洋平にせよ、加藤紘一にせよ、「公家集団」と言われた宏池会の品の良さがあるが、それは「駆け引き下手」とも通じるようだ。河野洋平は野党から政権復帰を遂げる直前に加藤紘一の裏切りによって橋本龍太郎に総裁の座を譲った。加藤紘一は小泉純一郎の怒りを買い、徹底的に潰された。加藤紘一が情けなくも撤退する時に涙ながらに励ましたのが谷垣総裁だ。

民主党が内部紛争に明け暮れるなか、自民党は全くつけこめていない。そんな内ゲバを無視して政策論争に場を移すことも出来ない。そもそも、野党の党首である谷垣総裁が幾ら声を張り上げようとメディアが取り上げない。

いや"張り上げる"くらいエキセントリックであれば取り上げられるかもしれないが、谷垣総裁の品性がそれを許さない。その意味で甲高い声を張り上げて相手を撃破した小泉純一郎には劣る。谷垣総裁が自覚しなければいけないのは、「どんなに良いことであっても聞いてくれる人がいなければないのと同じ」だということだ。そう"つかみ"は大事なのだ。

菅首相退陣が囁かれるが、総選挙にならない限り政権は民主党のままだ。それまでに、谷垣総裁が泥臭くても魅力的なメッセージを発信出来なければ、政権交代後の総理に彼が座ることはないだろう。いや、そもそも政権交代すら難しい。

2011年1月6日木曜日

福島党首には生活再建は出来ない

日経新聞 1月6日 朝刊 二面 寸言より
社民党の福島党首が「開国元年といったが日本は開国していなかったのか。(中略)開国元年ではなく生活再建であるべきだ」と記者会見で発言したらしい。本当にこの人が消費者担当大臣をやめてくれて良かった。菅首相は、野党に対抗する意味もあろうが、自由貿易協定への参加に意欲を見せた。それを批判する福島党首が「生活再建」を謳うのはおかしい。

福島党首は、民主党の旧社会党勢力も、生活再建の為に企業に雇用の拡大や賃上げを要求する。昨夜のビジネスサテライトでは多くの経営者が新規雇用や賃上げには応じられないと答えた。企業が雇用を増やすのは、新たな需要が見込め継続することが見通せる時だ。しかし、日本は人口減少が続き、消費が増える可能性が低い。雇用が増えてみんなが豊かになれば消費が増えるというが、世界一豊かな個人に溢れる日本ではいくらひとり一人がこれ以上お金を得ても消費は増えない。

日本で最も豊かな層は「老人」である。彼らは有り余るお金を使う当てがない。貧しいのは若者だ。彼らは収入が増えても老後の為に貯蓄する。貧しいとは言え、彼らは十分に持つべきものを持っている。

自由貿易協定にサインすると何が起きるか?安い衣食が入ってくる。収入が増えない消費者にとって、これは福音だ。モノが安くなることで相対的に収入が増えるからだ。

貿易相手国の収入が増えると彼らが日本の高付加価値商品を買える様になる。日本の成熟し、これ以上買うものがない消費者から、途上国のいくらでも欲しいものがある消費者にターゲットが代わる。しかも、彼らは何も日本企業が自分達の商品を劣化再生産したものが欲しいのではなく、日本で売られている高品質の商品が欲しいのだ。斯くして新たな継続する需要が見いだされ、企業は新規雇用を増やす。

国内では介護や付加価値の小さなサービスで労働者需要が増えるだろう。それを担うのは移民や出稼ぎだろう。ただでさえ日本の若者は老人を経済的に支える。その上にサービスまで求めることは出来ない。

この移民や出稼ぎは実際には多くの消費を行う。コツコツ貯めたお金で百貨店で一張羅を買うというのはかって日本人が豊かになる過程に重なる。移民や出稼ぎが増えることで、様々なトラブルが起きるかもしれない。それもまた日本人が経てきた過程だ。

私たちは戦後とても豊かになった。そんな私たちはもっと賢くこの変化を楽しめるのではないだろうか?そんな私たちのタフネスを信じない福島党首は、実は有権者を蔑視しているのではないだろうかと思う。