2011年4月12日火曜日

「捨てる勇気」は何故持てないか

池田信夫氏が呟き反響をよんだ件。

「捨てる勇気の時代」という記事で岸田航氏が指摘している「共感」との関係は面白い解釈だ。共感するから悲惨な震災の中でも秩序ある日本人でいられるのかもしれない。しかし、「目の前のことへの強い共感」は一方で残酷な無視も生む。「共感社会」の強力な連帯感は集団の中に強い「同調圧力」を生み、そのストレスは村八分という伝統的ないじめシステムになった。同調圧力は今回の自粛ムードを拡げたし、伝統的なメディア(テレビ・新聞・ラジオ)も新しいメディア(インターネット)も一様に自粛一色になった。

目の前の「犬」に感情移入して、人間の捜索からリソースを割くことや自治体の資源をペット保護に割くことは「八百万の神が坐す」日本では不思議ではなかろう。瓦礫の下から自衛隊員が写真を掘り起こすことも日本人なら微笑ましいエピソードだが、違う見方があるだろう。思うに、神坐す日本の民は今回の災害を"あるがまま"に受け入れ様としているのだ。ある種の諦観であろう。

この境地は震災の混乱から秩序を復旧する手助けになるだろうが、反省に繋がらない。先に投稿したように、津波被害が繰り返された土地に町を作ったことが被害を大きくしたが、それは津波を"避け得ざるもの"と諦めた点にある。過去に津波に襲われた地域が居住不適地として規制されていたならどれだけ助かっただろうか。

今回の震災は日本人の知らない日本人を知る契機となるだろう。

石原再選が示すもの

先に「東京都知事は石原慎太郎が当選するだろう」という記事を投稿した。結果はその通りで、対立候補は大差をつけられた。

先の記事では二つの指摘をした。東京都民は現状維持を求めるということと震災の不安に追い詰められて家父長的な石原を選択するだろうと。震災対応で行動する知事の姿は格好の選挙活動となった。有権者は先の見えない不安の中で、リスクが小さな石原氏を選んだ。

リスクは「何が起きるか予想のつかない程度」の問題だ。石原氏以外の候補者はどんな結果がでるかわからなかった。震災の不安はそれに拍車をかける結果となった。

2011年4月5日火曜日

なぜ「東日本大震災」なのだろうか

「3.11(さんてんいちいち)」という言い回しが流行っている。この言葉を発すれば何か時代の節目を鋭く捉えている錯覚を覚えるようだ。この言葉を発すれば何か分かったような気になって思考停止するようだ。会社がうまくいかないのも、勉強が手につかないのも、全て「3.11」のもたらしたもの。

だから、僕は意識的にこの言い回しを使わない。同様に「千年に一度」も使わない。「自粛ムード」もスルーして飲みに行く。

しかし、なぜ「3.11」つまり、「東日本大震災」なのか。「1.17」=「阪神淡路大震災」ではないのか、「3.20」=「地下鉄サリン事件」ではないのか、「9.30」=「東海村JCO臨界事故」ではないのか。阪神淡路大震災は関東大震災以来の都市直下型の大震災であり、地震直後の大規模な火災で多くの犠牲者が出る点でも関東大震災と同じだった。今回の被害と同様に過去の災害の教訓が生かされていないという点でもっと本質的な反省がなされるべきだった。

「地下鉄サリン事件」はたった数人で大都市のインフラを麻痺させることが可能であることが実証された。その後の千葉東京間の送電線切断事故や大雪、今回の震災も含めて大都市東京が如何に脆弱であるかが省みられていない。東海村の事故では二名の死者と数百人の被曝者を出したが、放射性物質による継続的な被害より、誤解や無知に基づいた風評被害の方が大きく、原子力事業者は公共への情報公開や内容について研究するべきだったろうが、今回の東電のお粗末さを見ると他山の石として我が身を振り返ることなどなかったのだろうと思う。

"あの"「9.11」でアメリカは広大な国土で輸送手段が100年前に逆戻りする経験をした。テレビ会議やインターネットの普及が加速することとなったが、加えて非常事態での事業継続に関する研究が盛んになった。今回の震災で多くの外資系企業が迅速に本社機能を大阪や香港などに移転したのは、その経験が生きているのだ。

欧米で過去の大災害や事故が取り上げられるとき、そこには被害を最小限に抑えるという未来志向がある。日本では未だに「阪神淡路大震災」の時の市民の英雄的な働きや被害の大きさ、復興の努力などは語られる。しかし、本来ならば、火災を拡大しにくい町作りや被害に遇いやすい居住不適地からの住民の移住などがあるべきだったろう。災害時の指揮命令の明確さに加えて、非常事態における最高指揮官である首相の心構えについても考えられておくべきだっただろう。災害は起きるし、原子力発電プラントの事故も起きる。それを前提とした対応策(コンティンジェンシープラン)を用意しておこうと思う。

何故「東日本大震災」なのか?忘れっぽいからだろう。掛け声で「忘れない」のではなく、具体的な対策を積み重ねていこう。

東京都知事は石原慎太郎が当選するだろう

と、予想する。

東京都知事は圧倒的に現職が強い。現職が出馬した選挙で対抗馬が勝ったことはない。当の石原知事がかつて美濃部亮吉の三選阻止を目指して望んだが敗北した。美濃部の社会主義政策で財政が悪化し行政は官僚化したにも関わらず、である。

鈴木俊一も三期目の箱モノ行政を批判されながら四選を勝った。だから、石原慎太郎の四選も勝つだろう。震災のショックで弱っている都民にとっては家父長的な石原の言動は受け入れられるのではないかと思う。

2011年3月30日水曜日

節電協力のために契約アンペアを一段階強制的に下げるというアイデアの実現可能性

夏には大規模な計画停電を招くなもしれない東電管内。「強制的に契約アンペアを下げれば良い」というアイデアが聞こえてくる。テレ東のWBSでもそんな話が。このアイデアの実現可能性はどれくらいあるだろうか?

全国の世帯数約5000万の内、三割以上が東電管内にある。およそ1500万世帯。アンペアを変えるためには最低1500万台のブレーカーを交換することになる。この交換が仮に一時間4台出来るとすると、375万時間かかる。

コストは最低でも40億円くらいだ。そもそも短期間にそれだけの工数の電気工を投入したら、ほかの電気工事は全く出来なくなるだろう。第一に1500万台のブレーカーは全国の15年分の数なので調達は出来ない。ブレーカーは使い回せば良いという意見もある。

電気アンペアには6種類あるが、仮に全ての契約が同数だとしても20アンペアのブレーカーを交換する15アンペアのブレーカーはないので(これをとったら15アンペアの世帯は電気が来なくなる)、250万世帯分は足りなくなる。全国の二年半の需要。

しかも、取り外して必要な世帯に運んでというロジスティックスはかなり大変だ。結果的に、100億くらいかかるんじゃないだろうか。

経済的にも物理的にも難しいと思う。

2011年3月26日土曜日

来るべき関東大震災では帰宅困難になることが最も心配

関東で暮らしていると、東日本大震災のことを思いつつも「いつか来る」と言われている関東大震災のことを思い悩む人も多いと思う。さて、この大震災で何が最も困るだろうか? 
 
【津波は心配ない】 
今回の震災と違って、関東の場合は津波についてはあまり心配しなくても良いそうだ。津波は今回のように海中での断層崩壊型の地震に伴って発生するが、関東の場合は大規模な者は東京湾沖や相模沖で発生することになる。東京湾のように袋状の海岸線では津波は低くなり、逆に陸前高田の様にV字型の入り江では高くなるのだそうだ。だから、東京の津波は50センチくらいと想定されている。たぶん、多少川が逆流したりするだろうが、建物が流されるほどの被害は受けないだろう。
 
【揺れは怖くない】
今回の長周期の振動と違い、関東大震災では直下型の短時間の揺れが想定されている。この様な揺れには最近建てられたビルなどは平気だろう。問題は耐震強度が弱い古いビルや木造の住宅だ。東京でも西側の山の手には古い町並みがあり、倒壊と火災のリスクが高いと言われる。しかし、地震の起きる時間帯にもよるが、多くの人が火災から避難する猶予はあるだろう。
 
【帰宅困難の被災者は数百万人】
今回の震災では多くの人が帰宅困難者となった。早々に帰宅を諦めて会社に泊まりこんだ人も相当数いた中で、あれほどの人が徒歩で家に帰ろうとした。しかし、都心を地震が襲ったとしたら、会社への泊まり込みも出来なくなるだろう。電車は止まり数百万人の人が道路に溢れる。
地震で道路は歩きづらくなっているだろう。そして都心を囲む様に流れている川、そこに架かる橋が落ちているところもあるだろう。多くの人が路上で過ごすだろう。そして、それは何日間か続くに違いない。
 
東京は、かつて徳川家康が侵入を妨げる様に作った"孤立した都市"である。だから、橋が落ちると物流は寸断され、物資を都心に送ることは不可能になる。帰宅困難者の食料は直ぐに枯渇するので、どうにかして被災地の外に逃げるしかない。
 
斯くして数百万人の帰宅困難者の列が都心から延々と続くのが最も心配なことだ。

2011年3月24日木曜日

本当に水から検出されたか分からない

小飼弾氏が紹介している。
「放射能ほど測定しやすいものはない」ってどんだけ?
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51658186.html

「1018というのは100万の3乗ですから、これは100万mm=1km立方の空間中に、1mm立方の粒が3つあるのと同じというたとえも出来ます。」

放射能を帯びているとそんな微量でも測定出来るとは驚き。だが、逆に測定しやすくて間違うということはないのだろうか?そんな繊細な測定で誤差はどの程度なのだろう。本当に水から検出されたのだろうか。

今日の朝刊で「東京で水道水は乳児に与えてはいけない」と言われて、同じ頃に測定された結果は十分の一の数値。店頭からミネラルウォーターがなくなっただけという結果。必要な発表だったのか、疑問が残る。