2009年7月11日土曜日

意思決定〜会議は躍る、いつまでも…

人間生きていれば意思決定はつきものだ。今日の夕ご飯は何にしよう、とか、この人と付き合おうか、とか、値段をいくらにしよう、とか、誰を昇進させよう、とか。重要なものから、そうでないものまで意思決定の連続だ。

ただ、不思議なことに、重要な意思決定は沢山の人が参加し、そうでないものは少人数で(時には一人で)意思決定することが多い。だが、意思決定は重要であればあるほど一人で、そうでないほどみんなでする方が良いようだ。重要な意思決定は、その場に参加する名誉以上にストレスがかかる。そのために社会的手抜きが起きやすい。また、影響力を誇示する目的で会議を引っ掻き回す人も多い。

意思決定は、基本的にYES−NO−NO batしかない。つまり、代表的な意見を取り上げるためなら最低3人で良い。ただ、意思決定後のアクションには3人では足りないこともあるし、三極を代表するのが一人ずつだと互いに歩み寄るキッカケが見いだしづらい。だから、それよりも多く、しかし倍の6人を超えないようにしたい。

だが、会社の会議で6人以内のものなど滅多にない。あるとしても実務的な調整の場合で、コンセプトを決めたり戦略を決めるのに少人数というのは稀だ。

先日の事業戦略を決める会議では出席者は10人を超えた。これでは創造的な会議は殆ど不可能だ。結局は意思決定はされず、何も決まらなかった。小田原評定とか"会議は躍る"とか、意思決定を少人数でやる重要性についての逸話は多い。日本の首相も一人で意思決定する場面を増やさないといけないと思う。

DQ9 ガイド本と同時発売

ゲームとしての面白さには欠けるなぁ。

確かに、管理監督者ではないな・・・

この辺りのことはあまり気にしていなかったんだけど・・・。

「管理職と管理監督者の違い」(Wikipedeia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/管理職#.E7.AE.A1.E7.90.86.E8.81.B7.E3.81.A8.E7.AE.A1.E7.90.86.E7.9B.A3.E7.9D.A3.E8.80.85.E3.81.AE.E9.81.95.E3.81.84

労働基準法では「管理監督者には残業代を支給しなくてよい」ということになっている。なので、大抵の会社では「課長になると残業代はつかない」ものとなっている。しかし、厚労省は管理監督者を「「経営者と一体的な立場」「出退勤の自由」「地位にふさわしい待遇」などの条件を満たすもの」と定めている。経営者と一体的な立場とは担当事業分野における決裁権を大幅に持っているということであるが、課長にはそんな権限は付与されていないのが通例である。精々、数万円の経費支出について、認める程度であるし、支出にしろ売上にしろ決定権を持っていない。出退勤は一般従業員と同じく決められているし、給与格差は精々数万円だ。これで管理監督者というのは少し無理があろう。

厚労省の基準でいうと、管理監督者として認められるのは取締役クラスの雇用者に限られるのが実態だろう。たとえ部長であってもこの基準をクリアする条件の人は殆どいない。しかし、取締役はそもそも労働基準法の「使用者」にあたるので残業支給の対象とはならない。ならば、そもそもこの「労働者であり、かつ管理監督者」というのが実態として無理があるのではないだろうかと思うのだ。例えば、経営者並の権限を持っているであろう人は多くの会社では部長以上くらいしかいない。更に、一般社員と待遇に大きな差があるか(具体的に言えば、給与面での格差があるか)と言えば、それほどではない。それなのに、管理監督業務と称して上司への報告書作成や部下の報告書処理などで残業が続くとすれば、「課長になるのは嫌」という『草食系サラリーマン』が増えるのは当然かなと思う。

であれば、経営者あるいは経営企画部門の人間としては以下のように考えるのだろうと思う。1)適切な権限委譲を行う、2)管理監督職と言われる課長以上の役職手当を月あたり数十万円以上のレベルにする、3)管理監督職の給与を職域の業績と連動させる。これが所謂「成果主義」がもてはやされた理由ではないだろうか。しかし、やりたいことが「人件費削減」でしかなかったために給料が減ったことが恨まれるだけという結果となった。本来、給与制度や人事制度をいじったりするのは、会社が成し遂げたい成果を実現するために従業員に思い切って働いてもらいたいと思うからだ。だが、制度設計において、この部分は大体忘れ去られる。

ならば、と思うのだ。経営者は会社のミッションとか自分のビジョンを前提として中堅以上、少なくとも課長以上の人とは「契約」を結ぶべきではないだろうか。その契約の中でアウトプットを成し遂げるのが管理職の仕事であるとするならば、待遇もあげてよいし、評価も出来るだろう。逆に、その契約が出来ないというのであれば、一般社員として残業代が支給される待遇で働けばよいのだと思う。それは働き方の選択なのだから、それで良いのではないだろうか。

クールが崩れる夏

7月はテレビの番組改編期である。6月末に一斉に番組が終了し、7月から新番組がスタートする。ところが、TBSは8月スタートが目白押し。というのも、4月の番組改編が大失敗に終わったからだ。そのために8月に大幅な見直しが断行される。

TBSの4月改編は「冒険」と言われた。急激に冷え込んだビジネス環境が広告収入を直撃し、テレビ業界は大打撃を蒙った。そこでTBSは一種の賭けとして4月に大改編を行ったが、結果的にはこれが大失敗だった。なぜ、こんな博打をしたのだろう。

ここにテレビ業界に新しいマーケティングモデルが不足しているのだということに気付く。業界横並びで実験的なマーケティングが不足しているのだ。以前は深夜番組が実験場だったが、深夜とプライムでの視聴者のプロファイルがあまりにも違うため、深夜で成功する番組は「深夜だからこそ」成功する番組となってしまった。3ヶ月ごとのスペシャル番組も新番組の番宣を兼ねるため、似たり寄ったりになってしまい面白みに欠けてしまう。

結局視聴率が稼げるタレントベースの番組作りが、どの局も同じという印象を加速している。広告業界にもう一つの打撃をもたらしたGoogleモデルは広告主の効果測定に対する関心を強め、テレビ局は尚更視聴率に敏感になった。

だが、3ヶ月=1クールという図式が崩れたTBSが改編によって勢いを盛り返したら、各局が横並びを捨てて様々な実験に手を染めるかもしれない。それを少し期待している。

2009年7月10日金曜日

消費傾向による悲喜こもごも

日経に森永乳業のパック型アイスが増産という記事が掲載されていた。このアイス、ふと思い返すと家にもあった。余暇を家で過ごすのが持ち帰りが出来るアイスの需要を増やしたのだとか。別の紙面には「縮む外食」としてファミレスが閉店を続けているというのが載っていた。この二つの記事にはある現象がもたらす影響の両極端が顕れている。

エコ・バブルが始まると言われている。「エコ・ポイント」「エコ・カー減税」。環境対策と言いながら、一方で高速道路料金を値下げするのはおかしいと思うが、これは別のバブルとなるだろう。巨大な太陽電池プラントを開発するとか、風力発電プラントを開発するとか色々いっている。でも、プラント開発で発生するCO2で、削減できるCO2なんか吹っ飛んじゃうんじゃないかな?と思う。これもまたコインの裏表。

ユニクロ最高益更新を真正面から捉えよう

日経新聞 7月10日 朝刊一面
「『ユニクロ』最高益1080億円」

ユニクロが歴代最高の営業利益1080億円を叩きだしたという。この営業利益から、有利子負債の利払いなどを差し引いて、最終経常利益がどれほどになるのかは不明だが、今の経済環境下で利益を増やすというのは驚異的だ。会社でも時々ユニクロの話題を出すのだが、決まって「今は不景気なので売れているだけで、景気が良くなったら真っ先に変われなくなってダメになる」という反応が返ってくる。不思議なものだ。

ユニクロは景気が悪いときでも良いときでも常に成長を遂げてきた。一時頭打ちか?と言われたが、それまでの方針から一転、カラーバリエーションを増やしたり、高機能衣料を開発したりと、価格はそのままで付加価値を高めることに力をいれて成長を果たした。ビジネスの視点から言えば、顧客ニーズの変化に即応して機会をものにしたというところだ。ビジネスパーソンとしては、そのことに真正面から取り組みたいと思う。

成功者が出ると、そのうちダメになるという評価が下されるのは良くあることだが、そういう発言は決まって変化を拒んでいるものの口から出てくる。成功者の多くは環境変化に合わせて自らを変えたもので、自ら変わろうとしないものからは苛められるものだ。白鳥は昔から白かったわけではなく、環境変化にあわせて白くなったのだろうが、最初に白くなった個体はさぞかしいじめられただろう。

だが、結局生き残るのは先に変わったものだ。だから出遅れたものはその変化を良く見て、自分が直面している環境変化を真正面から捉えないといけない。

2009年7月9日木曜日

鳩山・麻生だけではない

『鳩山・麻生の「相似形」
"政策より政局"で決まった民主党新代表』
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20090522/195490/

鳩山・麻生は互いが似ているだけではない。その立場も政治状況も自分達の祖父を演じているかのようだ。遡ってみれば自民党が政権からずり落ちた十数年前の時に首相の座についたのは細川護熙だった。その数十年前に、時の政変の中で様々な政治背景を丸呑みして戦前の政権を作ったのは彼の祖父の近衛文麿だった。小泉純一郎の祖父・又次郎は「扇動政治家」との異名があったという。小泉純一郎のどうどうたる扇動ぶりは筋金入りのものだったということだろうか。

今の『二大政党』もどきの状況も戦前の政治状況そっくりだ。決め手にかける二つの政党が政権を争っている状況下で発生したのが政治不信と二回の軍部によるクーデターであったことを思うと、我々はもっと真剣に我々の代表としての政治家を選ばなければいけないと思う。

政治は如何に変わるべきか?

『期待先行"リバウンド"が怖い民主党
山口二郎・北海道大学教授が語る「2大政党制の意義」』
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20090708/199531/


「山口 再分配は全部ばらまきなんですよ。だから公平で平等なばらまきと不公正なばらまきと2つあって、不公正なばらまきをやってきたのは自民党で、確かに小泉はそこの水道の栓をとめたという面はあるんですよね。もっと公明正大にばらまけば国民は幸せになるんですよ。」

富の再配分を「市場」に任せるか、「政府」が介入するかというのは政治理念の大きなポイントだと思う。山口氏は「公平な」ばら撒きと「不公平な」ばら撒きがあって公平であれば良いと言っているが、完全に公平なばら撒きも完全に不公平なばら撒きもないだろうから程度の問題だ。そして、程度の問題はリスクであり確率だ。つまり、富の再配分をやろうとすると一定程度の不公平さが出来てしまうリスクがあるわけだ。

リスクをゼロにするというのは理想ではあるが、実際にはゼロにはならない。制度設計をするのであれば、リスクが大きかろうが小さかろうが不公平さが最小限ですむように考えなくてはいけないのではないだろうか。例えば公共工事では競争入札が実際には談合によって不正に利用されている。談合を無くすための取り組みは行われているが、それでも減らない。そもそもニーズが小さいところに投資をしようとするのだから、そこでビジネスをしようとしているモノはさっと掠め取って逃げようと思うものだけだ。ニーズが強いところには公共投資が行われなくてもインフラだろうがサービスだろうが民間資本が活躍する。そうなると談合が入る余地はなくなってしまう。

つまり、再配分の規模が大きければ不公正は大きくなり、小さければ不公正は小さくなるとも言える。ならば、と言って再配分をゼロにすることも出来ない。人が生きていくうえで最低限必要な福祉は個人が獲得したり生み出したりしている富とは関係なく享受できなければいけない。だから、再配分の対象となるべき国家の事業は「教育・医療・老後」に限るべきだと思う。そして、経済基盤としての「通貨」と社会基盤としての「警察」、国際社会における地位保全のための「外交」以外は民間で十分に賄えるのではないだろうか。それ以外のものは基本的に民間に任せ、事後的な課題解決をするための監督にのみ集中するべきなのではないだろうか。
現在、1府11省1委員会になっている行政の中から多くが「庁」になってしまって良いと思う。

現在の中央省庁
府(1):内閣府
省(11):総務省、外務省、財務省、文部科学省、厚生労働省、農林水産省、経済産業省、国土交通省、環境省、防衛省
委員会(1):国家公安委員会

こうすれば良いのでは?
府(1):内閣府
省(6):法務省、外務省、財務省、文部科学省、厚生労働省、防衛省
委員会(1):国家公安委員会
庁(5):総務庁、農林水産庁、経済産業庁、国土交通庁、環境庁

そして、思い切って5つの庁の人員を半分くらいにしてしまえば良いのではないだろうか?そしたら、中央省庁の人員も2割くらいは削減出来るし、予算も減らすことが出来るだろう。そういう行政改革を断行しなければ不公正が最小限の行政って実現できないと思う。

2009年7月8日水曜日

2000億じゃ規模が小さすぎる

民主党が政府の無駄遣いを調査した結果、洗い出したのは2000億足らずだったそうだ。もちろん巨額だし、無駄遣いはないに越したことはない。ただ、何十兆にも及ぶ国家予算に比べたら、大した金額ではない。どうもアプローチが間違っているように思う。

国家予算の圧縮は前年比で1割とか2割といった規模でしなければいけないと思う。それには小さなことを積み上げてというのも良いが、思い切ってやめるものを決めた方が良い。あるいは、一気に2割の人員削減を断行した方が良い。

優秀な人材が流出して国家運営に支障が出ると言われるかもしれないが、優秀なら民間で富の創出に力を発揮して欲しい。成熟した経済社会に戦争直後のような統制経済は不要だ。だから、省庁は社会からこぼれ落ちた不合理や不公正を事後に救う程度で良い。さぁ、国家に縛られた人材を解き放て!

2009年7月7日火曜日

電子カルテが問題だ

日経新聞 7月7日 朝刊一面
「パナソニック医療ロボに参入〜まず薬剤師支援」

パナソニックが医療ロボット分野への参入を果たす。薬剤師の調剤支援をするロボットだという。

昔、同じ様なビジネスの立ち上げに関わったことがある。ICタグで医薬品を管理し、調剤などの薬剤師業務を支援するというものだ。ビジネスとしては失敗に終わったが、関わることで面白い視点を得た。

注射薬の振り分けをするロボットは既に複数の大学病院で実用化されている。問題は薬品の種類。全てを網羅しようとすればロボットは巨大になる。使用頻度や薬品のリスクによってロボットで扱うものと棚で管理するものは分けた方が良い。

ロボットを使うには電子カルテとの連携が不可欠だ。これが曲者。電子カルテの普及はまだまだ。手書きのカルテではロボットへの入力の分だけ薬剤師の負担は増える。何でもそうだが、システムに最初に投入されるデータをどうやって作るかが一番重要になる。

関空失敗に学ぶ

日経新聞 7月7日 朝刊一面
「関空路線の撤退加速」

関空に閑古鳥がないているそうだ。開港当初から利用者が増えないことが問題となっていたが、関空が大きな失敗だったことが明らかになった。元々、伊丹空港と関空はそれぞれ国内線と国際線で住み分けをするということになっていた。しかし、それは伊丹空港の発着数を減らし、関空の発着数が思ったように増えないという状況を作っただけだった。

オマケに関空は国内線も発着するようになって、大阪に国内線用の空港が二つあるということになってしまった。それに加えて神戸空港である。需要に対して空港の供給が多くなってしまい、全ての空港で赤字になるという共倒れに終わってしまった。伊丹空港を廃止しなかったことで、人と物の流れが変わらなかったことで、既存の業者や地元は喜んだかもしれないが、結果的には巨額の関空開発費を溝に捨てる結果となった。

福岡空港を移転するという話しが前々からあるそうだ。福岡空港は街中にあるため、拡張することも出来ないからというのがその理由だが、仮に離れた場所に空港が出来たとして、恐らく福岡空港は廃止されないだろうと思う。そもそも、あんなに便利な空港は日本には他に無い。それを廃止することには多くの反対が出るだろう。結果、新空港は国際線を主体とするということになる。だが、福岡空港からは他の国際空港に向かう便もあるのだから、福岡から別の国際空港に飛び、そこから国際線に乗り換えるということが起きそうな気がする。

よっぽど福岡空港と新福岡空港の連絡が便利でなければ関空の二の舞になる可能性が高い。そんなことはやめて、福岡空港周辺地域の買収などに力を入れた方が良いのではないかと思う。

賢い政府は期待できるのか?

日経新聞 7月7日 朝刊一面
「日本の軸を問い直す(上) 今こそ「賢い政府」に」

日経新聞の主幹のエッセーらしく、麻生政権の構造改革つぶしに批判を加えている。更に、小泉改革の負の遺産を「改革の行きすぎ」ではなく「改革の不徹底」と指摘したのは久しぶりに新聞らしいエッセーを読んだ。民主党の一部やマスコミの一部は為にする反対を繰り返しており、小泉改革を批判する。だが、小泉改革は構造改革の「一部」でしかない。小泉政権は全面的な構造改革に対する激しい抵抗を打ち破るために敢えて郵政民営化のみの一点突破で改革を推し進めた。その点で小泉政権は近年になく「賢い政府」だったのだと思う。

小泉政権に続く三つの政権は小泉路線を継承できなかったのではない。小泉政権時代からポスト小泉政権で改革をひっくり返そうとしていた、政界官界の勢力が民主党の力を借りて改革勢力を叩き潰したという方が正しい見方だ。その勢力は各政権の見方側にいて、それが政権の基盤を危うくし、短命で終わってしまった。ことほど然様に政府は「変わらない」ものなのだ。そんな政府に「賢さ」を期待してもよいものだろうか?

"変化"に対して最も早く反応するのは消費者個人である。時代の移り変わりを敏感に感じるのは生活者個人しかいない。次に反応するのはベンチャー企業や目端の利いた中小企業。ベンチャーキャピタルや個人投資家がそれに続く。次は普通の中小企業が反応する。大手企業の中でもベンチャースピリットが旺盛な企業は反応するかもしれない。この辺りで新聞やテレビなどのメディアが気づく。あぁ、ネットメディアはとっくの昔に気づいて反応している。

メディアが反応すると、徐に大企業が動く。大学などの研究機関もそれに続く。変化への対応が大きなうねりになってから、やっと地方自治体が気づく。最後にやっと登場するのが国となる。個人が日々刻々と対応するのに比べて、国は数年単位でしか変化に対応できない。変化に対応して向きを変えた頃にはとっくに違う方向にトレンドが流れてしまっている。"恐竜"とはよく言ったものだ。だから、行政がビジネスに及ぼす影響力は極力小さくしなければいけない。

TBSで「官僚の夏」というドラマが始まった。通産省が「国民車構想」なるものを主導したという設定だという。実際には自動車業界は政府が主導しなかった産業である。政府はこの業界を無視していた。一時自動車会社を整理統合するというので(これによって誕生したのが日産自動車)、自動車メーカーの数を制限するといったことをしようとしたが、それも失敗に終わった。仮にこれが実行されていればホンダは自動車メーカーにはなれなかった。トヨタはGM車を下請けで生産するだけだっただろう。政府が自動車業界を軽く見て、鉄鋼や通信に力を入れたことが、鉄鋼の斜陽を招き、通信のガラパゴス化を招いた。

ある程度民間資本が育ってきた後には、如何に産業育成というものに政府が役立たないかということがここに如実に顕れている。

2009年7月5日日曜日

市場主義の中で何が規制されるべきか

日本の政治は振れ幅が大きすぎる。

バブル崩壊後にアメリカの繁栄を横目で見ていた日本では「市場に任せる」ことの可能性を感じて次々と規制緩和が行われた。その成果は確実に上がり、バブル崩壊があったと言えど日本のGDPは成長を続けた。しかし、今世紀に入って、ホリエモンた村上ファンド、リーマンショックなどがあり、派遣切りや年金問題など社会不安が増大すると、やっぱり市場に任せるなんてとんでもない。規制をしなければダメだと言い出す。

日本は長らく国家が産業を育成し、国民の生活を支えてきた。東南アジアの国々が戦後の復興期に「開発独裁」などと批判されたことがあったが、そのモデルは自民党独裁の日本だった。日本は戦後数十年「開発独裁」国家であり、それが復興を力強く推し進めてきた。そのため、少しでも経済が不安定になったり、社会に不穏な影が落ちると「独裁色」が強くなってくる。

独裁というのは「強力な権力者が多くの弱者を支配する」と思われがちだが、独裁には「多くの弱者が一部の力ある人に依存して、支配してもらう」という構造の場合もある。日本はどちらかと言えば後者で、だから直ぐに「小泉か小沢か」「麻生か小沢か」「麻生か鳩山か」と個人の名前が挙がってしまう。政党政治の基本は個人ではなく、積み上げられた政治理論や哲学によって、独立した政治理念が形成され、それを体現する人を首班としてより近しい意見を持った人が終結するというものだ。ところが日本では人が変わると主義主張は簡単に変わってしまう。

今回の規制強化も「至上主義か否か」という二元論で語られてしまうのは、政治理論や哲学の積み上げがないからで、積みあがっていない薄っぺらさが二元論として現れている。そのような単純な構造に足を掬われないためには様々な側面から政策も経済も見ていって、それらの意見を対等な重みで評価して奥深いやり方を追及するべきなのだと思う。

自動車優先都市−東京

昨日の日経新聞 一面のコラム「春秋」に自転車の3人乗り規制緩和について書かれていた。

母親が自転車に子供を乗せる場合、これまでの規制では二人乗りはOKだが、三人乗りは禁止。だが、現実的に幼い兄弟を持つ母親は無理やりにでも二人を乗せて行動せざるを得ない。そのため、「十分な安全が図れるのであれば」という条件付で三人乗りが解禁された。

だが、同時に「春秋」は我が物顔で歩道を走る自転車にも苦言を呈している。申し訳程度に「自転車専用レーンを設けないことが問題」と言っているが基本的には歩行者と自転車が互いに注意しろと言っているように思う。春秋も指摘するように、これは自転車専用レーンがそもそもない、にも関わらず自転車と言う乗り物の通行を許している点に大きな問題がある。

東京は−日本全体も−基本的には自動車優先社会である。家の近所の横断歩道は横断者が自動車が近づいているので止まることはあっても、自動車が横断者を見つけて減速することすら稀である。自動車側は自分が先に通行するのが当然と思っている。都内では自動車は片側三車線で通行できるところは沢山あるのに、歩行者と自転車が別々に通行できるところは殆どない。そもそも歩道がない場所も多い。道路は殆どが「自動車」のために作られていて、歩行者のためには道は作られない。これは本末転倒ではないだろうか。

一つ提案がある。都内は基本的に自動車の進入は禁止。その代わり、自転車専用レーンを今の自動車一車線分作って、歩道も広げる。自動車は公共交通機関の用途のみ通行可能。よっぽどでなければ、総理大臣も自動車による移動は禁止。安全上必要な場合であれば、装甲車でゆっくり移動。

つまり、「道」を歩行者が優先的に利用するものとして、その次に自転車、最後に必要不可欠な分だけの自動車と利用の優先順位を変えるべきだと思う。