2009年8月13日木曜日

予算管理計数は会計と整合性がなければいけないが、そのものである必要はない

今やっている仕事に予算管理がある。メインでやっているのは上司と同僚だが、ちょっとした議論があった。賞与支給月である月は業績が順調なら良いがそうでない時は賞与支給が減額され、積み立てられていた引当金が取り崩されて費用を下げるのに使われる。会計的にはそれぞれの部門に戻されて費用が少なくなって業績が良くなる。赤字が黒字になったりもする。

ところが、事業管理の観点から考えるとこれは意思決定を危うくする。人件費が「生産性の改善」とは関係なく勃然として安くなるのだ。事業責任者にとって利益創出の財布と見える点も問題だ。

だから、予算管理においては賞与の引き当ては当然行うが、その支給または減額は実績に反映してはいけない。これを議論したのだが、ルール上そうなってないから、と言われる。そのルールを決めているのは自分たちなのだから変えればいいではないか。変えると過去にさかのぼってデータを修正しなければいけないとも言う。修正すればいいではないか。修正すると後から何でそうしたのか分からなくなるからと言う。記録して残せば良いではないか。

というワケで今日はデータを変更履歴付で更新する方法を朝から検討していた。機能として実装すれば手作業と違って何をしたか分かるので、週明けに実装することにする。

100人斬り競争

男性同士が飲んでいる時に下ネタとして今まで寝た女性の人数を「××人斬り」と言って競いあって話す場合がある。ほとんどの場合はヨタ話でその半分どころか10分の1も事実ではない。

日経新聞の30面にいわゆる"BC級戦犯"裁判の特集が連載されている。今日の記事は戦時中に毎日新聞が掲載した「百人斬り"超記録"」という記事に基づいて死刑となった二人の少尉の話だ。戦意高揚のために裏付けもないヨタ話が記事となり、裁判では"証拠"となったのだから驚く。判事はよっぽど真面目だったのだろう。

しかし、真面目な判事は日本刀で本当に100人も斬れるかは確かめなかったらしい。記事にある関孫六のような新刀は細身なので直ぐに刃こぼれして斬れなくなる。毎日研ぎに出して切れ味を保たなければいけないが研ぎ士が同道したという話はない。

これだけでも普通ならヨタ話で終わりだが、記事は最後の方で「据え物斬り」なら100人斬りは可能だと言っている。(記事は「可能かもしれない」と書いている。裏付けのない新聞記事で断罪されたことを書く記事で重要な部分を更に裏付けのない推論で書くのは記者が可能だと思って書いているということだ)たとえ据え物斬りだとしてもたった1本の刀で100人も斬ることは出来ない。そもそも、据え物斬りでは「競争」にならないではないか。この記事は様々に証言に迫りながら結局は裁判は正しかったと言っている。

記事は最後に「戦闘中の殺戮行為」が訴因であり証拠である"記事"で書かれていることなのに、判決が「捕虜や非戦闘員の殺害」に置きかえられたことを取り上げて「この点では粗雑と言わざるを得ない」と書いている。渋々といった感じだ。だが、この一点をもってこの裁判は「全てにおいて不正だった」というべきだ。

記事はこの粗雑な裁判が「戦犯裁判報復説」に格好の材料を提供したと結ぶ。「戦犯裁判は報復ではないが、こういういい加減なものがあるから他のものまで疑われてしまう。困ったものだ」という言い方のように感じる。

もしそうだとすれば、この特集には最初から予断が含まれている。特集が証言や裁判記録から裁判のあり様を検証しようと言うのであれば、この予断は排除されないといけない。そう、この記事は「証言や裁判記録を法律に照らすと、この裁判は不正であった」というべきなのだ。

2009年8月12日水曜日

非効率な物流資本配置

大矢昌浩氏が日経ビジネスオンラインに寄稿している。

「次の内閣」の物流行政を読む:日経ビジネスオンライン
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20090806/201934/?top

その中で日本がアジアにおける物流競争力を落とした原因を以下の様に記述している。

「原因の1つは政治家の利益誘導だ。アジアの物流強国はいずれも国策としてハブ港に投資を集中させている。ところが、日本は政治家たちがそれぞれ自分の地元に国の社会資本整備費を呼び込むことに奔走し、投資が分散した。それによって国が衰退しようとも、身内が潤えば政治家は自分の立場を守ることができる。」

全く同感である。例えば先日開港した静岡空港。そもそも新幹線も通っていて、近県の空港が利用できる静岡県に航空便の需要がどれだけあるのだろうか?関西国際空港や中部国際空港ですら収支が合わないと騒いでいる中で、何故東京と名古屋に挟まれた静岡に空港が必要であったのかということだ。収支が合わなければ結局は国や自治体が税金から補填することになる。

日本には国内をつなぐ交通網として新幹線がある。交通行政を考えた場合、新幹線と在来各線をスポークとして、全国に10箇所程度の空港をハブとして機能させるのが最も効率が良いはずだ。それが全国に空港と名のつくものは80以上ある。これでは本当の意味での「ハブ空港」に資本を集中できないのも無理はない。港湾も同じで全国で「特定重要港湾」と言われるもので23箇所、「重要港湾」に至っては140箇所近くもある。一応中枢港湾として横浜・名古屋・大阪・神戸がメガターミナル機能を持つ国際物流拠点として整備されているが、他のアジアの港湾の取扱量に比べると甚だ小さい。

物流インフラが整っている場所にこそ産業が集中発展する。しかし、日本では産業政策と物流政策が一致しているわけではないので、貴重な社会資本をさして重要ではない空港や港湾の整備に分散投資してしまい、今やアジアでは全く見向きもされない。元々島国である日本は海外通商によってしか発展する余地はなく、それがアジアの他の地域に席巻されてしまっているために、日本が誇るものづくりの生産能力が持ち腐れる結果となってしまっている。

池田信夫氏が「アメリカ企業がソフトウェアやアーキテクチャを支配し、それを低賃金のアジアでハードウェアに実装するという国際分業が成立した」ことが日本企業の敗北につながっていると書いている。
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/39c2970f079ebad7f1ef793ec99f7105
そう、日本の産業は自動車産業など一部では世界を圧倒するほどの力を持っているが、その他では世界市場で殆ど勝てていない。アメリカやヨーロッパがアーキテクチャとソフトウェアを決定し、アジア諸国がハードウェアを生産するという図式の中で、日本はアーキテクチャを決めてソフトウェアを開発しハードウェアを生産して埋め込むという「垂直型産業モデル」を続けている。アメリカは「日本はアーキテクチャとソフトウェアを輸入しない」と批判されアジア諸国からは「日本は技術を輸出しない」と攻め立てられる。その内港湾や空港のように日本が欧米とアジアの間でパスされてしまうと、今はまだ人口が多く一人当たりGDPが高いので相手にされているが、人口がこのまま減少して年金などの社会保障が破綻してGDPが低くなると相手にされなくなってしまう。

今後、物流を今以上に高度にして輸出立国を成し遂げるか、欧米とアーキテクチャ闘争をするか、いずれにしても強いリーダーシップが必要になる場面であると思う。企業でも同じだが、どんな事業をやるかは民主的ではない手法によって決定される。それはリーダーの個性や情熱によって支えられるもので、その為にアジア各国では長期の独裁的な政権があった。日本でも創業社長は大抵20年くらいは社長をやっている。日本が今更「開発独裁」に戻るわけにはいかないが、ある一貫した経済成長戦略を構想できる政治家集団が長期的に日本を経営しなければ、この長きに渡る低迷に終止符は打てないだろうと思う。

しかし、今度の選挙で物流政策が取り上げられることはないだろうし、長期的な経済発展や産業政策が主張されるわけでもないだろう。マスコミにおどらされて生活防衛ばかりだ。ローマの古代共和制が衆愚化したのは民衆がパンと娯楽を求め政治家が応えたからだ。その結果は…。本当に、真剣には考えてみなきゃな…。

2009年8月11日火曜日

原則を考える

「戦闘は戦術に依存し、
戦術は戦略に依存し、
戦略は外交に依存し、
外交は政治に依存し、
政治は経済に依存する」

逆に辿ると、

「経済を理解すると政治が分かり、
政治を理解すると外交が分かり、
外交を理解すると戦略が分かり、
戦略を理解すると戦術が分かり、
戦術を理解すると戦闘が分かる」

ということになる。

残念ながら最初のとっかかりである経済を理解しようという政治家はなかなかいないようだ。経済は更に、

「ミクロ経済
→マクロ経済
→マーケティング戦略
→マーケティング要素の戦術
→日々のビジネス活動」

とつながっている。荒っぽく言えば全ての人は「日々のビジネス活動」から「戦闘」までのあいだのどれかに関わっている。端っこの「日々のビジネス活動/戦闘」に関わっている人が一番多くて、「ミクロ経済/政治」に関わっている人が一番少ない。だが、「日々のビジネス活動/戦闘」にだけ関わっている人が「マーケティング要素の戦術/戦術」を理解することで勝率は上がる。

だから、個人としては自分の所属する組織の戦術を理解することが必要である。特に戦術はその組織の"型"として確立している場合があり、それを理解することで組織の一員になることが出来る様になる。

この型を作ることが出来る人は起業家精神に溢れている人で、思索の人というよりは"実践の人"で、試行錯誤によって型を作っていく。Googleの二人の創業者はこれにあたる。一方でGoogleのCEOは戦略を考える"思索の人"で企業戦略を担っている。日本の例では本田宗一郎は実践の人であり組織行動の型を作ったが藤沢は"思索の人"であり創業期の企業活動を牽引した。そう考えると戦略家と戦術家は上下関係というより補完関係という方が正しい。

型と資源を組み合わせて企業活動を決定するのが戦略家となるが、一方ではマクロ・ミクロの経済環境と適合することが出来なければ勝てる戦略は築けない。マクロ経済は金融であったり通商であったりという機能を民間企業が担っている。民間企業でないと国境を越えることが出来ない。もちろん政府のオーソライズは必要だが、政府は国境を越えられない。だが、オーソリティは国内経済環境に依存して変化するため、ミクロ経済を理解することがマクロな経済活動には不可欠だ。

政党のマニフェストは経済に依拠すべきと思うが、政治環境に比べると圧倒的に沢山のプレイヤーが関わるのだから経済は変動=リスクが高い。だから、マニフェストは大まかな方針と課題を解決する姿勢位しか書けない。前提を仮定して、課題解決の解法を例示することは出来るが、政策を事前に"変えられないもの"として約束するのは政治選択の硬直化を招き脆弱な政権にならざるを得ない。その点で、小泉純一郎は先の衆院選を「郵政民営化」という例示によって勝ち抜き、その姿勢を敷衍することでその他の政策を実行していった。

小泉総理は財界人や経済学者のプレーンの意見を取り入れ政策を決定していった。このことが批判の的となるが、政治が、特に国内政治が経済に依存する以上それは当然である。しかし、小泉以降で経済を理解し政策決定をしていこうという政治家は出てきていない。

2009年8月10日月曜日

幼い・・・

酒井法子の逮捕には本当の驚いた。その前の押尾学の逮捕にはあまり驚かなかった。あってもおかしくないなという程度。

芸能人の薬物関連での逮捕では、ブームが過ぎて落ちぶれて手を出すという構図があったが、落ちぶれてもいないのに何故と思った。

逃亡は「残留薬物が消えるのを待つため」という説があるが、単に「動転して逃げただけ」という説もある。証拠品である覚せい剤や道具を処分していなかったりというのがその理由だ。だとすれば何とも幼い38歳ではないか。

ちょっと格好の良い男性に入れ込んで結婚して、覚せい剤を奨められて相手を非難するどころか使ってみるというあたりにもちょっと世間ずれした幼さが垣間見える。ただ、その幼さが彼女特有のものではなく、普遍性があるところに怖さがあると思う。

最後に動くのはいつも政府

誰の著書だったかは忘れたが、変化への対応速度で最も遅いのは「政府」だと書いてあった。逆に最も早いのは個人。なるほど・・・。

変化が始まったことを認識するのは変化に晒されている個人ということになるようだ。次に変化を察知するのはコミュニティだろう。地域コミュニティもあれば、社会的コミュニティである企業もある。企業自体が対応するのは個人に対して若干遅れてしまう。ベンチャーであれば殆ど個人と同時に変化するかもしれない。ベンチャーキャピタルなどもそうだろう。
中小企業はベンチャーには遅れるだろうが、大企業ほどのろのろはしていない。のろのろしている中小企業は生き残れないから、生き残っている中小企業は押しなべて変化への対応が大企業より早い。大企業はのろまではあるが、銀行には負ける。銀行は変化が確実になってからしか対応しない。
銀行に送れて自治体や政府の機関が動き出す。それでも政府自体は全く動きを見せないだろう。政府を構成している政治家も個人としては変化に対応していても、集団としての政党はなかなか変化しない。

日本で見てみると、消費や雇用における変化は真っ先に消費者や労働者が反応する。民間企業が動いた後に徐に金融機関や政府が思い腰を上げる。20世紀末のバブル崩壊の後始末は政府と銀行の不作為によってずっと残り続けた。これにけりをつけたのは政界の鬼っ子、小泉純一郎が委任した竹中平蔵だ。政界からは批判が相次いだが、財界からは高い評価を得たのは政府の変化を企業に追いつかせたからだろう。
批判は政府や官僚、政治家からだけではない。政府が国民から徴税するのは「搾取」であるとみなす無政府主義的な政党や知識人からも批判の火の手は上がった。政府すら動くのに動かない集団がここにいる。