2011年4月22日金曜日

極私的な危機管理計画

震災から一ヶ月半になろうとしている。今回の様な震災も含めた極私的な危機管理計画について書いておく。

地震や大型台風などの避けえぬ災害について、まずはその発生タイミングによって何をするかを予め決めている。今回の震災の様に、平日の日中発生した場合、無理に帰宅することはしない。今回も最初の三十分で帰宅しないことに決めた。そもそも、ただでさえ電車で二時間もかかるのだからダイヤが乱れたら大人しくする方が賢い。

同僚の中には僕よりも遠いのに車で帰ろうと言い出す者もいたが、諦めさせた。次にこの危機にあたって"約束"は全て無しにした。あらゆる予定はご破算で改めてやり直すことにした。同僚の中には土曜日に家の工事があるからどうしても帰りたいという者もいたが、そんな約束はこの危機にあたって真っ先に破るべきだ。案の定、工事業者は来なかった。

家族の安否確認は一度だけにする。何度も確認したくなるが、一度確認がとれたら家族を信用して自分の身を一番に行動する。しかし、災害対応の渦中になるべく身を置く。この体験は貴重だ。

特に気を使ったのは、気を楽にすること。"ケ・セラセラ"なのだ。

リズムを作る

四月も下旬になって、新しいポジションでのミッションを自分なりに形成出来てきた。当初よりも低い位置から始めることになったが、それは仕方がない。

基本的には年商数十億円の事業所の番頭というところだが、番頭が目立つ会社に将来はない。だから、草々にお役ご免をしてもらうべく、"自動操縦"を目指すことにした。毎朝、意識しなくても顔を洗い歯を磨き、着替えをして電車に乗って通勤する様に、習慣を身につけることが大事だ。一日が24時間である様に、7日を一つの単位として経営のリズムを作っていく。

曜日ごとに必ずやる会議や資料を明示し、それに向かってそれぞれが作業するリズムを生み出す。思いつきの様に資料を要求し、報告を求めるのは良くない。調子の悪い事業所ほど思いつきの会議が多いか、逆に全く会議が無かったりする。"現場重視"の下に会議を軽視する向きもあるが、会議という"公式コミュニケーション"が下手な組織は非公式なコミュニケーションも下手である。

リズムを刻むマーチが経営には必要だろう。

2011年4月19日火曜日

地震で露呈したのは“都市の脆弱さ”ではなく“日本の首都圏生活者の異常な行動範囲の広さ”だった

あの震災で僕は東京に程近い千葉県市川市の会社に閉じ込められた。建物は液状化した道路に囲まれ、近隣の電車は〜特に京葉線は数日間〜止まってしまった。僕の自宅は遠く離れた横浜にあり、とても歩ける距離ではなかった。後からおびただしい人数が東京から千葉・埼玉・茨城・神奈川に歩いて帰ったと聞いた。

"都市の脆弱さ"と言われたが、仮に彼らが歩いて1〜2時間の場所に住んでいたらどうだっただろう。山手線の内側にいくつもの高層住宅があり、都内で働く人が住んでいれば、停電の不便はあったかもしれないが、帰れないことはなかっただろう。一晩歩いてやっと辿り着けるような場所に毎日通っていることが異常なのだ。

震災の後に自宅待機などしていた人も多い。歩いても自転車でも通えないところで働くことが、生産性を脅かしているのだと考えた方が良い。

僕も含めて…。

2011年4月12日火曜日

「捨てる勇気」は何故持てないか

池田信夫氏が呟き反響をよんだ件。

「捨てる勇気の時代」という記事で岸田航氏が指摘している「共感」との関係は面白い解釈だ。共感するから悲惨な震災の中でも秩序ある日本人でいられるのかもしれない。しかし、「目の前のことへの強い共感」は一方で残酷な無視も生む。「共感社会」の強力な連帯感は集団の中に強い「同調圧力」を生み、そのストレスは村八分という伝統的ないじめシステムになった。同調圧力は今回の自粛ムードを拡げたし、伝統的なメディア(テレビ・新聞・ラジオ)も新しいメディア(インターネット)も一様に自粛一色になった。

目の前の「犬」に感情移入して、人間の捜索からリソースを割くことや自治体の資源をペット保護に割くことは「八百万の神が坐す」日本では不思議ではなかろう。瓦礫の下から自衛隊員が写真を掘り起こすことも日本人なら微笑ましいエピソードだが、違う見方があるだろう。思うに、神坐す日本の民は今回の災害を"あるがまま"に受け入れ様としているのだ。ある種の諦観であろう。

この境地は震災の混乱から秩序を復旧する手助けになるだろうが、反省に繋がらない。先に投稿したように、津波被害が繰り返された土地に町を作ったことが被害を大きくしたが、それは津波を"避け得ざるもの"と諦めた点にある。過去に津波に襲われた地域が居住不適地として規制されていたならどれだけ助かっただろうか。

今回の震災は日本人の知らない日本人を知る契機となるだろう。

石原再選が示すもの

先に「東京都知事は石原慎太郎が当選するだろう」という記事を投稿した。結果はその通りで、対立候補は大差をつけられた。

先の記事では二つの指摘をした。東京都民は現状維持を求めるということと震災の不安に追い詰められて家父長的な石原を選択するだろうと。震災対応で行動する知事の姿は格好の選挙活動となった。有権者は先の見えない不安の中で、リスクが小さな石原氏を選んだ。

リスクは「何が起きるか予想のつかない程度」の問題だ。石原氏以外の候補者はどんな結果がでるかわからなかった。震災の不安はそれに拍車をかける結果となった。

2011年4月5日火曜日

なぜ「東日本大震災」なのだろうか

「3.11(さんてんいちいち)」という言い回しが流行っている。この言葉を発すれば何か時代の節目を鋭く捉えている錯覚を覚えるようだ。この言葉を発すれば何か分かったような気になって思考停止するようだ。会社がうまくいかないのも、勉強が手につかないのも、全て「3.11」のもたらしたもの。

だから、僕は意識的にこの言い回しを使わない。同様に「千年に一度」も使わない。「自粛ムード」もスルーして飲みに行く。

しかし、なぜ「3.11」つまり、「東日本大震災」なのか。「1.17」=「阪神淡路大震災」ではないのか、「3.20」=「地下鉄サリン事件」ではないのか、「9.30」=「東海村JCO臨界事故」ではないのか。阪神淡路大震災は関東大震災以来の都市直下型の大震災であり、地震直後の大規模な火災で多くの犠牲者が出る点でも関東大震災と同じだった。今回の被害と同様に過去の災害の教訓が生かされていないという点でもっと本質的な反省がなされるべきだった。

「地下鉄サリン事件」はたった数人で大都市のインフラを麻痺させることが可能であることが実証された。その後の千葉東京間の送電線切断事故や大雪、今回の震災も含めて大都市東京が如何に脆弱であるかが省みられていない。東海村の事故では二名の死者と数百人の被曝者を出したが、放射性物質による継続的な被害より、誤解や無知に基づいた風評被害の方が大きく、原子力事業者は公共への情報公開や内容について研究するべきだったろうが、今回の東電のお粗末さを見ると他山の石として我が身を振り返ることなどなかったのだろうと思う。

"あの"「9.11」でアメリカは広大な国土で輸送手段が100年前に逆戻りする経験をした。テレビ会議やインターネットの普及が加速することとなったが、加えて非常事態での事業継続に関する研究が盛んになった。今回の震災で多くの外資系企業が迅速に本社機能を大阪や香港などに移転したのは、その経験が生きているのだ。

欧米で過去の大災害や事故が取り上げられるとき、そこには被害を最小限に抑えるという未来志向がある。日本では未だに「阪神淡路大震災」の時の市民の英雄的な働きや被害の大きさ、復興の努力などは語られる。しかし、本来ならば、火災を拡大しにくい町作りや被害に遇いやすい居住不適地からの住民の移住などがあるべきだったろう。災害時の指揮命令の明確さに加えて、非常事態における最高指揮官である首相の心構えについても考えられておくべきだっただろう。災害は起きるし、原子力発電プラントの事故も起きる。それを前提とした対応策(コンティンジェンシープラン)を用意しておこうと思う。

何故「東日本大震災」なのか?忘れっぽいからだろう。掛け声で「忘れない」のではなく、具体的な対策を積み重ねていこう。

東京都知事は石原慎太郎が当選するだろう

と、予想する。

東京都知事は圧倒的に現職が強い。現職が出馬した選挙で対抗馬が勝ったことはない。当の石原知事がかつて美濃部亮吉の三選阻止を目指して望んだが敗北した。美濃部の社会主義政策で財政が悪化し行政は官僚化したにも関わらず、である。

鈴木俊一も三期目の箱モノ行政を批判されながら四選を勝った。だから、石原慎太郎の四選も勝つだろう。震災のショックで弱っている都民にとっては家父長的な石原の言動は受け入れられるのではないかと思う。