2011年9月29日木曜日

小沢一郎が政治家として不適格だと思う3つの理由

小沢一郎議員の元秘書に有罪判決が下った。被告は控訴するだろうから最終結論は未だ先の話だ。ここではこの疑惑や判決については何も論じない。事実も真実も闇の中。

ただ、僕は小沢一郎という人は3つの理由から政治家には不適格だと思う。1つ目は党争に弱いということだ。良かれ悪しかれ多数決を積み重ねて政策を決定し実現するのだから、意見を異にする党派間の争いに勝てなければ何も出来ない。小沢一郎は自民党経世会の主流争いに敗れ、非自民連立での主導権争いに敗れ、民主党でも引きずり下ろされた。党派争いに勝った試しがない。

次に、有権者を説得する力に欠けている。今の日本は、利益を如何に分配するかではなく、負担を如何に分配するかが問題だ。「国が何をしてくれるかではなく、国の為に何が出来るか」と訴え説得する力が必要なのだ。なのに彼は「口下手だから」となにも訴えない。

そして最後に、負けてもしがみつく、口下手で笑われようと形振り構わず訴える執念に欠けている。好対照なのは小泉首相だ。総裁選で負けても何度も挑戦し、郵政民営化の旗色が悪ければ解散してでも実現させる。人気が出たから皆が誉めるが演説は決して上手くない。それでも最後までしがみつく執念があった。

こう考えると、小沢一郎は「党争に勝つ力」も「人を説得する技」も「最後までやり抜く心」もない。これで横綱になれるわけがないじゃないか。

2011年9月11日日曜日

大臣の覚悟

鉢呂経済産業大臣が辞任した。就任9日目のことで、大臣在任期間は史上三番目の短さとなる。この辞任劇にあたっては様々なことが取り沙汰されている。

「死の町」という表現は適切であったか?
被災地を「死の町」と評したことは詩的な表現としては理解できる。被災地を見て受けた衝撃を素直に表したものだろう。だから、この表現が即座に被災地を侮辱するとは思わない。メディアは、この表現に問題を感じたならば何故その時に真意を糺さなかったのだろう。
メディアの「言葉狩り」との批判もあるが、それよりはその場で真意を明らかにする切り込みが出来ないメディアに失望した。なんのことはない。イギリス首相がついているのを忘れて失言したのを拾ったマイクと、この記者は一緒だ。人間である必要はない。
ちなみに、イギリス首相の失言はラジオで首相同席の場で放送され、キャスターは首相の真意に切り込んだ。録りっぱなし、流しっぱなしではないのだ。

放射能なすりつけはあったのか
辞任会見でも事実は分からなかった。フリーのジャーナリストから記者クラブでの発言で事実性に疑問があるのではと指摘されていたが、大臣にははっきりと答えられなかった。そういう"軽口"があってもおかしくないし、そういう素人っぽさが民主党議員はなかなか抜けないということだろう。ただ、辞任会見での記者側の混乱を知ると、報道側の問題もあったのではないかと思える。

鉢呂大臣に適格はあったか?
なかっただろうと思う。というのはこの程度で辞任するというのは大臣として為し遂げたい使命感に欠けていたと思うからだ。仮に、被災地の産業復興や経済再生、原発事故処理を自らが為し遂げるべき使命と思っていたら、簡単には辞めないからだ。惨めだろうと、しがみついてでも為し遂げただろう。
為すべき使命がなければ守るのは自分のプライドだけとなる。あの会見は自分を守るための会見で、辞任をショーアップするだけのものだ。たから記者の乱入もあったわけだ。こういう人は民間企業にもたくさんいて、得てして身内からの評価は高い。しかし、顧客や部下からの評価は散々で、組織を停滞させる。
そういう意味でこの人事は失敗だったわけだ。だから、野田首相が本来やるべきだったことは鉢呂大臣の罷免であった。任命権者の責任の取り方は具体的に自らの決断を否定することしかない。

2011年9月8日木曜日

原因と結果だけでなく、影響までも逆転

Newsweek日本版に「地球温暖化で緑化が進む?常識を覆す楽観論が登場」という記事が掲載されている。理屈としては、「かつて豊かな緑に覆われていたサハラ砂漠は気温の低下に伴って大気中の飽和水蒸気が減少したことで降雨が減ったために砂漠化した」ということ。つまり、低温化→飽和水蒸気減少=乾燥→降雨減少→砂漠化が、温暖化すると、温暖化→飽和水蒸気増加=湿潤→降雨増加→緑化となるわけだ。更に、大気中の二酸化炭素濃度が上がると植物の繁殖は大幅に拡大する。

温暖化については、そもそも二酸化炭素の増加→温暖化という因果関係が、実は温暖化→二酸化炭素の増加という関係ではないかと言われており、更に温暖化によって乾燥して砂漠化が進むと言われてきた。全ての因果関係と影響が逆転してしまうとしたら、IPCCmなんとお粗末なことだろう。

2011年8月30日火曜日

木馬は回る

5年に及ぶ小泉政権の跡を襲った自民・民主両党の政権は、ここまで例外なく一年前後の短期政権に終わった。海外では"回転木馬"と揶揄されているそうだ。池田信夫氏が言うように、政治家がこの程度でも日本が大過なく過ごせるのは国民の優秀さと官僚の優秀さによるものだろう。これほどの長期の不況と政治的混乱が続けばイギリスの様に暴動が起きてもおかしくない。

しかし、日本では暴動の代わりに首相の首のすげ替えが行われる。「金枝篇」で言う"王殺し"なのかもしれない。古代に天変地異が続くと"王の責任"として王は犠牲に捧げられ新しい王が誕生した。今の不況も避け得ない天変地異と思われているのかもしれない。

不況が続く限り首相の首はすげ替えられる。斯くして木馬は回転し続けるだろう。木馬の回転を止めた小泉政権期は今のところ最後の経済成長をもたらした。野田政権には小泉政権の功績を振り返ることからはじめて欲しいものだ。

2011年8月16日火曜日

五山送り火

まさに飛び火。

五山送り火で陸前高田の松を使おうというアイデアは良かったと思う。問題はあまりにも"放射能"過敏症が蔓延していたこと。藤沢氏が指摘する様に、今回検出された放射能は自然放射線レベルも出す能力がない。検出された放射性物質がどの程度のレベルなのかを京都市当局も保存会も、おそらく京都大学にいる優秀な専門家も、誰も責任を果たそうとしなかった。

ただ、「観光都市」京都としては、イメージを守るためには仕方なかったかもしれない。その内、ガムも禁止されるのだろう。「完璧な」安全とか清潔とか、その維持を貫くなら"穢れ"の松を受け入れなかったのも頷ける。京都は「平安京」のレベルに達したのかもしれない。

「羅生門」。門外に打ち捨てた貧困、犯罪、災害はなかったものに出来る。現実の問題に耳を塞ぎ、平和を祝ぐ詩を捻り、自己一身の平安だけを守った貴族たち。京都だけではない。我々は1000年前から何も変わっていない。

2011年8月1日月曜日

ある意味「補完関係」

「そして、自立へ」という投稿をしたというお知らせに以下の様なコメントをもらった。

「しかし 地方議員 役人と中央の議員 役人をくらべて地方が勝るとは思えないのです。自立あるいは独立したところで話は変らないと思います。」

国会議員や国家公務員の方が地方自治体の議員や地方公務員より優秀という考えがあるようです。たしかに、20世紀なら通用したでしょう。戦後20〜30年くらいの「答えが分かりきっている時代」ならば、先行事例の読解力や事務処理能力が必要だからです。しかし、20世紀の最後の四半世紀は様々なパラダイムが崩壊し、「答えのない時代」に突入したのです。

国会議員や国家公務員になるような頭の良さは頼りになりません。それがこの四半世紀の日本の停滞に現れています。つまり国が駄目で地方が良いのではなく、どっちも駄目なのです。それを打破するためには「統治のパラダイム」を変えてみてはどうかというのが僕の提案です。

モノの役に立たなくなった国会議員と国家公務員はなんで淘汰されないのでしょう。と考えてみたところで、「両者は互いに依存しあうことで淘汰を免れている」のだと気がつきました。国会議員には政策アイデアと政策立案能力がありません。国家公務員にはアイデアを実現する権威を持ちません。しかし、国家公務員のアイデアを彼らが法案にして、国会議員が国会を通せば、互いの能力を利用できます。

しかし、本来的には国会議員は自身や自身のスタッフで法案を纏めあげるべきです。国家公務員は成立した法案の実現にむけたオペレーションを作りあげるべきです。政策立案にお金をかけられない日本では、なかなか実現しないかもしれません。それでも、このしょうもない補完関係を解消して欲しいものです。

2011年7月29日金曜日

「高速鉄道事故」は中国の“あり方”のエポックとなるかもしれない

中国・浙江省で発生した高速鉄道の事故は温家宝首相が「高速鉄道整備において安全性の軽視があった」ことを示唆し、隠蔽疑惑の追求にも言及する事態となった。鉄道省の腐敗や特殊性などが取り上げられているが、首相の事故への全面的なコミットに少し驚いた。過去に起きた事故や不正では、基本的には政府の無謬を主張していた中国共産党政府がアッサリ瑕疵を認めたのだ。報道された鉄道省職員の対応や多額の賠償金などは中国政府の一般的な対応だった。

それが何故変わったのか?今回の事故の犠牲者は"高速"鉄道の利用者だ。普通の鉄道より高い運賃を払うのであろうから、ある程度の経済的余裕のある高所得層だろう。遺族もそれなりの所得がある都市生活者だろうから、社会的影響も強い。

中国が目覚ましい経済発展を遂げ、それが政府の軛を離れ国民が自信を強めたとき、「従順な国民を守る国家」という物語は力を失う。そこに「国家が威信を誇示するために国民の生命を犠牲にした」という疑惑が起きたのだ。中国という国のダイナミズムは国の形をどう変えていくだろうか。政府の力が弱まって、普通選挙といった政治的多様化が進むのか、逆に"天安門"のような引き締めが起きるのか。

前者であれば非常に大きな転換点となるだろう。