2009年1月30日金曜日

「年越し派遣村」は「貧困保護村」だった

『ザ・厚労省 「派遣」騒動の教訓』 1月30日 日経新聞 朝刊 一面
より

『湯浅誠(派遣村村長、30)は「実際に昨秋から派遣契約を切られた人は二割。その他は日雇い派遣で収入が減った人や野宿の人など」と言う。』

年末年始にニュースで大々的に取り上げられた日比谷公園の「年越し派遣村」は実際に不況による「雇い止め」で生活できなくなった人は二割程度なのだそうだ。つまり、今般の景気悪化があろうとなかろうと貧困に喘ぎ生活苦に元々陥っていた人が殆どなのだ。実際に日比谷公園で年を越した人は500名程度だったのだから、東京近辺に元々生活保護を必要とした人が400名あまりもいたということになる。

記事では、
「自立や就業の支援ではなく生活保護でよかったのか」
という厚労省幹部の嘆息交じりの言葉が紹介されている。

派遣村村長をつとめた湯浅氏は従前より「貧困問題」についての活動を行っていて、"派遣切り"という社会問題を利用して厚労省に「貧困層の存在」と「生活保護の充実」を認めさせるために派遣村を立ち上げたのだろう。社会活動家にはエキセントリックにシュプレヒコールをあげるだけという人がいるが、状況を利用して実利を得るための作戦を実行するあたり、湯浅氏の手腕は優れている。

Wikipediaで湯浅氏の主張が紹介されていた。

「教育課程からの排除」「企業福祉からの排除」「家族福祉からの排除」「公的福祉からの排除」「自分自身からの排除」

貧困家庭や貧困層の子弟が貧困から脱するために最も必要なことは教育であろう。湯浅氏の主張ではGDP比での教育関係への公的支出は日本はOECD加盟国で下から二番目なのだそうだ。義務教育課程でも修学旅行など学校主催の行事への支出は意外なほどある。その上、義務教育修了ではどれほど優秀な成績を修めていても社会では殆ど通用しない。奨学金などの制度はあっても、学費以外に教育に必要な支出は多く、その全てをカバーできるわけではない。また、奨学金は貧困からの脱出に対して「強い意志」を持っている人しか受給できない構造になっていると思う。しかし、教育を受けることと貧困からの脱出の間に明快な関係性を見出せない人にも貧困からの脱出のために教育は必要である。
貧困状態に諦めている人(「自分自身からの排除」の状態にある人)を更正させていくのは国家の大事であろう。なんと言っても、国民が元気で豊かで希望に満ち溢れていなければ経済などは復興しないのだから。公的福祉を受けるにも、啓蒙活動や需給までの支援は不足している。ケースワーカーやソーシャルワーカーは少なく、行政も生活保護の需給などには決して積極的ではない。それは行政の責任も一部あるが、生活保護の原資となる地方財政の税収は貧困世帯が多ければ多いほど少ない。だから、生活保護をするにも地方自治体だけでは限界があるということもあるだろう。

湯浅氏はこれらの原因として「過剰な自己責任」について言及している。これは『過剰な』というのがポイントだと思う。自己責任は果たすべきで、貧困の状況に陥らないための努力が一人ひとりに必要であるというのは当たり前のこと。しかし、人は「折れる」ことがある。心が折れたときに回復させるのは「自己責任」だけでは難しい。もし、自己責任で出来るのであれば世の中にカウンセラーという職種は必要ない。そこまで自己責任にかぶせるのは確かに「過剰」だと思う。

年越し派遣村で明らかとなった行政の不作為を野党やマスメディアは追求していって欲しいものだ。

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