2011年6月8日水曜日

忠誠と盲信の違い

「君が代」の起立斉唱を教職員に業務命令として強制できるかどうかということについて、大阪の橋下知事が条例を提出したり、最高裁で起立命令が合憲と判断されたりということで、話題になっている。この「君が代」問題は「国旗掲揚」問題と並んで定期的に公立教員業界=日教組を中心に騒動になる。君が代・日の丸への反対については理論の定石があり、
 
「君が代は帝国時代の国歌であり、歌詞は天皇崇拝の意味合いが強い」
「日の丸は侵略戦争を起こした軍隊の象徴である」
 
といった理由だ。
 
傍論としては、「敗戦国であるドイツが戦後国旗と国歌を変えたのに日本は"反省"がない」というものもある。
 
これらの主張に対する反論としては
 
「君が代の"君"とは天皇を特定するものではない」
「日の丸は多少のデザインの変遷はあるが、日本を示す意匠としては伝統があり相応しい」
「第二次大戦を"侵略戦争"ではない」
 
といったものがある。
 
こういったことは実はあまり本質ではない。というのも「国旗や国歌というものは当該国や民族の長い歴史の中で有識者や指導者によって恣意的に選定され制定される」ものだからだ。だから、「国民投票によって国歌や国旗を決めよう」といった話はあるが、これは何の正当性もない。そもそも、国民投票によって決めるということは反対者がいるということであり、反対者は決まった国旗や国歌に対する態度はどうするのか?という、ともすれば民族分裂!みたいな話にも発展する。だから、「俺達にも国旗や国歌を決める権利を与えろ」という主張は退けられて当然である。
 
では、この問題の本質は何か?ということである。これらの議論に通底しているのは、「国家主体に対する忠誠とは何か?」という問題である。国歌・国旗が象徴する主体がそれが天皇という個人であれ、国家という機関であれ、"忠誠"を誓うことに対する抵抗がこの反対には籠められている。だから、国歌や国旗が何であろうと反対は続く。
 
であれば、彼らはなぜ国家に忠誠を誓うことに反対するのだろうか。「太平洋戦争において無批判に戦争を受け入れたことが多くの犠牲を生んだ」というのは正しい。あの戦争では、誰の意思決定もなく、圧倒的な好戦ムードが戦争に対する批判を封殺した。好戦ムードは日中・日露・第一次の打ち続く戦争に連勝したことで醸成された。
 
誰の意思にも依らず始まった戦争は結局は国民には止められなかった。その贖罪意識が国家の否定に繋がっているならば、それは間違っている。それは国家に対する忠誠とは違うからだ。
 
忠誠とは「忠」と「誠」から成る。「忠」は相手に「真心を尽くす」という意味であり、「誠」と同義で最上級の真心を尽くすということだ。この真心を尽くすとは何か?忠の類義語からその真意が分かる。忠の類義語は「孝」である。
 
親に尽くす様に国家や主君に尽くすというのが忠誠の本当の意味だ。では、何がなんでも親に従うというのが孝行であろうか。中国の思想では忠孝とは「主君に/親に従い、その行為をなぞる」ものとされる。これは度重なる戦乱を抑える方便であったが、それによって中国は戦乱によってしか成長出来ない国として長く停滞した。
 
「君、君たらずば、臣、臣たらず」という言葉が示すのは、国を想い親を想って諫言することで、或いは既存の考えを覆すことで、より良い成長を遂げることの大切さを示している。これが真心を尽くすということではないだろうか。その意味で無批判に盲従することは不忠であり、不孝なのだと思う。

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