2011年6月20日月曜日

強いリーダーは不要か?

大西宏さんの「発送電分離は国民の声でしか実現しない」という記事を読んで、政治に限らず、リーダーというものについて考えさせられた。記事の中で紹介されていた「強いリーダーに期待し、依存するのはもう発想が古い」という伊藤穣一さんの言葉(歴史は菅政権を必要とした、いざ「緑茶革命」へ JBpress(日本ビジネスプレス))について、「なら、リーダー不要の経営」ってどういうものだろうか。池田信夫さんが紹介している様に日本の組織構造が「中間組織による分散自律型」であるのならば、正に日本古来の組織こそが「リーダーを必要としない組織」と言えるのではないだろうか。

リーダー不在でもミドルアップによって経営される組織は"貴族階級"や"官僚"が社会運営を担う。大抵の場合、中間組織は社会全体の構成員のうちホンの一部であり、中間組織同士の協力によって円滑な社会運営が行われる反面、利害対立によって社会を歪ませることもある。また、自らの利益を優先して社会全体の利益を損なうこともある。中間組織を打倒して下層の構成員が政治に関与するのが近世の「革命」であったわけだ。

中間組織の代わりに成立したのが"有期独裁制"である民主主義だ。これは中間組織がない社会で政治的意思決定をどのように行うかということに対する一つの答えだ。すなわち、選挙を通じて構成員が権利をリーダーに委譲するという方法だ。ここには「独裁的な方法以外に社会を効率的に運営する方法がない」ということを示している。

単なる独裁ではなく、構成員の意思による権利の委譲がポイントだろう。リーダー不在とは権利を委譲するに足る人物がいないということだろう。逆に、リーダー不要の組織とは、構成員が権利をことごとに行使するということで、昨今流行りの「住民投票」や「国民投票」がこれである。しかし、これが本当に社会を良い方向に導くだろうか。

政治は本質的に"負担の分配"である。国民や住民に税を負担させて各種の公共サービスを提供する。負担より享受するサービスが大きい場合もあれば、少ない場合もある。この格差を"納得"させることが政治である。

それが全員参加の権利行使となれば、負担は避けられ先送りされる。これがこの二十年の日本の状況ではないか。避け得ない負担の不平等を説得する言葉を含めた強力なリーダーシップで納得させ、或いは強制する力を発揮出来なければ政治的に限らず、意思決定など出来ないのではないだろうか。

日本に必要なのは、失われたリーダーではなく、ここ百年持ち得なかったリーダーを持つということだと思う。

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