2010年9月7日火曜日

買う“中国”と怯える“日本”

最近、鉱業資源から天然資源まで中国が"買い漁って"いるという話題が度々メディアに登場する。中国では共産党幹部によるトップ商談が激しく、日本の政財界でも関係閣僚のトップ商談を望む声が一部で聞かれる。かつて日本にビッグ3の意を受けた政治家が乗り込んで来たが、結果はご覧の通り。

企業が政治に依らず、マーケティングによって危機を乗り越えると世界で戦える競争力が身につく。逆に、政治によって勝つものは何れ政治に依存する。アジアでは経済に政治家が与える影響が強いため、商談に政治家が出てきた方が良い場面もある。しかし、マーケティングの優劣ではなく政治力で勝っても先は知れている。

中国が資源を買い漁ったり、中国の企業に勢いがあるのは当然だ。かの国には旺盛な消費力を持つ中流階級やその予備軍が沢山いる。かつて日本がそうであった様に消費はうなぎ登りに増えて活況を呈するだろう。しかし、日本が労働人口が減少すると共にバブル崩壊になった様に、中国でも労働人口の減少と経済成長の低迷に直面するだろう。

今は中国は買い漁るだろうが、ピークが来ればおさまる。それよりも日本が成長する道を探らなければいけない。政府が短く力のない少ない手で探すよりも、沢山の民間の手でいろんなところを探れば良いのではないだろうか?そのために必要なのが規制緩和なのだと思う。

何も怯えることはない。そんなことに煩わされるよりも自分達の問題に立ち向かおう。

2010年9月2日木曜日

便乗値上げと正義と

NHKで有名になったサンデル教授の「これからの正義の話をしよう」の最初のテーマは「便乗値上げ」だ。災害などにあたって生活必需品やサービスの価格が通常の何倍にもなるというのは"フェア"か?という問題だ。この問題では品物やサービスを買う側の理論は分かるが、供給する側の理論の考察はどうであろうか。

例にあげられたハリケーンによる被害。その渦中では供給する側も被災者である。買う側と同じ様に明日の生活に不安を抱えている。というのもアメリカの様な国では自然災害によって社会インフラが破壊されると域外からの供給がストップする。あっと言う間に供給不足となる。

小売店ならば次の仕入れが不透明なので、今ある品物でいつも以上に稼がなければ従業員に給料が払えなくなる。サービス業なら超過需要に対応する為に休むことが出来なくなる。価格の高騰は需要を制限し、供給する側を守るために働く。

サンデル教授も言うように、高価格は超過需要に対する域外からの供給を呼び込む為に働く。「いや、価格が上がらなくとも域外の供給者が来るという道徳が必要」というのは正しい。しかし、その正しさは域外の供給者が自分の顧客を捨てて馳せ参じることまで許すだろうか?

ここに「政治」が登場するのではないか?事前に規制を行うことで歪みを助長するより、事後に補償したり、余りにも酷いケースでは返金させるなどすれば良いのではないか。超過需要に応えた供給者はそこでの稼ぎを原資に不便をかけた顧客に値下げなどをするかもしれない。

便乗値上げが禁止された場合、そこには供給統制が登場する。配給である。平等な分配を目指すほど、統制する力は強化される。

それは「政府」に短期的に許されるかもしれない。であれば、便乗値上げを"禁止"するよりも"非常事態"を宣言して政府が流通を統制するべきだろう。しかし、政府は「思った以上に」賢くない。変化への即応は限定されていて、すぐに行き詰まるだろう。それならば、流通を自由にさせて事後的に不平等を是正する方が良いと思う。

2010年9月1日水曜日

民主党代表選挙に小沢一郎が出馬表明

小沢一郎が愈々首相への道に王手をかけた。民主党の代表選挙がこれほど注目されるのは、与党の故。そこに小沢一郎が絡んできてかつての大与党自民党には全くスポットが当たらない。

小沢一郎出馬の観測に反応して菅首相の支持率が上がったという話は驚き。ハッキリしたのは世論調査の支持率には「対立相手に対する批判票」が相当数混じっているということだ。これでは先の選挙も国民の何が示されたのか良く分からなくなる。

とはいえ、民主党が国民の目に見える形で党の方針を争い、訴えるのは良いことだ。どういう結果であれ、"開かれた"民主党のイメージを作るのに成功するかもしれない。菅続投となれば世論の「雰囲気」とも合致して結果的に支持を広げるかもしれない。それを見越して党の為に一肌脱いだのなら小沢一郎は立派なもの。

ただ、代表選挙の討論が"抽象論"で終わる可能性はある。菅も小沢も基本的には財政出動による景気回復を狙っている。「バラマキ」と言われようとお構い無し。二人の違いは「子分」がいるかどうか程度。その意味では小沢首相は菅首相よりも官僚を従わせて事を進めることが出来るかもしれない。

しかし、僕は菅・小沢両氏の政策を評価していないので、もう一つの展開に期待する。すなわち、民主党分裂というシナリオだ。同時に自民党も分裂し、政策の基本方針によって複数に再編されると良いと思う。

この代表選挙が21世紀を代表するイベントとなるか、茶番劇に終わるか、民主党議員の選択にみんなが注目している。

2010年8月20日金曜日

真田信之

なんとなくだが、真田というと「幸村(信繁)」よりも「信之」の方が好きだ。幸村は英雄視されて様々なドラマがあるが、真田を大名として後世に伝えた信之の方が凄いと思う。

信州の一豪族で一時は徳川とも対立した真田が家康の知遇を得て譜代大名として遇されたのは信之の非凡さを物語る。また、真田は「プロモーション」にも優れていた様だ。幸村の伝説もそうだが、かの「武田24将」などの信玄重臣をあげるとき真田が三人も取り上げられる。これには江戸幕府の中に残された武田遺臣の系統で、真田が最も重用されたことに由来すると思う。

幸村が名を上げ、それに信之の実績とプロモーションが加わり未だに根強い真田ファンがいるのだろう。

2010年7月29日木曜日

温暖化ではなく、環境汚染の問題だろう

今日の日経新聞に「温暖化対策 先進国で失速」というタイトルの記事が踊った。アメリカは中間選挙を控え、ヨーロッパは景気回復を優先し、「ポスト京都議定書」に向けた国際合意成立の見通しがなくなったという。

温暖化と「温暖化ガス」の因果関係は議論があり、温暖化ガス排出を削減する意味には疑問が残る。その意味で今回棚上げされたのは良かったと個人的には思う。それより問題なのは米中の「豊富な天然資源」を背景にした環境汚染の放置である。

アメリカと中国にロシアを加えた三国は広大な領土とそこに埋蔵される豊富な天然資源を富の源泉としている。中露は最近になるまで資源が眠る中央アジアを支配することが出来ず、逆に存亡を脅かされてきた。いまや三国とも資源埋蔵地の支配を確立した。更に、その資源の採掘にあたって発生する環境汚染を広大領土が拡散してくれる為に放置している。

アメリカはさすがにその被害を放置しては国民の支持を失うので改善されているが、中露はまだ改善されてない。むしろ悪くなっている。

かつて日本も資源開発や産業成長の過程で環境、特に人間の住環境が犠牲にされた。それが今では工場で使われた水が使用前より綺麗になって排出されるほどになっている。この産業が社会に及ぼす悪影響を排除する技術は日本は世界でもトップだと思う。

この環境保全技術を米中露に売っていくことが日本の競争力向上につながるのではないだろうか。素晴らしい技術を税金を使って浪費するのではなく、世界に売っていくチャンスではないかと思う。

2010年7月27日火曜日

明智光秀謀反の理由についての考察

NHKでは「竜馬伝」が大人気だそうだ。その竜馬には「明智光秀の末裔」という噂がある。土佐を治めていた長曽我部氏は明智光秀とは姻戚関係にあったから、あり得ない話ではない。

その明智光秀が本能寺でなぜ信長を討ったのかは長年の謎である。曰く、「明智光秀の母親が見殺しにされた恨み」「何かと虐げられていた恨み」などの怨恨説は根強い。ただ、学術的には裏付けがないのだそうだ。

光秀は謎の多い人物だが、どうやら信長よりも年長であったらしい。本能寺の変当時は還暦に近かったかもしれない。すると、本能寺の変の原因は別に求められるかもしれない。

光秀の嗣子は当時満14歳だった。老いを感じた光秀が明智家の行く末を慮った時にどう考えたろうか。光秀は織田家中、重臣筆頭だった。信長が自身を弑逆出来る程の軍勢を与えたのがそれを証明している。外様家臣でそこまで出世するのは光秀の優秀さと共に信長の「能力に応じて引き立てる」という合理性も示す。

光秀が高齢で力を発揮出来なくなった時に、若年の嗣子を取り立ててくれる信長ではない。長年の忠臣であっても能力がなければ追放する信長が自分が引退したら明智家をどのように処遇するか光秀は憂えたのではないだろうか。その不安と恐怖が光秀を謀反に駆り立てたのではないだろうか。

光秀は信長を討った後、「ぼ〜っ」としている。秀吉が大返しをしなくても、周囲には光秀を討たんとする勢力が沢山あるのに何もしていない。足利将軍家を何度となく襲った近畿の緒大名のごとく、光秀に「背徳感」はなかっただろう。下剋上の時代、主君を打ち倒し主家を乗っとるのは普通だった。信長を同じだ。

しかし、信長亡き後光秀に誰も着いて来なかったのは、下剋上が許されない秩序形成が出来上がっていたということではなかろうか。事実、秀吉にせよ家康にせよ主家乗っとりには長い時間と既成事実と大義名分を積み重ねている。

つまり、光秀は信長を恐れ明智一族を守る為に謀反を起こしたが、下剋上の古い感覚で当然支持されると思っていたのが、誰も支持されず孤立してしまったということだろうと思うが、どうだろうか?

2010年7月20日火曜日

みなしごハッチ

「みつばちハッチ」という映画が上映されている。30代以上の人には「みなしごハッチの大冒険」として知られる。

もともと、母親を拐われ"みなしご"になったハッチが様々な出会いを通して成長し、母親と再会する物語。今も昔もハッチの様に親と生別あるいは死別して頑張って生きていた人は沢山いて、そういう"みなしご"と差別される境遇の人に向けた応援ドラマでもあった。同時に"みなしご"を囲む社会に対する"啓蒙"でもあった。

ところが、みなしごハッチの物語はみなしごが差別用語としてメディアで使用自粛になってから全く放映されなくなった。同様の例に「タイガーマスクのエンディング」がある。

言語が社会の中でコミュニケーションに利用される以上、「差別をする行為」があればそれは言語に表れる。社会から差別行為が無くなれば差別用語は淘汰され無くなっていく。しかし、この使用自粛は因果関係を逆転させ、差別用語が公の場で使用されなくなれば差別がなくなると言っているかの様だ。

さて、かの悪名高き「文革」や「焚書」の様に文化を犠牲にする差別用語使用自粛でどれくらい差別がなくなったのか?実証して欲しいものだ。