2011年7月25日月曜日

何故、働くのか

デイル・ドーテンの「仕事は楽しいかね?」を読み返している。人は誰でも「凄い人材」になれる。自分を縛っているのは自分自身だ。その枠を外すのも自分だってことだ。
毎日違う自分になるっていう考え、試してみることに失敗はなあという金言は重要だ。怖じ気づいていることが馬鹿馬鹿しくなる。失敗するのは成功の基準があるからだが、それは夏の逃げ水の様なものだ。追いつけるわけがない。
仕事をするというのは「何か人と違うことをする」ってことなんだ。同じことをすることもあるだろうけど、それならなんでその人がやらないのか?無駄じゃないか?

「仕事を楽しくするのは僕自身だ」

試してみることのチャンスを逃さないようにしよう。

2011年7月5日火曜日

善悪を越える価値観を人は持ち得るのか

僕は「損得の問題じゃない」という言葉に説得力を感じない。「なら、何の問題なのか?」と聞きたい。大抵の場合、「人の気持ち」とか「正義」とか「他人への迷惑」とか、時には「神の思し召し」なんてものまで出てくる。
さて、これらが何を招いたか?目に見えない「人の気持ち」に迷って必要な決断が遅れたことはないか。「死んでいった英霊」の手前、やめられた戦いを負けるまで続けたではないか。
「正義」は人を熱狂させる。同調を強いて、犠牲を招く。「聖戦」による犠牲は何万といる。時には神さえも呼ぶ。
他人の迷惑というが、正確には「既得権者の迷惑」だ。人は"権利"を感じていないものに執着しない。迷惑と感じるのは既得権を脅かされるからだ。
こういったものが十把一からげに「善悪」と称される。善悪には妥協がない。何故なら「譲ることは正義に悖る」からで「自身の正統性を否定する」ことになるからだ。しかし、小さなコミュニティならまだしも、これだけグローバル化が進むと「善悪の衝突」は避けられない。それを「文明の衝突」という人もいるだろう。
「損得」はそんな衝突を回避出来るものとして考えられたのだろう。それが共通価値としての「貨幣」であり、「市場」なのだ。経済性で論じれば戦争は高くつくし、原発は維持不能かもしれない。貨幣で購えないものは"個人的"或いは"個別的"価値でしかなく、相手の好意によって尊重されるに過ぎない。或いは尊重すること自体を取り引きするか、だ。
そろそろ、本当の損得の話をしようか。

2011年6月27日月曜日

成長のために本当の意味で「IT化」をしよう

システム開発の目的には様々なものがある。コスト削減、利便性改善、新事業立ち上げ。エトセトラ…。
コスト削減は最も一般的な目的。システムは大抵の場合は限界費用が一番安い。なので、ビジネスプロセスの一部をシステムに置き換えると大きなコストダウンが見込める。ただし、なんでもシステムにすれば良いというものでもない。
システムにしてはいけないものは競争力の源泉になっているものだ。デザインが競争力の源泉であるアパレル企業がデザインをシステム化してはいけない。逆に、ありふれたデザインを安く提供するのが競争力の源泉であれば、デザインを思い切ってシステム化してしまえば良い。
システムによって利便性が増すときもある。システム導入で最後の障害は「使い辛い」という意見である。だが、これは慣れれば大した問題ではなくなる。基本的にシステムは反復作業の効率化など、圧倒的に使い易くなるものだ。
競争力の源泉はシステム化してはいけないと言ったが、システム化することで競争力の源泉になる場合もある。また、かつての競争力の源泉が、逆に重荷になっている場合はシステム化によって競争力を増すことも出来る。システムによって新しいビジネスモデルや利益モデルが出来ることもあるのだ。

だが、残念なことにシステムがこれらの目的を果たせないことは多い。というのは未だにシステムは「システム馬鹿」によって開発されていて、ビジネスとの統合が出来てないからだ。システム部門や開発会社の人材に、ビジネスプロセスとシステムの統合を再教育すれば、企業のバックオフィスやミドルオフィスを中心とした生産性の改善はまだまだ出来る。

2011年6月26日日曜日

土日まるまる仕事だった。来週もそうなる可能性が大。再来週に代休を取りたいが、やりたい仕事もある。どうしたものか。

2011年6月25日土曜日

原罪を認める真摯さ

スタジオジブリが「原発抜きの電気で映画が作りたい」という垂れ幕を掲げているらしい。文明の抜きがたい原罪を見つめてきた宮崎監督らしい思いつきだ。この思いつきを実現するのは実は簡単で、自家発電やガス発電を導入すれば良い。コストは高いが、ジブリなら出来そうだ。

原発ゼロの施設運営はそれを売りにすることが出来る。作品の売れ行きにも良い効果をもたらすだろう。しかし、宮崎作品を見ると「脱原発」に繋がる「自然との共生」というものに宮崎監督自身はあまり幻想を抱いてない気がする。クシャナであれ、エボシ御前であれ、文明を代表する人物が最後は文明の原罪を意識しながら社会を良導していく。

文明社会は"自然"とか"原始"に対してどうあっても一定の悪影響を及ぼす。採集・狩猟をベースにした原始社会であっても資源を食い散らかす。自然と調和している様に見えるのは人口の少なさ故にその影響が復元されてしまうからだ。

しかし、人間が種としての繁栄を求めるのであれば、人口の増加は避けられないし、その手段としての開墾という自然破壊は当たり前だ。それを原罪と認識し、受け入れた上で実りある社会を生み出すのが私たちの使命ではなかろうか。エネルギーを動力に変換する行為には、なにがしかの廃棄物質は発生する。だから、その量を如何に少なくするか?という視点が必要だ。"再生可能エネルギー"は自然界に希薄に存在するエネルギーを直接利用する為に自然破壊の規模が大きい。一番影響を小さくする方法は、エネルギーが凝縮したものを利用する場合で、化石燃料はエネルギーが年月をかけて凝縮したものだ。核物質はエネルギーが拡散する前の状態だ。

ならば、原発が最も自然との共生に向いている気がする。もちろん原発だって環境破壊は伴う。生命への影響が不明な放射線も伴う。それは他の発電でも同じなので、何をリスクとして許容するかという決断を誰がするかという問題だ。

全く"クリーン"なエネルギーはない。その原罪と真摯に向き合うべきだと思う。

2011年6月20日月曜日

強いリーダーは不要か?

大西宏さんの「発送電分離は国民の声でしか実現しない」という記事を読んで、政治に限らず、リーダーというものについて考えさせられた。記事の中で紹介されていた「強いリーダーに期待し、依存するのはもう発想が古い」という伊藤穣一さんの言葉(歴史は菅政権を必要とした、いざ「緑茶革命」へ JBpress(日本ビジネスプレス))について、「なら、リーダー不要の経営」ってどういうものだろうか。池田信夫さんが紹介している様に日本の組織構造が「中間組織による分散自律型」であるのならば、正に日本古来の組織こそが「リーダーを必要としない組織」と言えるのではないだろうか。

リーダー不在でもミドルアップによって経営される組織は"貴族階級"や"官僚"が社会運営を担う。大抵の場合、中間組織は社会全体の構成員のうちホンの一部であり、中間組織同士の協力によって円滑な社会運営が行われる反面、利害対立によって社会を歪ませることもある。また、自らの利益を優先して社会全体の利益を損なうこともある。中間組織を打倒して下層の構成員が政治に関与するのが近世の「革命」であったわけだ。

中間組織の代わりに成立したのが"有期独裁制"である民主主義だ。これは中間組織がない社会で政治的意思決定をどのように行うかということに対する一つの答えだ。すなわち、選挙を通じて構成員が権利をリーダーに委譲するという方法だ。ここには「独裁的な方法以外に社会を効率的に運営する方法がない」ということを示している。

単なる独裁ではなく、構成員の意思による権利の委譲がポイントだろう。リーダー不在とは権利を委譲するに足る人物がいないということだろう。逆に、リーダー不要の組織とは、構成員が権利をことごとに行使するということで、昨今流行りの「住民投票」や「国民投票」がこれである。しかし、これが本当に社会を良い方向に導くだろうか。

政治は本質的に"負担の分配"である。国民や住民に税を負担させて各種の公共サービスを提供する。負担より享受するサービスが大きい場合もあれば、少ない場合もある。この格差を"納得"させることが政治である。

それが全員参加の権利行使となれば、負担は避けられ先送りされる。これがこの二十年の日本の状況ではないか。避け得ない負担の不平等を説得する言葉を含めた強力なリーダーシップで納得させ、或いは強制する力を発揮出来なければ政治的に限らず、意思決定など出来ないのではないだろうか。

日本に必要なのは、失われたリーダーではなく、ここ百年持ち得なかったリーダーを持つということだと思う。

2011年6月15日水曜日

原発の安全基準に対して誰も責任を果たそうとしない

「浜岡ショック」は思った以上に深刻で、原発立地県の知事が次々に再開に慎重な姿勢を表明している。橋下知事の様に"脱原発"を叫ぶ人もいるが、多くは安全基準が不明確だからというものだ。

曰く「安全だという国の説明を信じて再稼働に応じた後、別の事実が出てきたらどうするのか」(日経新聞14日朝刊3面)

原発を受け入れて地域の更正を保っている以上、その安全基準は自分の責任ではなかろうか。原発によって補助金を得たり安価な電気を得て地域経済を活性化しようとしている以上、そのリスクは折り込むべきだ。リスクを回避するために安全性を高める基準を設け電力会社と協力すべきだろう。
この件に限らないが、責任は取るものではなく果たすものだ。政府や自治体の首長は責任を転嫁するのではなく、エネルギー問題と安全性と経済性のバランスのとれた選択によって責任を果たすべきだと思う。その選択が「原発停止」であるならば、電気料金値あげや節電要請に応じないといけない。
電力会社と経産省や関連企業との癒着によって電力事業が高コストになっている可能性はある。だが、高コストに一番影響を与えているのはなんといっても地域独占となっていることだろう。電気料金の高さを批判するのではなく、高くなる構造を改革しなければいけない。電力自由化を進めることで電気料金を下げることは出来ると思うが、この政策は「特定発電への補助金」とは矛盾する。自由化を諦めて「自然エネルギー発電」を優先するならば、電気料金は高くなる。自然エネルギー発電の経済性が十分であれば、「脱原発」の掛け声がなくとも既に事業化されているはずだ。
そういう条件も含めて総合的な政策判断としての「安全基準」は政治家が意思決定するしかない。自治体の首長は「国」などという曖昧なものに責任を求めたり、いつ代わるかしれない首相に責任を問うたりせずに、自らの責任で安全基準を作って原発を再開させれば良い。
そして政府から地域のエネルギー政策に関わる財源や権限を奪えば良い。民主党は「地方分権」が建前だから、地域の自主的な動きに抵抗は出来ないだろう。近隣自治体や地域住民とコミュニケートして、安全基準をまとめ原発再開に漕ぎ着けることが出来たなら、その首長は大宰相たる器があるのだと思う。とは言え、自治体首長が中央省庁の官僚出身者や人気先行のポピュリストで占められている現状では望むべくもない。