毎日違う自分になるっていう考え、試してみることに失敗はなあという金言は重要だ。怖じ気づいていることが馬鹿馬鹿しくなる。失敗するのは成功の基準があるからだが、それは夏の逃げ水の様なものだ。追いつけるわけがない。
仕事をするというのは「何か人と違うことをする」ってことなんだ。同じことをすることもあるだろうけど、それならなんでその人がやらないのか?無駄じゃないか?
「仕事を楽しくするのは僕自身だ」
試してみることのチャンスを逃さないようにしよう。
IT系と政治関連の事件を中心にコラム風に書いています。趣味は舞台、だけど最近は殆ど観てないな~。
「仕事を楽しくするのは僕自身だ」
試してみることのチャンスを逃さないようにしよう。
だが、残念なことにシステムがこれらの目的を果たせないことは多い。というのは未だにシステムは「システム馬鹿」によって開発されていて、ビジネスとの統合が出来てないからだ。システム部門や開発会社の人材に、ビジネスプロセスとシステムの統合を再教育すれば、企業のバックオフィスやミドルオフィスを中心とした生産性の改善はまだまだ出来る。
原発ゼロの施設運営はそれを売りにすることが出来る。作品の売れ行きにも良い効果をもたらすだろう。しかし、宮崎作品を見ると「脱原発」に繋がる「自然との共生」というものに宮崎監督自身はあまり幻想を抱いてない気がする。クシャナであれ、エボシ御前であれ、文明を代表する人物が最後は文明の原罪を意識しながら社会を良導していく。
文明社会は"自然"とか"原始"に対してどうあっても一定の悪影響を及ぼす。採集・狩猟をベースにした原始社会であっても資源を食い散らかす。自然と調和している様に見えるのは人口の少なさ故にその影響が復元されてしまうからだ。
しかし、人間が種としての繁栄を求めるのであれば、人口の増加は避けられないし、その手段としての開墾という自然破壊は当たり前だ。それを原罪と認識し、受け入れた上で実りある社会を生み出すのが私たちの使命ではなかろうか。エネルギーを動力に変換する行為には、なにがしかの廃棄物質は発生する。だから、その量を如何に少なくするか?という視点が必要だ。"再生可能エネルギー"は自然界に希薄に存在するエネルギーを直接利用する為に自然破壊の規模が大きい。一番影響を小さくする方法は、エネルギーが凝縮したものを利用する場合で、化石燃料はエネルギーが年月をかけて凝縮したものだ。核物質はエネルギーが拡散する前の状態だ。
ならば、原発が最も自然との共生に向いている気がする。もちろん原発だって環境破壊は伴う。生命への影響が不明な放射線も伴う。それは他の発電でも同じなので、何をリスクとして許容するかという決断を誰がするかという問題だ。
全く"クリーン"なエネルギーはない。その原罪と真摯に向き合うべきだと思う。
リーダー不在でもミドルアップによって経営される組織は"貴族階級"や"官僚"が社会運営を担う。大抵の場合、中間組織は社会全体の構成員のうちホンの一部であり、中間組織同士の協力によって円滑な社会運営が行われる反面、利害対立によって社会を歪ませることもある。また、自らの利益を優先して社会全体の利益を損なうこともある。中間組織を打倒して下層の構成員が政治に関与するのが近世の「革命」であったわけだ。
中間組織の代わりに成立したのが"有期独裁制"である民主主義だ。これは中間組織がない社会で政治的意思決定をどのように行うかということに対する一つの答えだ。すなわち、選挙を通じて構成員が権利をリーダーに委譲するという方法だ。ここには「独裁的な方法以外に社会を効率的に運営する方法がない」ということを示している。
単なる独裁ではなく、構成員の意思による権利の委譲がポイントだろう。リーダー不在とは権利を委譲するに足る人物がいないということだろう。逆に、リーダー不要の組織とは、構成員が権利をことごとに行使するということで、昨今流行りの「住民投票」や「国民投票」がこれである。しかし、これが本当に社会を良い方向に導くだろうか。
政治は本質的に"負担の分配"である。国民や住民に税を負担させて各種の公共サービスを提供する。負担より享受するサービスが大きい場合もあれば、少ない場合もある。この格差を"納得"させることが政治である。
それが全員参加の権利行使となれば、負担は避けられ先送りされる。これがこの二十年の日本の状況ではないか。避け得ない負担の不平等を説得する言葉を含めた強力なリーダーシップで納得させ、或いは強制する力を発揮出来なければ政治的に限らず、意思決定など出来ないのではないだろうか。
日本に必要なのは、失われたリーダーではなく、ここ百年持ち得なかったリーダーを持つということだと思う。
曰く「安全だという国の説明を信じて再稼働に応じた後、別の事実が出てきたらどうするのか」(日経新聞14日朝刊3面)
原発を受け入れて地域の更正を保っている以上、その安全基準は自分の責任ではなかろうか。原発によって補助金を得たり安価な電気を得て地域経済を活性化しようとしている以上、そのリスクは折り込むべきだ。リスクを回避するために安全性を高める基準を設け電力会社と協力すべきだろう。
この件に限らないが、責任は取るものではなく果たすものだ。政府や自治体の首長は責任を転嫁するのではなく、エネルギー問題と安全性と経済性のバランスのとれた選択によって責任を果たすべきだと思う。その選択が「原発停止」であるならば、電気料金値あげや節電要請に応じないといけない。
電力会社と経産省や関連企業との癒着によって電力事業が高コストになっている可能性はある。だが、高コストに一番影響を与えているのはなんといっても地域独占となっていることだろう。電気料金の高さを批判するのではなく、高くなる構造を改革しなければいけない。電力自由化を進めることで電気料金を下げることは出来ると思うが、この政策は「特定発電への補助金」とは矛盾する。自由化を諦めて「自然エネルギー発電」を優先するならば、電気料金は高くなる。自然エネルギー発電の経済性が十分であれば、「脱原発」の掛け声がなくとも既に事業化されているはずだ。
そういう条件も含めて総合的な政策判断としての「安全基準」は政治家が意思決定するしかない。自治体の首長は「国」などという曖昧なものに責任を求めたり、いつ代わるかしれない首相に責任を問うたりせずに、自らの責任で安全基準を作って原発を再開させれば良い。
そして政府から地域のエネルギー政策に関わる財源や権限を奪えば良い。民主党は「地方分権」が建前だから、地域の自主的な動きに抵抗は出来ないだろう。近隣自治体や地域住民とコミュニケートして、安全基準をまとめ原発再開に漕ぎ着けることが出来たなら、その首長は大宰相たる器があるのだと思う。とは言え、自治体首長が中央省庁の官僚出身者や人気先行のポピュリストで占められている現状では望むべくもない。