2011年8月16日火曜日

五山送り火

まさに飛び火。

五山送り火で陸前高田の松を使おうというアイデアは良かったと思う。問題はあまりにも"放射能"過敏症が蔓延していたこと。藤沢氏が指摘する様に、今回検出された放射能は自然放射線レベルも出す能力がない。検出された放射性物質がどの程度のレベルなのかを京都市当局も保存会も、おそらく京都大学にいる優秀な専門家も、誰も責任を果たそうとしなかった。

ただ、「観光都市」京都としては、イメージを守るためには仕方なかったかもしれない。その内、ガムも禁止されるのだろう。「完璧な」安全とか清潔とか、その維持を貫くなら"穢れ"の松を受け入れなかったのも頷ける。京都は「平安京」のレベルに達したのかもしれない。

「羅生門」。門外に打ち捨てた貧困、犯罪、災害はなかったものに出来る。現実の問題に耳を塞ぎ、平和を祝ぐ詩を捻り、自己一身の平安だけを守った貴族たち。京都だけではない。我々は1000年前から何も変わっていない。

2011年8月1日月曜日

ある意味「補完関係」

「そして、自立へ」という投稿をしたというお知らせに以下の様なコメントをもらった。

「しかし 地方議員 役人と中央の議員 役人をくらべて地方が勝るとは思えないのです。自立あるいは独立したところで話は変らないと思います。」

国会議員や国家公務員の方が地方自治体の議員や地方公務員より優秀という考えがあるようです。たしかに、20世紀なら通用したでしょう。戦後20〜30年くらいの「答えが分かりきっている時代」ならば、先行事例の読解力や事務処理能力が必要だからです。しかし、20世紀の最後の四半世紀は様々なパラダイムが崩壊し、「答えのない時代」に突入したのです。

国会議員や国家公務員になるような頭の良さは頼りになりません。それがこの四半世紀の日本の停滞に現れています。つまり国が駄目で地方が良いのではなく、どっちも駄目なのです。それを打破するためには「統治のパラダイム」を変えてみてはどうかというのが僕の提案です。

モノの役に立たなくなった国会議員と国家公務員はなんで淘汰されないのでしょう。と考えてみたところで、「両者は互いに依存しあうことで淘汰を免れている」のだと気がつきました。国会議員には政策アイデアと政策立案能力がありません。国家公務員にはアイデアを実現する権威を持ちません。しかし、国家公務員のアイデアを彼らが法案にして、国会議員が国会を通せば、互いの能力を利用できます。

しかし、本来的には国会議員は自身や自身のスタッフで法案を纏めあげるべきです。国家公務員は成立した法案の実現にむけたオペレーションを作りあげるべきです。政策立案にお金をかけられない日本では、なかなか実現しないかもしれません。それでも、このしょうもない補完関係を解消して欲しいものです。

2011年7月29日金曜日

「高速鉄道事故」は中国の“あり方”のエポックとなるかもしれない

中国・浙江省で発生した高速鉄道の事故は温家宝首相が「高速鉄道整備において安全性の軽視があった」ことを示唆し、隠蔽疑惑の追求にも言及する事態となった。鉄道省の腐敗や特殊性などが取り上げられているが、首相の事故への全面的なコミットに少し驚いた。過去に起きた事故や不正では、基本的には政府の無謬を主張していた中国共産党政府がアッサリ瑕疵を認めたのだ。報道された鉄道省職員の対応や多額の賠償金などは中国政府の一般的な対応だった。

それが何故変わったのか?今回の事故の犠牲者は"高速"鉄道の利用者だ。普通の鉄道より高い運賃を払うのであろうから、ある程度の経済的余裕のある高所得層だろう。遺族もそれなりの所得がある都市生活者だろうから、社会的影響も強い。

中国が目覚ましい経済発展を遂げ、それが政府の軛を離れ国民が自信を強めたとき、「従順な国民を守る国家」という物語は力を失う。そこに「国家が威信を誇示するために国民の生命を犠牲にした」という疑惑が起きたのだ。中国という国のダイナミズムは国の形をどう変えていくだろうか。政府の力が弱まって、普通選挙といった政治的多様化が進むのか、逆に"天安門"のような引き締めが起きるのか。

前者であれば非常に大きな転換点となるだろう。

2011年7月26日火曜日

マーケット主義

「マーケットにニーズがあっても、求められている価格で提供出来なければ、その企業には存在価値がない。」破綻寸前の会社は概して「顧客のニーズと合わない商品やサービス」を売っている。しかし、顧客のニーズに合わない商品やサービスだから破綻するのではない。

例えば、あまり美味しくない、いや不味い定食屋。客もいないのに潰れもしない。おそらく、その店は地代などの固定費が安く、一見さんや物好きの客だけで成り立つのだろう。ニーズに見合ったコスト構造になっているわけだ。

或いは「副業」で定食屋をやってるだけで、不動産収入で食っていけるなどの場合もある。要は、キャッシュが続けば倒産はしない。まさに、"Cash is queen "。

「最初からニーズがある商品やサービスなんてない」。楽天の最初の出店は数軒はだった。システムや報酬など、数度にわたる改変を経て、日本一の仮想ショッピングモールになった。「小さな箱の洗剤」は幾ら市場調査してもニーズはなかった。商品やサービスが発売されてはじめて"出現する"ニーズもある。

潰れた会社は「ニーズに合った商品やサービスを提供出来てない」「僅かな収入でやっていける原価構造になってない」。更に重要なことは「商品やサービスを変えていない」ことだ。変えることを止めた商品やサービスは直ぐに他社にキャッチアップされる。変え続ければ顧客の満足は高まるし競争相手にもつけこまれない。

"変えること"や"変わること"を社是にする会社は多い。だが、"変えること"や"変わること"を評価する会社は少ない。大抵の場合は「最初に決めた目標を変えずに達成したか」が評価される。「部下の管理」で評価されるのなんて最悪だ。

マーケットを第一に考える人は"市場に正解がある"と思いがちだ。しかし、"結果として"市場でニーズが"確認"出来ることはあっても、商品やサービスのアイデアになるニーズが"存在する"ことは希だ。なら、若手芸人と同じ様に「これがウケるのではないか?」と試してみることだろう。一度に何個ものネタを試せば少しはウケ方も違ってくる。

どのネタがどれだけウケたか?は(笑)という成果の前では大した問題にならない。それよりもどうやって思いつくかが大事だ。市場に答えはないが、ネタを振りかければ市場は答えを出してくれる。だから、市場にニーズが"ある"なんて思ってはいけない。アイデアを試してニーズを"確認"すると思うべきだ。

2011年7月25日月曜日

何故、働くのか

デイル・ドーテンの「仕事は楽しいかね?」を読み返している。人は誰でも「凄い人材」になれる。自分を縛っているのは自分自身だ。その枠を外すのも自分だってことだ。
毎日違う自分になるっていう考え、試してみることに失敗はなあという金言は重要だ。怖じ気づいていることが馬鹿馬鹿しくなる。失敗するのは成功の基準があるからだが、それは夏の逃げ水の様なものだ。追いつけるわけがない。
仕事をするというのは「何か人と違うことをする」ってことなんだ。同じことをすることもあるだろうけど、それならなんでその人がやらないのか?無駄じゃないか?

「仕事を楽しくするのは僕自身だ」

試してみることのチャンスを逃さないようにしよう。

2011年7月5日火曜日

善悪を越える価値観を人は持ち得るのか

僕は「損得の問題じゃない」という言葉に説得力を感じない。「なら、何の問題なのか?」と聞きたい。大抵の場合、「人の気持ち」とか「正義」とか「他人への迷惑」とか、時には「神の思し召し」なんてものまで出てくる。
さて、これらが何を招いたか?目に見えない「人の気持ち」に迷って必要な決断が遅れたことはないか。「死んでいった英霊」の手前、やめられた戦いを負けるまで続けたではないか。
「正義」は人を熱狂させる。同調を強いて、犠牲を招く。「聖戦」による犠牲は何万といる。時には神さえも呼ぶ。
他人の迷惑というが、正確には「既得権者の迷惑」だ。人は"権利"を感じていないものに執着しない。迷惑と感じるのは既得権を脅かされるからだ。
こういったものが十把一からげに「善悪」と称される。善悪には妥協がない。何故なら「譲ることは正義に悖る」からで「自身の正統性を否定する」ことになるからだ。しかし、小さなコミュニティならまだしも、これだけグローバル化が進むと「善悪の衝突」は避けられない。それを「文明の衝突」という人もいるだろう。
「損得」はそんな衝突を回避出来るものとして考えられたのだろう。それが共通価値としての「貨幣」であり、「市場」なのだ。経済性で論じれば戦争は高くつくし、原発は維持不能かもしれない。貨幣で購えないものは"個人的"或いは"個別的"価値でしかなく、相手の好意によって尊重されるに過ぎない。或いは尊重すること自体を取り引きするか、だ。
そろそろ、本当の損得の話をしようか。

2011年6月27日月曜日

成長のために本当の意味で「IT化」をしよう

システム開発の目的には様々なものがある。コスト削減、利便性改善、新事業立ち上げ。エトセトラ…。
コスト削減は最も一般的な目的。システムは大抵の場合は限界費用が一番安い。なので、ビジネスプロセスの一部をシステムに置き換えると大きなコストダウンが見込める。ただし、なんでもシステムにすれば良いというものでもない。
システムにしてはいけないものは競争力の源泉になっているものだ。デザインが競争力の源泉であるアパレル企業がデザインをシステム化してはいけない。逆に、ありふれたデザインを安く提供するのが競争力の源泉であれば、デザインを思い切ってシステム化してしまえば良い。
システムによって利便性が増すときもある。システム導入で最後の障害は「使い辛い」という意見である。だが、これは慣れれば大した問題ではなくなる。基本的にシステムは反復作業の効率化など、圧倒的に使い易くなるものだ。
競争力の源泉はシステム化してはいけないと言ったが、システム化することで競争力の源泉になる場合もある。また、かつての競争力の源泉が、逆に重荷になっている場合はシステム化によって競争力を増すことも出来る。システムによって新しいビジネスモデルや利益モデルが出来ることもあるのだ。

だが、残念なことにシステムがこれらの目的を果たせないことは多い。というのは未だにシステムは「システム馬鹿」によって開発されていて、ビジネスとの統合が出来てないからだ。システム部門や開発会社の人材に、ビジネスプロセスとシステムの統合を再教育すれば、企業のバックオフィスやミドルオフィスを中心とした生産性の改善はまだまだ出来る。