2010年1月15日金曜日

小沢疑惑について

一昨日の強制捜査から、大手メディアでは華麗にパスされた観のある石川議員の元秘書の暴露など小沢一郎周辺の疑惑は深まるばかりだ。メディアは静観、ネットは賛否両論という感じ。

小沢擁護派は
・検察の横暴、国策捜査だ!
・小沢一郎は衆議院選挙で禊を済ませたからいいじゃないか(これは鳩山首相なども言っている)
・「出来る」政治家はダーティーな部分があるが、仕事が出来るんだから良いじゃないか!
などという。

検察が所謂「正義」を振りかざして、有為の人物を陥れるという話しはリクルート事件や「国策捜査」で有名になった佐藤優事件で有名になった。でも、彼らが言うように本当に謂れの無いことなのか?というのは疑問だ。確かにリクルート事件では当時の「常識」として未公開株の譲渡が法に触れるかというのは微妙であった。しかし、何等かを譲り渡して便宜を図ってもらおうという意図に問題が無かったかは意見が分かれよう。

佐藤優氏と鈴木宗男氏の関わった国境を越える事件では「国益と法」が争われるのかもしれない。ただ、法の遵守を考えると摘発が不当であったとまではいえない気がする。ただ、他にも触法行為はあっただろうし、見逃されている人は他にいるだろうという話はあるだろう。法の公平性の面で、検察が責められる点はあると思う。つまり、「やらな過ぎ」ではないか?と思うのだ。首相が思わず「国策捜査」と口走ってしまったが、そもそも政治的思惑から独立することが要求される検察は、法や倫理、国益や公益に即して捜査を行うしか寄る辺は無い。その意味で、検察の捜査は全て「国策捜査」な訳で、そのこと自体が批判されるというのはおかしな話だ。

政治家には「選挙万能理論」がある。有権者にもあるのかもしれない。選挙で禊を受けたのだから良いだろうというものだ。これを僕は「学級会民主主義」と呼んでいる。クラスでガキ大将が窓ガラスを割ったと問題になって、「小沢君を許しても良いと思う人、手を上げてください」と言っているようなものだ。正解は、先生がガキ大将をこっぴどく叱らないといけない。遊びだろうとなんだろうと、不注意で窓ガラスを割るということについてキチンと反省させなければいけないのであって、それをみんなで許してよいか決める問題ではない。

選挙をくぐれば「原理・原則」を曲げてよいというのは日本だけに通用する民主主義だ。民主主義には国民の評価の前に「法」というものが厳然としてある。それを曲げてはいけなくて、変えなければいけない。小沢一郎の疑惑は追及されなければいけなくて、それを辞めるのは曲げることになる。それが嫌ならば、政権党のうちに当選した議員のための特別恩赦制度を立法化するべきだろう。それでも、そんな不公平な法律は憲法判断として廃案されるべきだろうと思う。

出来る政治家は汚いことにも手を染めているものというのはイメージとしては分かる。しかし、汚いことをしなければ政治家として手腕がふるえない人が本当に有能なのだろうかということは考えたほうが良い。僕はこれは間違っていると思う。違法なことをする人は、有能ではなく、心が弱い人である。その弱さも含めて人であるのだから、間違ったら償えばよいし、やり直せばよい。それを言い訳するのは究極に弱い人なのだと思う。

鍛えること、鍛えられること、成長することを放棄するのか!

教員養成「6年も…」
「志望者減る」現場不安
日経新聞 11月18日 39面


教員の質向上の為に養成期間を6年に引き上げる民主党のマニフェストがあるのだとか。今の教員の質が悪いのかということは僕には分からない。ただ、インセンティブによってパフォーマンスが向上するということは分かる。それでも、6年制にすることが解法かというと疑問がある。

薬剤師の養成期間が6年になって発生したのは志望者の減少だという。薬剤師になる機会費用が1.5倍になった為に志望者が減ったのだ。しかし、薬事法の改定によって薬剤師の需要は増えた為に結果的に質が下がった。

結局、質の向上には「競争」が必要であり、競争を促すのは規制緩和だと思う。すなわち、能力が足りない教員の解雇が出来なければ、教員の質向上は果たせない。

2010年1月12日火曜日

繁閑打破

昨日は成人の日だった。日本各地で20才になった女性が晴れ着を身にまとい、男性は少し見栄えの良いスーツを身につける。女性は朝から美容院に行き、最近では男性もめかしこむ。

あの大量の晴れ着は一体どうなるのだろう。ほんの一部はタンスに眠るだろうが、ほとんどの場合は貸し衣装なのでお店の倉庫だ。次のシーズンを待つ。
着付け係は目の回る様な忙しさから解放され、仕事からも解放される。着付けスキルの市場価格は昨日とそれ以外で10倍くらい違うかもしれない。

これが少しずつ売れれば消費者は安く買え、供給側も安定して仕事が出来る。成人式を市役所がやる必要があるのかという意見もあるが、それよりも実施日を分散した方が意味がある気がする。

崖に続く楽な選択

今、ある事業再生に取り組んでいる。

その事業はマーケットがただでさえ年率数%縮小し、この一年では一割以上縮小した。長く寡占状態が続いたため、特にトップ企業は高コスト体質になってしまい、市場縮小をキャッチアップしている二番手以下よりも業績が悪化し、破綻寸前となっている。事業再生には大幅な改革が必要で、業界の幾つかの(あるいは、殆どの)慣習や常識を破らなければいけない。

さて、事業責任者と話をすると、これ以上コスト削減は出来ないと言う。現場のことを知りもしないで数合わせしてもしょうがない、とも。マーケットが縮小する中で競争が激化し利益がとれないのは"当たり前"なのだから、他で稼ぐべく新規事業を開拓して欲しいなどと言う。

確かに、マーケットが縮小している時の事業責任者は辛い。ある意味、マーケットを創造しようと言う新規事業開発者より辛いだろう。だが、後がないベンチャーと違って、なまじ他の事業などがある為に言うことが甘くなる。

この事業責任者は"甘い"。一般的に寡占業界のトップ企業は二番手以下が太刀打ち出来ないくらいのコスト競争力がある。大抵の場合、業界品質を決めることが出来るし、規模の経済を働かせることも出来る。事実上の標準(de facto standard)を握っているため、市場動向を何処よりも早く入手し、競争相手に先駆けて対応することが出来る。

ところが、この事業は業界をリードすることが出来ず、規模だけはトップクラスだが、コスト競争力は劣り、市場対応も遅い。全てが悪い方向に向かっている。

なら、この事業の向かうべき方向性はどうあるべきか?

まずは、徹底的なコストカットだ。実際には節減したリソースをカット(解雇など)することは難しい。だが、「生産性」を向上させることでリソースの空きを作ることが重要なのだ。リソースに空きが出れば、外部から調達しているものを(全てではないが)内製化出来る様になる。内製化率が上がれば、すなわち調達率が下がれば限界利益率が改善するため損益分岐点が下がる。

アウトソースの利用について誤解があるのは、自分たちのリソースから零れた分を外部から調達しようとすることが多いと言うことだ。だが、本来ならば需要がこぼれるほど沢山あるならば、自分たちのリソースを工夫して遣りきるのが正解で、アウトソースを使うのは、付加価値の低い単純作業でない限りは止めた方が良い。外注は「需要が少なくて安定していない部分」に限って行うべきで、十分な需要があるならば内製化するべきなのだ。

だが、こういうことが出来ないと後はない。そう分かっていてもなかなか方向転換出来ない。崖に続くと分かっていても歩き続けるものなのだ。

JALの再生計画に思う

JALの再生計画は法的整理を経て行われるものとなる可能性が高くなった。

僕は当初からJALの再生計画は法的整理で行う以外に道はないだろうと思っていた。加えて、政府による支援も避けた方が良いと思っている。というのも、確かにJALが倒産して飛行機が飛ばなくなるなんてことがあると困る・・・なんて思うこともあるが、実際にはJALが飛ばなくても殆どのケースではあまり困らない。国内線に関して言えばJRがあるし高速バスもある。日本は国土が狭いので、仮に飛行機による移動がなければ時間が二倍かかるなんてことになっても半日以上になることはない。海外便で言えば、同じルートを飛んでいる航空会社はいくらでもいるので、乗り換えればよい。もちろん、飛行機が足りなくなるだろうし、パイロットも不足するだろうが、飛行機もパイロットもJALからいくらでも出てくるので困らないだろう。

JALが政府支援によって救済されないことで困るのは地方選出の国会議員くらいだろう。それ以外の人は「困る?」と聞かれれば「困る」と答えるだろうが本当に困る人はいないだろう。

2010年1月8日金曜日

ドラマ「JIN-仁-」の続編が話題になっているという話について

昨日、TBSのドラマ「JIN-仁-」の最終回を見た。
当然、ビデオで。年末に録画しておいたのだが、忙しくて見るのが遅くなってしまった。

最終回自体については野風の乳癌手術のエピソードで終わる為、原作の連載でも最初のほうのエピソードで終わった感じだ。だから、続編があるかということについてはドラマの終わらせ方から言っても「あるんだろうなぁ」と思う。

ただ、原作のファンの意見で書くと
1)南方仁はキャラクター的には大沢たかおよりむしろ内野聖陽の方が似合っていた。原作における南方仁は大沢たかおが演じたような思い悩む姿よりも果敢に挑戦する野性味のある印象だからだ
2)南方仁のキャラクター設定や未来というオリジナルキャラクターを除くと原作を踏襲していて漫画作品のドラマ化としては好感が持てた

というところ。

原作では初回に登場した包帯男の正体についてもある程度明らかになっている。原作を読んでいない人には野風が手術するために身請け話が流れたり、咲が結納の日に破談にさせたりというのが強引に感じたかもしれないが、原作の通りなのだから変なエピソードにならなくて良かった。

さて、続編があるとして、壮大な計画とこじんまりとした計画を考えてみた。

「JIN-仁- Season10」くらいまで続ける。

原作の連載がクライマックスに差し掛かっているので、連載との進み具合の心配をせずに数年にわたってドラマを作るということも出来る気がする。すると、

Season2:新生仁友堂編〜今回のラストで辰五郎が建設中だった仁友堂が完成してそこでのエピソードを中心に展開
Season3:横浜編〜横浜でヘボンに会ったり生麦事件に遭遇したりといったもの
Season4:新撰組編〜京都で新撰組と絡む
Season5:さらば野風編〜野風が日本を去り、咲と結ばれる
Season6:東海道中編〜江戸から京都への道中記
Season7:寺田屋事件編〜連載中のエピソード
Season8:・・・・

って感じではどうだろうか?Season6までをドラマでやって、Season7は映画っていうのもあり。

2009年12月28日月曜日

識者の談話を疑えの好例

日経新聞 2009年12月28日 朝刊 30面
「論点争点 メディアと人権・法 "社会の公器 認識を" 長谷部恭男・東大教授に聞く」

日経新聞の編集員(田原和政 氏)が東大の長谷部教授にインタビューしている記事が如何にも自分たちの主張に都合が良いようになっていて笑えた。

民主党政権に変わって注目された記者会見の記者クラブ以外への開放について以下の様にコメントされていた。
「(前略)会見する側との力関係があって、長年場数を踏んできた記者の方が聞きにくいことを聞き出せることはあり得る。適切な会見は状況に応じて異なる。それを会見側にすべて決めさせていいだろうか」
新聞やテレビ局などの大手メディアが良く主張する論法だ。しかし、長年場数を踏んできた記者と取材対象との間に容易に「癒着」が発生しうるということが指摘されていない。実際に、読売新聞の社主やNHKの会長といった人は長年社会部の記者をつとめて政治家と癒着して政治に介入するが如き行動が目に余る。それに"会見側に決めさせて・・・"というのは事実と違う。元々記者会見の主催は取材対象にしかあり得ない。特に、政治という公共性の高いものは会見を義務化し、取材対象が「開催するかしないかを決める権利」を放擲しているだけであり、取材する側に会見の開催権があるというのは論理的にはあり得ない。そして、今回の記者会見の開催様式の変更は、全てのメディアが会見場で質問も含めた取材ができるようにするということである。
そこに対する反論が一つにはセキュリティの問題、もう一つが会見時間の問題なのだそうだ。しかし、セキュリティに関しては現在も特にセキュリティチェックが行われているわけではない。大手メディアの社員という理由で安全ということにはならないし、記者クラブという任意団体のメンバーにあったことがどれほど安全上の保証になるというのだろうか。また、取材者が増えると会見時間が長くなるといったことも聞こえるが、本末転倒である。問題があれば幾ら時間をかけても、特に政府関係者は会見を行うべきだろうし、それを質問を事前に整理して短時間で終わらせるというのは効率化というより取材相手に対する便宜でしかない。そこに取材者と取材相手という緊張感は微塵も感じられない。
更に、この教授はこうも言う。
(当局の便宜を受けているから都合の良い情報しか流していないとの批判がありますが)
「いわゆる特権とあれるもののすべてが否定されるべきだとは思わない。報道に認められたカッコ付き特権は、社会公共に対する責務に応じた職業倫理と結びつく性格のものだ」
ちょっと信じられない感覚だ。メディアは"公器"なのだから税金を恣意的に使うという特権は許されるべきだというのだ。それに耐えられるほどメディアには倫理観があるらしい。こういうのを盗人猛々しいという。倫理観が高いのであれば、当然国税を使って提供されているサービスには対価を払うべきと考えるはずだろう。金銭による対価が支払われていないとするならば、報道に手加減を加えるという対価が支払われているに決まっているではないか。