2010年1月27日水曜日

乗数効果の勉強を

「子ども手当て」で消費が増えて景気回復

昨日の参院予算委員会で、自民党の林議員が「子ども手当ての乗数効果は」との問いに、仙石大臣が「1以上であることは間違いない」と答えた。

どうも双方とも乗数効果を理解していないのか、質問の度に審議が中断したらしい。乗数効果は貯蓄性向の逆数なので、国民が所得を貯蓄に回そうとすればするほど下がったいく。悲観的な国民心理ではいくら子ども手当てがばらまかれても大した効果はない。乗数効果を改善させるのは国民を楽観的にさせる環境だ。

そのために生活の安心をと子ども手当てをばらまいても将来的に増税で回収されると考えれば、消費性向は下がってしまう。いま盛んに「国家財政は赤字ではない」という論陣を張っているグループがいるが、子ども手当てに合わせた消費性向を上げるためのプロモーションなのではないだろうか。だとすれば、そのプロモーションは難し過ぎて共感を得られないだろうと思う。

ともあれ、乗数効果なんて難しい議論をするのなら政治家の人たちも勉強した方が良い。

2010年1月26日火曜日

抜本的な規制緩和を

日経新聞 1月26日 朝刊 7面
「認定こども園縦割り見直し」

2010年度に制度改正を行って、普及促進を図るのだとか。

縦割りの弊害という以前に規制に守られた公営の幼稚園や保育所の人件費は高すぎる。新規参入の機会費用も高いので、生産性が上がらずに利用者が増えない。

品質を守る規制は必要だが、量を確保する制度も必要。

2010年1月25日月曜日

アパレルの新しいビジネスモデルの考察

百貨店が売上不振に喘いでいる。今に始まったことではないが売上が年々縮小していくのだ。スーパーも頭打ちで、低価格化が進んでいる。この変化に一番影響を受けているのがアパレル業界だ。

アパレル業界は元々盛衰が激しいが、最近は老舗でさえ簡単に倒産する。売れないのだ。百貨店不振の半分くらいはアパレル商材の売れ行き鈍化だ。

景気が持ち直せばまた売れるようになる、というのは幻想で、百貨店で売られていたような洋服が売れる日は戻っては来ない。

ならば新しいアパレルのビジネスモデルを考えないといけない。

1)洋服の型紙をネットで無料ダウンロード出来るようにする
2)布や糸の通信販売をする
3)裁断済みの生地を売る
4)縫製のQ&Aをオンライン化する
5)縫裁学校と提携して紹介料を受け取る
6)縫製済みの製品を売る
7)提携修理店でのを修理を受け付ける
8)古着交換サイトを運営する
9)古着チャリティーを主催する
10)デザインコンテストを開催して商品化する

ポイントは洋服をデザインするだけのビジネスにしないということ。今までのアパレルビジネスはデザインで稼いでいたが、これからはデザインはただであげてしまって、その商品に関わる全てをサービスとして売ってしまえば良い。

先に「第二」を作る

何でもそうだが、改革は難しい。"抵抗勢力"という奴のしぶとさは驚く程だ。その抵抗を一気に無効化させるウルトラCが「第二」を作るというものだ。

第二を作って、オリジナルと全く違うアプローチで新しいものを作る。オリジナルが陳腐化し、弱体化したら潰すか吸収してしまう。今日、ツイッターを使った電波少年企画を始めた「第二日本テレビ」。このアプローチは正しい。

ビジネスでも新規事業を既存事業の中に位置付けると大抵失敗する。古い成功体験や陳腐化した資源に引きずられるからだ。だから新規事業は爪弾きに見えるくらい端っこで、既存事業と無関係に進めた方が良い。

日本中に「第二」がたくさん出来れば良いのに…

2010年1月21日木曜日

大きく変えて、調整する

知り合いとやり取りしているメーリングリストに投稿した内容を多少編集して再録する。今の自分の立ち位置を記録するという意図もある。

破壊を伴う「創業」に踏み出せる人はほんのわずかではないかと思う。歴史上は創業と守成の双方を成し遂げた人は何人かいるが、それは相当の運の良さというものもあっただろう。ソニーやホンダ、Panasonicなど創業の人と守成の人が同時期に、あるいは多少の前後をもって揃ったときに、本当に大きな成功が得られている。

今の日本はシステムが故障している程度であればまだしも、動作条件が変わってきているので役に立たないというのが大きな問題なのだ。手直しでは間に合わず、ベテランは経験があるだけに全く分からないという状況に見える。だから、役に立たないシステムを徹底的に叩き壊す必要があるのだ。ベテランの知識や既存のシステムが役に立たないことが分かっても、ベテランは既存システムを使い続けようとするものだ。そんな時に本当に必要なのは、そんな役立たずのものを思い切って叩き壊す勇気だ。

自民党は四半世紀前に役目を終えた「戦後復興のための開発独裁型統治システム」を固守し、そのために「経済発展の為の分散型自由経済活動システム」の発達を制限してきた。その破壊をパフォーマンスも含めて提唱したのは小泉純一郎と結党当時の民主党だった。

「自己責任と自由意思を前提とした市場原理を貫徹することにより、経済構造改革を行う」

これは未だに民主党の経済政策の総論として掲げられているものだが、政権をとった後の民主党は市場原理を目の敵にしているかのよう。

結局、マイナーチェンジでなんとかやってきた日本システムは抜本的な改革に迫られている。鳩山首相はこの政権交代を「明治維新」になぞらえた。明治維新では多くの改革が実行された。その中でも廃藩置県を伴うヒトモノカネの流通の自由化が最も大きく日本の発展に寄与したと思う。「入鉄砲に出女」と言われるほど江戸へのヒトの出入は制限されてた。また江戸の外の往来も、大川に橋が掛けられないなど、ヒトの移動をさせないことを前提としたのが徳川時代だった。それは経済性を犠牲にして、秩序を優先したことによる。お陰で江戸時代は社会的には安定していたが、栄養状態は悪く寿命も短かった。

それを明治維新は全く変えた。スタートこそは藩「主」を藩「知事」に置き換えただけだったが、度重なる統廃合を推し進め、封建君主から統治権を剥ぎ取った。ヒトの往来は庶民の「村人」意識を「国民」意識に拡げさせた。国民国家「日本」の誕生がそこにあったのだ。さて、この日本を新しい時代に向けてメジャーチェンジする為に、統治単位と統治体制を大幅に変えてしまわないといけない。民主党は地方分権や道州制について言及しているので、それは是非実現して欲しい。徴税や公共投資、住民政策の多くを中央政府から地方自治体に移管して、中央集権体制を大幅に変えてしまう。そんな大胆な改革を期待する。しかも、そんなに時間をかけずに。

明治維新はその終了は諸説有るが明治20年頃には終わったようだ。廃藩置県にいたっては明治4年に断行された。平成の時代にもっと短い実現を望んでもおかしくは無い。諸制度全ては5年程度、道州制への移行は1年くらいでやって欲しいものだ。

「茹で蛙」という逸話がある。蛙が煮立った鍋の中で茹で上がってしまうというものだ。これは少し誤解されているのではないかと思うが、正確には「グラグラ煮立った鍋に蛙を放り込むと"熱っ"とばかりに飛び出してくるが、水に入れて少しずつ加熱していくと熱くなったのに気付かずに茹ってしまう」というもの。少しずつ起きる変化には人は鈍感で、気付いたときには手遅れ。でも大きな変化にはさすがに対応できる。だから、変化を起こすなら大きく、というのがこの教訓ではないかと思う。もちろん、大きな変化では何かと影響が大きくなる。しかし、大きく動かしてから微調整したほうが良いのではないか。だから、自治体を少しずつ統合して四半世紀くらい掛けて道州制に移行なんて話しではなく、道州制に移行してからより良い状態に調整して自治体の統合や住民サービスの変更をすれば良いと思う。

テレビや新聞のサラリーマン記者は基本的には「職務」として"ジャーナリスト"をしているのであって、「使命」として"ジャーナリスト"をしているわけではない。僕は「あぁ、マスコミは決して庶民のことは分からないよ」と思ったのは去年の春闘を扱った報道のときだった。春闘では「ベア・ゼロ回答」を労働組合が受容れて、そのことに組合内外から色々と意見があった。マスコミは仕切りとそれを報道していたが、僕は春闘で話題に上るような会社はベア・ゼロであっても「ボーナス満額回答」であったことをマスコミはもっと問題にするべきだろうと思った。世間ではボーナスがゼロであったところがほとんどで、ベアなんて考えも及ばない。しかし、下請け企業にそれほどの思いをさせた元請企業の多くはボーナスを満額支給して、それをマスコミの社員記者を含めて不思議と思わないことに驚いたものだ。

テレビや新聞は今転換期にさしかかっている。総務省はなんとか彼らを助けたいようだ。原口大臣は政権奪取前にテレビで政権をとったら電波料を下げると露骨な利益誘導をしていた。地デジはNHKの新しい利権になったかの様だ。地デジ対応のための投資によって弱った地方テレビ局は在郷キー局に益々支配され、メディアの多様性は失われるばかり。それでも赤字になるだろうが。地デジ化で空白となった電波帯は新しい無線ビジネスの為に開放されるのかと思いきや、どうも怪しい。地デジ化が延期になって、電波帯が空かないかも・・・という話しもある。

新聞は「押し紙」で発行部数を偽装していて、独禁法に抵触している状態。コンビニで売れ残り弁当の値下げが禁止されていたのを批判していたが、業界統制価格で横ならびの上、規制に守られて価格を固定している業界が価格戦略やブランド戦略に心血を注いでいる会社を批判できるのか?と思う。これらのメディアも早晩インターネット上の無料メディアに押されて、やがてはビジネスモデルが崩壊してしまうだろう。それを塞き止めるには、何よりも「信頼される」是々非々を論じるメディアになるということではないかと思う。

2010年1月18日月曜日

ドラマ「ヤマトナデシコ七変化」の感想

「ヤマトナデシコ七変化」は漫画原作なのだそうだ。
原作どおりなのだろうから仕方が無いのだが、色んな要素が合わさったドラマだなと思った。

1)ヒロインを変身させる:野ブタ。をプロデュース
2)主人公とヒロインが滅茶苦茶強い:オトメン
3)人気の美男子四人:花より男子
4)ご褒美のために主人公が課題をクリア:アタシんちの男子(舞台の洋館も同じ場所。あとキーマンとして高島礼子が出演)

んってことで、メインキャストのうち3人までがジャニーズ。これは「有閑倶楽部」と同じか。

まだ、始まったばかりだが、漫画原作のドラマは何かとコミカルになるもので、これもコメディタッチラブストーリーになるのだろうから、続けてみるかはちょっと微妙・・・。

でも、今やテレビ局企画のオリジナルドラマって作りにくいんだろうな・・・と思う。スポンサーを集めるのには「原作が人気」か「脚本家が人気」のどちらかが必須で、前者の場合は小説ってこともあるんだろうが、読者層は圧倒的に漫画の方が多いので、どうしても漫画が原作になってしまう。後者は橋田壽賀子とか倉本聰ってところ。

2010年1月15日金曜日

小沢疑惑について

一昨日の強制捜査から、大手メディアでは華麗にパスされた観のある石川議員の元秘書の暴露など小沢一郎周辺の疑惑は深まるばかりだ。メディアは静観、ネットは賛否両論という感じ。

小沢擁護派は
・検察の横暴、国策捜査だ!
・小沢一郎は衆議院選挙で禊を済ませたからいいじゃないか(これは鳩山首相なども言っている)
・「出来る」政治家はダーティーな部分があるが、仕事が出来るんだから良いじゃないか!
などという。

検察が所謂「正義」を振りかざして、有為の人物を陥れるという話しはリクルート事件や「国策捜査」で有名になった佐藤優事件で有名になった。でも、彼らが言うように本当に謂れの無いことなのか?というのは疑問だ。確かにリクルート事件では当時の「常識」として未公開株の譲渡が法に触れるかというのは微妙であった。しかし、何等かを譲り渡して便宜を図ってもらおうという意図に問題が無かったかは意見が分かれよう。

佐藤優氏と鈴木宗男氏の関わった国境を越える事件では「国益と法」が争われるのかもしれない。ただ、法の遵守を考えると摘発が不当であったとまではいえない気がする。ただ、他にも触法行為はあっただろうし、見逃されている人は他にいるだろうという話はあるだろう。法の公平性の面で、検察が責められる点はあると思う。つまり、「やらな過ぎ」ではないか?と思うのだ。首相が思わず「国策捜査」と口走ってしまったが、そもそも政治的思惑から独立することが要求される検察は、法や倫理、国益や公益に即して捜査を行うしか寄る辺は無い。その意味で、検察の捜査は全て「国策捜査」な訳で、そのこと自体が批判されるというのはおかしな話だ。

政治家には「選挙万能理論」がある。有権者にもあるのかもしれない。選挙で禊を受けたのだから良いだろうというものだ。これを僕は「学級会民主主義」と呼んでいる。クラスでガキ大将が窓ガラスを割ったと問題になって、「小沢君を許しても良いと思う人、手を上げてください」と言っているようなものだ。正解は、先生がガキ大将をこっぴどく叱らないといけない。遊びだろうとなんだろうと、不注意で窓ガラスを割るということについてキチンと反省させなければいけないのであって、それをみんなで許してよいか決める問題ではない。

選挙をくぐれば「原理・原則」を曲げてよいというのは日本だけに通用する民主主義だ。民主主義には国民の評価の前に「法」というものが厳然としてある。それを曲げてはいけなくて、変えなければいけない。小沢一郎の疑惑は追及されなければいけなくて、それを辞めるのは曲げることになる。それが嫌ならば、政権党のうちに当選した議員のための特別恩赦制度を立法化するべきだろう。それでも、そんな不公平な法律は憲法判断として廃案されるべきだろうと思う。

出来る政治家は汚いことにも手を染めているものというのはイメージとしては分かる。しかし、汚いことをしなければ政治家として手腕がふるえない人が本当に有能なのだろうかということは考えたほうが良い。僕はこれは間違っていると思う。違法なことをする人は、有能ではなく、心が弱い人である。その弱さも含めて人であるのだから、間違ったら償えばよいし、やり直せばよい。それを言い訳するのは究極に弱い人なのだと思う。