2011年5月12日木曜日

所謂“自然エネルギー”“再生可能エネルギー”で電力を賄う方法

「脱原発」は「脱温暖化ガス」と組み合わさると"自然エネルギー""再生可能エネルギー"による発電に繋がる。しかし、高コストはまだしも〜「安(心)全なら電気代が高くても良い」という意見に経済合理性では説得できない〜、安定した電力供給が出来ないのでは役に立たない。そこで、不安定な発電をカバーする方法を考えてみた。

方法は「揚水発電との組み合わせ」だ。

まず、需要電力の数倍の発電能力を持つ太陽光発電と風力発電、潮力発電などの"自然エネルギー"発電プラントを建設する。日照時間が長い時や風が長く吹いていたり、波が高い時に発電した余剰の電気でモーターを回し水を汲み上げ、日が弱かったり風や波が弱いときに水を落として発電して不足する電気を補う。この揚水ダムを作る為に、山奥の谷を潰し麓には溜池を沢山作ることになる。

日本中が黒光りする太陽光パネルに覆われ、風車が延々立ち並び、山は切り開かれ田畑は溜池と化すかもしれないが、それでも"再生可能エネルギー"だけで暮らせたら素晴らしいことではないか!

とは、決して思わない。

2011年5月3日火曜日

アメリカの“正義”

池田信夫氏のブログ記事「「テロとの戦い」とは何だったのか」http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51704144.htmlのコメントでikedfさんが次の様に書いている。

「「日本人ひとりひとりは礼儀正しいが集団となると恐ろしさを感じる」と言う外国人がいるが、アメリカ人に対してもときどき同様なものを感じる。」

アメリカ人に感じる畏怖は彼らが伝統の背景が希薄な人工国家であることと無縁ではない。アメリカには「建国の精神」なるものがある。それはキリスト教の原理主義的な部分から生み出されたもので、元々は建国時の有力者達が民衆をまとめる為に便宜的に編み出したものだろう。その理念があってこそ、アメリカは国家の体を成し得た。

しかし、この理念は非常に排他的な側面があり、非妥協的でもある。その事が決して有利ではなかったイギリスとの戦いを最後まで戦い抜く原動力となったのだろう。一方で非妥協的な理念は常に敵を必要とした。理念を浸透させる為には、敵を作って分かりやすい構図を用意すれば良い。

イギリス、スペイン、内戦を経て日本やソ連と移り、今では「テロリズム」という"行為"が敵となった。何らかの主体ではなく行為を敵とするならば、その戦いは果てしない。この曖昧模糊とした戦いに熱狂する国民をみた時に怖さを感じるのだ。

池田氏が言うように、この様な熱狂はいずれは冷めてベトナム戦争の時の様に反省がなされるのだろう。しかし、これはまた繰り返されることになると思う。ある意味、伝統を背景に持たないアメリカの"伝統"と言えるものだからだ。

2011年5月1日日曜日

戦時体制の爪痕

5月1日付けの日経新聞朝刊のコラム「春秋」に電力王と呼ばれた松永安左エ門のことが紹介されていた。民間資本による電力産業の発展を追い求めた松永。九州から駆け登り政財界から"王"と言わしめた理想を壊したのは"緊急事態"を盾にした戦中の統制経済と戦後のGHQによる分割だ。

戦中は「経済界の戦時体制への協力」を盾に自由競争を制限して数々の産業で合併を強制し、戦後は経済界が戦争に協力したとして会社を取り上げた。GHQに巣食っていたコミュニストにとって理想的な"無主の企業"が登場した。それは「ガバナンスの欠如」と同義だったわけだ。

今、盛んに東電処理で"国有化"が言われている。国有化が市場価格以上での株式の買い取りを意味するのであれば反対だ。東電を倒産させて〜100%減資させて政府がスポンサーとなって再生するならば良い。実際にはスポンサーになるのも政府とその他の企業が入札して争うべきだろう。

本当に東電が賠償を賄い切れないなら倒産すべきだし、その再生は自信を持って遂行出来る人に任せるべきだろう。

2011年4月29日金曜日

田中実

実直そうな字面ではないか。

俳優の仁科克基が田中実の自殺についてブログに書いている。ウルトラマンメビウスでの一年間の共演以前に、子供の頃に遊んでもらった記憶があると。ドラマ「刑事貴族」の時だろう。田中実の上司役が松方弘樹だった。

NHKの連続ドラマ小説「凛々と」で本格デビューして、その後刑事貴族で認められながら、あまり出演作には恵まれなかった。連続ドラマのレギュラー出演はウルトラマンメビウスが最後だったかもしれない。実直なイメージからなかなか役がつかなかったのかもしれない。

ご冥福をお祈りいたします。

2011年4月28日木曜日

優先順位に気を配る人は少ない

みんなの党の山内議員がドラッカーの次の言葉を紹介していた。

「リーダーが先頭に立って事にあたり、人々を引っ張っていく姿勢など、まったくもって必要ない。有能な経営者ほど決断が少ない。ただ、優先順位だけを決めている」

優先順位に気を配る人は少ない。リーダーに限らず優先順位をつけることは重要だ。政府は今回の震災以降にたくさんの会議を設置している。これも優先順位が決まっていないことに原因がある。優先順位を菅首相が決めていれば会議は一つで良い。

「緊急災害対策本部」

この会議の中で、優先順位の高い順に一つ一つ片付けて行けば良い。

ホリエモンの革命大冒険

城繁幸さんが次の様に呟いていた。

「joshigeyuki 革命なんて一言も言ってないホリエモンが捕まって、革命を掲げている日本共産党がピンピンしてるのは実に不思議だ。たぶん、前者は意図せずしてそこに踏み込んでしまい、後者はまるっきり見当違いな道を進んでいるんだろう。 」

確かに。はからずも革命児となってしまったホリエモンに比べると革命を明言している共産党には優しいものだ。何がホリエモンと共産党を分けたのであろう。

ホリエモンが立ち入った革命は"大貧民の革命"だったのだと思う。強い手札がある瞬間を境に弱くなるという革命。情報技術にせよ、市場取引にせよ、ホリエモンがしてみせた/しようとしたものは、大企業やメディアが持っている手札の価値をゼロにするような話だった。これが検察をして社会秩序を乱すと認識された理由ではなかろうか。

一方、共産党が目指すのは"資本家"や大企業が持っている手札を奪って自分のものにする、或いは手札を持たない人に分け与えるというものだ。この場合、手札の所有者が代わっても手札を切るゲームの構造自体は変わらない。つまり社会秩序は維持される。仮に共産党の革命が成功しても検察機構は残る。

しかし、ホリエモンは検察の構造自体を変えうる提案をしただろう。例えば、ある程度の摘発がシステムで自動的に行われるといった様に。自らの存在を脅かされた時に人が激発する様に、検察も危機を感じてホリエモンに襲いかかったのではないだろうか。

ホリエモンが摘発されたり、フジテレビ買収を断念させられたことで一番得をしたのはメディアである。テレビ局は実質的に買収することが出来なくなった。拒否権を行使できるオーナーがいないということは、テレビ局は社員の共同運営組織になるということだ。社員が解雇もされず一定の発言権を保障されるというのは共産党的な共同運営組織に近い。

ソ連崩壊が示したのはこの様な官僚組織が如何に堕落し、腐敗するのかということだ。ホリエモンを寄って集って潰したメディアが崩壊していくことになるのではないだろうか。

2011年4月25日月曜日

分析する心

"分析"という言葉の成り立ちはモノを刀で切り分ける意味の"分"と木を斧で斬り分ける意味の"析"であり、いずれも物事を分けるということだ。"わける"の二乗だから物凄く分けるということになる。しかし、分析をする時に、この分けることが足りないことが多い。

「売上げの分析をする」という時に、売上げ総額の推移だけを追っている場合がある。"売上分析"は本来ならば、商品分類別/顧客特性別が必須だ。商品分類も外形的な分類だけでも「形態/サービス内容」「シチュエーション」「価格」とあり、それぞれ三種類なら27分類になる。顧客も「年齢/創業」「年収/年商」「家族構成/事業構成」となり同じ様に27分類くらいはすぐに出来る。その組み合わせは729分類となるから膨大な分析作業が残される。実際には分析の前に簡単な感度シミュレーションをして、重要な分析に絞るが、「何故その分析を選んだのか」の説得力は同じ分析内容でも、網羅したなかから選んだのか適当に決めたのかで全然違う。

分析は、結局は、データによって他人に理解させることが目的だから、他人の反証を先回りして抑えないといけない。説明時点では、得てして用意したデータのほとんどが使わないものだが、その準備がないものは余り説得力を持たないものだ。だから、分析するには、一見して無駄になりそうなことを"背景"として愚直に実行する心が必要だと思う。