2008年8月14日木曜日

北京オリンピックは「ベルリン」か「モスクワ」か、それとも

毎日の様に日本人選手のメダル獲得がニュースになる中、ロシアとグルジアとの紛争は国際社会の監視の中でひとまず停戦となった。パリではダライ・ラマがオリンピック開催下でも弾圧が続いていることを訴え、アメリカ人観光客の襲撃殺害事件はアメリカの国民感情を逆撫でしている。
戦前のベルリンオリンピックはヒトラー率いるナチスの増長を許し、第二次大戦につながった。モスクワオリンピックでは冷戦構造がそのまま参加国のボイコットを呼び、多くのアスリートが選手としてのピークを無為に過ごした。だが、ソ連と西側諸国との経済格差は更に広がりを見せ、ソ連の崩壊と内戦が続いた。

オリンピックは"平和の祭典"ではない。平和を希求するかもしれないが、オリンピックを理由に平和が訪れたことはない。古代オリンピックでは開催期間中は都市間の戦争が中断されたという。当時の戦争は外交交渉の一つで、領土問題などの解決を貴族階級が代表してタイマンで決めるというものだ。今の様な国家や国民の存亡を賭けるものではなかった。
近代国民国家成立後の戦争は悲惨だ。国家国民の存在同士が争われるので、負けた方は徹底的にセン滅される。だから、徹底抗戦と成らざるを得ず、被害が甚大となる。
ロシアとグルジアの戦争は簡単には収まらないだろう。ロシアと欧米はそれぞれグルジアの内政に手を突っ込み、グルジアは振り回され国民は疲弊するだろう。中国はチベットの文化、歴史、国民に関心はない。チベットへの弾圧は止まないだろう。

オリンピックが「虚飾の祭典」と言われて久しいが、近代オリンピックは元々そういうものなのだろう。むしろ、国民意識や国際政治の思惑を利用して発展したのだ。だから、「平和の祭典なのに…」という言葉は無意味と言えるのではなかろうか。

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