2009年8月7日金曜日

信仰と思想と言論の自由について

思想の自由というのがある。「わたしはあなたが反対の意見を述べるのを受け入れる」というものだ。「思想の自由」の背景にはキリスト教の新教運動が関係する。カトリックでは聖書の解釈権は聖職者にしかない。つまりバチカン以外が聖書を解釈することは出来ない。

そもそも、聖書はラテン語で書かれたものしかなく、ラテン語を知らず、文字すら読めなかった中世までのヨーロッパ庶民は聖書の内容を聖職者に教わる外はなかった。新教運動によって聖書の翻訳が進み、活版印刷によって翻訳版が普及したことで聖書を直接読み、解釈することが出来るようになった。その際、いわゆるプロテスタントと言われる人達が互いの解釈に介入しない様にするというのが思想の自由の根幹である。だから「信仰の自由」にもつながる。

ところが、思想の中には「みんなが同じ様に考え、行動しないと思想の実現に至らない」という考え方がある。これを「全体主義」といい、様々な政治思想や宗教がこの傾向を持つ。特に力によって思想や宗教を強要しようという場合、テロが発生する。日本でも1970年代に激化した学生運動は共産主義を社会全体に強要しようとしたテロであったと言える。古くは室町末期の仏教が武力をもって他の宗派の寺を焼き討ちしたなどはテロであった。

つまり、議論に依らず他者の思想を力で曲げようというのは全て「思想の自由の侵害」にあたる。たとえ気に入らなくとも他者の考えや行動を尊重するのが基本的な考え方だ。

さて、「靖国神社の政治家による参拝」問題だが、思想や信仰(神社参拝は生活信仰であり欧米人が前提とする宗派間の争いに発展するようなものではないのだが)の自由の側面から政治家がどんな立場であれ行動を制限されることはない。仮に、行動を制限するというのであれば信仰の自由の危機である。逆に政治家が他人に参拝を強要するというのであれば問題だがそんな事態には至っていない。だから反対するのはいくらでもして良いが、裁判に訴えてでも阻止するなんてことは出来ない。

政教分離を盾に政治家の宗教活動を禁止し、参拝を阻止するなんてこともあるが、政教分離は宗教が政治を弄断して十字軍や魔女裁判などの悲劇を起こさないようにするという「政治家と宗教家の癒着」を戒めるものであって、政治家の信仰心を否定するものではない。中世ヨーロッパの悲劇は教会が政治家である封建君主と癒着し、政治家が世俗的な、物理的な力によって庶民を支配し、教会が精神的な力によって支配するという補完関係によって人々の自由が奪われたことによる。その反省にたったものが政教分離であり、正確には「政治と教会の分離」である。

翻って日本では信長以来「政治と教会・神社・寺」の癒着はなくなった。江戸時代には檀家制度という仏教の宗派間の思想的な差異を無視する制度が出来たために、大規模な宗教対立が事実上なくなってしまった。そのため日本人は比較的宗教に無頓着になってしまった。つまり、政教分離というものは日本では400年前に確立した古いテーマなのだ。

政教分離が確立しているのにこれ以上徹底することは出来ない。無理にやろうとするから政治家に信仰心を捨てろという「信仰の自由」否定みたいな話になってしまう。ということで、今年も巻き起こるであろう靖国論争はいまや所謂"政治問題"(ここで言う政治とは組織ズレしたサラリーマンが建設的ではない責任回避の立ち回りを「政治的にまずい」と言う場合の所謂"政治"である)でしかない。

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