2011年2月3日木曜日

「八百長」を今更認める協会と国の欺瞞

大相撲の八百長問題が取り沙汰されている。部屋内での死亡に至ったいじめ、野球賭博に続きやっと本丸の「八百長疑惑」に手がかかった。

「ヤバい経済学<http://www.amazon.co.jp/%E3%83%A4%E3%83%90%E3%81%84%E7%B5%8C%E6%B8%88%E5%AD%A6-%E5%A2%97%E8%A3%9C%E6%94%B9%E8%A8%82%E7%89%88-%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%83%B3%E3%83%BBD%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%88-%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%83%B3%E3%83%BBJ%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%96%E3%83%8A%E3%83%BC/dp/4492313788>」

では大相撲のことが分析されている。

「勝ち越しが決まっている力士(A)とあと一勝で勝ち越し出来る力士(B)が当たったときの勝敗は、(B)の方が有意に勝率が高い」

というのがその統計的な分析結果です。このことから導き出されるのは、優勝争いに関係が無く、昇進や降格に関わる勝ち越しを決めた力士が、昇降格の線上にいる力士に勝ち星を売る八百長があることだ。

数字は嘘を言わない。

しかし、八百長の存在自体は週刊誌などで報じられ、協会は勿論、NHKだってマスコミだって、文科省だって承知のこと。

それにほっかむりしてきたことに問題があるのだ。

僕は、個人的な意見としては、「興行」であるのだから演出としての八百長はあるだろうし、否定は出来ないと思う。しかし、現在の相撲の興行が演出よりももっと真剣な「力比べ」である以上、また様々な格闘技やスポーツが真剣勝負を前提として人気を博している以上、「八百長」が起こりうるシステムを改めなければいけない。「番付」や「横綱の格」といったものは様式美としては美しいが、それは興行相撲として別に残し、真剣勝負の大相撲は手を抜くことが許されない試合システムにしなければいけないのではないだろうか。

2011年1月30日日曜日

菅政権を襲うたくさんの危機

菅首相は「たとえ支持率がゼロになろうとも」「石にかじりついてでも」総理の座から下りないと言っている。ただ、菅政権の支持率は民主党の支持率に影響を与えるので、さすがにゼロになったら与党からも圧力がかかるだろう。もしかしたら与党から賛成者が出て不信任が可決するかもしれない。

菅首相は予算関連法案を人質に野党を引きずり出そうとしているが、野党は是々非々であたるべきだ。菅首相には、有権者は協議に応じない野党を支持しないという期待を持っている。これはある程度実現するだろうが、それによって形振り構わない政治姿勢が認められれば支持率は急降下するのではないだろうか。

すると4月危機よりも予算成立後の5月や6月の危機もあるのではないか。

2011年1月27日木曜日

韓国は日本や中国よりも強い「学歴重視社会」をどの様に乗り越えるかが問題だ

日経ビジネスOnLineの記事より

記事要旨
1)韓国の国立大学KAISTの1年生が「成績が良くない」ことを悲観して自殺したことが社会問題となっている。
2)KAISTは成績が落ちるとその分高い授業料を払うことになっていて、高い場合は1,600万ウォンにのぼり、年収の三割を越す。
3)普通高校を出る学力がないとKAISTの授業にはついていけず、高い授業料を課せられ辞めたり、自殺を選ぶことがある。
4)官奴出身の朝鮮中期の科学者であり発明家として大活躍した蒋英実の様な人材はKAISTの様な制度では現れない。世宗大王が彼を抜擢したように、可能性を高めるような選抜方式が韓国には必要ではないか?

先に結論を言えば、仮にKAISTの様な「懲罰的学費」をやめて、経済的負担がない条件にしたとしても、成績を苦に自殺をする韓国の若者は減らないと思う。それは記事の中にある「ヤンバン(貴族)出身で、科挙を合格して」という歴史にある。この記事では詳細に解説されていないが、「ヤンバン(貴族)出身で、科挙を合格して」というキャリアパスは説明としては不正確である。当時の制度では科挙を受験する資格は貴族出身であることと科挙の受験資格がその家にあるかということの二つである。
受験資格が「家」に付与される上に、二代続けて科挙に合格できないと科挙の受験資格が剥奪されてしまう。つまり、貴族であっても下級貴族に転落してしまうことになる。受験資格の再交付はないから、一度転落したら再浮上の目はない。あるとすれば、その家の子女が後宮に上がって皇帝のお眼鏡に適うことである。
今は親の成績が悪いから大学を受験できないということはない。しかし、親の学力や出世と子どもの学力の相関は単純に信じられている上に長年にわたる「学歴重視傾向」が社会全体に良い成績を取らないといけないというプレッシャーを与えている。更に、それが「家」の名誉につながるために、簡単にはドロップアウト出来ない。授業料が安くなっても同じで、「良い成績」が「良い人生」や家の繁栄につながるわけだから、そう簡単に激烈な競争はなくならない。
「家」を重視したり、集団圧力が高いのは日本も同じだが、日本では江戸時代ですら武士・商人・農民の間の身分移動は行われていた。身分の低い人材の抜擢も度々あったので、学歴重視と実力重視がない交ぜになっている。しかし、韓国社会は「学歴」だけが重視されるので、こんな悲惨なことになる。
更に、成績のちょっとした差にも敏感だし、経歴上の傷は長く残る。韓国人の中での差別は激しく、北朝鮮からの脱北者や在日韓国人は韓国では差別の対象になる。同じ様に、普通高校の出身者は如何に「天才」と褒め称えられようと、いや天才と言われるからこそ激しい差別に晒される。

この宿痾を乗り越える明るい未来はあると思う。昨今の韓国人の海外留学は学歴秩序を崩壊させつつあると思う。世界に乗り出した韓国人が学歴には意味が無く「何をなしたのか」あるいは「何をなすことが出来るのか」が重視されるのだということを広く認識しはじめている。逆に元々学歴偏重ではなかった日本の方が、学歴にどんどん擦り寄っている気がする。

2011年1月25日火曜日

「一人ひとりを包摂する社会」特命チーム って恐ろしい…

菅首相官邸ブログで面白い提案があったそうです。

「第12話【孤立】「一人ひとりを包摂する社会」特命チームスタート!」
http://kanfullblog.kantei.go.jp/2011/01/20110119-3.html


「包摂」という言葉はマル経用語なんですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%85%E6%91%82

<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%85%E6%91%82>

Wikipediaの解説より引用

「経済・社会は、捨象して抽象化することが可能な人間相互の関係である。他方、現実の経済・社会は、自然科学の法則を合目的的にシステム化した技術、生物としての人間、自然環境、空間など、さまざまの外生的な存在を取り込まない限り存続することができない。
これらはいずれも、自然的存在であって、自然科学が究明する独自の運動法則をもつ統一体である。経済や社会は、このような自然的存在のうち有用な性質だけを取り込んで(包摂して)活用しようとするが、自然は統一体として存在しているのであるから、有用な性質の包摂は、同時に、経済・社会にとって障害となる要素も同時に包摂せざるを得ないことを意味する。その結果、この障害となる要素が、経済・社会にさまざまの否定的帰結をもたらす。これが、経済・社会にとって外生的なものの形式的包摂(formal
subsumption)である。
そこで、経済・社会の主体は、この自然の存在が障害をもたらさないように、この自然存在を作り変えなければいけない。これは、経済・社会による人為的な自然の生産過程である。人為的自然が適切に生産されれば、形式的包摂に際して存在していた障害は消滅する。これにより、経済・社会は、外生的な自然を実質的包摂(real
subsumption)したことになる。」

これを「人」に適用するのですか。経済・社会の外生的存在となっている「孤立した個人」を社会に取り込むが「一人暮らし高齢者、児童虐待、不登校、DV、離婚、貧困、非正規雇用、孤独死、そして自殺」という『障害』も取り込んでしまう(=形式的包摂)。だから障害が起こらないように「孤立した個人」を社会に適合するべく『作り変えないと』いけない(=実質的包摂)。

おお!恐ろしい。『再教育』ですか。収容所思想ではないですか!
もしかしたら、「孤立した個人」に適合するように社会を作り変える気かもしれません。
それまた恐ろしい全体主義ですね。

2011年1月21日金曜日

官僚の軍門に下った菅首相

『首相、事務次官に協力訴え 「政治家にも行き過ぎ」  「政治主導」修正、政官一体の取り組み指示』
http://www.nikkei.com/news/headline/related-article/g=96958A9C93819481E0E3E2E2918DE0E3E2E3E0E2E3E39C9CE2E2E2E2;bm=96958A9C93819481E0E3E2E2978DE0E3E2E3E0E2E3E39F9FE2E2E2E2

「菅直人首相は21日午前、首相官邸で各省の事務次官に訓示した。「事務次官と政治家が積極的な協力関係をつくり上げてほしい。政治家にも行き過ぎや不十分さがあった」と述べ、政権交代以来の「政治主導」を軌道修正した。」

菅民主党が官僚の軍門に下りました。恐らく、陰日なたに重ねられたであろう官僚のサボタージュの賜物です。

日本には権力と国民の間の中間集団は「官僚組織」しかありません。この官僚は解雇規制や人事院などというものに守られて永続的に権力と国民の間にあります。アメリカなどでは政権ごとに官僚組織の上層部は入れ替わります。これはそれぞれの政党がシンクタンク(政策立案集団)をもっているためで、政権をとると同時にそのシンクタンクのメンバーが官僚組織の上層部に入り、解雇された官僚は野党のシンクタンクに入ります。日本にシンクタンクが無いのは、喩え政権をとってもシンクタンクのメンバーを政治任用で官僚組織のトップ=事務次官に据えることが出来ないためです。シンクタンクにいても、政策実現には手出しが出来ないのであれば、実現可能性がない政策を自己満足で作文しているだけで、優秀であればあるほど他の道を選ぶでしょう。

菅首相や民主党が「政治主導」を目指したのは正しいことで、行き過ぎどころか最初の一歩すら踏み出していません。問題は政治家の打ち出すコンセプトを官僚組織を含めた既得権益者に遠慮しない政策に纏め上げ、それを実現可能なプランに落とし、その実現を官僚に強制する、能力と権力を持つ実務者がいないことです。既得権益の代表となってしまっている官僚にそれを求めることは出来ません。政治主導を本当に成し遂げたいのであれば、政治任用が出来るポストを拡大し、それと同時に一定以上の地位の官僚の解雇が出来る様にしていかなければいけません。

本来であれば、民主党が政権をとった直後にそれに着手するべきでした。しかし、官公労の抵抗にあった民主党は「政治主導」という掛け声だけで本当の意味での政治主導改革を怠ったのだと思います。

2011年1月19日水曜日

町工場が消える原因には日本の雇用環境の問題があるのではなかろうか?

日経新聞 1月19日 朝刊 九面
「消えゆく町工場」

日本の町工場集積地帯として有名な東京大田区と大阪東大阪市で過去20年間に町工場が半減したのだそうだ。記事では主な要因としてリーマンショックに端を発した金融危機をあげていて、付け足しの様に「後継者不足」を挙げていた。戦後50年代から70年代に30前後で起業した町工場のオーナーがこの20年間で次々に70才を超えて引退したであろうことを考えると、金融危機による需要減よりも後継者不足の方が主な要因であるように思う。

日本の町工場の加工技術に優れたものがあるとして、それは全ての工場に当てはまらない。大企業が頭を下げて発注するような町工場は数えるほどしかない。ほとんどの町工場はありふれた加工機械を操作して加工するだけである。機械を大切にメンテナンスするなどによって品質が安定するようなことはあるかもしれないが、技術革新によって「匠の技」がコンピュータで再現されると普通の町工場の仕事の多くは発注元が内製化してしまう。

引退間近の町工場のオーナーにそれを超えるイノベーションを求めるのは酷な話で、廃業に至るのはやむを得ないだろう。問題なのは廃業した後に新しく若い人が起業しないことで、それは日本の雇用環境にも問題があると思う。日本では「終身雇用神話」があり、「年功賃金」は長期雇用によって担保されるから、大抵の場合は起業のリスクをとるよりは企業への就職の方が人気がある。町工場のオーナーに幾ら優秀な子弟がいても、優秀だからこそ跡を継ごうとはしない。

更に、銀行が経営者に債務の個人保証をさせるために、たとえ優秀な従業員がいても譲ることが出来ない。だから、奇特な後継者に恵まれない限り町工場は一代で終わるしかない。それは日本の「モノ作り神話」の崩壊ではなく、如何に日本のビジネス環境が窮屈かというだけのことだ。大企業をリストラされた人が培った専門スキルと積み増しされた退職金で廃業する町工場を買うというのは、なかなか難しい面が多いだろう。

しかし、企業は自分達にとっては重要でなくなったスキルを持つ従業員を社内に飼い殺しにせざるを得ない。

2011年1月17日月曜日

仮に日本が破綻しても“大連立”に反対する

菅第二次改造内閣に自民党の枢要を担った与謝野氏が入ったことで、彼を橋渡しとする所謂"大連立"を待望する声が聞かれる。改造前から識者の中でも大連立を唱える人もいるし、彼の大新聞の主筆は熱心に働きかけている。しかし、敢えて言う。

「譬え、日本が破綻しようとも大連立には反対する」

反対の理由は「人は満腹になってもお菓子に手を出すもの」だからだ。空腹を満たすという当初の目的が果たされても、そこにお菓子があれば手を出してしまうものだ。「自民党」は「防共」「社会党対策」の為に"大連立"から合併に至った。それがソ連崩壊、中国の転向と目的が果たされても合併したままだった。

あまつさえ、社会党を保守対抗馬としておだてあげることで、その延命に協力した。自民党という一種の「一党独裁体制」は戦後日本を共産革命の浸透から守り、敗戦から素早く立ち直るための「方便」に過ぎなかった。それが「戦後は終わった」と言われても維持されたのは、自民党という共同体が権力を手放したくなかったからだ。それは小沢一郎の「反乱」によって崩壊するかに見えたが、自民党という共同体を破壊したのは小泉純一郎という奇才の登壇まで待たなければいけなかった。

"一党独裁"自民党支配が終焉を迎えた今、日本は改めて多党政治—民主化—に進まなければいけない。"防共"を理由にした保守合同や戦争を理由にした翼攅会政治の再来は民度の成熟を妨げるだけだ。「たちあがれ日本」は保守理念の旗を掲げた。「みんなの党」はリバタリアンに近い。自民党と民主党はどちらもコミュニタリアンとリベラリストが混在していて有権者の選択を妨げる。

日本経済が破綻に直面して危機だからというのは理由にしてはならない。私たちは再び民主化の機会を逃す。第一、敗戦という最大の破綻を短期間で克服した私たちが、財政破綻程度を恐れてはいけない。それよりも二度と破綻しない社会をどのように再建するかを徹底的に議論して選択するべきだろう。