2009年6月30日火曜日

宗教心無き政治は幸せだろうか?

今年の夏は選挙で終わるかもしれない。麻生総理に広島と長崎の市長が選挙を夏にしないでくれと陳情に行ったのだとか。8月6日と9日に選挙がかぶさると式典に影響するからだ。式典を取り仕切るのも、選挙実務を取り仕切るのも、市役所や自治会などだから、行事が重なると双方に影響が出てしまう。そう考えると夏の選挙は避けた方がと思う。

終戦記念日や原爆記念日と並んで夏の風物詩となっているのが「靖国問題」だ。やれ、首相が靖国を参拝するのは首相としてか個人としてか。政教分離の原則に悖るとか。靖国ではなく国立の鎮魂施設を作ったらどうかなんて話も。

首相と個人が分離することはなく、都合よく切り替えが出来る訳がない。サラリーマンだって、○○商事の××部長という肩書きが外れるのは退職した時だ。この「公人としてか私人としてか」という質問自体がアホらしいのだ。だから、参拝する政治家は政治家としての信念をもって参拝して欲しい。

政教分離が話題になるのも夏の風物詩だ。政教分離は特定の宗教の利益をはかる為の政策決定がされてはいけないというものだ。元々はキリスト教に振り回されて十字軍などの政治決断をしてしまった歴史のあるヨーロッパが発祥で、政治と宗教の歴史的関係が違う日本に持ち込んでも実用的ではないと思う。日本では政治に対する宗教の関与が織田・豊臣・徳川という封建体制の確立の中で整理され、江戸期には政府の一機関として組み込まれてしまい、宗教の政治に対する影響力は弱まってしまった。

明治以降の信教の自由化によって活動を活発化させたが、十字軍の様に宗教者が偏狭な価値観によって政治を弄断したことは、日本ではないのだ。起きたこともないことを大袈裟に煽って人々を混乱に陥れる「狼少年」は有害である。国立慰霊施設を「国家が宗教をおこす様なもの」と指弾したのは誰だったか。その指摘は正しいと思う。

政治家が慰霊の為に靖国を参拝するのは大いなる宗教心による。中には為にするものもいようが全くしないより良いと思う。選挙を広島・長崎の原爆記念日に重ねないのも、実利を越えた宗教心によってしか実現しないように思う。

宗教心無き政治は幸せだろうか。


追記
僕は政治家が宗教心(自然や他者への畏敬)をもって政治に取り組んで欲しいと思うが、宗教団体が自分たちの理念実現の為に政治に介入してくることには反対である。宗教の偏狭さ(一般論)は民主主義と相容れないと思うからだ。特に「世直し」を掲げる宗教は反対者を弾圧しがちなので許せない。宗教団体には政治の網から漏れた人々を救い導いて欲しいものだと思っている。

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