2009年6月19日金曜日

ラーメンチェーンの限界

吉野家が多角化の一つとして買収した低価格ラーメン事業から撤退する。基幹事業である吉野家の出店を加速するため経営資源の集中をはかり、不採算事業を見直すことの一環だ。倒産に至ったラーメン一番の営業譲渡をうけ展開したが営業赤字解消にはいたらなかった。

ラーメン、特に低価格ラーメンというのは食事という位置付けなのだろうか。それよりもラーメンはスナックに近いのかもしれない。最近流行りの「本格」ラーメンは価格も1000円に近く、豪華で栄養も満点(バランスはどうかと思うが)。でも、低価格ラーメンはそれより軽い「小腹を満たす軽食」やスナックに近い。

"食事"である牛丼の吉野家が"スナック"である低価格ラーメンに参入し、その特性にアジャスト出来なかったのだろう。市場環境が許せば時間をかけてノウハウの蓄積が出来たのだろうが、時期を逸してしまった。今後、ラーメン事業の営業譲渡などをするかどうか。撤退したラーメン事業店舗のアルバイトやパートはグループ内の他の店舗に異動して雇用は確保するというが、事業自体の譲渡先は現時点では見つかってないらしい。

ラーメンチェーンと言えば、最も成功しているのは「日高屋」だろう。店舗数も多いが、それでも店舗は創業の埼玉県と東京、関東近県に限られる。ラーメン一番は創業が大阪で10年足らずの間に全国広い範囲に出店を果たしている。意欲的とも言えるが、「Out of Control」:経営者の制御の外になってしまい非効率になってしまったということなのだろう。吉野家は全国展開しているのでエリアマネージャが各所にいるから、それを活用できればよかったかもしれないが、民事再生で傷ついたブランドイメージや出店先大家とのトラブル解消にも時間がとられ、思うようなスピードで改革できなかったのだろう。

ラーメンに限らず、チェーンの展開というのは人の育成と密接なかかわりがある。日高屋は狭いエリアで集中出店(ドミナント戦略)することによって、食材の配送などの効率を上げると共に、各店舗をマネージャがキメ細かにフォローすることで成長してきた。実は吉野家なども同じだ。それを無視したラーメン一番にはいずれこういう最後しか待っていなかったのかもしれない。

2009年6月18日木曜日

アイシテル〜海溶〜の感想

昨日は日本テレビ「アイシテル〜海溶〜」の最終回だった。

親子とか子育てということについて考えさせられるドラマだった。

多感な時期の親との関係というのは双方にストレスがあるモノだ。
子供の時に自分や自分の兄弟と親の関係が一時的に緊張してしまうことは良くあった。
大人になった今では当時の親の年齢に近づくにつれ、親にも何かが分かっていたわけではないということが分かる。
まあ、未だに親と角突きあわせる人もいるが・・・それも含めて人それぞれに悩み育てていたのだろうと思う。

自分がいつか親として同じような壁や悩みにぶつかるのだろうと思うと人事ではなく、とても面白く見ることが出来た。

外需依存ニッポンを疑う

日本は外需型か?というのは非常に大きな命題だ。僕は実は日本は内需型の経済構造を持っているのではと思っている。日本の人口は今年を境に減少していくという。しかし、人口構成を見てみると、消費意欲が旺盛な64歳までの所謂現役世代の人口が減少に転じたのは平成元年前後。つまりバブル崩壊の直前に消費人口の中心は減少傾向に陥っていたわけだ。それに金融政策があいまってバブル崩壊後に経済が復調するまでに10年を費やした。
すると実は日本の経済成長は1億を超える旺盛な消費意欲をもった消費者に支えられた「内需型」の経済構造であったのではなかったかと思うのだ。現役世代が減少に転じたころに始まったのが、中国などの国外への製造拠点の移転。これは労働人口の減少によって高騰した国内労務費を避けるために製造業が国外に脱出したと見るのが正解で、国外に脱出した分、国内の労働需要が減少したので労働者の給与が上げ止まることになった。しかし、給与水準が高かったのは高給取りの団塊世代が職にしがみついていたからで、メディアで騒がれるほどの年収を得ていた人は労働者の中心である30代までにはほとんどいなかったのだろう。
とすれば、年齢を重ねるだけで異常な高給をとっていた団塊世代が引退していくこの数年は平均給与は下がっていっても、実質的な給与水準は変わらない。ということは、商品価格が下がっていく現在の傾向は、これまでの商品価格が歪な消費者の収入に応じていただけで、今の商品価格が妥当な水準であると見ることも出来る。とすれば、日本はいよいよ本格的に「外需指向」の産業構造を成り立たせなければいけなくて、そんな時に実態にそぐわない「外需依存ニッポン」に踊らされて内向きの政策を打ち出しても意味がないと思う。

弟の敵は兄ちゃんがとる

昨日行われた党首討論の話。
鳩山民主党代表は政権を取った暁には西川日本郵政社長を解任すると表明した。「かんぽの宿」問題への対応が理由としているが、入札の過程に明確な疑惑があるわけでもなく、ただ世論がそう言っているからでは政治家としての見識を疑われる。弟が事実上の更迭に追い込まれたのを兄が敵を取ると言っているよいなものだ。
世論を追い風にしているのは他に理由がないからとも言える。世論が西川退任に賛同しているのは設問が「西川退任に賛同出来るか」となっているからだ。これほど報道情報が偏向していると世論は正確な判断は下せない。例えば、西川続投を決めた経営委員会を支持出来るかとすれば、また違った結果となろう。
日本郵政は株式会社とは言え国が株式を全て保有する会社だから国有法人と同じように政府や国会が社長を決めるべきという意見がある。しかし、民営化を前提とする以上、最も尊重されるべきは株主総会の決定である。日本郵政の株主は日本政府であり、その代表は首相であり代理人は財務相だ。それが紆余曲折はありつつも続投で決したのだから総務相は従うべきだった。
日本の政治上の決断は首相が行う。各担当大臣は首相の決定に従うものであり、従えないなら更迭されるか自ら辞任するしかない。内閣の中で首相は唯一選挙によって選出された人であり、その判断が最も優先される。担当大臣は首相に選ばれた人であって、その権限は首相に依拠する。
兄ちゃんは敵打ちに熱心にならない方が良い。西川退任はマスコミ受けや郵政職員受けは良いが、決して国民のためにはならない。そもそも郵政民営化は郵便局が何故かやっている銀行や保険を民間に解放するのが本旨だ。良く民営化されたら田舎の人口の少ないところには銀行もないのだから不便になるというが、それは逆で郵貯があるから民間銀行が出店しないだけのことだ。今は安価にATMを設置出来るし、人口が減る中で口座を増やしたい銀行はきめ細やかなサービスを展開している。
民営化されて窓口のサービスが悪くなったと言うが、これは郵政職員が客に迷惑をかけながらボイコットしているだけで、責められるのは職員の方だ。もちろんサービス低下しないように指導する責任は社長にあるが、サービスが悪くなったというなら民営化を責めるのではなく窓口の職員を責めてみてはどうだろうか。

地方分権と市町村合併を関連付ける“愚”

日経新聞 6月17日 3面
「市町村再編 ひと区切り 平成の大合併、今年度で終了」

1999年から始まった市町村合併。結果的に市町村は全国で4割減り、財政基盤が強化されたと政府は成果を喧伝する。しかし、行政のスリム化は果たせず、経常収支が悪化しているのだそうだ。今あるものを止めることが如何に難しいかが良く分かる。スリム化するためには驚くほど強力な抵抗を押さえつけてリストラを断行しなければいけない。それが出来るものだろうか?
市町村合併は地方分権の受け皿作りとして与野党ともに更なる合併を望んでいるという。だが、「なぜ地方分権と市町村合併が関連付け」られるのだろうか。地方分権を進める為には自立した経済単位を構成する、ある程度の大きさの自治体が必要なのだそうだ。果たしてそうだろうか。
自治体が分権に耐えられるかどうかは自治体の経営の工夫にかかっている。どれほど大きな自治体でも産業が充分に発達していなければ自立は出来ない。北海道や沖縄が未だに「開発途上」(開発庁があるんだ)なのは広さや人口ではなく如何に"売れる"産業が重要なのかということを表している。
自治体はそれぞれの歴史や偶然、あるいは政策によって発展を遂げてきた。小さくとも自立している自治体もあるし、大きくともやっていけない自治体もある。だが、栄枯盛衰は理。全てが永遠に繁栄し続けるということはない。
だから、政府が出来ることは精々自治体の競争を促す程度なんだろう。助成金を餌に人を操ろうとするのはいい加減止めた方が良い。

2009年6月17日水曜日

タブーをテーブルに載せる

どんな組織でもタブーがあって、誰も言えない雰囲気が醸しだされているものだ。具体的にタブーを口にして窓際に追いやられる、降格されるなどの実害があると組織は無難に過ごそうとするもので溢れかえる。そんな組織では会議を開いても一部の人だけが演説をして終わり。偶に発言があっても本論を避けたり、無難な意見で終わらせたりということで実質的な価値を生まない。
タブーが組織の動きを規程してしまうとすると、タブーを話せる組織とタブーを話せない組織ではやれることの幅が大違いになる。タブーを話すと勿論一時的には感情的にもなるし、ストレスも生じる。しかし、タブーを問題に出来る組織は前進できるだろうし、タブーじゃない問題など軽がると乗り越えることが出来る。
自分に関するタブーが話題になると嫌だなと思うだろうが、それが解消されれば自分しか抱えていなかった問題から解放されて元気になる。「元気があれば何でも出来る」(by 猪木)。
タブーを話そう。真剣に向きあおう。

思い出の岩田屋

日経新聞 6月17日 9面
「三越伊勢丹 岩田屋の完全子会社化 発表」

消費が低迷するなかで三越伊勢丹グループは地方店舗のテコ入れの一環として福岡の岩田屋を完全子会社化すると発表した。岩田屋と言えば福岡天神を彩る名門百貨店。福岡で生まれ育った身としては一抹の寂寥感を禁じ得ない。休日に天神に出掛けて岩田屋で買い物をするというのが楽しみだった。
福岡を離れて随分と経つ。最近では福岡の町の中心も広がりを見せ、若者文化は天神の南側に移っているという。都市の成長と共に消費の中心も移動を始める。
岩田屋は天神から東側にかけて複数の店舗を展開しており、長年に渡って町の中心を"作って"きた。しかし、今は中心に大型資産を持っているが為に身動きが取れなくなったというところのようだ。
三越伊勢丹は岩田屋を子会社化して三越福岡店と統合し合理化をはかるという。合理化は�事業所と物流拠点の統合�カードと外商の統合�仕入れ先一本化と取り扱いブランドの重複解消。�の拠点統合は良い。間接費でも店頭に影響が小さいものは積極的に合理化をはかるべきだ。�は顧客情報管理を一本化するということ。しかし、「岩田屋ブランド」「三越ブランド」は別物である。地方における地元百貨店のブランドは強力だ。三越、伊勢丹、高島屋と言っても地元百貨店がある地域では二番手の百貨店になる。顧客情報管理を共通基盤で共有するのは良いと思うが、相互営業は意味がないので販管費を削減する以上の効果はない。
最後の仕入れ先やブランドの一本化は意味があるか疑わしい。元々、百貨店は単店主義であり、岩田屋は複数の店舗にコンセプトを分けてブランドを入れている。岩田屋と三越に重複ブランドがあるということは岩田屋のコンセプトと三越のコンセプトに重複があるということだ。これは当たり前で岩田屋は福岡の地域一番店として幅広いニーズに応えてきた訳だから重ならない方がおかしい。
ならば、三越伊勢丹グループとしては、三越福岡店をどうするかを決めた方が良い。地域におけるブランド力の弱い三越を閉店して岩田屋ブランドをグループとして売っていく。或いは成長著しい南側に出店して棲み分けをはかる。
この動きには二幕目がまだまだありそう。