2009年4月10日金曜日

少子化と教育予算

少子化対策担当大臣もいるほど今の日本では少子化が問題になっている。
僕も少子化には憂いを覚えているが、少子化問題の原因の一つに少ない公教育予算が上がっていることには少し違和感を覚える。

日本の文教関連予算の対GDP比はOECD中最低なのだそうだ。
確かに他の国は4%後半から5%前半なのに対して日本は3.5%。
これは少ない様に見える。
しかし、就学児童一人当たりの文教予算で見るとほぼ平均。
決して少なくはない。
これは他国に比べて日本の少子化が進んでいるから。

すると、文教予算と少子化の因果関係は主張できなくなってくる。
別の統計数字で見ると就学児童一人当たりの教育支出に占める公的支出と私的支出の割合が日本はアメリカと同程度に高いという数字がある。
これを取り上げて私的支出が多いために出産を控える人が多いという主張をする人がいる。
私的支出の中身が分からないが、私立学校の授業料であればそれは私的支出出来るから払っているのだし、塾も同じだ。
公教育を受けるために必要な支出というのは高校の授業料程度だろうが、高校の授業料が安くなればいいとは思うので、その部分にスポットを当てるのは良いかもしれない。
しかし、いずれにしても公教育の予算が少ないことが出産を控える原因というには因果関係が読み取れない。

いずれも公教育予算や少人数学級にして教員を増やせという主張に繋がっているのだが、400万人の公務員の内教育関係職員は100万人もいる。
それを更に増やすというのはどうかと思う。

少子化と教育が因果関係があるとするなら、何故ロクな教育がない国で人口が増えるのか?
それとも、ある程度豊かだと教育支出のことが気になるようになるものなのか。

どうも釈然としない。

2009年4月9日木曜日

10社に1社がビジネスブログまたはSNSを開設

10社に1社がビジネスブログまたはSNSを開設、総務省調査より(NBOnlineより)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/nmg/20090409/191424/

ほんとかなぁ〜。
一割もやっているとは思えないんだけど。

ブログやSNSをやっているのと、それが効果的に利用できているのでは話が違うんだろうけど。

調べる価値ありかな?

2009年4月8日水曜日

ビジネスにデザインを

デザインはもっとビジネスで意識されて良いと思う

デザインを辞書で紐解くと、

デザイン [design](名)スル
行おうとすることや作ろうとするものの形態について、機能や生産工程などを考えて構想すること。意匠。設計。図案。(goo辞書/三省堂「大辞林」)

デザイン【design】[名](スル)
1 建築・工業製品・服飾・商業美術などの分野で、実用面などを考慮して造形作品を意匠すること。「都市を—する」「制服を—する」「インテリア—」
2 図案や模様を考案すること。また、そのもの。「家具に—を施す」「商標を—する」
3 目的をもって具体的に立案・設計すること。「快適な生活を—する」
(Yahoo!辞書/大辞泉)

design [dizin]
━━ n. 計画, 目的, 意図; (pl.) 陰謀; 設計, 筋書; 下絵; 図案, デザイン.
━━ v. 計画[企図]する; 予定する ((for, as)); もくろむ; 設計する, 図案を作る.
(infoseek辞書)

とある。
単なる意匠や図案というだけでなく、機能や生産工程、周辺の全てのことを含めて「計画」することがデザインの範疇に含まれる。

例えば、iPod。近年のデジタルツールとしては出色の出来だ。製品自体の素晴らしさもあるだろうが、iTunesと組み合わせたデジタル音源の販売システム、広告、製品発表のプレゼンテーションなど全てが統合されてあの成功があったのだと思う。その意味でジョブスは天才的なデザイナーだ。
自分の仕事を振り返ってみて、製品やサービス自体、顧客との接点、PRやキャンペーン、営業ツールなど細部にまで気を配れているだろうか?

君が代不起立の12人を処分 卒業式で都教委

「君が代不起立の12人を処分 卒業式で都教委」(共同通信)
http://www.47news.jp/CN/200903/CN2009033101000932.html

無理が通らなくて良かった。
処分された教員は「不当」として訴える構えのようだが、処分はどう考えても正当だと思う。

そもそも「国旗」「国歌」に敬意を払うのは、それが自分の国のものであれ他国のものであれ当然だ。
国旗や国歌は国民統合の象徴の一つであり、「国家」という物語を共有するための装置の一つである。
国家は国民の福祉を維持する「装置」であるが、その維持には国家の総意を国民が守るという「約束」が必要になる。
「国旗」や「国歌」に対する敬意はその「約束」を確認する手段であり、教育課程の中でその約束を認識させることは必須だと思う。

しかし、日本の「国旗」は「軍国主義」の象徴であるから敬意を払わないという人はいる。
かつて軍事力によって外交紛争を解決しようとした日本を軍国主義と指摘するのは間違ってはいまい。
しかし、「軍国主義は"悪いこと"」というのは普遍的な価値ではない。
アメリカ、ロシア、中国は未だに外交紛争の解決手段として軍事力を行使しており、その意味でかの国々は未だに「軍国主義」である。
戦時中の日本と同様に、明示的にせよ暗示的にせよ軍事行動中は国民に犠牲を強いる。
彼らには彼らの基準としての"正義"に基づいた軍事行動なのだから、「軍国主義は"正しいこと"」なのだ。
戦時中の日本も自分達の正義に基づいて"正しい"判断をして軍事行動を行った。
その判断が誤っていたというのはあるだろう(当時のアメリカとの経済力の違いを考えればアメリカとは開戦するべきではなかったとか、米中の二面戦争はやめるべきだったとか)。
しかし軍国主義をとっていたこと自体が間違っていたとは言えない。

国歌は天皇のことを歌っていて民主主義国家の国歌としては不適当だという人もいる。
しかし、日本国民を象徴する存在として考えると天皇が国家に謳いこまれるというのは自然ではないだろうか。
天皇には先の大戦で国民を戦争に巻き込んだ責任があり、その天皇のことを口にするのは嫌だという人もいる。
しかし、個人であれば今上天皇は当時は少年であり責任はない。
また、昭和天皇にしても内閣を通じて間接的に国政に関与していたわけで、その殆どは内閣に委ねられていた。
内閣は天皇の勅命によるものであるから天皇に全く責任がないわけではなく、むしろ任命した内閣が引き起こしたのであるから責任はある。
しかし、先に書いたように軍国主義自体が悪いという価値観が普遍的でない以上、戦争を起こしたこと自体に責任があるわけではない。
責任は戦争に負けたこと、負けるまで内閣に戦争を続けさせてしまったことにあるわけで、そのことに関する天皇の責任は戦争直後に国民の総意として解消されていると思う。
天皇家が未だに国民統合の象徴として残っていること自体がその証拠である。

更に、国家は国民に優先しないのだから、国家を称揚するような国旗や国歌には敬意を示さないという人もいる。
そういう方には「どうぞ他国に移民してください」とお願いしたい。
最初に書いたように国家は国民の福祉を最大化する装置であり、それを維持するためには国家を維持するという「約束」が必要である。
その国家自体が不要であるという意見はあっても良いが、ならば是非日本以外に国家という装置を必要としない新天地を見つけて移住して欲しい。