2011年3月19日土曜日

エネルギーを浪費することを止めてはいけない

地震と津波で発電所が破壊され、電力不足が強まっている。"無計画"な計画停電や消費者の自発的な節電によってなんとか無秩序な停電は避けられている。節電意識は高まり、冬に逆戻りした悪天候のなか、暖房を使わなかった家庭や企業は多かったようだ。歌舞音曲をはじめ、およそアミューズメントに関するものは"自粛"すべしという風潮だ。都知事選挙の立候補まで自粛の体たらく。

しかし、豊かさとは"浪費"のことでもある。資源を使い、満足することが何より豊かなことなのだ。それを抑えるとどうなるか?昔の生活に戻るというが、それがどういうことか分かっているのだろうか。

短い寿命、高い乳幼児死亡率、狭い行動半径。暖房をいれて室温をあげると、それだけで人体の抵抗力は高まる。死亡率は高くなり、寿命も長くなる。

行動半径が狭いとストレスが高まる。ストレスは抵抗力を奪う。死亡率は高くなり、寿命も長くなる。

"人生を楽しもう"ではないか。

2011年3月18日金曜日

福島原発事故を”人災”というのであれば、今回の津波被害も”人災”と言える

福島原発事故は収拾のつかない状況になっている。次々と炉が発熱し、使用済み燃料にまで飛び火している。
 
「地震・津波は"天災"だが、福島原発事故は"人災"だ」という言説がある。なるほど、一見理に適っているみたいだ。曰く、「活断層の存在が疑われる場所に原発を建設すれば事故につながる」「津波の被害によって発電機が作動せずに事態の悪化を防げなかった」「安易に1号原発に沢山の炉を建設し、事故の同時多発を導いた」。しかし、これらのことが"人災"であるのならば、今回の地震・津波による被害も人災ということになるのではないだろうか。
 
まず、「活断層の上に〜」という点であるが、多くの民家・商業施設・道路・鉄道が活断層の上に建設されている。今回の地震ではこれらの施設が揺れに耐えられず崩壊したものもある。しかし、福島原発は地震に耐え、緊急停止して核反応を停止させることが出来た。これはむしろ天災に対して福島原発は耐え切ったということに他ならない。つまり、人為によって天災の被害を避けたという点で評価されて良い。
 
次に、「津波の被害〜」だが、福島原発が津波によって蒙った被害よりも津波が多くの人命や町を押し流した方が遥かに多い。福島原発も押し流された町も、津波のリスクのある沿海岸に建設されたという点で同じである。一方の福島原発の津波被害を人災と言うのであれば、それ以外の津波被害も人災と言えるではないか。
 
「安易に〜沢山の炉を〜」も同じである。安易に同じ沿海の同じ場所に沢山の住宅を建設し密集して居住していたことが被害が格段に大きくなった理由である。炉を集中したことが非難されるのであれば、人が密集していたことも非難されてしかるべきだ。
 
これらは全て同じ前提に基づいたことによる。即ち、「大きな地震は発生しても、堤防を越えるような大きな津波は発生しない」「津波に備えた各種訓練や装備で避けることが出来ない状況にはならない」「甚大な被害をもたらすような津波が広範囲に発生することはない」というものだ。津波の被害を低く見積もっていたことが、原発であれば「防水が不十分な発電設備、変電設備」を許したのだろうし、沿岸への多数の居住を許したのだろう。また、多くの重要な産業施設も沿岸に集中していた。
 
これは沿岸の低地に集中するというインセンティブが原発にも人にも働いていたということだ。原発の建設は「輸入するしかない化石燃料に頼った発電」から「安定した独自のエネルギー供給」に移行するために決断されたものである。その決断の可否は別に論じるとして、それが何故沿岸に建設されるか、それも集中して幾つも、というのは一つには建設費の安さ、一つには住民説得の(他に比較した場合の)容易さによる。同じく、人が低地に密集して暮らす理由も市街地の建設費の安さ、低地の方が便利なことから住民の移住説得の容易さによる。
 
「なぜ、20m級の津波に耐えられるような堤防を建設しなかったのか」「なぜ、高所に住宅地を建設しなかったのか」「なぜ、津波が来ても衣食住が事足りるような備蓄をしていなかったのか」というのは福島原発でもいえる。「なぜ、20m級の津波に耐えられるような防水処置を発電機にしておかなかったのか」「なぜ、高地に原発を建設しなかったのか」「なぜ、津波が来ても電力が途切れないように自家発電機を複数用意しておかなかったのか」。同じことだ。前提として、大津波は来ないとなっているからだ。
 
ここから教訓を得るとするならば、地質学の成果、歴史研究の成果を精査して、過去に津波襲来の実績がある場所から、住宅、各種生産設備、インフラを移転することだ。もしくは多額の投資で「スーパー堤防」を建設することだ。それがうまく進むだろうか。
 
もちろん、原発の事故が発生した後、次々に起こる状況の変化に対して有効な手を打てないという点には「人災」の部分もあると思う。今回の事故は予見されていた、という人もいるが、それは東海地震であったり、津波を伴わないものであったり、それらの想定が今回の地震・津波を指していたとは思えない。だから、この事態は「それまでの想定を超えた防げ得ない被害であった」と認識することによって「将来に備えて今回の被害あるいはそれを超える災害にも耐えうる都市、インフラ作りをしよう」という結論に至る。それが健全な思考だと思う。

2011年3月14日月曜日

災害復旧はロジスティックスの復旧である

東日本激甚震災は陸海空の全てのロジスティックスを崩壊させた。未だ沿岸で(空中から?)確認された数百の遺体が収容されないのは、そこまでの道路が寸断され、近づけないからだ。直接の災害地である東北各地だけでなく、都内で物資の欠乏が起きているのも、物資を供給する道路、鉄道、トラック及びそれらの運転手が不足するために起きる。忘れられ勝ちなのは、運転手という人的リソースの問題だ。

今回の電力不足による電鉄の減便は、特にトラック運転手の通勤に支障をきたし、輸送能力を大幅に損なう。また、電鉄減便によってマイカー移動が急増することで、トラックの運行は通常の二倍以上になっている。連続した運行は安全上避けなければならず、更に運転手が不足する結果となる。更に、燃料が不足してきている。

ガソリンや軽油などの輸送も減っており、不安心理により給油や備蓄が増えているため、スタンドの備蓄が底をついている。運送会社の備蓄は供給が減っているため同じく底をついてきている。こうして物流が滞ることで小売店頭の在庫が不足しはじめ、またも不安心理により買い占めが発生する。そして、通常よりも大きな、そしてパターンの違う需要が急増すると、倉庫や運送には予期せぬ発注が殺到する。

予期せぬ発注に場当たり的に対応すると、供給が偏り欠乏が頻発する。ポイントは巨大な輸送能力を持つ電車の減便だ。それがロジスティックスのバランスを崩している。

しかし、電力不足のために電車の減便は仕方がない。昼間の輸送能力には余裕があるだろうから、利用者の分散があればなんとかなる。だが、通勤時間=会社の営業時間を変えるというインセンティブは、福耳官房長官がいくらお願いしても働かない。そこで、一時的に電鉄会社に時間帯によって追加運賃を設定することを許可してはどうだろうか?

通常の通勤時間帯の運賃を高く設定するのだ。通勤費は固定費の中でもそれなりの比率になる。それを極端に言えば倍にしてしまえば会社側も営業時間のシフトや職種ごとのシフトを考えるだろう。システムの変更が必要になるが、運賃を転嫁すれば多少無理して開発させても良いだろう。

料金改訂のロジックはあるのだから、それを頻繁に行うということだ。追加運賃のチャージを券売機でさせれば、それが入場制限の役割も果たすだろう。ポイントは「通勤時間をずらすことが業績に影響しない」企業に営業時間を変えるインセンティブを働かせることだ。営業時間の死守が必要な、小売とそれに付随する物流はコストをかけることを了とするだろう。

ロジスティックス上の負荷が平準化されれば、供給能力は急激に改善される。被災地以外のロジスティックスが改善され余力が生まれると、被災地への供給能力の強化にあてられる。今の道路環境では、土木機械や資材の大量輸送もままならない。必要なものが必要な場所に届いてこそ、災害復旧はスタートする。