2009年8月21日金曜日

衆議院選挙の投票率はどうなるだろう?

51.2%

この数字は日経新聞が衆議院選挙の情勢を調査するための問い合わせに対する回答率だ。これが投票率に反映するとすれば、"注目の"選挙にしては投票率が低い。不動票が動いていないということだとすれば、今回の結果は組織票によるものと言える。支持政党を持つ既得権益団体が支持政党を変えたということは、「既得権を壊す」という主張より「既得権を死守する」という主張が勝つことになり、組織化されていない多数の意見は選挙結果に反映されないということになる。

既得権を持たず、利害を共にしない人達が緩やかな連帯を持ち投票に結びつけるには広範なコミュニケーションを促進するメディアが必要だ。インターネットはその部分で活躍するだろう。

そうすると、既得権の打破にインターネット選挙は役立ちそうだ。ならば、今回の選挙後の公職選挙法改正はないかもしれない。組織票で勝った政権が組織票の力を弱める政策を推し進めるとは到底考えられない。

だから、支持政党を持たない既得権と無縁な本当の意味で力強い個人は「選挙どうしようかな」と迷うのではなく「とにかく投票する」のが重要だろう。それが何となく雰囲気で、でも良いし、見た目だって良いと思う。

2009年8月20日木曜日

脱官僚を超えて

たけしのTVタックルで出演者が「戦後復興期には大きかった官僚の役割が経済発展と共に相対的に小さくなった」と言っていた。「官僚」を「政府」と言った方が正しく、20年前に生活の中心から政治は追い出されてしまったのだ。先進国に追いつくために強力な権力による「開発」が必要な時期が戦後の四半世紀だった。だが、大多数の国民が豊かになった昭和40年代には政府の役割は一段落したのだ。

「開発時代」に必要なのは政府のリーダーシップである。政府が正しいことや必要なことを決める時代であった。その後、日本は「発展時代」に移行する。正しいことは競争の中で自然に決まる時代になった。

そういう時代に遅れてきた「開発型政治家」田中角栄が登場したのだと思う。強力な政府を残したかった政界と行政の役割を縮小させたくなかった官僚の利害が田中角栄という"英雄"の中で結実したのだ。いや、決して"生き残ろう"などと思ってはなかっただろう。まだまだ、政治が行政がやらなければいけないことがあると信じていたことだろう。

時代に合わないものが足掻いても普通なら淘汰されておしまいだが、政治や行政はなまじ力があったが為に生き残ったのだ。新しい政治の姿、行政の姿が今回の選挙で見えて来るだろうか。

2009年8月18日火曜日

公職選挙法とインターネット

衆議院選挙の公示日にあたる今日、候補者のブログやツイッターなどが一斉に更新を止めた。参議院議員や地方議員は更新を続けているが選挙に触れるものはない。

公職選挙法は公示後の候補者の選挙方法をかなり細かい点まで規定しており、決められたもの以外は「文書図画」を頒布してはいけないとしている。禁止されているものはかなり細かく指定されていて、インターネットもこの文書図画に含まれると「解釈」されているのだという。だが、誰もインターネットの更新をして逮捕された人はいないから判例もなく所管する役所がコメントしているだけなのだ。

契約書には「やって良いこと/やるべきこと」を書くものと「やってはいけないこと/禁止事項」を書くものとがある。法律を個人と社会の契約と見れば法律は後者であると思う。想定出来る禁止されるべき事項を規定するものだろう。時代が変わり当初の想定を越える事態が起きた時にその事実を取り上げて「今後、禁止事項に含める」と法改正をするのは良いが、事前または法改正のないままに個人の恣意によって法が運用されるのは法治国家の基を危うくする。

日本は憲法ですら解釈主義で恣意的な運用になっている。だが、人が立法時の状況や制約の中で決めたものを越える事態を解釈で乗り切るのは無理がある。想定外の事態が起きたら速やかに法改正がされてしかるべきだ。そして、法改正されるまでに起きたことを遡及してはいけない。これが一部権力者の恣意を排除するために人間が生み出した知恵だろう。

インターネットによる選挙活動は明らかに法が想定していない。ならば、法改正するまでは自由にするべきだ。仮に不都合が起きれば、それを改正の根拠とすれば良い。そもそもインターネットでの選挙活動が行われなければ禁止すべきかどうか分からないではないか。ならば、候補者はやってみるべきだし法が定めていない以上は警察も取り締まってはいけない。

摂取と咀嚼

今日の日経新聞のコラム「春秋」はお盆から紐解いて仏教の受容を国際化に繋げ、アジアに開かれた成長戦略の必要性を訴えている。だが、お盆から紐解いて外来文化の受容を説くのは間違っている。なぜなら、お盆という行事は仏教とは関係がないからだ。古代の蘇我氏と物部氏との争いも、有力氏族の権力闘争が根底にあり、争いの道具として仏教をはじめとする外来文化が利用されたという理解も出来る。

仏教にはそもそも「霊」というものは存在しない。昔流行ったキョンシーなどの中国圏の霊は道教に由来する。日本でも死者を祀る風俗があったが、仏教が日本で広まる過程で神社が忌避していた死にまつわる祭祀を担うことで両者の棲み分けが進んだ。だから、仏教の行う死にまつわる祭祀には日本の伝統的な死生観に根ざしたものが多い。

お盆に祖先が戻ってくるという考え方は元々は春先に山から神が下りてきて秋の実りと共に山に帰っていくのを祀ったものがはじまりだろう。春先は正月行事に秋のそれはお盆となったのだから、日本の文化は仏教をそれほどは取り入れていない。国家鎮護の守りとして期待され巨大な仏像まで国費で建造されたにもかかわらず、日本ではその後も天変地異が治まらなかった。仏教にとっては都合の悪いことに期待された効果がなかった為に生き残りのために死の祭祀を担うしかなかったわけだ。

だから一時期仏教を通じて隋唐文化を取り入れたが、その後は派遣を取りやめて「国風化」が盛んになった。源氏物語に代表される文化は大陸との断絶の中で成立した。足利幕府の頃に一時的に復活した中国文化の受容も戦国期のヨーロッパとの邂逅で日本はアジアから抜け出ることになる。

江戸時代には貿易が制限され、ヨーロッパの技術進歩に遅れをとったと言われるが、江戸は当時でも世界有数の巨大都市であり、制約はあるが安定した社会は急激に人口を増加させた。日本は外来文化を受け入れて受容し、咀嚼して日本化すると言われるが、実際には従来の価値観や考え方を変えてきたことはない"頑固"な文化と言える。それが証拠に仏教も儒教もキリスト教も国教となることはなかった。

国家として外交が重要なのは当然であるが、自分たちが何があっても変えてこなかったことを見つめて成長の糧とした方が良いのではないだろうか。

世間がリハビリ中

お盆休み明けの月曜日は「リハビリ中」というサインを発している人が多い。日曜日は夜半になっても渋滞が解消しなかった地域もあったようだ。それじゃ眠気もあるだろう。

リハビリ中という気分はみんなに共通しているらしく、商談にも身が入らない。世間がリハビリ中を合意しているので、パフォーマンスが上がらなくても容認される雰囲気がある。そんな空気のなか、朝から打ち合わせで意思決定していると空回りした気がして滅入る。リハビリ気分が残る今週はきっといつもよりも生産性は悪いのだろう。

なんで盆休みに「休まない」のか時々不思議に思う。長時間労働しているから休もうというのはないらしい。休みも充実させたいのなら、長時間労働は止めた方が良いと思うが、相変わらず「良く働く」ことは良いと思われている。

TBSの日曜ドラマ「官僚たちの夏」もそうだ。日本人の美徳とばかりに良く働くことを推奨している。よく働いていつ使うのか。

昭和30〜40年代は男性が稼いで家族が消費するというモデルがあった。男性に余暇がなくても家族が消費するのでバランスが取れていたわけだ。でもそんな歪んだ構造は長続きせず、男性も消費を楽しみたいと思い始めて"新人類"とか言われた。だが自分の稼ぎを自分で使うという本来の社会行動に戻っただけで、自分の余暇を犠牲に家族の消費のために働いていた人達の方がよっぽど新人類だったろう。

2009年8月17日月曜日

オールライダー対大ショッカーのポスターをガン見する

平成ライダー10周年を記念したディケイドは映画版で大変なことになって終わるらしい。見に行きたい気がするが、"大人"の自分に止められる。んでポスターをガン見して想像を逞しくするのだ。

ウルトラマンがメビウスで歴代が集結した時は、元々メビウスがウルトラマンと同じ世界観という設定なので驚きはしなかった。しかし、仮面ライダーは平成ライダーはどれも世界観を異にするので無理だな〜と思っていたらパラレルワールドで解決を図った。しかも、それぞれをリメイクする念の入れよう。それが昭和ライダーまでさかのぼってファンにとっては嬉しい限り。元キャストがそのまま出演するのはなんで駄目だったんだろうなと残念に思う。

世界が交差する"世界"。また、十年後にディケイドが再登場したりして…。

「成り行き」「計画」「挑戦」

夏が終わると多くの会社では「下期予算見直し」というヤツが行われる。

年度予算の場合もそうだが、とかく「予算立案」というのは"弱気な"見込みか"強気な"希望で出来ることが多い。だが、それは予算立案ではない。本来の予算立案はその間にある。

経営者や経営企画、マーケティングといった部署が経営としての要求や市場の潜在力から打ち出すのが計数の「計画」だ。これはトップダウン予算などと言われ、力の無い会社では経営者の決めた目標が予算化されてしまう。

これに対し、部門や部署単位で見込まれた計数は「成り行き」となる。ボトムアップ予算と言われ、経営者が事業に関する見識を持っていない場合はそのまま予算となってしまう。

しかし、この二つの計数が出てからが本当の「予算立案」なのだ。成り行きを計画に近づける為に何が必要か、「問題は何か」「どうすれば解消するか」「いつまでにやるか」を決めていくのが予算立案だ。それが十分な「挑戦」になっていれば期中は意外なほど何もないものだと思うが、どうだろうか。