2009年12月28日月曜日

識者の談話を疑えの好例

日経新聞 2009年12月28日 朝刊 30面
「論点争点 メディアと人権・法 "社会の公器 認識を" 長谷部恭男・東大教授に聞く」

日経新聞の編集員(田原和政 氏)が東大の長谷部教授にインタビューしている記事が如何にも自分たちの主張に都合が良いようになっていて笑えた。

民主党政権に変わって注目された記者会見の記者クラブ以外への開放について以下の様にコメントされていた。
「(前略)会見する側との力関係があって、長年場数を踏んできた記者の方が聞きにくいことを聞き出せることはあり得る。適切な会見は状況に応じて異なる。それを会見側にすべて決めさせていいだろうか」
新聞やテレビ局などの大手メディアが良く主張する論法だ。しかし、長年場数を踏んできた記者と取材対象との間に容易に「癒着」が発生しうるということが指摘されていない。実際に、読売新聞の社主やNHKの会長といった人は長年社会部の記者をつとめて政治家と癒着して政治に介入するが如き行動が目に余る。それに"会見側に決めさせて・・・"というのは事実と違う。元々記者会見の主催は取材対象にしかあり得ない。特に、政治という公共性の高いものは会見を義務化し、取材対象が「開催するかしないかを決める権利」を放擲しているだけであり、取材する側に会見の開催権があるというのは論理的にはあり得ない。そして、今回の記者会見の開催様式の変更は、全てのメディアが会見場で質問も含めた取材ができるようにするということである。
そこに対する反論が一つにはセキュリティの問題、もう一つが会見時間の問題なのだそうだ。しかし、セキュリティに関しては現在も特にセキュリティチェックが行われているわけではない。大手メディアの社員という理由で安全ということにはならないし、記者クラブという任意団体のメンバーにあったことがどれほど安全上の保証になるというのだろうか。また、取材者が増えると会見時間が長くなるといったことも聞こえるが、本末転倒である。問題があれば幾ら時間をかけても、特に政府関係者は会見を行うべきだろうし、それを質問を事前に整理して短時間で終わらせるというのは効率化というより取材相手に対する便宜でしかない。そこに取材者と取材相手という緊張感は微塵も感じられない。
更に、この教授はこうも言う。
(当局の便宜を受けているから都合の良い情報しか流していないとの批判がありますが)
「いわゆる特権とあれるもののすべてが否定されるべきだとは思わない。報道に認められたカッコ付き特権は、社会公共に対する責務に応じた職業倫理と結びつく性格のものだ」
ちょっと信じられない感覚だ。メディアは"公器"なのだから税金を恣意的に使うという特権は許されるべきだというのだ。それに耐えられるほどメディアには倫理観があるらしい。こういうのを盗人猛々しいという。倫理観が高いのであれば、当然国税を使って提供されているサービスには対価を払うべきと考えるはずだろう。金銭による対価が支払われていないとするならば、報道に手加減を加えるという対価が支払われているに決まっているではないか。