2009年1月30日金曜日

議員定数について考えてみる

麻生総理大臣が施政方針演説を行った。自民党と民主党の全面対決が取り沙汰され、今年行われる総選挙に早速興味が移っているようで、あまり国会に関心がないように感じる。

さて。議員定数の話し。日本全体が景気後退になり、緊縮財政が叫ばれ、公務員削減の動きがある。ただ、隗より始めよとばかりに定数削減の話も出るが、不思議と長続きしない。

今、衆議院の定数は480人。参議院のそれは242人となっている。多いか少ないかは一概に言えまいが、廃藩置県直前の藩の数が300余り。直轄地を含めると400〜500相当の藩があったとすると、衆議院の議員定数は江戸時代の地方代表モデルを脱していないように思う。

ならば、

いっそのこと、人口比率で分配し直してみてはどうだろう?50万人に一人とすれば、240くらいで議員数も減る。選挙管理実務上の問題があるから、自治体の境を調整しても300人は超えない。
参議院は各県2ずつとして3年毎に半数を改選。都道府県の規模に関わらす、国政への発言力を担保する。参議院は現在議論が行われている道州制単位の代表者も含めても良いかもしれない。11の道州が有力なので、二人ずつの代表で22人。あわせて116人。

国会議員が合計で722人から416人と57%に削減される。歳費の削減をするか、立法のための資金として逆に増やすかは難しいが、国会にかかる費用は全体的に削減できるのは間違いあるまい。

「年越し派遣村」は「貧困保護村」だった

『ザ・厚労省 「派遣」騒動の教訓』 1月30日 日経新聞 朝刊 一面
より

『湯浅誠(派遣村村長、30)は「実際に昨秋から派遣契約を切られた人は二割。その他は日雇い派遣で収入が減った人や野宿の人など」と言う。』

年末年始にニュースで大々的に取り上げられた日比谷公園の「年越し派遣村」は実際に不況による「雇い止め」で生活できなくなった人は二割程度なのだそうだ。つまり、今般の景気悪化があろうとなかろうと貧困に喘ぎ生活苦に元々陥っていた人が殆どなのだ。実際に日比谷公園で年を越した人は500名程度だったのだから、東京近辺に元々生活保護を必要とした人が400名あまりもいたということになる。

記事では、
「自立や就業の支援ではなく生活保護でよかったのか」
という厚労省幹部の嘆息交じりの言葉が紹介されている。

派遣村村長をつとめた湯浅氏は従前より「貧困問題」についての活動を行っていて、"派遣切り"という社会問題を利用して厚労省に「貧困層の存在」と「生活保護の充実」を認めさせるために派遣村を立ち上げたのだろう。社会活動家にはエキセントリックにシュプレヒコールをあげるだけという人がいるが、状況を利用して実利を得るための作戦を実行するあたり、湯浅氏の手腕は優れている。

Wikipediaで湯浅氏の主張が紹介されていた。

「教育課程からの排除」「企業福祉からの排除」「家族福祉からの排除」「公的福祉からの排除」「自分自身からの排除」

貧困家庭や貧困層の子弟が貧困から脱するために最も必要なことは教育であろう。湯浅氏の主張ではGDP比での教育関係への公的支出は日本はOECD加盟国で下から二番目なのだそうだ。義務教育課程でも修学旅行など学校主催の行事への支出は意外なほどある。その上、義務教育修了ではどれほど優秀な成績を修めていても社会では殆ど通用しない。奨学金などの制度はあっても、学費以外に教育に必要な支出は多く、その全てをカバーできるわけではない。また、奨学金は貧困からの脱出に対して「強い意志」を持っている人しか受給できない構造になっていると思う。しかし、教育を受けることと貧困からの脱出の間に明快な関係性を見出せない人にも貧困からの脱出のために教育は必要である。
貧困状態に諦めている人(「自分自身からの排除」の状態にある人)を更正させていくのは国家の大事であろう。なんと言っても、国民が元気で豊かで希望に満ち溢れていなければ経済などは復興しないのだから。公的福祉を受けるにも、啓蒙活動や需給までの支援は不足している。ケースワーカーやソーシャルワーカーは少なく、行政も生活保護の需給などには決して積極的ではない。それは行政の責任も一部あるが、生活保護の原資となる地方財政の税収は貧困世帯が多ければ多いほど少ない。だから、生活保護をするにも地方自治体だけでは限界があるということもあるだろう。

湯浅氏はこれらの原因として「過剰な自己責任」について言及している。これは『過剰な』というのがポイントだと思う。自己責任は果たすべきで、貧困の状況に陥らないための努力が一人ひとりに必要であるというのは当たり前のこと。しかし、人は「折れる」ことがある。心が折れたときに回復させるのは「自己責任」だけでは難しい。もし、自己責任で出来るのであれば世の中にカウンセラーという職種は必要ない。そこまで自己責任にかぶせるのは確かに「過剰」だと思う。

年越し派遣村で明らかとなった行政の不作為を野党やマスメディアは追求していって欲しいものだ。

2009年1月26日月曜日

組織・人材論に関する一考察

世間は不況風に吹かれ、大手企業でも営業赤字転落という結果に終わるところが続出している。かたや、Googleは成長は鈍化したとは言え黒字を計上し、日本国内でも元気な会社は元気。

派遣労働者の所謂「雇い止め」や工場の操業停止など厳しい経済環境が続く。早晩、正社員を対象にしたリストラは激しさを増すだろう。早速解雇に関連したトラブルも出てきている。

こんな環境下で、企業組織と人材について色々と考えるところがあったので書き記してみる。

企業ってなんだろう?というところから始めてみる。

企業というのは「所与もしくは獲得した資源を組み合わせて付加価値を創造し、他社に販売することで利潤を得るもの」ということになる。資源というのは所謂「人、モノ、金」ということになるが、最近ではノウハウやマニュアルなどの「コト」と特許やアイデアなどの「知識」も資源に含まれてくる。「モノ、金」については金額換算されるが、「人、コト、知識」は金額換算され難い。そのことを捨象すると、企業というのは悉く「資産を運用して利潤を得る」ものという様に考えることが出来る。

そこで、資源に含まれる「人、ノウハウ、知識」なのだが、この不況期に問題になってきているのは主に経営資源の中のこの部分なのだ。

経営環境や事業環境というのは日々変わっていく。「プロダクトライフサイクル」というものがあるが、事業や業界というものもそれと同じ曲線を描く。つまり、市場形成期から成長期に入り、成熟期を経て衰退期に入っていく。その環境変化のなかで、それぞれのステージで必要とされる経営資源というのは違ってくる。

経営資源の中で最も柔軟性があるのは、金。値段がついているものであれば何にでも交換可能である。資金があれば、その時々に必要な金以外の資源を交換によって調達することが出来る。
逆に、柔軟性に乏しいのはモノ。設備にしても何にしても、その用途は限られて他の資源に変換することが難しい。
知識やノウハウは比較的柔軟性は高い。知識にしてもノウハウにしても、他に応用することが可能な場合が多いからだ。しかし、人の柔軟性というのは限定的である。人には意志があるし、趣向の問題などがあって事業の変化に合わせてやることを変えていくということに対して抵抗感を持つ人も多い。

単純作業に従事する人は柔軟性は高い。作業自体は決まっていることの繰り返しとその繰り返しの中での改善に終始するので、経験を積めば誰でも出来るようになる場合が殆どである。厄介なのは知的作業に従事する人である。

知的作業は習得に時間がかかるケースが多い。その為、育成にコストがかかる上に、一端習得したものを捨てて他の知的作業に移行するというのは労使双方のサンクコストが大きく難しい。企業でバックオフィスのホワイトカラーが肥大化する一つの原因はこれである。

ある程度高度な専門職であれば、弁護士や税理士などの様にそれだけでビジネスになる。しかし、ある業界やある企業の知的作業の特殊な部分について習得した人の場合、他の企業で利用できるのは部分的であると考えられているために、ある業界や会社で付加価値がなくなった知識労働者が他の業界や会社に移ることは抵抗があって進まない。その為、知識労働者は時間の多くを反復作業に費やすことになって生産性を落とす結果になる。
しかし、実際のところ知識労働者の持つ知識やノウハウの多くは他の業界や企業にいっても必要とされることが多く、反復作業で生産性を落とすくらいならば他の企業で仕事をした方が良いだろうと思うのだ。

例えば、人事に関わる人は人事制度を作ったり、組織方針を作ったりする時に、専門的な知識が必要になってくる。しかし、それが終わった後には彼らには日々発生する人事マターの反復業務になってくるわけだ。付加価値としては制度作りのときが一番生産性が高く、制度が順調に運用される様になればやることはなくなってしまう。大企業で3~5年で人事制度の見直しなど常に仕事がある場合を除けば、スペシャリストであればあるほど一つの企業で継続的に仕事はないと思った方が良いだろう。

ここで見えてくるのは、どの職場でも必要とされる労働力が変わってきているということだ。ブルーカラーであれ、ホワイトカラーであれ、高度であればあるほど一つの企業ではその能力が短期間しか要求されない。また、他に必要としている組織は沢山あるということになる。

しかし、スペシャリストになれない人も当然ながらいるので、そういう人は継続的に同じ場所で仕事をして生産性を向上させる方が良い。

つまり、組織にとって、能力が高い人であればあるほど短期間で成果を挙げて去り、能力が低い人ほど正確な仕事に打ち込むというのがベストではないだろうかと思う。

今、リストラが話題になっている中で、一番まずいことだなと思うのは、企業から能力が低いと思われている人ほどリストラの対象となっていることだ。苦境に立った組織では、実は一心不乱に今の仕事ぶりを良くしていく人の方が必要とされる。毎日同じようなことを、少しずつ改善していく地道な取り組みにひたむきに打ち込める人が必要になってくるのだ。逆に、今やっていることの枠を突破して新しい着地点を見出そうという人はそういう現場ではあまり必要でないことの方が多い。そう考えると、全てではないにしても、能力の高い人から他の職場に斡旋して、そこで新しいことを始めてもらうほうが良いのではないかと思う。

例えば、能力が高い人を自分達の顧客企業に斡旋して転職してもらう。その人が顧客企業の業績を挙げてくれれば自分達の仕事も増えていく。残された人材は今の生産性を極限まで高めることに邁進する。

つまり、労働者の高い層の人たちは何時までも組織にしがみついていない方が良いだろう。

もちろん、能力には「高」と「低」しかないわけではなく、その間に傾斜があるわけで、中間であればどちらの選択もありうるだろう。

いずれにしても、企業自身も人材を「囲い込む」目的を考え直す時期に来ているし、労働者自身もプロフェッショナル・スペシャリストになっていけるように自分を高めていくべきだろうと思う。