2010年10月10日日曜日

小沢一郎強制起訴は司法のあり方を変えるターニングポイントになるだろうか?

小沢一郎が検察審査会による決定で強制起訴になったことは政界、司法界、論壇で話題を呼んでいる。小沢一郎が離党や議員辞職を拒否したことも様々な議論を招くネタとなった。しかし、たかだか経済事犯の疑いによる起訴にみんな騒ぎすぎではないだろうか。

確かに、小沢一郎ほどの世俗的権威を持っている人が疑いをかけられるのは良い事ではない。しかし、ただ通勤電車に乗っているだけで痴漢の嫌疑をかけられる現代社会にあって、社会的地位がある人ほど犯罪に関わってしまうものだろう。ただ、これまでは如何に嫌疑があろうとも、確実な証拠でもない限り起訴されなかった。特に政治家などはよっぽどの場合でなければ裁判の場には出てこない。

「李下に冠を正さず」と言うが、さらには「正しても裁かれなければ良い」とでも言うが如く、法廷に上ることが徹底的に「恥」とされている様に思う。だが、司法に関わるものが人間である以上、「間違い」は避けられない。「間違って起訴される」ことも「間違って起訴されない」こともある。だから、裁判の結果無罪になることがあるわけだ。

裁判における「有罪率」は99%に上るが、それは検察が完璧な捜査をして起訴したというよりも、判事が有罪を疑う可能性がある事案は起訴しなかっただけだ。なにがしかの事案に対し、100%許されないというものから100%許されると判断されるものまであるとして、何%許されないことに対して有罪を申し渡すかは、その社会の規範による。その規範は時代により変わっていくので、適度に修正されないといけない。裁判員制度はその修正を促すものだ。

今までの日本の裁判では有罪/無罪の判断を実質的に検察が行い、量刑を判例に照らして判事が行う。弁護士は有罪を前提として情状酌量による減刑を勝ち取る技術を期待される。

しかし、仮に事実認定は別にして事実に対する有罪/無罪の判断が「市民」に委ねられるとすれば、裁判を通して市民に犯罪に対する規範が共有されるきっかけとなるかもしれない。それによって法曹人に期待されることは大分変わってくるだろう。