2009年7月3日金曜日

売家と、唐様で書く、三代目

「"3代目"麻生がぶち壊した吉田茂の戦後政治」
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20090702/199182/

55年体制の立役者となった吉田茂。その孫が自民党の、がっぷり四つに組んだ選挙の初めての敗戦を招くようだ。

「売家(ウリイエ)と、唐様(カラヨウ)で書く、三代目」

という川柳がある。三代目にもなると放蕩で資産を食い潰して家まで売りに出すが、趣味人らしく「売家」という文字を唐様の書体で書くというもの。麻生太郎が政権を食いつぶしたとは思わない。食いつぶしたのは自民党の全ての議員だ。

自民党は変わった。どぶ板の大きな政府を標榜し、田中角栄に代表される泥臭い政治から、大上段に構えた改革の剣をドスンドスンと政官界に振り下ろす都会的な政党に変わった。それが、自民党自体の求心力を破壊することとなった。ある議員は昔ながらの大きな保守政党を指向し、ある政治家は小さな保守政党を指向する。中には社会資本主義的な左派も出てきて、自民党の政治思想は空中分解をしてしまった。

この分解劇を演出したのは麻生首相ではない。小泉元首相だ。圧倒的な国民と財界の支持を背景に、党内の守旧派を押さえつけて大改革の先陣を切った。近年なかった長期政権は(5年足らずで長期政権になってしまうのもどうかと思うが)、改革を推し進め、多くの政治家のポリシーを浮き立たせ、省庁を揺さぶった。守旧派は身を潜め、嵐が去るのを待って、安倍・福田に襲い掛かった。

安倍・福田の二代が短命に終わったのは、民主党の強硬姿勢もあったが、自民党が背後から支えなかったことにも原因がある。仲良し内閣とか調整内閣といった「弱い首相」を演出するような発言が相次ぎ、それを自民党の議員は跳ね返さなかった。小泉改革潰しを民主党と一緒になってやったようなものだ。民主党も必ずしも小泉改革に反対ではないものの(規制緩和や官僚改革は民主党と平仄が合った)、政権欲しさに為にする反対を繰り返した。

この記事は55年体制を麻生首相が浪費したかのように言うが、55年体制を破壊したのは小泉元首相である。しかし、破壊された55年体制をゼロベースで再構築しなかったのは麻生首相を含めた自民党自身だ。小泉元首相は「私が自民党をぶっ壊す」と言った。その通りとなった。しかし、再構築までが彼の仕事であるべきではなかっただろうか。確かに総裁多選を戒めるという点で任期満了をもって辞めたのは立派だったかもしれない。しかし、途中で改選を数回やったから多選になっただけであって、総裁だった期間が長かったわけではない。

この三代目は唐様ではなく漫画様で書くようだ。教養が知れる。しかも、漫画論を語れるほどではない。次の選挙で政権が変わっても違う書体で書く三代目が首相の座に就くだけ。変わらなさに祖父たちもびっくりしていることだろう。

山笠のあるけん博多たい!

「博多祇園山笠:王さんら「台上がり」−−13日、集団山見せ /福岡」(読売新聞)
http://mainichi.jp/area/fukuoka/news/20090703ddlk40040346000c.html

山笠である。ちょっと心躍る。

博多の商人は梅雨の頃になると店頭から消える。どこに行っているかというと山笠を作る準備をしたり、飲んだり、子供山笠の指導をしたり、飲んだり、気合を入れたり、飲んだりしているのだ。まあ、基本的に山笠に備えて毎晩飲んでいる。んで、お店はおかみさんが守るという構図だ。なので、九州男児がどうのこうのと格好いいこと言って亭主関白のように振舞うが、基本的には博多の男は奥さんには頭が上がらない。

さて、その山笠に王貞治前監督がお目見え。福岡ダイエーホークス時代から数えて十数年。福岡に居を構え、墓も建て、すっかり博多の人になった王さんがはじめて舁き山に上るというのも驚きだが、是非雄姿を見せて欲しい。

2009年7月2日木曜日

一澤帆布長男、対抗措置の仮処分を申請 兄弟間の争い継続へ

一澤帆布長男、対抗措置の仮処分を申請 兄弟間の争い継続へ
http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/090702/trl0907020726000-n1.htm

この事件の背景を簡単に記述しておくとこうなる。

1905年創業の一澤帆布が一澤信夫(三代目)の元で昔ながらのプロ向けの帆布製品を製造していた1980年に、朝日新聞社に勤めていた三男の信三郎が入社する。この当時、一澤一族で会社にいたのは信夫の弟と四男。その四男は96年に退社する(この時の経緯に今回の騒動の根があるのではないかと推測します)。信三郎は一澤伝統の技を使った消費者向けのカバンの製造と販売を開始し(SPAですな)、全国に知られるブランドに育成する(これまた、四男の屈託があったのではないでしょうか)。

三代目信夫が死去したとき、一澤帆布の代表取締役社長は信三郎だった。信夫は遺言書を残しており、株式の三分の二を三男信三郎夫婦に相続するという内容であった。その後、元東海銀行の行員だった長男信太郎が日付の新しい別の遺言書を持ち出した。その内容は株式の三分の二を長男と四男に相続するというもので、三男には実質的に何も相続させないという内容であった。

遺言書の日付が新しいため、法的には信太郎の持ち出した遺言書の方が有効になる。そのため信三郎はすぐさま遺言書の無効を訴え出るが、最高裁までいって「無効と断定する根拠がない」と敗訴となった。信三郎は取締役を解任された上、会社からの退去を要求される。信三郎は事前に一澤帆布の製造部門を分社化しており、その製造部門を引き継いで新会社を設立した。従業員も全て(信夫の弟も含めて)信三郎に従い、材料である帆布の供給元も信夫の会社との取引をしないと表明し、信夫は窮地に追いやられる。

その後、職人を集めたり、中国に工場を作ったり、と信夫はなんとか一澤帆布再会にこぎつけるが、今回の三男の妻の訴訟で遺言書が無効であると判定され、法的には代表権が認められない状態になった(ビジネス上の登記などとは別)。今回の申請は、三男の弁護士が言うように要求の法的根拠が分からないが、「30人の従業員の地位保全」を持ち出されると難しいことになる。裁判所は基本的には最も立場の弱いもののために動く傾向があるので、仮処分を受理しないと一澤帆布の従業員の地位が保全されないと判断すれば受理するかもしれない。このあたりは長男は上手い。

でも、長男と三男を比べた場合、圧倒的に三男に分があるように思う。というのも、長男側には周囲の支援が殆どないからだ。履歴も長男は家業に殆ど関わっておらず、四男は家業から身をひいている。この状態の二人に先代信夫が家業を譲ると決断する理由が情理両面から見てあるように思えない。この騒動も数年経過している。いっそ、信三郎が一澤帆布の株式を当時の評価額で信太郎に売却する提案をした方が良いのではないか?実質的に現在の一澤帆布は法人としては過去のものと一変している。一澤のブランドの使用を禁止して、その分だけ株式評価額を下げても良い。

もしくは、信三郎が現一澤帆布の従業員の地位保全を約束しても良いだろう。そうすれば長男の申立の根拠はなくなると思う。

衆院選に向けて色々

民主党がマニフェストを公開した。自民党は内閣改造と党人事の変更を検討しているのだとか。どちらも衆院選を睨んだ動き。都議選後にも解散か?という噂もあるそうで、政界は落ち着かない。

麻生総理は総理主導の人事で印象を変えたいと思っているらしいが、党内には抵抗がある。改造人事でポストを失うと選挙を戦えなくなるという思いもあるのだろう。特に現職者やその出身派閥からの抵抗は激しい。でも、それで総理の指導力が発揮出来ないとするなら、自民党は選挙に勝てまい。

(※というようなことを書いていたら、結果的に人事は閣僚の補充で終わってしまった。目玉の東国原知事入閣も(報道先行で、話が上がったかは怪しいが)、党首脳の異動も無かった。麻生総理の指導力が低下という評価は避けられない。当初から閣僚補充だけであったなら、麻生総理は報道を断固否定しておくべきだったし、そうでなければ断行すべきだった。党内実力者達も選挙を睨んでのことなら、表向きは反対しても、強行させて麻生総理の株を上げるべきだったと思う。この騒動で選挙結果はますます分からなくなってきた。)

日経オンラインに選挙における公約と投票行動についての考察が掲載されていた。曰わく、

「人はプラスのリスク(利得)は高く、マイナスのリスク(損失)は低く見積もりがち」
「公約実現の可能性は実績で言えば自民党の方が高く、民主党の方が低い」
「自民党と民主党が共に利益誘導的な公約を掲げると自民党に支持が傾く」
「自民党と民主党が共に増税などの公約を掲げると民主党に支持が傾く」

つまり、利得を得る場合は確実に利を得るために自民党を支持し、損失を被る場合は可能性が低い民主党を支持するというのだ。このエッセイは採用しているコンセプトは間違っていないのだが、肝心の実例への適用で間違っていると思う。

A)100%の可能性で一万円が手に入る
B)1%の可能性で百万円が手に入る

この場合、多くの人はAを選ぶ。

A)100%の可能性で一万円を失う
B)1%の可能性で百万円を失う

この場合、多くの人はBを選ぶ。

これに選挙公約を適用するのであれば、

自民党)80%の可能性で国家予算が10兆円増加する
民主党)20%の可能性で国家予算が40兆円増加する

自民党)80%の可能性で国民負担が一万円増加する
民主党)20%の可能性で国民負担が四万円増加する

となる。この場合、利得と損失(予算と財源)は符合するので選挙の際に「やれ、財源がない」といった話しにはならない。だが、自民党のマニフェストは財源としての増税も、予算を増やす実績もあるが、民主党は「予算は増やさず、増税もしない」といっている。投票する側からすると民間に回ってくるお金の期待値は自民党より小さく、負担増加の期待値も小さいということになる。

実際の投票行動は理屈では推し量れないが、自民党が公共サービス拡充をアピールして勝つか、民主党が国民負担軽減をアピールして勝つか、といったところだろうか。

2009年7月1日水曜日

高齢化する団地

日経の39面に「子供の声ない都営団地」というサブタイトルで都議選の特集が組まれていた。

東京都だけでなく、大規模な団地開発が70〜80年代に行われた政令指定都市などでも同じ問題に直面している。僕の実家は福岡にあるが、70を過ぎた両親が二人で30年以上住み慣れた団地に暮らしている。同時期に入居したご近所さん方も殆どが70を越していて、子供の数も少ない。

先日父親が軽い脳梗塞で入院した。幸い大事には至らなかったが、後遺症が出たなら年老いた母だけではどうにもならない。団地は公園も風化して子供の姿もまばらだ。治安は安定しているので、住みやすいと思うが住人の入れ替えは進んでいない。

5階建ての棟が殆どで、エレベーターがないので高齢者には不便になっている。そこで、提案として、近隣のエリアを区画整理して高層マンションを建て、一部の住人を移れるように出来ないだろうか。マンションは低層階に病院やレストラン、区の出張所などを付設する。空いた団地は若い夫婦などが安く入居出来るようにする。

大規模な団地の問題は人口流入が一時的で変化に乏しいということだ。だから、同時期に高齢化してしまう。人口流入を促す為には、ある程度の割合で空室があって、新しい入居者が出てくる必要がある。そうすれば、様々な年代の人たちがモザイクの様に重なり合って暮らして、街に活力ある落ち着きが出てくる。と、思うがどうだろうか。

2009年6月30日火曜日

すげぇチャンピックス

20年来の喫煙者である。過去に禁煙に挑んだことはない。それが、思うところがあって禁煙に挑戦。

んで、この土曜日に禁煙外来へ。内服薬のチャンピックスを試すことに。土曜日〜月曜日までは一錠を1日一回。何の変化も無く、本当に効くのかな〜と疑問が湧いてきたところで今日から朝晩二回に。

すると、10時頃に一服しに行ったところで変化が。マ…マズイ!タバコが不味い。タバコの煙りもマズく感じる。喫煙所にもいられない。

こんなにも効くとは!恐るべし。

宗教心無き政治は幸せだろうか?

今年の夏は選挙で終わるかもしれない。麻生総理に広島と長崎の市長が選挙を夏にしないでくれと陳情に行ったのだとか。8月6日と9日に選挙がかぶさると式典に影響するからだ。式典を取り仕切るのも、選挙実務を取り仕切るのも、市役所や自治会などだから、行事が重なると双方に影響が出てしまう。そう考えると夏の選挙は避けた方がと思う。

終戦記念日や原爆記念日と並んで夏の風物詩となっているのが「靖国問題」だ。やれ、首相が靖国を参拝するのは首相としてか個人としてか。政教分離の原則に悖るとか。靖国ではなく国立の鎮魂施設を作ったらどうかなんて話も。

首相と個人が分離することはなく、都合よく切り替えが出来る訳がない。サラリーマンだって、○○商事の××部長という肩書きが外れるのは退職した時だ。この「公人としてか私人としてか」という質問自体がアホらしいのだ。だから、参拝する政治家は政治家としての信念をもって参拝して欲しい。

政教分離が話題になるのも夏の風物詩だ。政教分離は特定の宗教の利益をはかる為の政策決定がされてはいけないというものだ。元々はキリスト教に振り回されて十字軍などの政治決断をしてしまった歴史のあるヨーロッパが発祥で、政治と宗教の歴史的関係が違う日本に持ち込んでも実用的ではないと思う。日本では政治に対する宗教の関与が織田・豊臣・徳川という封建体制の確立の中で整理され、江戸期には政府の一機関として組み込まれてしまい、宗教の政治に対する影響力は弱まってしまった。

明治以降の信教の自由化によって活動を活発化させたが、十字軍の様に宗教者が偏狭な価値観によって政治を弄断したことは、日本ではないのだ。起きたこともないことを大袈裟に煽って人々を混乱に陥れる「狼少年」は有害である。国立慰霊施設を「国家が宗教をおこす様なもの」と指弾したのは誰だったか。その指摘は正しいと思う。

政治家が慰霊の為に靖国を参拝するのは大いなる宗教心による。中には為にするものもいようが全くしないより良いと思う。選挙を広島・長崎の原爆記念日に重ねないのも、実利を越えた宗教心によってしか実現しないように思う。

宗教心無き政治は幸せだろうか。


追記
僕は政治家が宗教心(自然や他者への畏敬)をもって政治に取り組んで欲しいと思うが、宗教団体が自分たちの理念実現の為に政治に介入してくることには反対である。宗教の偏狭さ(一般論)は民主主義と相容れないと思うからだ。特に「世直し」を掲げる宗教は反対者を弾圧しがちなので許せない。宗教団体には政治の網から漏れた人々を救い導いて欲しいものだと思っている。

全体主義

SAPIO誌上で小林よしのり氏が沖縄・北海道を「全体主義」と指摘している。沖縄・北海道在住の人はもとより、論壇からも批判があるそうだ。だが、沖縄や北海道など辺境の地が全体主義になるのは当たり前であろう。

梅棹忠夫は「文明の生態史観」で彼が言うところの「悪魔の巣窟」=中央アジアから出てくる遊牧民に脅かされた中国・インド・ロシア・イスラムは彼らに抵抗する為に中央集権の帝国を建設するしかなかったと言っている。民族や国家、コミュニティーの存続が脅かされる時の人の反応がおしなべて中央集権的に、全体主義的になることの証左であろう。現代にあっても存続の危機に直面している国や地域は全体主義的になっている。中国とロシア・イスラムは伝統的に全体主義で、東ヨーロッパも混乱が続く中で全体主義的になる。インドは揺らいでいる。全体主義から最初に脱するのはインドなのだろう。

最大の全体主義国家はアメリカだ。アメリカは集団が自然発生的に出来上がった国ではなく、理念や宗教に基づいて人工的に建設された。だから、その建国の理念が崩れると瓦解するのだ。だから、その可能性に怯えて常に理念を確認し、互いのアイデンティティを確認しあう。それが全体主義の相を形成するのだ。

沖縄と北海道は地理的に国際紛争の最前線になってきた。また、沖縄には日本と中国の間で独立を守る為に緊張した外交を続け、日本の支配下では沖縄の独自性の危機に陥ることが多かった。北海道は入植者のコミュニティーであり、さまざまな事情により故郷を離れて北海道に生き残りをかけた人々の土地だ。

だから、この二つの地域は全体主義的になりやすいし、事実なっているのだろう。全体主義的になってしまったことは歴史の成り行きであり、恥ずべきことでもない。それによって彼らは生き抜いてきた。その事実を認めずに避けて通ることの方が問題である。

国際化時代の現代にあっては辺境であることは大きなアドバンテージだ。新しいビジネスも、新しいカルチャーも、辺境で自然に発生する多様性の中から出てくる。そのチャンスを実にするためにも、全体主義のくびきを脱して多様な意見を許す社会を取り戻さないといけないのではなかろうか。

2009年6月29日月曜日

冤罪事件の再審に警察・検察関係者が出てこないことは適切か

週刊プレイボーイで冤罪被害者の菅家氏と柳原氏の対談が載っていた。二人とも冤罪によって収監され人生を棒にふった。

さて、柳原氏は再審が始まっているが、当時の捜査関係者の証人請求が却下されていて、冤罪が起きた構造がこのままでは明確にならないという事態になっている。

冤罪の再審に捜査関係者の証人尋問が許されないのは不公正である上に再発防止を講じる手だてを失うことでもある。捜査関係者の身になって、どうしてこんなことになったかと考えると、様々な圧力が働いたものなんだろうと思う。上層部や市民、メディアの期待。仲間同士の期待。それらが重なり合って起きたことだと容易に想像出来る。

ビジネスでも同じだが、失敗は関係者の期待や思い込み、時には善意によって引き起こされる。それは実は失敗に至る構造があることがほとんどだ。ビジネスの世界でも、その構造に光を当てて改善を図ることが行われているが、冤罪もその様な観点で解明していって欲しいものだ。

東国原知事騒動

東国原知事が国政に出る場合には自らが総裁選に出馬出来る環境作りをして欲しいと要求して物議を醸している。自民党が受け入れなければ民主党に協力するとも。

地元では知事を務め上げて欲しいという声が優勢とか。政界では「馬鹿にするな」という感情的な意見が多い。マスコミでも批判的な意見を言う人が多いので、マスコミや論壇も反対の様だ。

東国原知事の申し入れは実に理に叶っている。他人に協力を求める時に見返りを要求するのは当然で、通常見返りは「金銭」「役務」「名誉」のいずれ、もしくは全てである。個人のやりとりだと名誉が一番尊く、金銭で贖うのは相手を侮辱していると言われることもある。

なので東国原知事が要求としてそのどちらでもない「役務」を要求したことは良かった。しかし、自民党がだめなら民主党に協力という態度はいけない。結局両天秤に載せて出方を見るという卑怯な態度と見られてしまった。ただ、この騒動は「自民党も民主党も政策に変わりはない」という事実を浮き立たせるかもしれない。

自民党と民主党はその出自から言って親子もしくは兄弟みたいなものだ。しかも、十数年前の与野党逆転以来の政争と自民党の政権復帰をかけたポピュリズムによって双子とも言える程に変容してきた。両党の総裁・代表が自民党創立期の立役者の孫同士であることを思えば、その抱える良いものも悪いものも同じに違いないと容易に想像出来るだろう。どちらも保守本道を主唱しつつ、党内の左派に阿って「大きな政府」に傾きがちなのだ。

戦前・戦中の反省は政治家の役割を制限し、尊敬の念を著さない方向に国民を追いやった。これは政治家自身の目論見も問題もあるが、戦後の論壇にはびこった無政府主義の雰囲気に若い学生が反応したのが原因だ。それは革命思想を生み救いのない犯罪に至った。あの時代に政治と国民生活の間に出来た溝を政治家は埋められないまま今になった。

国民生活から遊離し、双子の兄弟が喧嘩をしているような政治の現実を、今回の東国原知事騒動は明らかにしているように思う。

平均というものについて考える

「平均」というのは良く使う概念である。だが、普段「平均」が意図するところを理解して使っているだろうか?と思う。

世間で一般的に良く使われるのは「算術平均」というものだ。値が3つあったら、合計して3で割るというヤツ。でも、平均はこれだけではない。僕が時々使うものには「幾何平均」と「ベクトル(平均)」がある。

幾何平均は値が3つあるとき、それらを掛けて3乗根するというもの。4つならば4乗根となる。ベクトルは値をそれぞれ二乗して加えた後に二乗根をとるというもの。

幾何平均は単なる平均ではなく、それぞれの値のバランスが良いものの平均値が良くなる。逆に、ベクトルはいずれか一つもしくは複数の値が突出しているものの平均が高くなる。算術平均は特徴はない。

合計点を出したり、平均点を出すときに気をつけなければいけないのは、何のために出すのか?ということだ。特に目的もなく、良い点数のものを選ぶというだけならば、特に平均の出し方にこだわる必要はない。しかし、例えば「バランスの取れたものを選びたい」と思えば幾何平均を使うべきだし、何か特徴のあるものを選びたいと思うのであればベクトルを使うべきだ。

一度、平均を使うときに何のためにやるんだろう?と考えてみてはどうだろうか?

ゆうちょ銀行とかんぽ生命が完全民営化すると経済活動が刺激されるという話し

あるところで僕が郵政民営化に賛成であることについて、「郵政を民営化するとアメリカにお金を吸い取られる」とか「外資が資本を握ってしまって乗っ取られる」という意見を貰った。

「郵政民営化で外資がゆうちょ銀行とかんぽ生命を食い物にする」
「アメリカがたくらむゆうちょ銀行、かんぽ生命乗っ取り」

こういう内容のセンセーショナルなタイトルは「ハゲタカファンド襲来>>企業買収>>資産切売>>資本流出」というロジックで良く目にした。果たしてそうだろうか?

外資に買われるかどうかはその時の経済状態による。ただ、他の金融機関が破綻したもの以外は外資に買われていないのだから、そんなに心配することもない。第一、リーマンショックでアメリカの金融機関を買いたたいたり、買いたたこうと日本の金融機関も動いたではないか。アメリカがゆうちょを買おうとするなら、日本がバンカメを買えば良い。

金融機関に対する投資制限があるのだから、よっぽどのことがない限りゆうちょ銀行が買われることはあるまい。

日本政府が売り飛ばすかもというのは具体的にどうやって?と思う。仮に、ゆうちょ銀行が海外に売り飛ばされても、保有する資産は預金者のものだから、その金がアメリカ人のものになるわけではない。ゆうちょ銀行がアメリカ国債に優先的に投資して、それでアメリカが減税や公共投資をするなんてことは考えられる。ただ、日米の資金バランスが崩れるために政府は保有するアメリカ国債を手放してしまうだろう。ゆうちょ銀行を通じてアメリカに金が流れても、それでは円に比較してドルが安くなるのでアメリカ人は資産を円に投資してマネーは日本に戻ってくる。

結局、国際的な資金バランスは多国間の経済バランスの上で転がる。日本の産業が健全で経済が活発であればどこからマネーが流出しようと結局は日本に戻ってくる。

ゆうちょ銀行が国営であることの最大の問題点は民間金融機関に比べて圧倒的な規模と投資のほとんどが国債であるということだ。日本政府が発行する国債の2割以上はゆうちょ銀行が引き受ける。かんぽ生命を含めるともっと。この巨大な資金供給があることが、政府予算の無秩序な膨張につながっているのだ。

ゆうちょ銀行が民営化して他の預金銀行と同じになったとしたら、その投資の一部は民間に振り分けられる。企業の投資にも決済にも十分な資金供給がされるから企業活動が活発化し経済が刺激されるだろう。

郵政民営化に反対という意見で主張されるのはハゲタカファンドにかすめ取られるとか、かんぽの宿の入札に疑惑があるとかないとか(結局なかったが)、小泉・竹中が利権を握るためとか、本筋の郵政民営化すると何が悪いのかということに反論していない。