2009年12月28日月曜日

識者の談話を疑えの好例

日経新聞 2009年12月28日 朝刊 30面
「論点争点 メディアと人権・法 "社会の公器 認識を" 長谷部恭男・東大教授に聞く」

日経新聞の編集員(田原和政 氏)が東大の長谷部教授にインタビューしている記事が如何にも自分たちの主張に都合が良いようになっていて笑えた。

民主党政権に変わって注目された記者会見の記者クラブ以外への開放について以下の様にコメントされていた。
「(前略)会見する側との力関係があって、長年場数を踏んできた記者の方が聞きにくいことを聞き出せることはあり得る。適切な会見は状況に応じて異なる。それを会見側にすべて決めさせていいだろうか」
新聞やテレビ局などの大手メディアが良く主張する論法だ。しかし、長年場数を踏んできた記者と取材対象との間に容易に「癒着」が発生しうるということが指摘されていない。実際に、読売新聞の社主やNHKの会長といった人は長年社会部の記者をつとめて政治家と癒着して政治に介入するが如き行動が目に余る。それに"会見側に決めさせて・・・"というのは事実と違う。元々記者会見の主催は取材対象にしかあり得ない。特に、政治という公共性の高いものは会見を義務化し、取材対象が「開催するかしないかを決める権利」を放擲しているだけであり、取材する側に会見の開催権があるというのは論理的にはあり得ない。そして、今回の記者会見の開催様式の変更は、全てのメディアが会見場で質問も含めた取材ができるようにするということである。
そこに対する反論が一つにはセキュリティの問題、もう一つが会見時間の問題なのだそうだ。しかし、セキュリティに関しては現在も特にセキュリティチェックが行われているわけではない。大手メディアの社員という理由で安全ということにはならないし、記者クラブという任意団体のメンバーにあったことがどれほど安全上の保証になるというのだろうか。また、取材者が増えると会見時間が長くなるといったことも聞こえるが、本末転倒である。問題があれば幾ら時間をかけても、特に政府関係者は会見を行うべきだろうし、それを質問を事前に整理して短時間で終わらせるというのは効率化というより取材相手に対する便宜でしかない。そこに取材者と取材相手という緊張感は微塵も感じられない。
更に、この教授はこうも言う。
(当局の便宜を受けているから都合の良い情報しか流していないとの批判がありますが)
「いわゆる特権とあれるもののすべてが否定されるべきだとは思わない。報道に認められたカッコ付き特権は、社会公共に対する責務に応じた職業倫理と結びつく性格のものだ」
ちょっと信じられない感覚だ。メディアは"公器"なのだから税金を恣意的に使うという特権は許されるべきだというのだ。それに耐えられるほどメディアには倫理観があるらしい。こういうのを盗人猛々しいという。倫理観が高いのであれば、当然国税を使って提供されているサービスには対価を払うべきと考えるはずだろう。金銭による対価が支払われていないとするならば、報道に手加減を加えるという対価が支払われているに決まっているではないか。

2009年12月25日金曜日

イノベーションや生産性改善や内外価格差の利用による価格競争はデフレではない

週刊誌でどこかの大学教授が「ユニクロ型デフレ」なるものを"創造"し、槍玉に上げていて、それに対して池田信夫氏が批判を加えたり、ファーストリテーリングの柳井氏が「反論に値しない」と言ったりと話題になっている。新聞記者ですら「ユニクロやエイサーの様な企業が日本をデフレに追い込んでいる」などと言うほどに、「デフレ」は誤解されているのだな〜と思い、備忘録としてまとめておこうと思う。

ユニクロなどが取り組んでいることは、資源の内外価格差を利用したコスト削減である。エイサーは生産数を蓄積することで、コモディティー化した領域でコストを削減し続ける経験曲線モデルを採用して価格競争力を高めた。

シュンペーターはイノベーションを以下の5つに分類した。

1)新しい財貨の生産
2)新しい生産方法の導入
3)新しい販売先の開拓
4)新しい仕入先の獲得
5)新しい組織の実現(独占の形成やその打破)

ユニクロがやったことは4)の「新しい仕入先(中国の協力工場)の獲得」であり、2)の「新しい生産方法(SPA)の導入」であった。最近はヒートテックなどの1)新しい財貨の生産も始めている。エイサーがやったのは3)新しい販売先の開拓である。今までコンピューターメーカーに販売していたのを直接消費者にアプローチすることでイノベーションを起こした。

イノベーションの大半は価格破壊を伴う。かつてトヨタは質の良い自動車を低価格でアメリカで販売した。トヨタは「新しい生産方法の導入」によるイノベーションでアメリカの自動車メーカーに比べて圧倒的に低価格で自動車を販売した。トヨタが引き起こしたイノベーションは「生産性改善」をもたらした。これは生産に関わる労働力の削減、つまり自動車メーカーで必要とされる労働者を減らすことに成功した。

そう。生産性の改善はその産業の雇用吸収力を小さくする。そのため短期的には失業者が増加する。しかし、かつて灌漑や鋤・鍬の発明によって農業の生産性が改善して農業を離れた人たちが他の商工業によって世界を豊かにした様に、その産業や企業を離れた人たちが新たな事業を起こし、新たな雇用を生み出すのだから、短期的な失業者の増加はむしろ新たな雇用を生むチャンスを増やしていると言える。

では、ユニクロやエイサーがやったこととデフレは関係があるのだろうか?それは「デフレとはなんぞや?」ということに答えないといけない。デフレとは、需要が供給に対して大きいために、財貨が買いたたかれることによって物価が下がることを言う。今の日本は欧米の金融不安によって心理的に縮こまっており、需要が引き下げられてしまっている。そのため物価が僅かに下がる傾向を見せている。

このデフレによる物価下落は「生産性改善の裏付けがない」ことに特徴がある。つまり、企業が値下げをするには従業員の給与カットや仕入先に値下げを強要するしかないのだ。一方でユニクロやエイサーはイノベーションによって価格破壊を行っている。そのため彼らの売上は拡大し、関連企業や業界は潤っている。ユニクロは店舗を増やして雇用を生み出しているし、エイサーを扱うことで量販店も潤っている。衣類生産の雇用は中国に流出したが、鎖国でもしない限り雇用が流出することは避け得ない。

日本はこれから労働人口が減少していく時代になる。労働力が過少になれば賃金は高くなっていくが、それだけの高給を得られる仕事は少ない。だから、今までのやり方を全く変えて生産性を上げることに真摯に取り組まないといけない。それを学者ともあろう人が、特定企業のビジネスモデルを根拠もなく批判するとは。学界や論壇にこそイノベーションが必要ということなのだろうか?

2009年12月8日火曜日

なんか色々と謎めいてきた世界

クライメイト事件で温暖化の実体が疑問視されるなか、日本ではそんな事件がなかったかのような感じ。大手メディアではサッパリ報じられない。んで、鳩山兄弟の偽装献金疑惑もハテナ?サッパリ追及されない。

というか、鳩山兄弟が与野党に分かれている時点で怪しい。麻生政権末期の郵政叩きは、なんでこの人自民党に居るんだろう?と疑問に思った。んで、資産家のお母さんにお小遣いもらって政治ゴッコやっている由紀夫坊ちゃまの政権が「高速道路無料」を言っているのは利益誘導を疑われる。高速道路が無料になると、長距離ドライブが増えてタイヤが減るので、鳩山兄弟の母親の持っているブリヂストン株は値上がりする…なんてことを考えて、ちょっと寒気がした。

李下に冠をたださずと言うが、ただし捲りの鳩山兄弟は終わってくれないかなぁと思うのだ。

2009年12月5日土曜日

概算要求を縮減するアイデア

自民党政権以上に概算要求予算が膨らんだ鳩山政権。仕分けたりして不足分の40分の1を捻出したが、全く足りない。でも、来年度予算をスパッと削るアイデアがここにある。

まず、総務省の旧自治省以外を廃止する。通信や放送は事後的紛争解決機関を作って今の陣容の10分の1以下にしてしまって、郵政省部分も日本郵政の完全民営化で、株主代表としての事後的紛争解決機関を作って移管する。これで、総務省は今の5分の1くらいに縮小出来る。

国土交通省は高速道路を中心とした全国的な交通インフラの再構築に集中して、ダムや地方の道路行政は全て地方に移管する。国道は高速道路だけにすれば良い。"国土"交通省としては山林などの国土保全が大事なので、農林水産省から農林部分を移して国土開発計画と国土保全計画を同時にやらせる。国土交通省は縮小しないが農林水産省を半分に出来る。

農林水産省の残りの部分は、規制の立案部分は消費者庁に、紛争解決は基本的には当事者同士で行わせて、重大な問題だけ事後的に関われば良い。これで農林水産省はゼロに出来る。

他にも沢山あるが、税収がない以上は無理に自分でやろうとせずに、逆にやらないことを挙げていった方が良い。基本的には事前規制は止めて事後的紛争解決のみを行政がやれば良い。紛争解決が増えると弁護士の不足などが問題となるが、行政書士が紛争解決を出来る様にすれば解決する。これで中央省庁の陣容が半分になれば予算規模も半分に出来る。人手が減って、カバー出来なければ、出来る量まで仕事を減らすしかない。それでも半分にならないのなら、もっと人を減らせば良い。

連立解消して普天間問題解決を

普天間基地移転問題で、鳩山政権が迷走している。

そもそも、ここまでもつれる理由を考えてみると、鳩山政権の真意が現行の日米合意案にあるからだろう。連立相手の国民新と社民党と同じ考えであれば、アメリカがなんと言おうが移転を白紙にして蹴飛ばしてしまえば良い。それをしないのは真意が移転合意であるからだろう。

だったら、連立解消すれば良いのに。たかが数議席の少政党が政権の意志決定を大きく制約してはいけない。何より、国民新と社民党は先の選挙で議席を減らし、国民にノーを突きつけられたのだから。

2009年12月2日水曜日

円キャリー再び

急激な円高進行に対抗するため日銀が「量的緩和」を打ち出した。

量的緩和の効果は「アナウンス効果」にあるらしい。実質的な金融政策の効果より、「やる」と言うことによる効果の方が高いのだとか。だから、今回日銀が「量的緩和」と銘打って大々的に発表することには意味がある。

ただ、2001年からの量的緩和では国際比較で調達金利が下がった円がキャリー取り引きに利用され、アメリカの住宅バブルの引き金になったと言われる。今はドルがゼロ金利状態でキャリー取り引きに利用されている。ドル安の原因はキャリー取り引きにもあるのだろう。

穿った見方としては日銀は「量的緩和」をアナウンスだけして、実質的なオペレーションはしないかもしれない。「量的緩和」に実質的効果がなく、国際金融に悪影響を及ぼすとなれば余り賢い手段とは言えないだろう。

さて、どうなることやら。

定常状態がデフレ

20日に菅副総理が行った「デフレ宣言」。これ以上の財政出動は難しく、円高が追い打ちとなり更に株安が続く。
ただ…。20世紀末に日本がデフレに陥って、一体いつデフレから脱出していたのか。物価が安くなるのは、ある意味当たり前。今まで物価が上がり続けてきたのはモノの性能が良くなってきたから。性能比で考えると物価は常に下がってきた。それを喝破したのは「ムーアの法則」だ。
だから、デフレは性能比の物価下落に対して、性能の改善や機能追加が追いついていないということだ。今までは性能改善が大きかったので物価が上がった様に見えていただけだ。現在の先進国の様に製品や商品の品質追加余地の少ないところでは所謂"デフレ"は避けられない。デフレを前提とした対応が必要で、無理にデフレを解消しようとしてもあまり意味はないと思う。

2009年12月1日火曜日

二大政党絶対論を山内康一議員が覆す

みんなの党の山内康一議員がブログで二大政党絶対論を批判する記事を投稿している。正直、この記事を読むまではなんとなく「二大政党の方が分かりやすい」のかなぁと思っていたが、主義主張を二元化する二大政党は全体の幸福に大して貢献しないだろうと思った。

今の「自民党」VS「民主党」は投票の選択肢が狭められ、有権者にとっては不都合だ。政党や候補者は「マニフェスト」を乱立させるから、有権者にとっては不満のある項目でも投票すれば同意したかの様に扱われる。そもそも、マニフェストに対する賛否で投票するなら「直接選挙」と変わらない。マニフェスト重視は政治家の質を劣化させることになるだろう。

更に、単純な政治二元論は有権者を劣化させる。今の「自民党」と「民主党」には自民党で主流になれたか、傍流に弾き飛ばされたか、という違いしかないので政権選択と言っても、カツ丼定食と天丼定食のどちらを選ぶかという程度のことしかない。違いが分からないので投票行動は雰囲気に左右される。あるいは報道量に。今盛んに「小泉改革の暗部」といった報道が繰り返されているが、一部宗旨替えをした人はいるが小泉改革路線に反対だった人は一貫している。でも、小泉批判の報道が少なかったために、「小泉旋風」が吹いたのだ。

今回の民主党大勝も同じこと。似たり寄ったりの両党の一方の期待を煽る報道が今回の結果となった。

さて、政治の多様性や新鮮さは政党の数に比例すると思う。元気な企業は少人数でも色んな人が集まり、色んな事業をやっている。元気な国には色んな意見があって、色んな政党があるべきだろう。考えてもみて欲しい。二大政党は北朝鮮や中国などの独裁国家よりも政党がたった一つ多いだけだ。そんな国の民度が高いと無条件に信じるのは考えが足りないと思う。

2009年11月24日火曜日

TVタックル雑感〜経済はどうやって立て直すべきか?

11月23日のTVタックルをちょっとだけ見た。
ゲストパネラーは次ぎの様な人たち。
三宅久之、亀井静香、岸博幸、勝間和代、岡野雅行、渡邉美樹、藤巻幸夫
それと無名の中小企業経営者などがスタジオで観覧していた。

さて、岡野氏の発言を少しだけ聞いたのだが、
「他の会社でも出来ることをやっていたら、価格競争で中国に奪われるのは当たり前。他では出来ないことをやっているから、自分のところには注文が途絶えることはない」
という発言に対し、スタジオ観覧していた大田区の町工場の経営者が
「岡野さんの様な一握りの成功者は特別。我々のような普通の工場は今のようではやっていけない」
と言っていた。

ん〜〜。町工場の経営者は、気持ちは分かるが自由経済の企業人としては覚悟が足りないと思った。岡野氏が言ったように、他と同じことをやっていたら、早晩価格競争で体力がない会社は敗退してしまう。ましてや、中国が国際競争力のある人件費を背景に攻勢をかけているのだから、価格が高いものでも買ってもらえるもので勝負しないといけない。それをこの経営者は研究開発などの努力は出来ないから、他と同じ様なことをして稼げるように政府がなんとかして欲しい、と言っているように思った。これは亀井静香の好きな社会主義統制経済を進めてくれと言っているようなもの。

恐らく、この経営者もしくは先代は高度経済成長の時代に良い目を見たに違いない。経済成長期は何をやっても成功した。その果実は得ているはずで、それが努力なく不景気になったから助けてというのはどうかと思う。「いや、努力していた」というかもしれないが、それは岡野氏とは全く違う努力だったのだろう。徹夜で旋盤を回すだけの努力は単価の下がった時間の分だけ長時間労働しているっていうだけのこと。岡野氏は単価が下がるのだから、単に旋盤を回すのはやめて単価を上げられる旋盤の回し方を考えろということだと思う。

勝間氏は「日銀が債権を買って支えればよい」と言ったそうだ。デフレを止めなければいけない。そのためには財政出動をと主張している彼女らしい。しかし、その金はどこから来るのかね?日銀が発行する貨幣は日本という国を担保にしている。日銀が債権を買い続け、不良債権となって資産が毀損したとき失われるのは日本という国の信用だ。それが信用不安に陥ると、日本円による国際間取引の決済は出来なくなる。それでもというのであれば、日本の資産(土地とか色々なもの)を売ってドルやユーロと交換しなければいけなくなる。日銀の信用不安が起きないというのであれば、インフレは起きないからデフレ解消には役立たない。

中小企業の債権を日銀が購入したとして、中小企業は一息つくかもしれないが、彼らに注文は舞い込んでこない。中国でも作れるものは、日本の価格では売れないからだ。「日本の方が品質が高い」というかもしれないが、需要サイドで「日本品質」を求めるところは少ない。それこそ、年間に数セットしか売れないものであれば最高品質が求められるかもしれないが、それでは日本国内で生き残れるのはそれぞれの分野で一番の企業だけ。二番手以下には注文はこない。だから、モラトリアムも日銀の債権買取も一時しのぎにはなるが、中国よりも安く「コモディティ化」した商品が提供できなければ、"普通の"中小企業は倒産を免れない。

であるならば、中途半端な中小企業は倒産しやすい様に政府が支援してあげてはどうだろうか?中小企業の経営者にとって切実なのは「経営者の個人保証による融資」である。つまり、社長の家屋敷を抵当にお金を借りているのだ。これがあるからやめるにやめれない経営者は沢山いる。法人の経営者は「有限責任」者であるのだから、自分が破産するまで会社の保証をする必要はない。そうでなければ個人と法人が分離できず、経営上の自由度を失ってしまうからだ。それを解消するためにも、経営者の資産を抵当にしている融資を整理して、経営者に資産を残した上で、事業を継続するか、どこかに引き継ぐか、清算するかを選択させるのだ。そして、法人融資で経営者の個人保証を求めることに制限をかけてしまえば良い。

倒産による事業譲渡や事業承継の法制度も見直して、企業に関わる人が再出発しやすい環境整備をするべきだと思う。

2009年11月18日水曜日

「文明論」だとすると尚のこといけない

民主党の小沢一郎幹事長の発言が尾をひいている。と言っても、テレビなどでは大きく扱われないようだが。

「文明論言っただけ」=キリスト教発言で説明−民主・小沢氏 http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2009111600901

という記事で

「宗教論と文明論を言っただけだ」と説明し、「東洋は、人類は悠久なる自然の中の一つの営みというとらえ方だが、西洋文明は人間が霊長類として最高の存在という考え方だ」

という発言をしたそうだ。

これは先の発言に輪をかけていけない話だ。

「東洋文明は自然と調和的で、西洋文明は人間が世界を支配する」という対比は良く行われる。
なるほど!と納得しそうな話だが、こんなのは嘘っぱちである。

東洋文明の代表選手は「中華文明」であるが、中華文明が如何に自然を蔑ろにしてきたか。中国大陸の都市は全て城塞都市であり、その城壁は焼き締められた煉瓦で出来ている。その煉瓦を焼くのに山々から木が切り出され表土が流出し、洪水が多発するようになった。万里の長城を築くのにどれほどの山や丘が禿山になったことか。中国と言えば儒教が有名だが、この思想では父親に対する孝行が何よりも優先される。これは人間至上主義(父親至上主義)であり、それ以外のものには比較すれば価値はない。ことほど然様に中華文明は自然に対する支配欲は強かったわけだ。

逆に西洋では例えば多くの国で広大な緑が整備された公園があり、庭園文化はとても発達している。イギリスでは都市と田園のゾーニングが行われているので無秩序な工業化が行われていない。そのため、ロンドンから少し郊外に出ると美しい田園風景に出会える。それに引き換え、日本は無秩序な開発が行われたために、日本全国どこに行っても特徴的な田園風景には出会えない。数少ない棚田の残る山村にも高速道路が走り、風景を台無しにしている。これは日本が「西洋化」したからではなく、ゾーニングや農業を保護する西洋化をしなかったからこそだ。自然をなし崩しに支配できると思う、自然と人間が不可分であるという思想があるからこそおきたことと言えるのではないか。

とはいえ、勿論西洋文明が自然に優しかったわけではない。比較の問題として両者に差はないということだ。

小沢幹事長は「キリスト教は独善的」と言ったが、実際に独善的でない宗教はないと思う。個人的な信念や信仰は独善的でないといえるかもしれないが、それが信者を獲得する、つまり他の宗派から改宗させる存在(教団とか教会とか)になった時点で独善的になっているのだ。それを自分達だけそうじゃないと言い募るのは、個人の意見なら別だが、政治家としては見識に欠ける。

2009年11月16日月曜日

人は不合理で、わからず屋で、わがままな存在だ。それでもなお、人を愛しなさい。

「人は不合理で、わからず屋で、わがままな存在だ。
それでもなお、人を愛しなさい。」

(それでもなお、人を愛しなさい—人生の意味を見つけるための逆説の10カ条-ケント・M-キース)

長い人生において、何も自分が好きな人とばかり付き合えるわけではない。時にはウマの合わない人、意見が違う人、好きになれない人と一緒に歩まなければいけないこともある。
著者は他の格言と共にそういう態度を戒める。
「すべての質問には三つの答えがある。あなたの答え、私の答え、そして、正しい答え」

いずれにせよ十倍以上になる

世界主要国のGDPは未だに一位アメリカ、二位日本である。この順位も早晩中国が日本を抜き去り、アメリカをも凌ぐようになるだろう。中国が経済成長を遂げるシナリオをいくつかあって、一つは今の様に中国共産党が中央支配を守りながら進めていくというもの。もう一つは中国が権力闘争の末に幾つかに分裂するというもの。一つのままであれば脅威だが、分裂すれば力が弱くなるから大したことはなくなるというのは早計で、分裂すれば互いに競争してより早く大きく成長する可能性がある。

成長は「余地」があるところにしかない。戦前、ヨーロッパ各国が、日本が国外に進出を繰り返したのは当時の産業モデルや経済モデルでは土地や資源が成長には不可欠だったからだ。しかし、戦後に省資源国家日本の成長を目の当たりにしたヨーロッパ各国は植民地政策の無意味さを悟り転身を遂げる。

戦後の植民地解放は資源を格安で手に入れるよりも資源を生む国と取り引きをする方が経済成長につながると分かったからだ。アメリカの戦後の繁栄の半分くらいは日本のおかげだ。でも日本はアメリカが独占したので中国はそうはいかないと列強は熾烈な競争を繰り広げる。

中国の繁栄を欧米各国が歓迎するのは未開拓の荒野が広がっているからだ。中国が発展し、購買力のある消費者が増えて、欧米各国が企画した商品を買うことで彼らは潤う。

中国が一つであれば、その成長は比較的緩やかだが、分裂すれば成長は加速される。欧米各国が中国に干渉するとすれば、この部分だろう。欧米自体に成長余力が限られる以上、中国に干渉して成長を促進する誘惑に駆られるだろう。その時に巻き込まれて割を食う立場にはなりたくない。

2009年11月12日木曜日

やらないよりはやった方がマシという程度で良いのか?

11月11日から政府による「事業仕分け」というのが始まった。報道を見ていると「財務省主計局主導」の茶番に過ぎないのではと危惧する。細かい方法は置いといて、今回の事業仕分けは「構造改革が前提ではない」ことから、些末な事業単位の改廃というものに終わってしまうのではないかと思うのだ。

概算要求のほんの一部、しかも省庁の固定的な仕事に関わらない部分の予算要求など、四の五の言わずに廃止してしまえば良い。企業が収入が減って手をつけるのは不要不急の費用だが、それで終わる企業に明日はない。例外なく、固定費圧縮に打って出る。

政府にも、固定費を圧縮する大改革(省庁を二割減らして職員を三割減らすとか)をやれば良い。公務員の整理解雇は企業より難しいだろうが、それを断行して日本にショックを与えるべきだろう。

いじる必要のないものをいじった結果

日経新聞 11月10日 朝刊 三面
「大衆薬販売伸びず」

大衆薬の店頭販売を「登録販売者」などが扱える様に緩和し、予防による医療費の削減を狙った改正薬事法で思った様な結果が得られていない。規制緩和が進んだカテゴリーでは新規参入が相次ぐが市場の拡大には至っていない。むしろ規制が強まった第1類は販売時の手間が敬遠され需要が萎む結果となった。

そもそも、買い手を増やして市場を拡大させ、予防させる為には、従来薬局やドラッグストアが出店していない地域での販売を容易にする事が必要になる。今回の改正で参入をよんだのはスーパーやコンビニなど既に薬局もドラッグストアもある場所に更なる出店を呼んだだけで、市場を広げるほどのインパクトはない。従来の薬事法では通信販売などの流通チャネルもあったが、それが閉ざされた為にむしろ基礎的なチャネル条件は弱まったと見た方が良い。

今回の規制強化で得をした人は実は一人もいない。ドラッグストアは競争環境が激化し、スーパーなどは多角化による損害が今後予想される。消費者は通信販売などの手段が閉ざされ、製薬会社は売り上げを落とした。医薬品のネット通販会社は破綻寸前だ。仮に、満足している人がいるとするならば、机上の空論を実施出来た厚労省の担当者だけだろう。

2009年11月10日火曜日

永住外国人の参政権について考えてみた

永住外国人の参政権付与について色々と取り上げられている。鳩山政権は鳩山首相をはじめ永住外国人の参政権付与について積極的な政治姿勢が強いため、期待が寄せられているものの様だ。しかし、永住外国人に対する参政権付与については世論調査でも否定的な意見が多く、軽々に認められるものではない。だが、日本には"在日"韓国・朝鮮人など永住外国籍者が多数いることは考慮されても良いだろう。

ただ、以下の点については特に意見を述べておきたい。
「外国人参政権法案は早期成立を 共産・市田氏「被選挙権付与も」」
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/091109/plc0911091651007-n1.htm
という記事で共産党の市田忠義書記局長は「外国籍でも住民として生活し、税金も納めている。住民自治の担い手となるのは地方自治の精神に合致する」と指摘。さらに「選挙権だけでなく、被選挙権も与えるべきだ」という見解を示したという。

税金を払っているのだから参政権を付与するというのは「国民に対して所与の権利として参政権を付与する」という民主主義の精神に反する。共産党に限らず、左派の政治家はこの点について本当に初歩的な誤解をしている。仮に、税金を納めているかどうかが参政権に関わるのであれば、納税額によって票の重み付けを変えないといけなくなる。納税額が多い人には100票とかいう具合に。逆に、納税額がゼロであれば投票することも出来ないという具合に。しかし、それは貧富や出自によって差別するという発想であり、納税しているかどうかは参政権と無関係であるということは肝に銘じなければいけない。

参政権はその国の国民として生まれたという「所与の条件」によって付されるものであり、そこには国民には国家に対する忠誠(盲目的なものではなく、批判的なものも含めて国家を愛する精神)があることが前提とされている。しかし、思想調査をするわけにはいかないため、日本では国籍を血統主義によって制限することで国家に対する忠誠を認定する代わりとしている。日本への帰化は一定期間の経済活動や日本語や文化に対する理解などをクリアすれば帰化できる。永住外国人の多くを占める在日韓国朝鮮人であれば日本への帰化は比較的容易に出来るだろう。

参政権を得たければ、既に多くの人がやっているように日本に帰化してしまえば良い。帰化しないのは、経済的理由や信条などによる選択であり、その選択を尊重するのであれば、特に無理に政治参加をしてもらわなくても良いではないかということになる。そもそも、在日韓国朝鮮人の永住資格は国際的に見ても非常に条件が緩く、厚遇されている。海外に永住しようとすれば、一定期間の経済活動はもとより一定以上の資産を持っていたり、投資をするという条件が必要になる。しかし、在日韓国朝鮮人は元々戦時中に日本国籍であったという理由から、日本への定住権が特別に無条件で付与されているというのが実態である。

この問題について以前から思っているのは、段階的に在日韓国朝鮮人の帰化を推奨していって、最終的には全員が日本国籍を取得するという状況を作り出すべきだろうと思う。それには現在在日韓国朝鮮人に供せられている各種特権や補助を今後25年程度でゼロにしてしまう方針を採るべきだろう。25年も経てば在日第一世代は殆どいなくなるし、第二世代以降は日本国籍をとるか外国人として制約のある国内での活動を甘受するか意志決定すればよいだろうと思う。

2009年10月29日木曜日

北欧モデルと都市化

「IKEA超巨大小売業、成功の秘訣」(リュディガー・ユングブルート著 瀬野文教訳 日本経済新聞社発行
2007)を読んでいる。近年日本で出店攻勢をかけているIKEAの物語りだ。戦後間もない創業から世界展開まで詳述されていて興味深い。

IKEAの成長のエンジンとなったのは創業者の特異なパーソナリティだが、成長を後押しした環境を見てみると面白い。IKEAの創業地スウェーデンは「高福祉国家モデル」とか「北欧モデル」とか言われて賞賛されている。IKEAもスウェーデンの成功企業として数多く紹介されている。

IKEAはスウェーデンの社会主義政権が進めた高福祉化の影響を、その創業期に受けている。スウェーデンでは福祉を厚くするために国民の都市への移住が意図的に推進された。広い地域に国民が点在するよりも、狭い地域に集まっていれば福祉サービスを安いコストで提供できるという考えだ。そのため、都市化が進み、多くの国民は日本と同じ様に狭い集合住宅やアパートに住むことになった。IKEAはその様な狭い住宅で安く家具を揃えるには最適な商品を提供して成長していった。

北欧の高福祉社会が都市化を前提としているというのは初めて知った。日本でも少子高齢化に耐える住生活空間を考えた場合、人口の集中による効率的な福祉サービス、行政サービスの供給は必須になっていく。都市化というと東京が思い起こされるが、実は東京は都市としては広範囲に散らばりすぎてあまり集積された空間とはいえない。高層住宅やビルは一部で容積率の問題によって23区の人口受け入れ能力は限界になっている。

福祉サービスの充実を考えると、実際にはもっと無住人地域を増やして、人口密度が高い地域を更に高めていかないといけない。東京にはもっと高層の住宅やオフィスビルが必要で、地方も重点的に高層化、高人口密度化を進めないといけない。住民の近くに福祉サービス拠点を作るよりも福祉サービス拠点の近くに住人に移り住んでもらう方がコストも安いし、手厚いサービスを提供できる。

民主党の高福祉社会を目指す考えは良いことであると思う。また、低炭素社会を目指すということも。ならば、具体的な住生活政策は国民を誘導して人口集積するのが一番であろう。無住人地域は緑化することも出来るし、大規模農業による食料供給基地として機能させても良い。国家全体のモデルとしては、人口が500〜1,000万人の大都市が10程度配置され、その都市の間に農業地帯と工業地帯が続くものだろう。住生活の基盤は都市にあって、特に福祉サービスを必要とする子供と高齢者は都市で生活することになる。壮年者は都市と農業地域や工業地域を行き来する。都市以外の地域でリタイア後を送る人は福祉サービスに対しては都市生活者よりは高い費用を支払わないといけない。貧富の差が出るのはいけないという考え方もあろうが、富裕層がより高い費用を支払ってより良い生活を享受することは妨げることは出来ないし、そのこと自体が産業を発生させると考えれば悪いことではない。

さて、民主党はこの様な国家モデルを構想しているのであろうか?このモデルでは田舎よりも都市に投資を集中させることになり、農業政策も小規模農業の集まりから大資本によるものに転換するので農業票を集められなくなる。その覚悟や如何に!

2009年10月26日月曜日

それでもなお、人を愛しなさい—人生の意味を見つけるための逆説の10カ条-ケント・M-キース

良い言葉について考えるのは自分の考えを成長させるに資することだ。
一つずつこれらの言葉についての考えを書いていこうと思う。

1. 人は不合理で、わからず屋で、わがままな存在だ。
  それでもなお、人を愛しなさい。
2. なにか良いことをすれば、
  隠された利己的な動機があるはずだと人に責められるだろう。
  それでもなお、良いことをしなさい。
3. 成功すれば、うその友達と本物の敵を得ることになる。
  それでもなお、成功しなさい。
4. 今日の善行は明日になれば忘れられてしまうだろう。
  それでもなお、良いことをしなさい。
5. 正直で率直なあり方は、あなたを無防備にするだろう。
  それでもなお、正直で率直なあなたでいなさい。
6. 最大の考えをもった最も大きな男女は、
  最小の心をもった最も小さな男女によって撃ち落されるかもしれない。
  それでもなお、大きな考えを持ちなさい。
7. 人は弱者をひいきにはするが、勝者の後ろにしかついていかない。
  それでもなお、弱者のために戦いなさい。
8. 何年もかけて築いたものが、一夜にして崩れさるかもしれない。
  それでもなお、築きあげなさい。
9. 人が本当に助けを必要としていても、
  実際に助けの手を差し伸べると 攻撃されるかもしれない。
  それでもなお、人を助けなさい。
10. 世界のために最善を尽くしても、その見返りにひどい仕打ちを受けるかもしれない。
  それでもなお、世界のために最善を尽くしなさい。

People are illogical, unreasonable, and self-centered.
Love them anyway.

If you do good, people will accuse you of selfish ulterior motives.
Do good anyway.

If you are successful, you will win false friends and true enemies.
Succeed anyway.

The good you do today will be forgotten tomorrow.
Do good anyway.

Honesty and frankness make you vulnerable.
Be honest and frank anyway.

The biggest men and women with the biggest ideas can be shot down by
the smallest men and women with the smallest minds.
Think big anyway.

People favor underdogs but follow only top dogs.
Fight for a few underdogs anyway.

What you spend years building may be destroyed overnight.
Build anyway.

People really need help but may attack you if you do help them.
Help people anyway.

Give the world the best you have and you'll get kicked in the teeth.
Give the world the best you have anyway.

潰すか、作るか

どなたかのブログで「旧体制の破壊よりも第二を作った方が良い」「郵政を解体しても、第二を作っていなかったので反動を招いたではないか」といった記事があった(と記憶している。記憶違いかもしれない)。

旧体制を「潰す」か新体制を「作る」かというのは同時に出来そうで出来ないことの一つである。その中でも、先に潰すか、先に作るかというのはなかなか難しい。今回の郵政に関しては、先に潰してそれから作るという方を選択したわけだ。これには今のNTTの問題もあると思う。NTTは先に作った典型だ。第二電電をはじめ先に競争相手が出てきて、それからNTTが民営化された。しかし、実際には壊す方が不十分で様々な規制に守られているために、適正な競争状態は未だに実現していない。

郵政も同じ様に非常に巨大な事業体である。だから、先に潰さないとNTTの様に居座り続けるということになってしまう。NTT解体をAT&Tの解体、再統合に比べて今更地域解体する必要はないという人もいる。NTT労組の支援を受ける原口大臣はNTTの地域分割よりも再統合を目指しているようだ。郵政といい、NTTの再統合といい、結局民主党になっての動きは「再国有化」ともいうべきものだ。

冷静に考えてみると、日本の幾つかの業界では国営またはそれに準ずる(国の規制に守られた)企業がシェアNo.1というのが多い。銀行業界では郵貯、生命保険では簡保だ。通信分野ではNTTが未だに規制に守られて君臨している。物流業界では郵政公社が最も大きいし、今回の国有化とも言える動きで航空会社No.1も国営企業になってしまった。テレビ業界もシェアNo.1はNHKだし影響力も強い。農業では基本的には政府が専売制を布いている。事ほど然様に日本では国営・公営企業が占める割合は大きいのだ。「日本社会主義」と揶揄されたのもむべなるかな。

小泉政権が目指したのはその開放であった。それは「新自由主義」などではなく、基本的な「自由主義」であった。日本社会党は長い間社会主義を標榜してきたが、今回の亀井大臣によって明らかになったように自由民主党は実際には「社会主義」政党であった。社会党が長年にわたって第一党になれなかったのは、そして恐らくなれないままその歴史を閉じるのは、自民党も民主党も本質的には社会主義であるからだ。小泉政権は戦後数十年の歴史の中で一瞬光った自由資本主義の光であったのだと思う。

参院選と首長選の結果に見る政治のバランス

参院補選と自治体首長選挙の投開票が25日に行われた。

結果は参議院補欠選挙では民主党が全勝するというものだった。ところが、自治体の首長選挙では民主党は一勝二敗。いずれの首長選も現職が勝つという結果に終わった。この結果は何を意味しているのだろうかと考えてみた。

参院補選の結果は神奈川では民主党候補に対して次点の自民党候補は78.4%の得票数。静岡では民主党候補に対して次点の自民党候補は68.8%となっている。宮城県知事選では自公が支援する現職候補に対して次点の民主党推薦候補は26.9%。川崎市長選挙では現職に対して民主候補は80.6%。神戸市長選では民主党現職に対して無所属の次点候補者が95.1%となっている。

こうしてみると、自治体の首長選挙では民主党の神通力は全く通用しないということが分かる。川崎首長選では現職が前回は民主党の支持も受けていたのが、今度は対立候補が立てられて苦戦する中で20ポイントもの差をつけて民主党候補に勝利したというのは大きい。神戸市長選挙では民主党候補は対立候補にたった5ポイントしか差をつけられなかった。これは投票率が1ポイント変わっただけでも逆転した可能性があったということになる。

首長選挙は現職が常に優位である。自治体の首長というのは大抵の場合地域の「利害調整役」を担っているので、有権者は現職に対して様々なしがらみを抱えている。しかし、都市生活者が多くなると首長が解決する利害関係と住民が一致しなくなる。住民は隣の町などで仕事をしているために経済的利害関係があまり生まれないからだ。だから、川崎市と神戸市の二つの首長選挙はしがらみがあまり関わらないので現職を打破するチャンスは大いにあった。そこで、片や20ポイント差をつけられて負け、片やたった5ポイント差で凌いだというのは民主党が国民政党ではあっても地域政党ではないことの証左ではないかと思う。

その意味で、今回の選挙結果は大変面白い。政権誕生からダム建設などをを次々と中止して、地域の利害との決別をしてみせた民主党。更に、国全体の経営効率化を目指した全体最適にだけ注力せよというメッセージがここに籠められているのではないかと思う。地方分権などを標榜する民主党にとって、国家的アジェンダと地域のアジェンダを分別して取り組む住民の意志は大変参考になると思う。

2009年10月23日金曜日

ヴェルディ

昔から天の邪鬼なので人気チームには反感を持っている。チームや選手には迷惑なことだろう。巨人は嫌いだし、リーグ優勝や日本一なんて話にはテンションが下がる。同じように、ヴェルディにも興味が無かった。オリジナル10ではサンフレッチェが一番と思っていたし、出身からアビスパも応援していた。ザスパの様な物語りのあるチームも大好きだ。

そんな天の邪鬼はヴェルディの話でちょっと気持ちに変化が。そもそも、巨人もヴェルディもナベツネの顔がちらついているので嫌だったのだが、Jリーグで意見が通らなかった彼は日テレにヴェルディを叩き売った。それまで地元密着を真っ向否定していたナベツネの影響でヴェルディは徐々に観客動員を減らしていく。ヴェルディを叩き売り日テレに押し付けたことは実は昨今の巨人離れ、野球離れにもつながっている。野球離れは厳密には野球視聴離れだ。地上波でみんなが巨人を応援するなんてことがなくなっていったわけだ。
天の邪鬼はそうなるとヴェルディを応援したくなる。日テレがスポンサーを降り存続が危うくなっていれば尚更だ。んで、どうすれば良いのか?
ヴェルディが地元密着に方針転換してもなかなか大変だ。東京にはもう一つ、東京が育てたと言って良いチームがある。チームのブランドは継続性だ。フランチャイズを変えたチームや運営方針が度々変わるチームにはブランド形成する継続性に欠けている。ナベツネはブランドならば「読売」があると思ったかもしれないが、読売のブランドはサッカー好きの少年少女には通用しなかった。それにいつまでも気付かなかったことがやがては野球の低迷につながった。

ヴェルディはゼロから地元でブランドを育てていかないといけない。それには望まれる場所にフランチャイズを移すことも考えるべきだろう。サッカーが盛んな長崎や鹿児島なんてどうだろう。ヴェルディ「緑」は東京なんかより南の地域の方が似合っている気がする。

ゆうちょとかんぽを地域分割会社にしよう

亀井大臣は郵便貯金の運用について「地方の金融機関と一緒になって地域経済のために役立つ方法を考えないといけない」と言ったそうだ。まことに結構である。地域で集めた金を地域の企業活動に融資して経済発展を図るのは当然で、ならば金融と郵政の担当大臣を兼務している彼にしか出来ない抜本的な改革がある。すなわち、郵便貯金の地域銀行への分割譲渡である。

分割単位は検討されている道州制の単位で良かろう。郵便貯金を契約者の住所によって地域分割し、地域の銀行に譲渡してしまえば良い。「地域銀行と協力」というが、地域銀行と貯金を奪い合うゆうちょがどうやって連携するのか分からない。地域銀行にゆうちょから融資をしてそれを原資に地元企業に融資するという方法は考えられるが果たして国営銀行が地域銀行に融資して影響力を強めることには問題が出るだろう。

ミニゆうちょを地域銀行に譲渡すれば、地域で融資に使えるお金は激増する。一番増えるのは東京だが、これは仕方がない。亀井大臣が目論むのは都会で集めた貯金を地域経済に融資させるということだろう。かつての財投で郵便貯金が中央省庁や政治家の恣意で公共事業に投資され、焦げ付いたというのがあるが、その再現を狙っているのだろう。

今回の日本郵政の次期社長人事は「コーポレートガバナンス」を無視した暴挙で法令遵守を旨とする行政トップのやることではない。指名委員会に働きかけて候補者を送り込むというのならまだしも、指名委員会を無視して「内定」を権限のない郵政担当大臣が出すのはおかしい。指名委員会には是非堂々たる批判と共に指名拒否と独自候補者の指名もしくは辞任をして欲しい。いくら元国営とは言え、株式会社として衣替えしたのだから政治家の過度な介入は許されない。それもこれも亀井大臣の「全体社会主義」体質に起因するものだと思う。

全体社会主義政治家の亀井大臣には自律的な資本市場は信頼に値しないので、ゆうちょやかんぽの地域分割は考えられないだろう。NTTを再合併しようとしている通信業界原口総務大臣も昨今の通信業界の競争を苦々しく思っているので、再合併を機に通信規制を強めて自律的な栄枯盛衰を妨げようとしている。その意味で、郵政に関わる二人の大臣がケンカになることはなさそうだ。

しかし、この二人に限らず事業経営経験もない政治家が日本郵政の経営問題にクビを突っ込むのは止めた方が良い。大失敗するのが目に見えている。

2009年10月21日水曜日

無節操なニュースショー

日本郵政の西川社長の退任を伝えるテレビ朝日の夜のニュースショーは無節操極まりない。郵政民営化や西川社長に対し、かんぽの宿売却で不正があったかの様な報道を繰り返し、地方で郵便局が減っていると誤った報道を繰り返しながら、いざ民営化凍結、西川社長退任となった途端に郵貯マネーが国債に流れ続けるのが問題だと言い出した。調査能力も分析力もないから報道内容が二転三転するのだ。

でも、民主党に対するエクスキューズは地方の簡易郵便局の話題で準備する。ますますワケの分からない報道になった。簡易郵便局は要は郵便局のフランチャイズの事業展開なのだが、地域が負担することにゴニョゴニョ言い訳していた。報道姿勢がぐらついているニュースは見るに堪えない。

これで日本の自由資本主義は後退する

日本郵政の三事業一体再官営化が閣議決定された。株式会社を公社に戻すまではいかないかもしれないが、郵政三事業の中でも金融事業を郵便事業と一体で維持するという。これは巨額の郵貯マネーを国債に投じ続けるということ。民主党はバラまきマニフェストを実現する為に国債を大量発行しなければいけないが、郵貯以外でそんな巨額の国債を引き受けてくれる金融機関もないので、郵貯を国営として維持しないとバラまき財源を調達出来ないと脅されたのだろう。

小泉改革の基本理念は官から民へだった。これは国がやっている事業を民間企業がやることにして、その分のお金を減税や他の事業に回すという話だ。しかし、事業主である国や政治家の抵抗は激しい。そこで考えたのが、無限とも言える国債引き受け能力を持った郵貯・簡保の解体廃止だ。

郵貯・簡保が民営化上場によって政府の影響力が無くなれば、預金の8割を国債に投資するなんてことは無くなる。当然、国債の市場は縮小し、利率も上がるため簡単には発行出来なくなる。そうすれば、無い袖は振れないのだから公営事業を民間に解放せざるを得ない。そうなれば、国家予算はあっという間縮小する。

郵貯マネーが国債に投じられないというのは、民間の融資に資金が流入するということだ。企業が調達出来る金庫の大きさが膨らむので、融資をいままでよりも有利な利率で受けられるようになる。企業活動は活発になるので雇用も増える。官営事業は非効率な上に人件費が高いので民間でやれば官営の時よりも多くの雇用が創出される。この辺りが理解されていないのはとても残念な話だ。

そもそも、国が最も大きな金融機関と保険会社を運営しているというのは社会主義以外の何ものでもない。この決断が日本の競争力ある資本市場を後退させ、成長を阻害することになるだろう。

2009年10月20日火曜日

Cold Japan

日経ビジネスで「Cold Japan」という特集が連載されている。日本は「Cool=カッコイい」どころか「Cold=冷え切って」いるんだという。

日本のトップ企業で海外の売上比率が少ないところが多く、決してグローバルには成功していないというのが一つの切り口の様だ。携帯電話も新幹線も地上波デジタルも、日本規格が世界には通用せずに公金が無駄に使われているという見方は確かにある。ただ、日本には国内市場を満たすだけで産業や企業が成長出来るという環境もあったのだ。それは今も変わらず日本の根元的なアドバンテージである。

為に日本は国内市場だけを見ていれば良いというのが多くの経済官僚の考え方で未だに変わらないと思う。この考え方は戦前に大陸に進出して欧米列強に敗北を喫したことがトラウマになっているのかもしれない。常に欧米の風下に立つことで防衛しようとしているのかもしれない。だが、今や昔の様に欧米が日本企業を警戒することはない。その企業が雇用をもたらし、豊かな生活の糧となる製品やサービスを提供してくれるならば、その国にとってはハッピーだ。

"夏"に汗を流した官僚は、世界がボーダーレスになっていくことに鈍感だった。雇用も資金も情報もあっという間に国境を越えていく時代に国内企業を保護しても競争力が無くなるだけで、やがてはその産業や企業が重荷になってしまう。それが日本郵政であり、JALなのだ。

"夏"に官僚と関係企業が作り上げた産業構造は、成長余力の無くなった国内市場に企業を縛り付け、成長著しい新興国市場に進出するモチベーションを失わせたということなのだろう。

2009年10月19日月曜日

先端研究助成基金はいらない

麻生政権で発足した「先端研究助成基金」なるものが民主党政権の予算見直しの中で、凡そ半分に減額されることが決まったという。いっそのこと、この手の助成や補助金を撤廃してしまってはどうだろうか。代わりに研究開発への投資やそのリターンに対する課税を見直して、無税や減額してはどうだろうか。

補助金事業には「補助に値する事業かどうかは政府が正しく判断出来る」というバイアスがある。しかし、実際には優秀な人や組織が意見を摺り合わせて選択したものが結果を出すことは稀で、あまり効率的とは言えない。それよりは市場で資金調達をして様々な人たちの取引の結果としてものになることの方が多い。だから、開発研究への投資を課税控除したり、リターンへの課税を投資全体の成績で評価し課税するなど研究開発投資を促進する方法をとるべきではないかと思う。

2009年10月16日金曜日

JALを倒産させよう

山崎豊子の「沈まぬ太陽」が公開される中、JAL再建が揺れている。週刊誌には早速「再建チームは"転売屋"」などというタイトルの記事が躍る。日本の"フラッグシップ"という呼称も躍るが、国営でもないJALに政府が必要以上に肩入れするのは問題がある。

"日の丸"航空会社を守るというのは政治家や官僚には一種の誇りを感じる場面なのだろう。だが、仮にJALが倒産したとしてどんな影響があるだろうか。航空輸送のニーズがある以上、JALに代わって、もしくは新生JALがそれを担う。全てではないが、雇用が失われることはない。外資に買収されて…という話にはそれで利用者が損をするという話にはつながらない。税金を注ぎ込んだ会社を外資に安く叩き売るのは売国奴と言われるが、税金を垂れ流し続けるよりはマシではないか。そう言うならば自分が買収すれば良い。

料金が安くなったり、利用者は得することが多いだろう。廃止される路線はあるだろうが、経済合理性から考えてのことだから、廃止を反対する人はニーズをかき集めてみせないといけないだろう。今やインターネットを介したテレビ会議システムの普及でビジネスニーズは年々減るばかり。個人ニーズも国内観光資源が元気でないので減る一方。国内路線に限れば、飛行機は鉄道にも高速バスにも勝てない。

でも、「100%雇用維持」の圧力、「ローカル線維持」の政財界からの圧力、「フラッグシップという実態のないプライド」の圧力でJALはすっかり参っている。

ならば、ここは一つ綺麗に見事に倒産させてみようではないかと思うのだ。

政権交代と同じく、企業の倒産は不採算なもの不合理なものを打ち破るキッカケになる。今までJALに注ぎ込んだお金は取り戻せないのだから、諦めて潰してしまうべきだろう。

2009年10月14日水曜日

成田を閉鎖せよ

羽田のハブ空港化に前原大臣が踏み込んだ。自民党政権では検討することすら難しかった。民主党政権になって良かったことはタブーが少しなりとも減るということだ。

もう一歩踏み込んで言えば、成田空港の閉鎖撤廃だ。羽田空港により多くの投資をして、成田空港にかかっている費用をなくしてしまう。

成田空港は何かにつけて"中途半端"な空港だ。利用者の集中する東京からは遠いし、国内→国際へのトランジットも出来ない。空港は設備産業なのに夜間稼働していないから採算割れのまま。

成田には多くの人の血と汗が費やされたのに未だに当初計画の規模にはなってない。これは開発に失敗した箱モノで、今後一年以内に事態が解決され成田の規模が拡大する見通しがたたないのならば、撤退すべきなのだ。

だから、民主党は成田閉鎖をぶちあげてみてはどうだろうか?蛙は冷たい水から徐々に熱水になると茹で上がる。JALも一気に運行航路が減れば本気で経営改革に取り組むことになるだろう。

2009年10月13日火曜日

神経神話

「左脳と右脳の違い」「脳の男女差」「3歳児までの教育」などは科学的に立証されてない"神話"なのだそうだ。Mr.BRAINで紹介された脳科学の"学説"にも怪しげなものが沢山あるのだとか。幼児教育や"脳開発〜"などという能力開発講座でも効果がないと思われるものが多いという。

脳組織が欠落しても普通の社会生活を送っている人は多く、脳の各部位の機能は"分からない"のが実態のようだ。人間は経験を蓄積して判断能力を向上させるものだから、多様な経験をすることが重要なのだろう。

2009年10月12日月曜日

平和の祭典を如何に利用するか!

東京が招致競争に敗れたオリンピックに広島と長崎が共同開催で招致すると表明した。

オリンピックが所謂"商業化"してからスポーツを理想化して語る人の評判は頗る悪い。だが、商業化したからこそオリンピックは百年以上も継続してきた。多くの人は認めたがらないが、スポーツという"非生産的"なものを大々的に催すには、その興行化は避けられない。プロ野球もサッカーもスポンサーがいなければ試合をすることも出来ないのだ。

オリンピックも興行化されずに「アマチュアの祭典」のままであったら、継続は難しかっただろう。オリンピックの中でも「花形スポーツ」は少ない。パレートの法則に従い、客が呼べてスポンサーの集まるのは2割。興行化されなければ残りのスポーツに光が当たることはなかっただろう。

2割の光を利用して、他のスポーツが資金の手当てをする。2割の政治的思惑を利用して、平和を如何にアピールするのか。世界で日本ほど平和な国はない。過去400年の歴史を見ても、日本ほど戦争と縁がない国もないだろう。その意味で広島や長崎が「平和」をキーワードにアピールするのは素晴らしいと思う。

だが、こう言っている間にも世界の多くの場所では戦争が起きている。古のオリンピックが開催期間中だけ停戦したように、現代のオリンピックも限定的でよいので平和を実現して欲しい。それには、オリンピックをその時に最も戦争が激しい場所でやれば良いのではないかと思う。

ストレス

先日の日テレ系「太田光の私が総理大臣に…」とフジテレビの「エチカの力」で正反対の特集が組まれていた。

「太田総理…」では鬱やパニック障害などの病気を取り上げて、子供の頃から精神病理に関する教育をすべきという話。「エチカ…」では子供(特に男の子は)甘やかさずにストレスをかけなければ成長しないという話。

個人的にはストレスが人を成長させるのであり、それからフリーになることは出来ない。立ち向かって行くことも、避けることも、その個人が培うものだと思う。現代病として鬱が増えるのは、ストレスに対する免疫不足ではなかろうか。ストレスがないことが、社会に当然のように存在するストレスに抵抗する力を弱めているわけだ。

ならば、親はストレスを増やす努力をしなければいけないのかもしれない。

2009年10月6日火曜日

中川昭一大臣急死を悼む

「六歌仙」の昔から悲劇の敗者は世間から称揚される。中川昭一氏も今になって「あの」記者会見の時には痛み止めの薬を服用していて「朦朧会見」はその影響だったなどという報道が出てきている。呆れた話だ。

中川氏が大臣として欠格していたかという話に後出しで「配慮すべき事実があった」と報道するのは恥ずべき態度だ。中川氏が一国の大臣として不覚悟であったのは事実で、G7で失態を演じたのは許されない。民主党支持のメディアはそれを批判し、自民党支持のメディアは利敵行為を指弾すべきだろう。

自民党の新執行部はこの課題をどれだけ真っ正面から取り組むだろうか。その程度が問題だと思う。

年金問題の行方

長妻厚労相が年金記録問題を解決するために創設するプロジェクトチームは、舛添前厚労相が設置した委員会とメンバーが似ているらしい。年金という専門的な問題では分かる人が少なくて政権が変わっても出来ることは同じということだろうか?長妻厚労相は舛添前厚労相を批判する急先鋒だったが、舛添大臣より見事に解決出来るか期待している。

2009年10月3日土曜日

郵政の神話

『「郵便局」は税金の投入もなく黒字だったのに、郵政官僚や天下りのやった箱モノの煽りを受けている。本当は民営化なんて必要がない。』

ある人とのやり取りでこの様な話を聞いた。僕は黒字なら尚更民営化して民間に解放した方がいいじゃないかと思う。黒字なら、民営化したって過疎地の配達はなくならない。赤字ならなくなるだろうが。ただ、この意見では発言者を納得させることは出来ないので他の話をしてみる。

『郵便局に税金が投入されてない』というのは"正しくない"。正しくは、『郵便局には"直接"税金は投入されてない』というべきだ。

郵便局が4社に分割されて、事業としての郵便局が公開される様になった。その収益バランスは明らかに郵貯と簡保に偏っている。つまり、郵貯や簡保で集めたお金で国債を運用して、その収益の一部を郵便事業の運営に充てているのだ。だから、赤字でも郵便事業はやっていける。

税金はやっぱり使っていないから良いじゃないかという意見もあろう。しかし、国債償還の原資は税金だ。税金が間接的に郵便事業に使われているのだ。しかも、郵貯簡保と国債が挟まることによってロンダリングされて分からなくなってしまっている。

だから、郵便事業に税金が投入されていないというのは間違いなのだ。

とは言え、僕が郵政復活に反対なのは何もこんなごまかしが理由ではない。役目が終わった公共事業は整理されるべきだと思うからだ。ダム建設より、無用の箱モノより先に郵政を廃止して、民間企業に事業を払い下げれば良かったのだと思う。

2009年10月2日金曜日

地方再生のアイデア

地方経済が疲弊していると言われる。

「疲弊」と言っても具体的に何がどうなっているのかは曖昧だ。地方財政が逼迫しているというのは今に始まった話ではない。今まで潤沢に供給されてきた地方交付税が減額されたというが、そもそも自分の稼ぎではないのだから最初からアテにするものではない。つまり、地方財政なんてものはとっくの昔に破綻していたわけだ。

地方財政が破綻するのは税収が少ないからで、税収が少ないのは納税者が少ないからだ。人口が減れば納税者も減る。つまり、人がいないから地方経済は立ち行かないのだ。

地方は仕切りと都会に人が出ていくというが、稼ぎ口と使い所がないと人は集まらない。稼ぎ口は農業の機械化と減反で減る一方。使い所は数少ないとなればなかなか人は居つかない。公共工事で雇用を生んでも、消費をする場所がなければ工事が終わると皆金を持って都会に出ていってしまう。だから、公共工事は地方経済の活性化の役には立たないのだ。

例えば、公共工事と一緒にカジノなど「管理しやすい消費」を持ってくれば金は地方に残るが、地方競馬の閉鎖などを見るとそれも通用しなくなった。電話投票や場外は地方が公共工事で回していた金の循環を断ち切ってしまったわけだ。

ボーダーレスとは何も国境というボーダーだけを指しているのではない。自治体の境や都市と地方の境も消し去ってヒト・モノ・カネが最も効率的に働く様に促したのだ。だからといって、自治体だけで使える地域通貨みたいなものを流通させても、そんな使い辛い通貨なんてすぐに淘汰される。

そこで、根本的な質問をしてみよう。

「何故、地方経済を立て直さないといけないのか?」

他の例で言うならば、

「赤字の会社を銀行が何故救済しないといけないのか?」

放漫な経営や筋の悪い商品にこだわっている会社は救済されないし、救済してはいけない。そこで働く人にとって、ニーズのないものを売ったり作ったりすることはとてつもなくモチベーションが下がることだ。だから、働く人を解放する為にも先行きのない会社は潰れるべきだ。

ところが、先行きがない自治体には際限なく税金が投入される。資源もなく、産業を興す力もない自治体が淘汰されることはない。住人は先行きのない会社と同様にモチベーションを落とし堕落していく。自治体が潰れることがあっても良いのではないか?

平成の大合併は自治体の数を減らしたが、弱者連合が出来ただけで強く自活出来る自治体が出来た訳ではない。合併すれば補助金が貰えるということに釣られただけのことだ。

結局、自分の力で生きていないものは弱い。ならば、地方交付税を廃止してしまえばどうだろうか。まずは身の丈にあった自治体経営をしてみてはどうか。

交付税がなくなれば、自治体全域にサービス展開出来なくなるところも出てくるだろう。でも、サービス圏内に転居してもらえば良い。転居が嫌なら、一部のサービスは諦めてもらうしかない。でも、人口が集中して、各種の福祉サービスの効率が良くなれば、住みやすくなるし、人も増えよう。

そうやって、人の密度を高めれば、税金は安くなるし、コミュニティーも成長する。人の密度が高ければ、産業もおきる。

地方経済を再生するには、一度交付税を廃止して見捨ててみてはどうだろうか。その為には今の都市と地方の格差を縮めないといけない。一票あたり5倍近く地方が強い国政選挙の投票格差を解消しないといけない。

2009年9月29日火曜日

モラトリアムで起きることを予想してみる

亀井大臣が「3年程度のモラトリアムを立法化する」と気炎をはいている。かの大臣の暴走と思ったら、鳩山首相もモラトリアムを容認する主旨の発言を過去にしている。さて、このモラトリアムで起きることについて考えてみよう。

まず、企業の規模に応じて返済猶予の規模や期間が定められるだろうが、恐らくその企業の経営状態について明確な規定は出来ないだろう。仮に、過去の営業利益率や総資本経常利益率などに制限を加えるとすると、殆どがモラトリアムの必要がない企業しか残るまい。というのも、経営状態が一時的な環境悪化によって悪くなっていて、将来好転する可能性が分かっている企業に対しては金融機関が何も言わなくても返済猶予をしていく。返済を迫られるのは、環境やその企業自身の問題によって業績好転が期待できない企業に限った話だ。

なので、「中小企業でもこの苦境の乗り切れば再生できるのに返済を迫られて困っている」企業なんていうのはないのではないか。にも関わらず、この制度を立法化するとしたら、その法律の成立までの間に金融機関は追加融資を控えて回収を急ぐことになるだろう。そして新規の融資はしなくなる。だぶついた資金は手堅いところへの融資や国債などに回ってしまう。

いや、リスクが高い借り手でも貸すのが金融機関の社会的存在意義と言われても銀行は嫌がるだろう。例えば融資を続けてモラトリアムが適用されて、銀行自体の経営が立ち行かなくなったとき、政府が支援するというが、それは銀行に政府、つまり金融監督庁の介入を許すということになる。モラトリアムがなく、自らの判断で貸出先を査定していけば政府支援など受けずとも経営できるのが、モラトリアムがあるがために政府支援を受け入れないといけないというのでは本末転倒ではないか。

ならば、モラトリアムではなく期限付きの政府保証をすれば良いのではないか?政府が貸倒れの何割かを保証することにすれば良い。モラトリアムを借り手側の申告制にして、政府がその元本を保証するというのではどうだろう?

でも、銀行が手を引こうとする企業や事業に、景気が回復したからと言ってどれほどの回復力があるのかというのには疑問が残る。銀行の査定に任せて、倒産するものは倒産させてしまっても良いのではないだろうか?本当に必要とされる会社であれば、事業を引き継いでくれる会社は現れるはずで、それも現れないのは本当に倒産させてしまっても仕方がない。むしろ、従業員や経営者が新たな職を探す余裕をもって倒産してしまった方が良いと思う。逆に、それを跳ね返すだけの胆力がある会社であれば、心配せずとも支援を申し出てくれる金融機関は絶対にいる。

それでもモラトリアムをするとなれば、金融機関は更に貸し渋るだろうし、金融監督庁の業界支配は強くなるだろうし、銀行業界は亀井大臣に目こぼしをしてもらおうと付け届けをするだろうし、良いことは起きそうにない。

2009年9月25日金曜日

変える方に行って欲しいと思うのだが

郵政は郵便会社と窓口会社を持ち株会社と統合する、というのが原口大臣の意向らしい。持ち株会社に事業会社を吸収合併するのは少しマズい。郵便事業と窓口事業を統合するのはまだしも、持ち株会社に統合すると経営の自由度が低下してしまう。さて、どうするか。
ゆうちょとかんぽが合併されないのは良かったが、持ち株会社に郵便事業が統合されると金融事業の収益をアテにする再統合に議論が戻るかもしれない。さて、それを止めるために、ゆうちょとかんぽの株式を政府に譲渡してしまってはどうか。政府はあらかじめ決められた条件に従って株式を徐々に売却する。郵便に金融がくっつくなんて状態を解消すると郵便事業も自身の生き残りをかけて生産性の改善に取り組まなければいけない。
郵政が事業経営に本気で取り組むというのは物流業界に与えるインパクトは物凄い。日本で最も広いネットワークを輝きだす。ワクワクするではないか。

2009年9月18日金曜日

僕が日本の労働組合が嫌いなワケ

鳩山首相が連合との会見を開いた。官房長官も労組出身で民主党は"労働党"に近い。社民党の代表は消費者担当大臣となったが、「消費者とは労働者」と労働問題にも口出しをしたいようだ。それに日経は警戒感を表す。

僕は労働組合は好きではない。そもそも、日本の労組は一部を除いて企業単位の組織なので、労働者一般のために働いているわけではないからだ。つまり、労働(者)組合というより会社員組合という方が正しい。

派遣労働者が問題になった時に、労組がワークシェアリングや積極的な時短によって雇用を確保しようとした形跡はない。それどころか、呑気に"春闘"をやってベアゼロに抗議をしていた。呆れるのはベアゼロでも賞与は満額であったということだ。ワークシェアリングも時短もせず、賞与を満額もらえば派遣労働者を雇い続ける余裕は企業からは失われる。

それでも、派遣労働者を止めて全員を社員にせよとも言う。だが、無理な話だし労組も望んではいまい。需要が限られる中で値下げ圧力は高いから、少ない需要に合わせて労働力を調整しないといけない。

いや、高くても良いモノがあれば売れるというが、良くて安いものがあるから高いモノは売れない。ユニクロが批判されるが、ユニクロがやらなければ他の企業がやるだけだ。馬鹿高い関税をかけなければより安いものが輸入されるのは防げない。

結局、自分たちの雇用は価値があろうとなかろうと守って、会社という村には余所者は入れないし、入れたとしても7人の侍と同じく用が済んだら出ていけと言うわけだ。日本にも職種別労組があって良いと思うし、それがプロフェッショナルを育む機関になって欲しい。

2009年9月17日木曜日

鎖に繋がれた鶴

日航にデルタ航空などの海外企業からの出資話がある。海外から見るとこの鶴は結構魅力的らしく、出資は二社が争っている。ただ、インフラを外資に支配されるのを警戒する人からは反対の声が。

反対は政界から流れてきて、亀井金融大臣などは日本の企業や銀行が支援しないと、と発言している。だが、日航はこのままでは決して黒字にはならない。日航は日本全国の空港と海外の多くの都市との間に路線を持っている。だが、実際には空席率の大きい路線は多数あり、損失を生んでいる。
日航は元々国有会社でもあり、政界の意向を受けやすい。政治家の地元への利益誘導の手段として建設された地方空港に採算度外視で運行している例もある。それを全廃しなければ決して黒字にはならない。
そんな会社を支援する企業や銀行などある訳がないではないか。どうしても国内で支援して欲しければ、不採算路線の廃止や減便、小型機への変更などを自由にさせれば良い。また、モラルが下がらない範囲でのパートタイムや契約、派遣などの多様な雇用形態も許さなければいけない。それがイヤなら国有化だ。

鳩山内閣への期待と不安

期待は長妻昭厚生労働大臣だ。今までは官僚批判に終始していたが、これからは官僚と共に批判に応えていかなくてはいけない。緻密な思考力に行動力と影響力を組み合わせて、官僚を動かしていって欲しい。年金問題で一点突破を図るのも良いが、労働規制の撤廃などこれまでタブーとされてきたことに着手せよ!

不安は何と言っても亀井大臣。郵政民営化を逆回しにするとして、どこまでやろうというのか?以前テレビで竹中平蔵氏と討論していたが、事実誤認が多く郵政ベッタリで不安を感じた。融資の返済猶予もおかしい。銀行は政府が支援出来るから、というが中小企業には政府補償による融資制度もある。そもそも、前提として景気が回復すれば今苦境に立たされている中小企業も利益が出る様になって返済出来るようになるというのが間違っている。話は逆で、役目を終えた企業や事業、産業が倒産や事業売却などを通して整理され、新しい成長産業や企業に人・物・金がシフトすることで景気が回復するのだ。返済猶予は産業構造改革をストップさせて、経済の血液である貨幣を滞留させて価値を下げる結果しか生まない。早晩、小泉内閣における田中真紀子の様に、鳩山首相も彼を罷免した方が良い。

2009年9月15日火曜日

日本人は「大きな政府」が良いと思っているのか?〜自民党議員の選択を予想する

民主党が大勝して二週間経過したが、まだ民主党政権は誕生していないという不思議な状況が続く。それも今週末までだが、この間に民主党が内紛で分裂したら面白かろうに…と考える僕は相当意地が悪い。

さて、民主党が所謂「大きな政府」を標榜して勝ったことで、日本人は左中間なんだと思う向きもある。ただ、同じポジションにいた自民党が大敗したことを考え合わせると、事はそう単純ではない。民主党のこども手当てや高速道路無料化が世論調査で思いの外支持されなかったのを見ると左中間だろうが何だろうが自民党を一回下野させようというのが有権者の選択だった訳だ。

自民党を止めてみるには民主党しかなかった訳で、だから社民党も国民新党も議席が伸びなかった。国民新党が郵政民営化反対を掲げて全く支持されなかったことを民主党は真剣に受け止めた方が良い。民主党も見直しを掲げていたが、郵政民営化自体に反対した訳ではない。民営化反対をした選挙では大敗を喫し、民営化反対を堅持する国民新党は議席を減らした。民意は「郵政民営化推進」なのだ。

そう。思ったよりも、日本人は「大きな政府」を望んでいない。多くの有権者は郵政問題を正確に把握しているし、高速道路にお金がかかるのを理解している。高速道路に憤慨したのは無料にならないことではなく、無駄遣いがあるからだ。

日比谷の「年越し派遣村」に入った派遣労働者は日比谷で年を越した人の2割だという。多くの派遣労働者は自分の力で未来を切り開いている。ワーキング・プアというが、残った時間を有意義に使うことを望む人の方が遥かに多いのだ。本当に国に助けて欲しいと思う人はどの程度なのか?

小泉首相が辞任して、安倍首相に交代した時には自民党の支持率は落ちてなかった。支持率が落ちたのは安倍首相が改革路線を修正したあたりからだ。次の福田首相は更に改革路線を修正する様に思われ、麻生首相に至っては「改革には本当は反対だった」などという始末。そう、自民党では改革は出来ないと有権者が思ったのが今回の惨敗につながった訳だ。

その点、民主党は「改革出来ないことが立証されていない」唯一の党である。改革の方向性は置いといて、一回くらい民主党に任せてみるか、というのが今回の選挙結果ということになる。

ここで民主党が民意を見誤って(その可能性は高い)改革路線、つまり小さな政府を否定し、自民党の次期党首が小さな政府を標榜したりすれば、来夏の参院選の結果は大きく変わることになる。

自民党の議員は過去の「大きな政府」をコンセプトにするのは諦めた方が良い。小泉ショックは自民党のコンセプトを様変わりさせた。「政治家が、官僚が国を正しく経営出来る」というコンセプトを。それが小泉改革の本質であった。

さあ、色づけは終わった。後はお気に入りの党に政治家は入りなさい。マニフェストなどというのはまだまだ後だ。

2009年9月14日月曜日

デフレスパイラルの原因

池田信夫氏が「<a href="http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/94d7da65e3eb27211bbc98a66c7b3663">ユニクロは日本を滅ぼすか</a>」という記事を投稿している。

ここで取り上げられている記事は電車の中吊り広告か何かで見て、中身を想像していたが、思った様に似非エコノミストの書いたものだった様だ。池田氏は経済学の理論に基づいて話を展開されているが、アパレルの流通現場から見ると何故ユニクロが正しいか歴然としている。

デパートや専門店の店頭に5万円のスーツがあるとすると、その仕入れ価格は1割の5千円程度である。これはアパレルに勤める人であれば誰もが知っている。アパレル企業はこのスーツを売ろうと仕入れるが、殆どの場合半分は売れ残る。売り切れるのことは滅多にない。これを「消化率」というが、消化率50%では売上に対する仕入れ率は20%となる。
さて、近年の消費者はバブルの頃の様になかなかものを買わない。そこで半分の消化率のうち値下げをして売るものが多くなる。仕入れ率は30%にもなる。さて、デパートなどは大体売上の4割くらいを取る。のこりの3割でアパレル企業の経費と利益が賄われる。これがユニクロ以前のアパレル企業のビジネスモデルだ(実際にはユニクロ以前にも価格破壊をするアパレル企業はあったが、ユニクロが大々的に成功した)。

ユニクロはアパレル流通のあらゆる無駄を削ぎ落とした。まずは安く生産出来るところで生産した。だがアパレルの原料価格や生産原価はたかが知れている。実際に価格にインパクトがあったのは「売り切る」ということと、デパートなどのマージンを取り去るということだ。直営店で売り切れば、その分だけ安くできる。6〜7割がこれで値下げ出来る。

そして、値下げは利益を消費者に「返して」いることになるのだから消費者は他の消費が出来るようになるということだ。アパレル流通においては"返品自由"といった商習慣が根強く、決して消費者の為の流通構造にはなっていない。それを見誤るとユニクロの「消費者のための努力」を貶めるような話になる。

漫然と日々を過ごし利益を得ているものと、血の出るような努力の末に(ユニクロがあれだけの物量を生産し、動かし、店舗で販売するのは想像を絶する仕事量がある。)消費者のためのビジネスをしている人を、良く比べて欲しいものだ。

2009年9月11日金曜日

婚カツは少子化対策になるか〜フランスの例を考える

婚カツなどと言って「結婚相談所」やドラマ、バラエティー番組が流行っている様に見える。少子化対策なのだそうだ。効果の程は不明だ。民主党は子ども手当てで育児を支援すると言うが、お金より保育園だ。

女性の社会進出が広がっているにも関わらず、待機児童は一向に減らない。団塊世代の定年に伴って、日本の労働人口は劇的に減った。労働者が稼ぎ、消費する。これで経済が回るはずだが、お金を回すプレイヤーが減っていることの方に出生率以上の問題がある。

保育園や幼稚園の増設によって女性が社会に出れば、それだけで経済成長が図られる。子ども手当てで配るのではなく、保育園の増設にお金を使う。民間企業の参入も促進する。官製の保育園を保護するために参入が規制されているならば、それは撤廃しなければいけない。

もう一つ。女性が、いや人が多様な家族構成を築くことに対する支援をもっと考えた方が良い。例えば、日本では婚外子は例え遺伝子検査で血縁関係が立証されても父親の実子として戸籍に載らない。「できちゃった結婚」には出産前に入籍しないと子どもが私生児になるから急ぐのだ。でも、同棲し、子どもがいても結婚しない選択もあれば、逆に結婚してなくても養子を育てるという家族の選択もあるだろう。実子や庶子、養子の別をなくして、多様な家族のあり方を許容出来る社会を実現しよう。

2009年9月9日水曜日

郵政民営化凍結は支持されたのか?

民主・社民・国民新の3党の政策協議で郵政民営化見直しが合意された。はて?今回の選挙で大きな争点とならなかった郵政民営化。民意はいつ修正されたのか。国民新党が求めていた4分社化の見直しは見送られたが、民営化の流れは止めてはいけない。仮に、民主党が参議院での過半数に拘って議席を減らした国民新党や議席を維持しただけの社民党に譲ることが多くなると民主党を支持した民意が吹き飛ぶ。

2009年9月8日火曜日

自己責任と自由意思を前提とした市場原理を貫徹することにより、経済構造改革を行う

日経ビジネスに紹介されていた一文だ。1998年に設立された民主党の基本政策の一つだという。正に「市場原理主義」が党是であった民主党の政策は何故変容したのか。稀代の政治家小泉首相の登場がそこにあった。

小泉首相の「自民党をぶっ壊す」「規制緩和」「構造改革」は当時の民主党の政策と一致する。その小泉純一郎が何故「ぶっ壊」してまで自民党に拘ったのか分からないが(自民党も民主党もぶっ壊して、政界再編を企図したのかもしれない。ところが、今回の選挙結果と同じで改革路線に反対していた議員も長老であればあるほど節を曲げて生き残った)、小泉"構造改革"に民主党"構造改革"が負けた時点で民主党の存在意義はなくなってしまった。それが民主党の旋回を生む。すなわち、"保護主義"民主党だ。

小泉以後の自民党が"構造改革路線"から従来の"保護主義"に戻ったとき、そこには保護主義の権化田中角栄の後継者、小沢一郎が構えていた。保保連立は民主党の政策転換と自民党の復旧が可能にしたが、これが成立しなかったことで自民党も民主党も長年の政治闘争の「恨み辛み」で出来ていることを露呈した。

昨日のTVタックルで評論家の三宅久之は「自民党は首班指名選挙で麻生党首に投票しないなら鳩山由紀夫に投票してはどうか」。なるほど。その手があったか。

暫定税率と高速道路料金は無くならない

前の投稿「これで国内雇用は蒸発するかもしれない」で鳩山政権がどうやって温暖化ガス削減目標25%を達成するつもりか問うたが、僕なりの解を示すとズバリ「暫定税率を環境対策税にして、高速道路利用料を環境対策料金にして徴収し、排出権を海外から購入する」というものだ。購入先には日本の環境技術を輸出して排出枠を創出し、排出権を買ったお金を回収する。回収されたお金は環境技術企業に支払われ、技術開発に再投資されて日本の技術が他を引き離す。環境技術に助成金を出すより利権が発生する余地も少なく、企業側に競争の機会が増えるため、健全性も高いと思う。

また、「暫定税率廃止」「高速道路利用料無料化」というマニフェストも達成出来るので民主党の面目も保てる。

どうだろうか。

これで国内雇用は蒸発するかもしれない

実質的に時期首相に決まっている鳩山由紀夫民主党代表が国連気候変動サミットで日本の温暖化ガス削減目標を90年比25%にする方針を打ち出したらしい。現政権の目標が同比8%なので野心的な目標と言える。サミットでは中国やインドなど途上国が日欧米の先進国に対して目標をもっと高くする様に求めており、衆議院選挙前から25%の目標を民主党は掲げていた。

民主党はマニフェストで地球温暖化対策税の導入を打ち出していて、それに企業に対する排出量削減目標を突きつけてくると思われる。ガソリンの暫定税率廃止や高速道路無料化は25%目標に逆行しており、更に企業に対する削減要求が引き上げられる可能性もある。これでは企業の経営環境が悪化し、折角環境技術で生産量を増やそうとしているのに海外に生産拠点が出ていきかねない。

鳩山代表はEUの目標に遜色ない数値を打ち出したのだろうが、EUには東欧の旧共産国が含まれる。90年は旧共産国は技術水準が低く環境対策は不十分であった。EUは西欧の水準に東欧を引き上げるだけで目標が達成出来る。アメリカも同じで、環境対策車が日本メーカーで占められる様に、その環境対策は元々不十分だ。

翻って日本を見てみると、当時最も厳しかったカリフォルニアの排出ガス規制に対応したホンダをはじめ環境対策には従来から余念がない。また、少資源国であることからエネルギーコストが高いので、省エネ製品が普及している。過去の公害の教訓と狭い国土で工場と住宅が近くなってしまうことから企業の環境対策も進んでいる。そこに更なる温暖化ガス削減を過剰に求められたら企業は国外に移転するしかない。

国内生産を続けたとしても、環境対策投資や税負担などによってコストが上昇するので、製品価格の上昇やラインの自動化によって家計負担増か雇用減少につながってしまう。

さて、鳩山政権はどうするのか。

2009年9月7日月曜日

民主党があれだけ勝ったのに社会党と国民新党を閣内に入れたがる理由が分からない

衆議院では過半数を越し、参議院でも自民党を過半数割れに追い込みながら、なんで社会党や国民新党なんて小党に拘るのか。確かに参議院では社会党や国民新党の協力がなければ法案が通らない。衆議院は三党合わせても三分の二を上回らないので、参議院で否決されても再可決出来ない。それが原因だと思う。

仮に社会党と国民新党が閣内に入った場合、政府の意志決定に両党が反対すると閣内不一致となって大臣罷免か総辞職か解散となってしまう。これは両党にとってはチキンレースの様なもので大臣の座で参議院の議席まで売り渡す結果となる。

民主党も最後まで強引にいければ良いが、分裂の火種ともなりかねない。いっそのこと合併するか、筋を通して閣外協力に留めるか、両党党首の見識が試されそうだ。

渡邉美樹の意見は民主党議員に伝わったか?

昨日の日テレの「バンキシャ」は民主党の新人議員が多数出演した。コメンテーターの渡邉美樹ワタミ社長は「農業戸別補償」を天下の愚策と断じた。民主党の農家出身の議員の反応は、渡邉社長の意見を肯定していた様に見えた。

戸別補償が愚策なのは将来展望がまるでないからだ。今日の日経新聞27面で穂坂前埼玉県知事は「農家への戸別所得補償も従来の政策よりは効果が見込める。」などと言っている。戸別補償で収入が安定すれば若者が帰農するというのだ。だが、農業従事者のほとんどは他に職を持つ兼業農家で経済的に困窮している人は少ない。

それなのに跡継ぎがいないのは肉体的に辛い農業を嫌ってのこと、農協に牛耳られてビジネスとして面白味に欠ける農業を嫌ってのことだ。あれほど「世襲議員」を批判したにも関わらず、「世襲農家」を許すのもおかしい。どちらも父祖の努力の上にいることには変わりないのに。だから、戸別補償など不要なのだ。今や将来性のある産業として参入を望んでいる企業はいくらでもいる。逆に跡継ぎがいなくて土地を売却して余生を過ごしたい人も沢山いる。

戸別補償は「退場したい」人と「退場すべき」人を無用に残し、農業の未来を台無しにしている。でも、分からないんだろうなぁ。

2009年9月5日土曜日

小沢幹事長

一昨日夜遅く、鳩山民主党代表が小沢代表代行に幹事長就任を要請し、小沢代表代行も承諾したのだとか。鳩山代表が党本部で唐突に小沢代表代行を幹事長就任を要請するために呼んだと話し、直ぐに速報が流れ、深夜の中継をするニュース番組もあった。これが鳩山氏の計算尽くなら凄いが、どうだろう。

今回の選挙結果は、得票率以上に議席数に差が開いた。これは前回の衆議院選挙と同じで、民主党の作戦勝ちだ。その選挙を主導した小沢氏が重要ポストに推されるのは当然のことだ。二重権力構造を指摘する向きもあるが、議員内閣制では与党は政府に対する第一のチェック機関であろうから、むしろ二重になっていた方が政府の突出を防げる。通常は第一党の党首が首相となるが、与党の支持を受けて適切な行政執行が出来るのならば与党党首である必要はない。

与党党首が首相になり、与党ナンバー2が実質的な党首として政権を支え、助け、批判するのは健全と思う。幹事長にもならず、影響力を駆使して党の意見を左右しようというよりはよっぽど幹事長になって表舞台に立った貰った方が良い。鳩山氏が小沢氏が幹事長就任を固辞するのを防ぐのに記者に漏らしたとすると大したマスコミ操作だと思う。

2009年9月3日木曜日

政権党が官僚機構の性格を決める

日経新聞 9月3日 6面
「政権交代〜海外の事例にみる」

1997年にイギリスでおきた保守党から労働党への政権交代を紹介している。

記事の末尾で「官僚機構が政権党に似る」という意見が紹介されている。長期間に渡って野党だった新政権が官僚に不信感を持つのは当然だとも。チャーチル、サッチャー、ブレアの事例は、その不信を強力なリーダーシップで克服し、やがては官僚機構が新しい政権党に馴染んでいくという。

鳩山政権で強力なリーダーシップが発揮されるかは未知数だ。政府に100人もの議員を入れると船頭多くして…とならないか心配である。ブレアは市場重視による経済成長と共に教育予算拡大や最低賃金引き上げを進めた。伝統的な左派政党であるイギリス労働党ですら市場重視に変わっているのに、鳩山代表は市場重視を批判している。元来の主張を変えないのかに注目したい。

2009年9月1日火曜日

ママ友は聞くけど、パパ友って聞かない

ママ友というのがある。同じ年頃の子供を持つお母さん同士の友達のことだ。自治体では第一子の妊娠中に母親教室を開催する。そのため同じ地域で同じ時期に出産したお母さん同士は顔を合わせる機会が多くなり、友達になっていく。

ママ友は子供がハイハイする前に集まると、子供を並べて写真を撮る習性がある。時には円形に子供を並べて楽しむ。息抜きに外食も楽しむ。

そうです。子供の日々の変化を楽しめないパパの僻みでしかありません。でも、同じ想いを共有する友達をなかなか持てないところに、夫婦のすれ違いって発生するのかもしれない。

パパ友募集中

いまさら鎖国出来るか?

「グローバルエコノミーが国民経済を破壊し、市場至上主義が社会を破壊してきた」

日経新聞の今日の朝刊に掲載された「政権交代〜何を変えるのか〜」で紹介された鳩山由紀夫氏の論文の一部である。

「グローバルエコノミーが戦後日本の国民経済を成長させ、市場至上主義が政権交代を実現した」

これは僕の言葉。戦後に限らずグローバルエコノミーがなければ少資源国家である日本は経済成長出来なかった。鳩山氏が言うグローバルエコノミーによらない国民経済とは江戸時代ということになろう。保護主義により、輸入によって国内産業が脅かされることはない。しかし、生産性が高まって余剰が出ても、それを財に転換出来ないので経済成長は止まる。いまさら鎖国には戻れない。

一昨日、ある市場が1日だけ開いた。議員市場だ。参加する投資家は有権者の7割。投資するのはお金ではなく、権利。期待されるリターンは個人的な経済的利得。市場至上主義でなければ政権交代は起きない。

確かに、中国製品や輸出品の販売国生産などによって日本国内の生産量が減っているのは事実だ。だが、日本も同じようにしてアメリカの職を吸収することで成長した。アメリカから家電メーカーを駆逐したのは日本だ。
アメリカがそうしたように、日本もより付加価値が高く、ドメスティックでしか成立しない産業に労働者がシフトするべきだろう。そのために教育は必要だし、規制緩和も必要だと思うのだ。

100日理論というものがある。改革は最初の100日で小さなことでも成果が上がらなければ瓦解するというものだ。企業でも経営陣が交代し、改革が始まると最初の100日の間は誰もが様子見をしている。それが何も起きないと改革の気運は沈静化してしまう。

安倍、福田、麻生三代の政権は党内の主導権争いなどによって短期的な成果があげられなかった。年内に鳩山政権がどういう成果をあげられるかが今後を占うことになる。現実的で有効な政策をグローバルエコノミーによらず、市場によらず、どう実現するのかを見ていきたい。

2009年8月31日月曜日

プロジェクトマネジメント研修をしようかな〜?

と思った。

今関わっている会社統合プロジェクトのことだ。一向に進捗しないので、事務局としてプロジェクトを仕切ることに自分の中で決定。

プロジェクトに関わるという経験は、普通の人にはなかなか出来ないものだ。それが経験値を上げてマネジメント力を向上させるのを妨げる。そう、会社にはプロジェクトが少なすぎるのだ。ちゃんと管理しようと設計されたプロジェクトが。

ということで、プロジェクトマネジメント研修をしようかな〜なんて考えに至る。

2009年8月27日木曜日

答えは…

電車の中で日能研の広告を発見。

「江戸の人口が1600年から1720年の間に、15万人から105万人に増えた時に、どういう人が増えたか参勤交代に関連して答えよ」

といった内容。

武士?中間?

300年前に100万都市だったと改めて確認すると、凄いなぁと思う。未だに人口が100万人を下回る県もあるというのに。

2009年8月26日水曜日

何故、みんなチャットミーティングをやらないのだろう?

なんでチャットでミーティングって流行らないのだろう・・・とは昔から思っていた。ちゃっとと言えば人に聞かせないこそこそ話をするツールっていう位になっていたり、全く使われていなかったり。でもチャットって記録はログとして残るし、文章なので一定の論理性は担保出来るしミーティングツールとしてはとても良いと思うのだけれど。

以前、大学院でグループワークをやっていた時は結構チャットを多用した。メンバーは働いている人ばかりだったし、最初の1・2回会ってミーティングした後は毎回チャットで済ましていたものだ。

僕は同時に幾つかのテーマについて考えたり話したりする方で、これがチャットになると複数の話題に同時に参加できて、とても刺激的だし発想も豊かになる。キーボード入力に慣れる必要があるのでやりづらいと思う人はいると思うけど、人間の脳みそって同じことだけ考えたり処理したりするには性能的にもったいない気がする。なのでチャットや電子会議室などでのディスカッションが何故主流にならないのかは不思議である。

2009年8月24日月曜日

高速道路料金値下げ&無料化に対する評価

「高速1000円に恨み節続出:日経ビジネスオンライン」
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20090820/203003/

自家用車を持たない身としては、全く恩恵も何も受けることのない高速道路の土日1000円。この政策については過去にも何回か投稿しているが、「センスのない政策」というのが僕の評価である。

この記事では実際に政策が実行された影響をピックアップしている。

「このままではフェリー会社の経営が危ぶまれる」

そりゃそうだろう。定額1000円に対してフェリーは航行距離に価格が比例しているのだから太刀打ちのしようがない。大量の人と車を運ぶことの出来るフェリーは非常に「エコ」な交通手段であるのに、時代と逆行していること甚だしい。

「本当に景気対策なら平日の貨物を運ぶ車こそ割引すべきなのに」(JRグループ首脳)

これは全うな意見だ。貨物自動車の通行料金が割り引かれないことで、輸送料金が下がらないと企業は運ぶ量を減らそうとする。運ぶ量が減るということは作る量も減るということだ。

「高速を下げるなら、世界の水準と比べて割高な空港への着陸料なども引き下げてほしい」(航空会社幹部)

空港着陸料が割高なのは土地収用とも関係がある。また、空港が多すぎて資本が必要なところに集積されなかったというのも大きい。交通行政とは関係なく、この批判は当たらない。

土日祝日だけの割引は、特定の日に利用客が集中してしまうリスクもある。「利用者が多すぎれば、サービスの質も低下しかねないし、行きたくても行けないという人も出てくる。平日を安くしてくれた方が、さらに需要が伸びると思うのだが」(星野リゾート)

これは以前にも投稿したことと同じだ。偏りが発生することによってリスクが増したり効率が下がったりする。タダでさえ観光客の多い土日祝日に高速道路料金を下げると人が集中してしまう。混雑が予想されるところには行かないという人は一定以上いて、そういう人は高速道路料金が下がろうと何しようと土日祝日の観光地には行かない。しかし、平日の料金が下がればそういう人も出かけようとするわけだ。観光地でも忙しさが一定になれば人員配置も安定するし、売上も安定する。このことに思い至らないようでは官僚も政治家も底が知れているというものだ。

2009年8月21日金曜日

衆議院選挙の投票率はどうなるだろう?

51.2%

この数字は日経新聞が衆議院選挙の情勢を調査するための問い合わせに対する回答率だ。これが投票率に反映するとすれば、"注目の"選挙にしては投票率が低い。不動票が動いていないということだとすれば、今回の結果は組織票によるものと言える。支持政党を持つ既得権益団体が支持政党を変えたということは、「既得権を壊す」という主張より「既得権を死守する」という主張が勝つことになり、組織化されていない多数の意見は選挙結果に反映されないということになる。

既得権を持たず、利害を共にしない人達が緩やかな連帯を持ち投票に結びつけるには広範なコミュニケーションを促進するメディアが必要だ。インターネットはその部分で活躍するだろう。

そうすると、既得権の打破にインターネット選挙は役立ちそうだ。ならば、今回の選挙後の公職選挙法改正はないかもしれない。組織票で勝った政権が組織票の力を弱める政策を推し進めるとは到底考えられない。

だから、支持政党を持たない既得権と無縁な本当の意味で力強い個人は「選挙どうしようかな」と迷うのではなく「とにかく投票する」のが重要だろう。それが何となく雰囲気で、でも良いし、見た目だって良いと思う。

2009年8月20日木曜日

脱官僚を超えて

たけしのTVタックルで出演者が「戦後復興期には大きかった官僚の役割が経済発展と共に相対的に小さくなった」と言っていた。「官僚」を「政府」と言った方が正しく、20年前に生活の中心から政治は追い出されてしまったのだ。先進国に追いつくために強力な権力による「開発」が必要な時期が戦後の四半世紀だった。だが、大多数の国民が豊かになった昭和40年代には政府の役割は一段落したのだ。

「開発時代」に必要なのは政府のリーダーシップである。政府が正しいことや必要なことを決める時代であった。その後、日本は「発展時代」に移行する。正しいことは競争の中で自然に決まる時代になった。

そういう時代に遅れてきた「開発型政治家」田中角栄が登場したのだと思う。強力な政府を残したかった政界と行政の役割を縮小させたくなかった官僚の利害が田中角栄という"英雄"の中で結実したのだ。いや、決して"生き残ろう"などと思ってはなかっただろう。まだまだ、政治が行政がやらなければいけないことがあると信じていたことだろう。

時代に合わないものが足掻いても普通なら淘汰されておしまいだが、政治や行政はなまじ力があったが為に生き残ったのだ。新しい政治の姿、行政の姿が今回の選挙で見えて来るだろうか。

2009年8月18日火曜日

公職選挙法とインターネット

衆議院選挙の公示日にあたる今日、候補者のブログやツイッターなどが一斉に更新を止めた。参議院議員や地方議員は更新を続けているが選挙に触れるものはない。

公職選挙法は公示後の候補者の選挙方法をかなり細かい点まで規定しており、決められたもの以外は「文書図画」を頒布してはいけないとしている。禁止されているものはかなり細かく指定されていて、インターネットもこの文書図画に含まれると「解釈」されているのだという。だが、誰もインターネットの更新をして逮捕された人はいないから判例もなく所管する役所がコメントしているだけなのだ。

契約書には「やって良いこと/やるべきこと」を書くものと「やってはいけないこと/禁止事項」を書くものとがある。法律を個人と社会の契約と見れば法律は後者であると思う。想定出来る禁止されるべき事項を規定するものだろう。時代が変わり当初の想定を越える事態が起きた時にその事実を取り上げて「今後、禁止事項に含める」と法改正をするのは良いが、事前または法改正のないままに個人の恣意によって法が運用されるのは法治国家の基を危うくする。

日本は憲法ですら解釈主義で恣意的な運用になっている。だが、人が立法時の状況や制約の中で決めたものを越える事態を解釈で乗り切るのは無理がある。想定外の事態が起きたら速やかに法改正がされてしかるべきだ。そして、法改正されるまでに起きたことを遡及してはいけない。これが一部権力者の恣意を排除するために人間が生み出した知恵だろう。

インターネットによる選挙活動は明らかに法が想定していない。ならば、法改正するまでは自由にするべきだ。仮に不都合が起きれば、それを改正の根拠とすれば良い。そもそもインターネットでの選挙活動が行われなければ禁止すべきかどうか分からないではないか。ならば、候補者はやってみるべきだし法が定めていない以上は警察も取り締まってはいけない。

摂取と咀嚼

今日の日経新聞のコラム「春秋」はお盆から紐解いて仏教の受容を国際化に繋げ、アジアに開かれた成長戦略の必要性を訴えている。だが、お盆から紐解いて外来文化の受容を説くのは間違っている。なぜなら、お盆という行事は仏教とは関係がないからだ。古代の蘇我氏と物部氏との争いも、有力氏族の権力闘争が根底にあり、争いの道具として仏教をはじめとする外来文化が利用されたという理解も出来る。

仏教にはそもそも「霊」というものは存在しない。昔流行ったキョンシーなどの中国圏の霊は道教に由来する。日本でも死者を祀る風俗があったが、仏教が日本で広まる過程で神社が忌避していた死にまつわる祭祀を担うことで両者の棲み分けが進んだ。だから、仏教の行う死にまつわる祭祀には日本の伝統的な死生観に根ざしたものが多い。

お盆に祖先が戻ってくるという考え方は元々は春先に山から神が下りてきて秋の実りと共に山に帰っていくのを祀ったものがはじまりだろう。春先は正月行事に秋のそれはお盆となったのだから、日本の文化は仏教をそれほどは取り入れていない。国家鎮護の守りとして期待され巨大な仏像まで国費で建造されたにもかかわらず、日本ではその後も天変地異が治まらなかった。仏教にとっては都合の悪いことに期待された効果がなかった為に生き残りのために死の祭祀を担うしかなかったわけだ。

だから一時期仏教を通じて隋唐文化を取り入れたが、その後は派遣を取りやめて「国風化」が盛んになった。源氏物語に代表される文化は大陸との断絶の中で成立した。足利幕府の頃に一時的に復活した中国文化の受容も戦国期のヨーロッパとの邂逅で日本はアジアから抜け出ることになる。

江戸時代には貿易が制限され、ヨーロッパの技術進歩に遅れをとったと言われるが、江戸は当時でも世界有数の巨大都市であり、制約はあるが安定した社会は急激に人口を増加させた。日本は外来文化を受け入れて受容し、咀嚼して日本化すると言われるが、実際には従来の価値観や考え方を変えてきたことはない"頑固"な文化と言える。それが証拠に仏教も儒教もキリスト教も国教となることはなかった。

国家として外交が重要なのは当然であるが、自分たちが何があっても変えてこなかったことを見つめて成長の糧とした方が良いのではないだろうか。

世間がリハビリ中

お盆休み明けの月曜日は「リハビリ中」というサインを発している人が多い。日曜日は夜半になっても渋滞が解消しなかった地域もあったようだ。それじゃ眠気もあるだろう。

リハビリ中という気分はみんなに共通しているらしく、商談にも身が入らない。世間がリハビリ中を合意しているので、パフォーマンスが上がらなくても容認される雰囲気がある。そんな空気のなか、朝から打ち合わせで意思決定していると空回りした気がして滅入る。リハビリ気分が残る今週はきっといつもよりも生産性は悪いのだろう。

なんで盆休みに「休まない」のか時々不思議に思う。長時間労働しているから休もうというのはないらしい。休みも充実させたいのなら、長時間労働は止めた方が良いと思うが、相変わらず「良く働く」ことは良いと思われている。

TBSの日曜ドラマ「官僚たちの夏」もそうだ。日本人の美徳とばかりに良く働くことを推奨している。よく働いていつ使うのか。

昭和30〜40年代は男性が稼いで家族が消費するというモデルがあった。男性に余暇がなくても家族が消費するのでバランスが取れていたわけだ。でもそんな歪んだ構造は長続きせず、男性も消費を楽しみたいと思い始めて"新人類"とか言われた。だが自分の稼ぎを自分で使うという本来の社会行動に戻っただけで、自分の余暇を犠牲に家族の消費のために働いていた人達の方がよっぽど新人類だったろう。

2009年8月17日月曜日

オールライダー対大ショッカーのポスターをガン見する

平成ライダー10周年を記念したディケイドは映画版で大変なことになって終わるらしい。見に行きたい気がするが、"大人"の自分に止められる。んでポスターをガン見して想像を逞しくするのだ。

ウルトラマンがメビウスで歴代が集結した時は、元々メビウスがウルトラマンと同じ世界観という設定なので驚きはしなかった。しかし、仮面ライダーは平成ライダーはどれも世界観を異にするので無理だな〜と思っていたらパラレルワールドで解決を図った。しかも、それぞれをリメイクする念の入れよう。それが昭和ライダーまでさかのぼってファンにとっては嬉しい限り。元キャストがそのまま出演するのはなんで駄目だったんだろうなと残念に思う。

世界が交差する"世界"。また、十年後にディケイドが再登場したりして…。

「成り行き」「計画」「挑戦」

夏が終わると多くの会社では「下期予算見直し」というヤツが行われる。

年度予算の場合もそうだが、とかく「予算立案」というのは"弱気な"見込みか"強気な"希望で出来ることが多い。だが、それは予算立案ではない。本来の予算立案はその間にある。

経営者や経営企画、マーケティングといった部署が経営としての要求や市場の潜在力から打ち出すのが計数の「計画」だ。これはトップダウン予算などと言われ、力の無い会社では経営者の決めた目標が予算化されてしまう。

これに対し、部門や部署単位で見込まれた計数は「成り行き」となる。ボトムアップ予算と言われ、経営者が事業に関する見識を持っていない場合はそのまま予算となってしまう。

しかし、この二つの計数が出てからが本当の「予算立案」なのだ。成り行きを計画に近づける為に何が必要か、「問題は何か」「どうすれば解消するか」「いつまでにやるか」を決めていくのが予算立案だ。それが十分な「挑戦」になっていれば期中は意外なほど何もないものだと思うが、どうだろうか。

2009年8月13日木曜日

予算管理計数は会計と整合性がなければいけないが、そのものである必要はない

今やっている仕事に予算管理がある。メインでやっているのは上司と同僚だが、ちょっとした議論があった。賞与支給月である月は業績が順調なら良いがそうでない時は賞与支給が減額され、積み立てられていた引当金が取り崩されて費用を下げるのに使われる。会計的にはそれぞれの部門に戻されて費用が少なくなって業績が良くなる。赤字が黒字になったりもする。

ところが、事業管理の観点から考えるとこれは意思決定を危うくする。人件費が「生産性の改善」とは関係なく勃然として安くなるのだ。事業責任者にとって利益創出の財布と見える点も問題だ。

だから、予算管理においては賞与の引き当ては当然行うが、その支給または減額は実績に反映してはいけない。これを議論したのだが、ルール上そうなってないから、と言われる。そのルールを決めているのは自分たちなのだから変えればいいではないか。変えると過去にさかのぼってデータを修正しなければいけないとも言う。修正すればいいではないか。修正すると後から何でそうしたのか分からなくなるからと言う。記録して残せば良いではないか。

というワケで今日はデータを変更履歴付で更新する方法を朝から検討していた。機能として実装すれば手作業と違って何をしたか分かるので、週明けに実装することにする。

100人斬り競争

男性同士が飲んでいる時に下ネタとして今まで寝た女性の人数を「××人斬り」と言って競いあって話す場合がある。ほとんどの場合はヨタ話でその半分どころか10分の1も事実ではない。

日経新聞の30面にいわゆる"BC級戦犯"裁判の特集が連載されている。今日の記事は戦時中に毎日新聞が掲載した「百人斬り"超記録"」という記事に基づいて死刑となった二人の少尉の話だ。戦意高揚のために裏付けもないヨタ話が記事となり、裁判では"証拠"となったのだから驚く。判事はよっぽど真面目だったのだろう。

しかし、真面目な判事は日本刀で本当に100人も斬れるかは確かめなかったらしい。記事にある関孫六のような新刀は細身なので直ぐに刃こぼれして斬れなくなる。毎日研ぎに出して切れ味を保たなければいけないが研ぎ士が同道したという話はない。

これだけでも普通ならヨタ話で終わりだが、記事は最後の方で「据え物斬り」なら100人斬りは可能だと言っている。(記事は「可能かもしれない」と書いている。裏付けのない新聞記事で断罪されたことを書く記事で重要な部分を更に裏付けのない推論で書くのは記者が可能だと思って書いているということだ)たとえ据え物斬りだとしてもたった1本の刀で100人も斬ることは出来ない。そもそも、据え物斬りでは「競争」にならないではないか。この記事は様々に証言に迫りながら結局は裁判は正しかったと言っている。

記事は最後に「戦闘中の殺戮行為」が訴因であり証拠である"記事"で書かれていることなのに、判決が「捕虜や非戦闘員の殺害」に置きかえられたことを取り上げて「この点では粗雑と言わざるを得ない」と書いている。渋々といった感じだ。だが、この一点をもってこの裁判は「全てにおいて不正だった」というべきだ。

記事はこの粗雑な裁判が「戦犯裁判報復説」に格好の材料を提供したと結ぶ。「戦犯裁判は報復ではないが、こういういい加減なものがあるから他のものまで疑われてしまう。困ったものだ」という言い方のように感じる。

もしそうだとすれば、この特集には最初から予断が含まれている。特集が証言や裁判記録から裁判のあり様を検証しようと言うのであれば、この予断は排除されないといけない。そう、この記事は「証言や裁判記録を法律に照らすと、この裁判は不正であった」というべきなのだ。

2009年8月12日水曜日

非効率な物流資本配置

大矢昌浩氏が日経ビジネスオンラインに寄稿している。

「次の内閣」の物流行政を読む:日経ビジネスオンライン
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20090806/201934/?top

その中で日本がアジアにおける物流競争力を落とした原因を以下の様に記述している。

「原因の1つは政治家の利益誘導だ。アジアの物流強国はいずれも国策としてハブ港に投資を集中させている。ところが、日本は政治家たちがそれぞれ自分の地元に国の社会資本整備費を呼び込むことに奔走し、投資が分散した。それによって国が衰退しようとも、身内が潤えば政治家は自分の立場を守ることができる。」

全く同感である。例えば先日開港した静岡空港。そもそも新幹線も通っていて、近県の空港が利用できる静岡県に航空便の需要がどれだけあるのだろうか?関西国際空港や中部国際空港ですら収支が合わないと騒いでいる中で、何故東京と名古屋に挟まれた静岡に空港が必要であったのかということだ。収支が合わなければ結局は国や自治体が税金から補填することになる。

日本には国内をつなぐ交通網として新幹線がある。交通行政を考えた場合、新幹線と在来各線をスポークとして、全国に10箇所程度の空港をハブとして機能させるのが最も効率が良いはずだ。それが全国に空港と名のつくものは80以上ある。これでは本当の意味での「ハブ空港」に資本を集中できないのも無理はない。港湾も同じで全国で「特定重要港湾」と言われるもので23箇所、「重要港湾」に至っては140箇所近くもある。一応中枢港湾として横浜・名古屋・大阪・神戸がメガターミナル機能を持つ国際物流拠点として整備されているが、他のアジアの港湾の取扱量に比べると甚だ小さい。

物流インフラが整っている場所にこそ産業が集中発展する。しかし、日本では産業政策と物流政策が一致しているわけではないので、貴重な社会資本をさして重要ではない空港や港湾の整備に分散投資してしまい、今やアジアでは全く見向きもされない。元々島国である日本は海外通商によってしか発展する余地はなく、それがアジアの他の地域に席巻されてしまっているために、日本が誇るものづくりの生産能力が持ち腐れる結果となってしまっている。

池田信夫氏が「アメリカ企業がソフトウェアやアーキテクチャを支配し、それを低賃金のアジアでハードウェアに実装するという国際分業が成立した」ことが日本企業の敗北につながっていると書いている。
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/39c2970f079ebad7f1ef793ec99f7105
そう、日本の産業は自動車産業など一部では世界を圧倒するほどの力を持っているが、その他では世界市場で殆ど勝てていない。アメリカやヨーロッパがアーキテクチャとソフトウェアを決定し、アジア諸国がハードウェアを生産するという図式の中で、日本はアーキテクチャを決めてソフトウェアを開発しハードウェアを生産して埋め込むという「垂直型産業モデル」を続けている。アメリカは「日本はアーキテクチャとソフトウェアを輸入しない」と批判されアジア諸国からは「日本は技術を輸出しない」と攻め立てられる。その内港湾や空港のように日本が欧米とアジアの間でパスされてしまうと、今はまだ人口が多く一人当たりGDPが高いので相手にされているが、人口がこのまま減少して年金などの社会保障が破綻してGDPが低くなると相手にされなくなってしまう。

今後、物流を今以上に高度にして輸出立国を成し遂げるか、欧米とアーキテクチャ闘争をするか、いずれにしても強いリーダーシップが必要になる場面であると思う。企業でも同じだが、どんな事業をやるかは民主的ではない手法によって決定される。それはリーダーの個性や情熱によって支えられるもので、その為にアジア各国では長期の独裁的な政権があった。日本でも創業社長は大抵20年くらいは社長をやっている。日本が今更「開発独裁」に戻るわけにはいかないが、ある一貫した経済成長戦略を構想できる政治家集団が長期的に日本を経営しなければ、この長きに渡る低迷に終止符は打てないだろうと思う。

しかし、今度の選挙で物流政策が取り上げられることはないだろうし、長期的な経済発展や産業政策が主張されるわけでもないだろう。マスコミにおどらされて生活防衛ばかりだ。ローマの古代共和制が衆愚化したのは民衆がパンと娯楽を求め政治家が応えたからだ。その結果は…。本当に、真剣には考えてみなきゃな…。

2009年8月11日火曜日

原則を考える

「戦闘は戦術に依存し、
戦術は戦略に依存し、
戦略は外交に依存し、
外交は政治に依存し、
政治は経済に依存する」

逆に辿ると、

「経済を理解すると政治が分かり、
政治を理解すると外交が分かり、
外交を理解すると戦略が分かり、
戦略を理解すると戦術が分かり、
戦術を理解すると戦闘が分かる」

ということになる。

残念ながら最初のとっかかりである経済を理解しようという政治家はなかなかいないようだ。経済は更に、

「ミクロ経済
→マクロ経済
→マーケティング戦略
→マーケティング要素の戦術
→日々のビジネス活動」

とつながっている。荒っぽく言えば全ての人は「日々のビジネス活動」から「戦闘」までのあいだのどれかに関わっている。端っこの「日々のビジネス活動/戦闘」に関わっている人が一番多くて、「ミクロ経済/政治」に関わっている人が一番少ない。だが、「日々のビジネス活動/戦闘」にだけ関わっている人が「マーケティング要素の戦術/戦術」を理解することで勝率は上がる。

だから、個人としては自分の所属する組織の戦術を理解することが必要である。特に戦術はその組織の"型"として確立している場合があり、それを理解することで組織の一員になることが出来る様になる。

この型を作ることが出来る人は起業家精神に溢れている人で、思索の人というよりは"実践の人"で、試行錯誤によって型を作っていく。Googleの二人の創業者はこれにあたる。一方でGoogleのCEOは戦略を考える"思索の人"で企業戦略を担っている。日本の例では本田宗一郎は実践の人であり組織行動の型を作ったが藤沢は"思索の人"であり創業期の企業活動を牽引した。そう考えると戦略家と戦術家は上下関係というより補完関係という方が正しい。

型と資源を組み合わせて企業活動を決定するのが戦略家となるが、一方ではマクロ・ミクロの経済環境と適合することが出来なければ勝てる戦略は築けない。マクロ経済は金融であったり通商であったりという機能を民間企業が担っている。民間企業でないと国境を越えることが出来ない。もちろん政府のオーソライズは必要だが、政府は国境を越えられない。だが、オーソリティは国内経済環境に依存して変化するため、ミクロ経済を理解することがマクロな経済活動には不可欠だ。

政党のマニフェストは経済に依拠すべきと思うが、政治環境に比べると圧倒的に沢山のプレイヤーが関わるのだから経済は変動=リスクが高い。だから、マニフェストは大まかな方針と課題を解決する姿勢位しか書けない。前提を仮定して、課題解決の解法を例示することは出来るが、政策を事前に"変えられないもの"として約束するのは政治選択の硬直化を招き脆弱な政権にならざるを得ない。その点で、小泉純一郎は先の衆院選を「郵政民営化」という例示によって勝ち抜き、その姿勢を敷衍することでその他の政策を実行していった。

小泉総理は財界人や経済学者のプレーンの意見を取り入れ政策を決定していった。このことが批判の的となるが、政治が、特に国内政治が経済に依存する以上それは当然である。しかし、小泉以降で経済を理解し政策決定をしていこうという政治家は出てきていない。

2009年8月10日月曜日

幼い・・・

酒井法子の逮捕には本当の驚いた。その前の押尾学の逮捕にはあまり驚かなかった。あってもおかしくないなという程度。

芸能人の薬物関連での逮捕では、ブームが過ぎて落ちぶれて手を出すという構図があったが、落ちぶれてもいないのに何故と思った。

逃亡は「残留薬物が消えるのを待つため」という説があるが、単に「動転して逃げただけ」という説もある。証拠品である覚せい剤や道具を処分していなかったりというのがその理由だ。だとすれば何とも幼い38歳ではないか。

ちょっと格好の良い男性に入れ込んで結婚して、覚せい剤を奨められて相手を非難するどころか使ってみるというあたりにもちょっと世間ずれした幼さが垣間見える。ただ、その幼さが彼女特有のものではなく、普遍性があるところに怖さがあると思う。

最後に動くのはいつも政府

誰の著書だったかは忘れたが、変化への対応速度で最も遅いのは「政府」だと書いてあった。逆に最も早いのは個人。なるほど・・・。

変化が始まったことを認識するのは変化に晒されている個人ということになるようだ。次に変化を察知するのはコミュニティだろう。地域コミュニティもあれば、社会的コミュニティである企業もある。企業自体が対応するのは個人に対して若干遅れてしまう。ベンチャーであれば殆ど個人と同時に変化するかもしれない。ベンチャーキャピタルなどもそうだろう。
中小企業はベンチャーには遅れるだろうが、大企業ほどのろのろはしていない。のろのろしている中小企業は生き残れないから、生き残っている中小企業は押しなべて変化への対応が大企業より早い。大企業はのろまではあるが、銀行には負ける。銀行は変化が確実になってからしか対応しない。
銀行に送れて自治体や政府の機関が動き出す。それでも政府自体は全く動きを見せないだろう。政府を構成している政治家も個人としては変化に対応していても、集団としての政党はなかなか変化しない。

日本で見てみると、消費や雇用における変化は真っ先に消費者や労働者が反応する。民間企業が動いた後に徐に金融機関や政府が思い腰を上げる。20世紀末のバブル崩壊の後始末は政府と銀行の不作為によってずっと残り続けた。これにけりをつけたのは政界の鬼っ子、小泉純一郎が委任した竹中平蔵だ。政界からは批判が相次いだが、財界からは高い評価を得たのは政府の変化を企業に追いつかせたからだろう。
批判は政府や官僚、政治家からだけではない。政府が国民から徴税するのは「搾取」であるとみなす無政府主義的な政党や知識人からも批判の火の手は上がった。政府すら動くのに動かない集団がここにいる。

2009年8月7日金曜日

信仰と思想と言論の自由について

思想の自由というのがある。「わたしはあなたが反対の意見を述べるのを受け入れる」というものだ。「思想の自由」の背景にはキリスト教の新教運動が関係する。カトリックでは聖書の解釈権は聖職者にしかない。つまりバチカン以外が聖書を解釈することは出来ない。

そもそも、聖書はラテン語で書かれたものしかなく、ラテン語を知らず、文字すら読めなかった中世までのヨーロッパ庶民は聖書の内容を聖職者に教わる外はなかった。新教運動によって聖書の翻訳が進み、活版印刷によって翻訳版が普及したことで聖書を直接読み、解釈することが出来るようになった。その際、いわゆるプロテスタントと言われる人達が互いの解釈に介入しない様にするというのが思想の自由の根幹である。だから「信仰の自由」にもつながる。

ところが、思想の中には「みんなが同じ様に考え、行動しないと思想の実現に至らない」という考え方がある。これを「全体主義」といい、様々な政治思想や宗教がこの傾向を持つ。特に力によって思想や宗教を強要しようという場合、テロが発生する。日本でも1970年代に激化した学生運動は共産主義を社会全体に強要しようとしたテロであったと言える。古くは室町末期の仏教が武力をもって他の宗派の寺を焼き討ちしたなどはテロであった。

つまり、議論に依らず他者の思想を力で曲げようというのは全て「思想の自由の侵害」にあたる。たとえ気に入らなくとも他者の考えや行動を尊重するのが基本的な考え方だ。

さて、「靖国神社の政治家による参拝」問題だが、思想や信仰(神社参拝は生活信仰であり欧米人が前提とする宗派間の争いに発展するようなものではないのだが)の自由の側面から政治家がどんな立場であれ行動を制限されることはない。仮に、行動を制限するというのであれば信仰の自由の危機である。逆に政治家が他人に参拝を強要するというのであれば問題だがそんな事態には至っていない。だから反対するのはいくらでもして良いが、裁判に訴えてでも阻止するなんてことは出来ない。

政教分離を盾に政治家の宗教活動を禁止し、参拝を阻止するなんてこともあるが、政教分離は宗教が政治を弄断して十字軍や魔女裁判などの悲劇を起こさないようにするという「政治家と宗教家の癒着」を戒めるものであって、政治家の信仰心を否定するものではない。中世ヨーロッパの悲劇は教会が政治家である封建君主と癒着し、政治家が世俗的な、物理的な力によって庶民を支配し、教会が精神的な力によって支配するという補完関係によって人々の自由が奪われたことによる。その反省にたったものが政教分離であり、正確には「政治と教会の分離」である。

翻って日本では信長以来「政治と教会・神社・寺」の癒着はなくなった。江戸時代には檀家制度という仏教の宗派間の思想的な差異を無視する制度が出来たために、大規模な宗教対立が事実上なくなってしまった。そのため日本人は比較的宗教に無頓着になってしまった。つまり、政教分離というものは日本では400年前に確立した古いテーマなのだ。

政教分離が確立しているのにこれ以上徹底することは出来ない。無理にやろうとするから政治家に信仰心を捨てろという「信仰の自由」否定みたいな話になってしまう。ということで、今年も巻き起こるであろう靖国論争はいまや所謂"政治問題"(ここで言う政治とは組織ズレしたサラリーマンが建設的ではない責任回避の立ち回りを「政治的にまずい」と言う場合の所謂"政治"である)でしかない。

「名ばかり管理職」はもっと多い

日経新聞 8月7日 朝刊 9面
「すかいらーく3300人に残業代
管理職、社員の73%→6%」

管理職が社員の73%というのは異常な多さだ。これが6%に是正されたのは良いことだが、まだまだ「名ばかり管理職」はいるのだろうと思う。7月11日の投稿で書いたように、残業代支給をしなくて良いとされている「管理監督職」と所謂企業が言う「管理職」は違う。

管理監督職が『「経営者と一体的な立場」「出退勤の自由」「地位にふさわしい待遇」』をその基準としているのに対して、企業がそれにふさわしい処遇をしているかを考えると殆どの管理職が名ばかりであることは自明だ。社員側にも問題はあって、残業代が支給されない管理監督職として経営者/経営とでう関わるかについてあまり深く考えられてはいない。「経営者と一体的な立場」をとるために必要な情報を求めたり、権限を高めて行使することに熱心な人はなかなかいないものだ。

社員の6%が管理職という会社は結構多い。これは平均して16人の部下を持つ人が管理職となっているということだ。だが、この程度の規模のグループというのは多くて、酷い場合にはその人数に複数の管理職がいる場合があるというものだ。明らかに組織のトップによる指示命令でしか動けない「課長」が管理監督職として残業代を支給されずに働かされるのには多いに疑問がある。

管理職を無闇に増やして残業代を支給しないと経営にも大きな課題を残す。記事によるとすかいらーくは残業代支給に合わせてメニューの絞り込みなどの効率化を図り、店長の残業時間の短縮を実現したのだそうだ。残業が見えないことによって改善が疎かにされていたということだ。残業代というのは効率性や労働環境をはかる指標になるものだが、それが隠されることで企業の競争力が落ちたり社員のモラルが落ちたりすることが察知出来ない様になる。

では、管理監督職はどの程度の比率であれば適正なのだろう。軍隊を例にとると、管理監督職に相当するのは佐官以上になる。尉官は佐官見習いだし、実際に部隊行動の計画立案には関与しない。佐官の最下級、少佐は中隊長相当で、150人くらいの部隊を運用する。5〜10個小隊を指揮し、小隊の隊長は尉官が務める。

すかいらーくで言えば、店長は小隊長である尉官に相当し、佐官にあたるのはエリアマネージャやスーパーパイザーといったところだ。ホワイトカラーであれば、10人から20人をまとめる課長クラスは尉官に相当し、数人の課長を統率する部長が佐官となろう。とすれば、管理監督職と言えるのは精々社員の1%といったところなのだろう。とすると、企業には管理監督職と言われる人が今の5分の1で十分だということだ。

やっぱり、所謂"名ばかり管理職"はまだまだいる。

民主党は減税はしてくれないの?

民主党のマニフェストで、16.8兆円の財源が必要な政策が掲げられている。その財源は「ムダの削減」「"埋蔵金"の活用」と「税額控除の廃止」によって17兆円手当てするのだそうだ。

ちょっと待て。17兆円というと平成20年度の所得税総額の15.5兆円を超す金額が出てくるってことだ。それだったら、いっそのこと所得税を税率ゼロにしてくれないだろうか。所得税をゼロにせずにその他の助成を増やすというのは、税金を「富の再配分」機能にのみ焦点を当てて運用していることに他ならない。でも、その前に成長戦略だと思う。

再配分する原資があればこそ。その原資は経済成長によってしか生まれない。税は経済に死荷重をもたらすから、経済成長していないとその分だけ経済は縮小していってしまう。北欧の高負担・高福祉がよく取り上げられるが、かの国は一方で非常に高い経済成長を遂げている。法人税が安いので企業が越境してヨーロッパを相手にビジネスを展開しても、国外に移転しない。それによって雇用が守られ高負担が将来不安を招かない構造になっているわけだ。

スウェーデンの実効税率12%に比べて、日本の実効税率は40%と3倍以上になっている。日本から海外の生産拠点への転出が激しいのはこのことにも起因する。消費税の時にも増税を国民に求めずに法人税を上げて徴収すればよいではないかという議論があった。しかし、法人税率が上がると企業は海外に転出するか、効率化を推し進めて雇用を削減する。日本では解雇は難しいので、効率化と売上拡大をした上で新規雇用をしないということになるので、雇用は減ることはあっても増えることはない。逆に法人税を安くすれば、今までは海外拠点で行っていた生産や取引も国内に引き返してくる可能性が出てくる。

だから、民主党が自民党との違いを明らかにしてくれるのであれば、所得税の減税をやってくれたほうが良い。財源が確保されるんだからゼロにしてしまえばよい。そうすれば、悪名高い所得隠しも不要になるので、消費が拡大する可能性が出てくる。法人税は今のままで良いだろう。自民党は逆に法人税を今の何分の一かにして、所得税や消費税を上げてしまうという政策で対抗すればどうだろうか。

どこにでもある言論弾圧

「評論家の無責任な記事の掲載は、もっと考えられた方が、良いかと思われます。日経の品格が疑われます。」
ジャーナリストの吉田鈴香氏が日経オンラインに寄稿した記事に対するコメントの一つである。
http://business.nikkeibp.co.jp/fb/putfeedback.jsp?_PARTS_ID=FB01&VIEW=Y&REF=/article/world/20090727/201007/
発表された他者の意見に対して反論を展開するのではなく、その発表自体を妨害しようとする行為を「言論弾圧」という。
多分コメントした本人にはそういう意識はないのだろうが、これに見られるように言論弾圧の火種はどこにでもある。
それは権力者からだけに限らない。

2009年8月6日木曜日

8月6日という日

1945年の今日という日はどういう日か正確に理解しているだろうか。

8月6日という日は

「非戦闘員が居留する市街地への焼夷弾による無差別爆撃によって得られた爆弾投下データを元に、アメリカが原子力爆弾を広島という主に非戦闘員が居留する市街地に投下して焼夷弾以上の攻撃力を誇示し、実験した日」である。

日本に投下された原爆の何が悲惨かと言えば、広島以前に日本から示された停戦のための働きかけをアメリカが意図的に無視して原爆投下を敢行したということだ。つまり、アメリカにとって外交的にも戦略的にも戦術的にも全く不要であったということだ。兵器開発上の必要から投下されたことなのだ。如何に敵国であろうと兵器開発の実験台に、しかも非戦闘員を巻き込んで良い筈がない。アメリカは原爆に限らず、焼夷弾による市街地爆撃に遡って戦時に許された兵器使用を逸脱した。

このことはもっと怒りを含んで指摘されて良い。広島の平和公園には「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」という碑文がある。『過ち』を犯したのはアメリカである。この碑文がアメリカ人によって、英語で献じられることを望む。

今日の広島市長の平和宣言ではプラハで核廃絶を訴えたオバマ大統領を持ち上げた。だが、オバマ大統領が本当に『「核兵器を使った唯一の国として」、「核兵器のない世界」実現のために努力する「道義的責任」がある』と思っているのであれば、『核兵器を使われた唯一の被害国』である日本の広島・長崎を訪れないのは何故なのか?と思う。広島市長がこの演説を取り上げるのであれば『そう言ったにも関わらず、一度も広島・長崎を訪れることなく、被害国である日本に対する「道義的謝罪」もしないのは、先の演説が単に今の国際外交上の戦略の一端として取り上げただけであって、「道義的な責任」を本当に感じているとは言えない」と批判しなければならなかったのではないだろうか。

だから、今日という日はアメリカという国家に対する不信を再確認する日である。広島の同胞達が蒙った苦しみに思いをいたし、太平洋の向こうをぐっと睨みつける日なのだ。

2009年8月3日月曜日

南北問題

中国の南北問題である。

中国はあれだけ国土が広いので、南北どころか東西にも対立問題がある。今回は南北問題だけ。

北は「北京」、南は「香港」などである。何が対立するかというと、国家とビジネスの関係。香港は長らくイギリス領だったことから、商習慣も経済の成熟度も北京より遥かに先行している。そこに台湾から新しい産業や技術が上陸して、南の地は更なる発展を遂げている。

そこに様々に介入するのが北京の共産党政府だ。陰に日なたに上前をはねようとする政府にビジネスパーソンが対抗するという構図がある。

中国の歴史書は王朝ごとに編纂されるが、どの王朝の歴史書にも「酷吏伝」というのがある。重税を課して私腹を肥やしたり、裕福な家の家長を冤罪で捕らえ財産を没収するなどということをした官僚達のことが伝えられている。二千年変わらぬ姿がスケールアップして展開されているのだ。

翻って我が国はどうか?中国ほどあざといことは起きてないが、官僚とビジネスのあいだには対立がある。それが悪意によるものであれば救いがある。矯正出来るからだ。だが、日本では「官僚達の夏」に見られる様に、放っておけば良いものを「善意」から介入するという点が救いがない。

以前にも書いた様に官僚達には「自分が正しい」というバイアスがあるため過度に干渉しようとする。ただ、決して全面的に感謝されることはない。それが自身に何か問題があると思えないところが残念だ。

実は日本にだって南北問題はあるのだ。

2009年7月30日木曜日

人生無差別級と投票のススメ

7月22日に「機会平等神話」という記事を投稿したが、その後知人とやり取りをした時の自分の送信を以下に紹介する。

【ここから送信本文】
8月5日号のSAPIOの71Pに深川峻太郎という人が面白いコラムを書いていました。機会均等など絵空事だと。「努力した人が報われる社会」を主張する人は「チャンスを平等に与えてフェアな競争を行う」ということを主張するが、人間の"初期条件"を揃えることなんて出来やしないと。スポーツでは初期条件を揃えるのに「体重別」なんてものがあるが、その内「親の収入別」とか「出身大学の偏差値別」なんてことになりやしないか。などと機会均等幻想を批判していました。

なるほど〜、『人生は「無差別級」』なわけです。親の収入だって、学歴だって、自分自身の学歴も何もかも均等にするなんてことは出来ません。住んでいる地域によって教育程度に差が出たりすることもあります。そもそも、世界的に見れば日本人に生まれついたことは物凄い幸運です。どなたかが言っていましたが、日本は「ホームレスになる自由」がある稀有な国です。アジアやアフリカ、アメリカですらホームレスになる自由はありません。ホームレスになる人はホームレスにしかなれない人なのです。そのことを知れば、過酷な運命を受容する態度というのが人間にとって必要な基本スキルであるような気がします。
【引用本文ここまで】

知人は「人生無差別級」というフレーズにいたく感心してくれた。

とはいえ、民主主義では平等の精神というのが必要ではないのか?という意見もあろう。そこで、「民主主義で平等が必要なのは何故か?」に答えてみよう。民主主義以前、ヨーロッパに封建領主がいた時代、国家の統治は領主だけがやっていた。領主(君主)が何故統治が許されるかというと「神がそれを許し給うた」からだ。

君主はその国や国家を統一する政治的能力が高く、人望もあり他人を凌ぐのだから、神が統治を許したのだ。そして、その能力は子孫に伝えられるから代々その血筋が統治するのは当然だと考えられていた。王権神授説という。これに対し、そんなことはない、人間は皆平等だとは何故言えるのか?

君主の統治は、その血筋の優秀さに根拠が求められる。そんなことはないというなら、君主を圧倒する能力を示さないといけない。人を集めて集団(軍)を作り武力で打倒するのだ。そして戦いに勝った者が新しい君主となる。

つまり、武力だとか、知力だとかが人を分けないという論拠がないといけないわけだ。そうは言っても差があるのだ。有能な人は有能だし、無能な人は無能だ。努力して勉強出来る人もいれば、出来ない人もいる。差があるのにどうして平等だと言えるのか?

そこで考えられたのが「神に比べて」ということだ。万能の神に比べればどれほど有能でも大したことはない。どんなに力があって頭が良くて財力があっても、たった7日間で"世界"を作った神に比べれば大した能力はない。それが人間が生まれながらにしてみれば平等だということだ。

もっと言えば、神の尺度では大差ないのだから(誤差なのだから)気にするなということだ。逆にいうと人間の尺度で分かる差は認めてしまえということになる。神に比べて平等という概念は「だから平等に一票の政治的権利」を保障するものであって、それよりも具体的な諸条件まで平等ということではないのだ。

さて、そう考えて今度の選挙を考えてみれば、みんなの投票はそれがどんな判断に基づくものであっても平等に「正しい」のだ。だから、気軽に投票所に行こうではないか。

新聞が分かっていないテレビの論理

週刊東洋経済の8/1号に「テレビ政治になお懸念」というタイトルで朝日新聞編集委員の星浩がエッセイを寄稿している。今度の衆院選に対するテレビの報道姿勢を懸念しているものだ。7月12日の都議会選挙投開票日に特番を放送した局は民放では1社もなかったということが懸念の出発点になっている。

在京キー局が都議会選挙特番を組めないのは自明のことである。これは、全ての在京テレビ局が「キー局」であるということに由来している。在京局は地方の系列テレビ局にテレビ番組を供給している。在京テレビ局が仮に東京都議会選挙特番を放送すると、全国の系列局でその特番を流すか、自主制作のローカル番組を流すか、映画や2時間ドラマの再放送をするしかなくなってしまう。幾ら地方とは言え、その程度の番組では広告を集められない。そのため、特に日曜日のゴールデンタイムという書入れ時に「東京都」とはいえ地方選挙を無関係の地域で放送するわけにはいかなかったのだろう。それが、在京テレビ局が通常放送を特番に変えなかった本当の理由である。

東京に住んでいると、東京で起こったことは日本全国どこででも「重要」だという気になる。確かに、次の国政選挙の結果を占うという点で東京都以外の住民にも無関係とはいえない。しかし、テレビ放送で「リアルタイム」で解説されてまで見る必要があるかというとそれは違うだろう。都議会の与党がどこになろうと青森県の住人には関係がない。だから、全国放送になってしまう日曜のゴールデンタイムに都議選特番なんかは組めなかったというのが正しい。

ここで見えてくるのは新聞とテレビ局のローカライゼーションの程度の問題だ。基本的に新聞の広告出稿は一部を除いて全国一律となる。そうでなければ紙面をそろえることは出来ない。地方が自由に編集できるのは精々一面程度。新聞社にとって地方は取材拠点では会っても営業拠点ではない。町の瓦版は地元の地方紙に任せればよい。全国紙である自分達は天下国家から重要と思える話題を報道すべきという意識が新聞には見える。

テレビ局も基本的には同じだが、違いは「地方テレビ局」というのは殆どないということだ。地元の情報を吸い上げて、放送するのも、地元の企業の広告ニーズを吸い上げてCMを流すのも、在京キー局といえども考慮しないといけないということだ。そうしなければ、地方局の責任を果たせなくなる。だから、在京キー局の特番は日本全国にニーズが認められるものだけということになる。国政選挙であれば良いが、いくら都議会だろうとローカルな話題は在京キー局では扱えない。

その意味で在京大新聞と在京キー局を比べた場合、新聞社の方がより中央集権的であり、提供する情報もハイレベルであると言える。そこで更に問題になるのは、大新聞の購読数だ。ハイレベルな情報提供に終始しているはずの大新聞の購読者数は異常なレベルで多い。情報の内容から見ても、質から見ても多数の購読者を得られるはずがないのに多いというのがテレビとは別の意味で新聞の歪みを示している。

そして、そろそろ新聞とテレビが系列を組むという体制自体が崩壊しないものだろうか?

成長戦略を語れない人々

今度の衆院選で「日本の成長戦略」が争点になることはなさそうだ。

考えてみれば、如何にバブル崩壊や失われた10年があったとはいえ日本は未だに世界で最も豊かで幸福な国の一つだ。多くの人に「日本がどうしても成長」しなければいけないという切迫感はないだろう。しかし、国債発行残高や人口動態を考えると、このままでひらける展望などない。

しかし、成長は必要なのだ。企業も同じ。事業戦略の話をしていると、今の規模を守ってほどほどに利益を得ればいいという意見が出てくる。社員や取引先、顧客の幸せが満たされれば、今の規模で十分というわけだ。

実はこれ、ビジネスの世界で一番難しいと思う。どんなビジネスであっても、生まれた瞬間から陳腐化が始まる。陳腐化に対応するには不断の革新が必要になる。革新には投資が必要で、その原資は生み出された利益である。負債も利益を担保にしたものと考えると利益は重要だ。

さて、売上が現状維持で会社の規模を変えない、つまり従業員を増やさないとしても、企業は利益を削る三つの課題に対応しなければいけない。一つは陳腐化に伴う価格低下。商品は上市した瞬間から価格が下がる。価格を上げるには、商品のバージョンアップをするしかない。そこには競争相手に負けない革新が必要になる。

二つ目は市場の成熟や全く新しい代替商品の登場による市場の縮小だ。市場は成長するが、最後は衰退するものだ。市場が衰退しない産業はない。事業の根幹を揺るがすこの現象に、企業経営者は早かれ遅かれ対応しなければいけなくなる。

最後は人件費や材料費の上昇だ。従業員を増やさなくても、昇給などによって人件費は上がっていく。特に日本では「同一労働同一賃金」の原則はないので、年齢や職歴の長さによって給料は上がっていく。従業員の平均年齢が高ければ人件費は高くなるし、低ければ安くなるのだ。企業の規模が一定であれば、人員構成は時と共に高齢化していく。定年や退職に伴う新規採用や中途採用は企業にとっては他動的な人材獲得作業であり、必ずしも事業に必要な人材が確保されるわけではない。そうして、費用の増加に効率の低下まで合わさると利益は全くでなくなってしまう。

そう考えると、企業は少しずつでも確実に成長を遂げなければ生き残ることすら危ういということになる。成長の度合いはそれぞれだろうが、いずれにせよ適切な成長率は維持できなければいけない。仮にインフレ率が1%で、陳腐化が2%、市場縮小に伴う価格競争で2%、人件費が3%(売上対比で1%)とあがっていくのであれば、売上は6%以上成長し続けなければいけない。

国家も同じこと。日本は国債と借入金、政府保証借入など合わせて900兆円の借金があるので、その利払いだけで年間8兆円近くになる。日本のGDPが550兆円くらいで税収が55兆円くらいなので、税収の15%くらいは利払いにあてられる。元本償還となると今の税収の水準だといつまでたっても減らない。なので、税収が多くならないと日本の財政健全化は遠のいてしまうということになってしまう。勿論支出の抑制も重要。

税収は税率が変わらない限りGDPに比例するので、税率を上げるのがいやならGDPを大きくする以外にないということになる。つまり、日本の産業規模を今の何倍かに成長させないとダメだということになる。そう、産業の成長戦略ということだ。

他国を見てみると、アメリカは「環境産業」に舵をきった。中国は「辺境開発」でしばらくは成長できる。ヨーロッパも「環境産業」で欧米間の競争が激化するのは目に見えている。先日の米中経済協力は産業政策の重点分野が重複しない両国が手を結ぶことで、互いの成長を促進しようというもので、アメリカの現実主義が如実に表れたものだ。

翻って日本はというと、今度の選挙では「生活防衛」とか「安心国家」とかが主題になるようだ。「国民の幸福拡大実現」が政治の目的である以上、こういったものはどの政党でも同じになるしかない。争点は「何」に重点を置いてそれを実現するのかということだ。GDP成長がなくて、福祉を充実させるということは税率が上がるということだ。「企業税率をあげて、消費税を廃止する」とは社民党や共産党が言いそうな話だが、税率が上がれば企業は従業員の給与を下げざるを得ない。仮に消費税が廃止され、税率が上がったら、従業員の給与が5%下がるだけのことだ。ならば、、、やはり産業が成長して、企業が大きくなり、GDPが増えて税収が多くなるしかないではないか。

そういう議論がこの夏に起きて欲しいと思う。

2009年7月28日火曜日

異常気象幻想・・・

山口と福岡で集中豪雨による自然災害が発生した。まだ「温暖化による異常気象」という言葉がメディアでもネットでも独り歩きしている。さてさて、、、

九州や山口などの日本列島南西部では確かに気温が高かったという。観測史上記録を更新したのだとか。それを以って温暖化による異常気象という主張が出来るのだろうか?

実は日本の平均気温は徐々に下がっている。温暖化を主張する人々にとっては都合が悪いくらいに下がっている。これは困った。

実は気温の変化についての科学的説明は不透明である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:2000_Year_Temperature_Comparison.png
これは様々な調査から導き出された過去2,000年の地球の気温変化の推計であるが、これによると凡そ次のような気温変化が起きたと言える。
1)紀元1000年までは緩やかに気温は上昇していった。
2)紀元1000年を境に気温が下がり、寒冷化していった。
3)紀元1600年を境に再度気温は上昇に転じた。
4)紀元1700年後半から1900年前後まで急激に気温が下がった。
5)紀元1900年を越えて20世紀に入った頃から気温が上昇に転じた。

さて、株と同じで気温は上がったり下がったりするものらしい。中学の化学実験で経験済みだが、温度が高いと水の二酸化炭素含有量は少なくなる。すると、紀元1000年までは二酸化炭素濃度は上昇し続け、さぞかし農作物の生育は良くなったことだろう。逆に紀元1000〜1600年までは寒冷化したので、大気中の二酸化炭素濃度が薄くなり、農作物の生育は悪く、寒冷化も手伝って収穫量が減少したと思われる。日本でもこの頃までは資源の争奪が繰り返されており、その中で武士階級や戦国大名などが成立していった。

かように考えると、二酸化炭素が温暖化を導いたとは言えなさそうだ。二酸化炭素は気温の上昇の結果として現れていて、それが証拠に温室効果ガスが排出されていない時代でも気温は上昇する。いや、その気温変化の「均衡」に対して人類の輩出する温暖化ガスが悪影響を及ぼしているのだ、という主張もある。しかし、過去の気温変化の際に起きたであろう二酸化炭素の大気中濃度の変化以上に人間が排出量を増やしたとは思えない。というのも、大気中の二酸化炭素は3兆トン。日本だけの排出量が13億トンで0.04%。世界合わせても0.5%にも届かない。それが、マクロな気候変動による気温上昇によってもたらされたのか人為によるものなのかなんて分からないじゃないかと思う。

ユニクロ最高益更新を真正面から捉えよう

日経新聞 7月10日 朝刊一面
「『ユニクロ』最高益1080億円」

ユニクロが歴代最高の営業利益1080億円を叩きだしたという。この営業利益から、有利子負債の利払いなどを差し引いて、最終経常利益がどれほどになるのかは不明だが、今の経済環境下で利益を増やすというのは驚異的だ。会社でも時々ユニクロの話題を出すのだが、決まって「今は不景気なので売れているだけで、景気が良くなったら真っ先に変われなくなってダメになる」という反応が返ってくる。不思議なものだ。

ユニクロは景気が悪いときでも良いときでも常に成長を遂げてきた。一時頭打ちか?と言われたが、それまでの方針から一転、カラーバリエーションを増やしたり、高機能衣料を開発したりと、価格はそのままで付加価値を高めることに力をいれて成長を果たした。ビジネスの視点から言えば、顧客ニーズの変化に即応して機会をものにしたというところだ。ビジネスパーソンとしては、そのことに真正面から取り組みたいと思う。

成功者が出ると、そのうちダメになるという評価が下されるのは良くあることだが、そういう発言は決まって変化を拒んでいるものの口から出てくる。成功者の多くは環境変化に合わせて自らを変えたもので、自ら変わろうとしないものからは苛められるものだ。白鳥は昔から白かったわけではなく、環境変化に合わせて白くなった。でも、最初に白く変化した個体はさぞかし仲間内から苛められたことだろう。しかし、生き残るのは自ら変化したものだけ。

「理由のない成功はあるが、理由のない失敗はない」

とは人口に膾炙しているが、成功にだって理由はある。ユニクロの成功は実質的な創業者である柳井氏のパーソナリティによるところはあるが、第一の成功要因は「ロジスティクス」である。原料の調達から生産、輸送、販売にいたるまでのサプライチェーンを最適化して、顧客に魅力的なデザインと価格を安定供給できる仕組みを作り上げたことが成功の主因だ。実はトヨタ自動車の成功要因も同じである。消費財の成功要因は供給力を支えるロジスティクスにあることは今や常識ですらある。

翻って、レナウンに代表される不調なアパレル各社の過去の成功要因は「デザイン」とか「流行発信」であった。それは日本人のファッションに関する知識が不足していたことから、アパレルメーカーが提供するファッション情報が消費を決定づけていたからだ。それが日本人のファッションスキルが向上するに従って、消費者に選択肢と商品をコンスタントに供給し続ける能力が成功要因に変わってしまったということなのだろう。

もちろん、ユニクロだってデザインを開発したり、素材を開発したり、と情報発信をしている。だが、それは消費者のアテンションを惹くものではあっても、消費者を継続的に購入に走らせるものではない。安定した商品供給、安価で高品質な商品が成功を呼び続けているのだ。マーケットに敏感に反応するというのはこういうことなのだと思う。

2009年7月27日月曜日

歴史は繰り返す…のか?

衆院選を控えて各党が事前活動を加速している。政権交代なるか?というのがメディアの関心事で、自民党を政権から引きずり下ろすことが目的であるかの様だ。軽いデ・ジャ・ヴを伴う。

自民党が政権から転がり落ちた16年前、期待を一身に集めた細川内閣は一年に満たず退陣し、こともあろうに自民党と社会党が連立政権を樹立するという事態になり、自民党が復権した。同じことが繰り返されるという観測もある。ただ、この時の非自民政権は大小八党の連立であり本から不安定だった。細川護煕は当初は自民党との連立を模索しており、小沢一郎の手腕によって何とか成立したのだ。

それと比べると民主党は政権を担うだけの力量がある様に思える。この一年で内紛が続いた自民党よりは一体感があるように思える。だが、16年前の非自民に寄せられた夏の太陽の様な熱気はない。郵政選挙の様なスローガンもない。

何を争う選挙なのだろうか。分からない。

この〜樹なんの樹♪

日経新聞 7月27日 朝刊一面
「日立が完全子会社化〜マクセルなど上場5社〜成長事業取り込む」

産業インフラの"日立プラントテクノロジー"、グリーンエネルギーで注目される電池の"日立マクセル"、情報システム関連の"日立情報システムズ""日立ソフトウェアエンジニアリング""日立システムアンドサービス"の5社を、日立が完全子会社にするという。日立本体の同一ドメイン事業との統合が行われるのだろう。特に、システム3社は合併されるのではなかろうか。日立にはコンサルティング会社があるので、それと統合してシステムソリューションを出掛けるというのかもしれない。

日立は「脱・総合電機」を宣言して再建に取り組んでいる。この5社の完全子会社化で読み解くとすると、「グリット送電」などの効率的なエネルギーシステムの供給に力点を置くようだ。電気使用量の変化によって、送電量を変化させる技術には送電機械に加えて統制用のシステムが必要になる。また、電気を貯めたり放出したりする電池も必要。この5社で統合的にこの分野を切り開く意図があるように思う。

2009年7月26日日曜日

価値ある同盟者を探し、彼らにふさわしい場を追求しよう。

デイル・ドーテンの「笑って仕事をしてますか?」より

"価値ある同盟者を探し、彼らにふさわしい場を追求しよう。"

部下を持つ立場になると、どうしても次の様に考えるようになる。

「彼/彼女に何をさせよう」
「彼/彼女をどうやって働かせよう」
「彼/彼女をどうやって評価しよう」

多くの場合、部下を選ぶことは出来ない。上司を選ぶことが出来ないのと同じだ。だから、あまり部下の能力に大きな期待を持つ人というのは少ない。上司に期待する人が少ないのと、これまた同じことだ。

つまり、上司と部下の間に信頼関係が自然発生することは希で、その為に「上司=命令する人」「部下=命令に従う人」という不文律が生まれる。このように上司の権威というのは非常に危ういものなのだ。パワハラとかサラリーマンの「鬱」の原因の一部がここにある。この不幸な連鎖を解消することが出来ないだろうか。

デイルは積極的に優秀な人を求め、その人にふさわしい仕事や待遇を探そうと言っている。自分の部下や上司、同僚、取引先、自分に関わる全ての人のことをどれほど真剣に考えているだろうか。理解しようとしているだろうか。その人のことにふさわしい仕事を探しているだろうか。ビジネスが経営資源(モノ、金、情報)に如何に人が関わって付加価値をつけるかということだと考えると、人が最も付加価値を生み出せる関わり方、すなわち仕事を探すのは経営者の最も優先すべき仕事だと言える。

そう考える方が自分にとっても他人にとっても幸せな気がする。

2009年7月24日金曜日

大手メディアが無視する法廷

医薬品ネット規制訴訟初公判、原告は「省令はネット潰し」と主張 -INTERNET Watch
http://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/20090714_302200.html

これほどの裁判を大手メディアが全く伝えないというのは驚きを通り越してあきれ返る。裁判長が『これは重大な憲法事件だ』と言っているように、行政が特定の業種や業態を狙い撃ちして規制し、その他の業態に便宜を図るというとてもあからさまな「自由資本主義の侵害」であると思う。行政が「国民の幸福に有害である」として規制を行うのは当然だが、今回の規制ではむしろ「国民の幸福を増大している」事業者が被害を受けているというのが問題だ。規制が想定したのは、「副作用や使用に制限が必要な医薬品の販売を規制して薬害被害者の発生を未然に防ぐ」というものだったようだが、そもそも「市販医薬」に重大な副作用をもたらすものは多くない。副作用が心配される医薬品の多くは「処方薬」であり、ネットはおろか大衆薬局ですら販売されていない。それを規制することで国民の安全をはかれたとは片腹痛い。

もっと腹が立つのは、メディアが全くと言っていいほど報道しないことだ。これは広告主であるチェーン薬局に配慮しているためではないだろうか。とすれば、この事件は大いにネット上の草の根運動で盛り上げないといけない。大手メディアが動かないのであれば、勝手連の記者がどんどん広めていくしかない。

平均的な大人は1日に3つ何かを忘れる - GIGAZINE

平均的な大人は1日に3つ何かを忘れる
http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20090724_forget_three_things/

えぇ。忘れますとも。しかも、結構大事なことから忘れます。そういうもんです。

2009年7月23日木曜日

「予算の作り方」を講義する

今日は仕事の終わりがけに予算の話しになった。予算見直しをしていて、その実務をしている人と上司の話し。

予算担当者:「前期実績が90万円の科目があるとして、今期の予算は念の為に100万円にしようという予算の作り方ではいけないのか?」
上司:「90万円の実績が150万円の予算に対するものであれば100万円だって評価出来るから状況による」
僕:「…(絶句)」

僕は経営企画部門に所属しているので上司や同僚がこういう考え方をしていると困る。そこで即席講座。

経営者の立場である経営企画部門の予算に対する態度は、当然のことながら経営者と同じでなければいけない。経営者が考える予算とは、積み上げではなく目標からの分解でなければいけない。仮に、経常利益を3億円だとする(経常利益のターゲットは総資産額や純資産、自己資本などで決まる)。事業ドメインのポテンシャルや自社の実力、経営者の思いなどで売上が150億とすると147億円が事業運営で使えるお金ということになる。

そのお金を「効率よく使う」様に分配するのが経営者の考えるべき予算だ。それには当然ながら変動費率や固定費の水準などの条件があるが、147億の使えるお金を何に重点を置き、何を削減して実現するかという経営者の意思を伝えるのが予算の役割だと思う。その枠の中で創意工夫を凝らし、時には経営者の目標を上回る予算を立案するのが事業担当者の責務となろう。

もちろん、積み上げた予算…というより「予定」あるいは「成り行き」は必要だ。予算と成り行きには差があるもので、その差を埋めるのがビジネスパーソンの仕事というべきだろう。両方ないと改善の為のモチベーションも出てこないが、経営企画部門であれば経営者の目標としての予算に責任を持たないといけない。

という話しを極簡単に話した。まあ、「会計システムなどの経営管理上の基幹システムの導入を業務現場からの吸い上げでやる」というのを「経営管理システムの導入はトップダウンでしか有り得ない」と話したばかりだから予算立案が積み上げ方式なのも当たり前ではある。これが経営の広い視野からの話が通用する様になれば、だいぶ変わっていくのだと思う。

2009年7月22日水曜日

機会均等神話

SAPIO 8/5 号 71ページの日本人のホコロビというコラムが面白かった。曰わく、「運命にはプラスもマイナスもあって、それに立ち向かっていくのが人間の逞しさであり、"努力"というものだ。」

コラムでは世襲議員のことが取り上げられていて、世襲議員にはプラスの運命がまとわりついて、その中での努力があり、それを落とすも落とさないも有権者の責任というのは同感だ。世襲があるから議員になれないと主張する人は、指摘されているように当選はしないだろう。世襲候補者が尻尾巻いて逃げるくらいの力量がない人が出来ることは高が知れている。

さて、世襲候補者は制限された。その内官僚出身も制限されるだろう。いっそのこと抽選にするか。世襲も癒着も官僚化も絶対おきない。世襲制限がバカバカしいと思う理由がここにある。

それよりも、もっとチャレンジし甲斐のある面白い世界に政治がなっていけば良いのだ。

予測せよ!

下期の予算見直しを行っている。何をどう予測するかというのが難しくもチャレンジングな作業だ。

企業には将来に対する根拠のある予測と、企業の求める結果が必要だ。予測と求められる結果の間に「何故、人が働くのか」の答えが横たわっている。予測をなぞるのであれば人は不要だ。予測を上回ることがビジネスなのだろう。

「根拠のある予測」というのは意外に出来てない。例えば前年同月比。去年と今年にどんな違いがあって比較しているのか不明だ。特に、今年の業績を前年同月比でやると、10月以降大変なことになる。

トレンドがどう動いているのかは結構長期に渡って推移を見ていかないといけない。でも精々去年止まり。予測をどういう根拠で算出するかということがもっと求められても良いと思う。というか、求めている。

日食を微かに見た

日食である。曇天である。期待してなかったが、雲の切れ間から綺麗に欠けた太陽が!太陽観察サングラスなんか不要。

いやあ、良かったo(^▽^)o

日食休み

今日は不思議なことに通勤電車が空いていた。学校が夏休みに入ったので、その影響かとも思ったが、昨日は平常通りだったので夏休みだからということでもなさそうだ。すると、日食休みか。

残念なことに悪天候で首都圏では日食は見れそうにない。奄美やトカラ列島も雨らしく、世紀のイベントを楽しめる人は外洋でクルージングする一部の人だけになりそうだ。

日食を毎回見に行っているという人の話を聞いたことがあるが、本当に好きな人は見れないことがあるということをわきまえているという。だが、俄か日食ファンは折角休みをとったのにと不満を募らせそうだ。普段は人もまばらな奄美やトカラで、無用な事件が起こらなければ良いと思う。

2009年7月21日火曜日

賢い消費に踊らない

日経新聞で「賢い消費」についての特集が連載されている。金融危機や所得の減少、ニーズの変化によって消費者が「買うより借りる」「低価格指向」「奢侈品買い控え」などをして消費市場が萎んでいるというのだ。さて…。

個人的には生活に大きな変化はない。家を買ったのはリーマンショックが覚めやらぬ去年の12月。当然新居で使う家具も買ったが、「安くより長く」がモットーで結構な価格だった。僕が特別な訳ではなく同じ時期に家を買った知り合いが一人はいる。さて、必須でも小さくもない買い物をするモチベーションはまだまだ残っているのだ。

消費が小さくなっているのは単に消費者の数が減っているということではないか。国内市場は需要より供給が大きくなっているのだ。価格が下がるのは当然で、供給過多が消費者の選択肢と商品の情報を増やしている。

需要を増やすのは基本的には労働者人口を増やさないといけなくて、残念なことに少子化によってそう簡単には増えない構造になっている。だから、ドメスティックに限れば市場の縮小に如何にアジャストするかは重要なので、日経新聞の様な特集になる。しかし、思い切り考え直せば、ドメスティックを捨てて海外に活路を見いだすべきだと思う。まあ、ドメスティックな新聞の特集にそこまでは求めようもないが。

価値観で投票する

混迷を極めた国会が解散した。正確には衆議院が解散した。「政権交代」とか、新党旗揚げとか、色々取り沙汰されている。選挙公示までの1ヶ月は政治評論家とか、選挙専門家とかがメディアで活躍しそうだ。

さて、自民党では「解党的」出直し選挙と言っているそうだ。思い出せば十数年前、新党ブームに押されて自民党が野党に転落した時に、少なくとも2年くらい野党であったとしたら、非自民党勢力の与党精神の醸成など二大政党への素地が形成されたことだろう。結果的に非自民党勢力の混乱に自民党が漬け込んで復活することとなった。

この頃からしきりに「政策」を戦わせるという言い方が蔓延した。二大政党が基本的な政策を訴えて、有権者に選択して貰うというのだ。所謂マニフェスト選挙といったもの。この動きに違和感をずっと抱えていた。

違和感の一つはマニフェストなどと膨大な情報を有権者が正確に理解し意思を示すという綺麗事加減だ。確かにマニフェストを理解し投票するのは国民の義務という主張は成り立つ。だが、投票自体は義務であっても、その依ってたつところは有権者の自由ではなかろうか。マニフェスト以外にも有権者の判断基準は多様で良かろう。

もう一つの違和感は、我々は何のためにどういう人を選ぼうというのだろうか?ということだ。国会議員のことを「代議士」という。「代理で議論をする人(士)」ということだ。つまり、自分の代理を選んでいるわけだ。

自分に成り代わって国政を議論する人を選ぶということは、決して政策を立案したり実行する人を選ぶというのではない。官僚や民間が提案するアイデアを議論し、有権者の判断を法案に反映させるのが代議士の仕事ではないか。それなのにマニフェストには具体的な法案や政策が盛り込まれていて、必ずしも私の代表を選ぶために必要な政治哲学とか理念が書かれていない。つまり、価値観が分からない相手を自分の分身として選ぶのは無理があると思うのだ。

衆議院選挙の候補者はマニフェストとか具体的な政策にあまり言及せずに、もっと価値観をさらけ出して欲しい。自分の理想とする未来とか、好きなもの嫌いなもの。信条や情熱といったものを教えて欲しいと思う。

2009年7月17日金曜日

失敗を恐れない為に

失敗を恐れるというのは人間にとって自然な反応なのだろう。人間は生物の中でも弱い種だ。未成熟で誕生し、一年近く立ち上がることも出来ない。殆どの肉食動物より足が遅く、力も弱い。

そんな人間が生き残るためには慎重に行動し、迂闊な失敗を犯さない様にしなければならなかった。更に、弱い種の常として集団で行動していたので失敗は自分たちの集団の危機に繋がる訳だから、周囲からも失敗を犯さない様にという圧力がかかる。だが。野生の失敗と死が不可分の環境から、多少の失敗が危険を及ぼす様なものではなくなったにも関わらず、人間は失敗を極度に恐れる。

大企業病というのは、この恐れが組織の活力を損なう病だ。大企業病は大抵の場合、上から下まで蔓延している。大企業病を解消するために、トップを変えたり若手を抜擢したりしてもあまり効果はない。人間の性質が習慣によって強化されているのだから。だから、意味のある挑戦による失敗を評価して、失敗のない人を降格するくらいのショックが必要なのではないか、と思う。

2009年7月13日月曜日

キリン+サントリー=グリフォン…かな?

キリンとサントリーの経営統合が出てくるとは思わなかった。ただ、ビールが創業事業であり主力のキリンとワインやウィスキーなどが創業事業のサントリーなら、補完的と言えなくもない。実際、鮮度が命のビールと熟成が必要なワインやウィスキーでは事業の判断基準などが違う。うまくいくか?微妙…

二大政党の中での小政党の在り方

「二大政党を目指して」とかいうが、日本はとっくの昔に二大政党になってしまっている。自由党と民主党が合併して「新」民主党になった時に二大政党が成立した。自民党VS民主党、これ以外の構図は有り得ない。

自民党は公明党と連立政権を作るために選挙協力をするようになってから、選挙に弱くなった。一人しか当選者のいない小選挙区で選挙協力をするというのは、具体的には強者が弱者に選挙区を譲るということでしかない。それでは党内のモラルが下がっていく。連立を固定化したことが自民党の失墜を招いた。だから、自民党と公明党は今や分かちがたい状態になっていて、分けることに意味はない。

だから、自民党(公明党)VS民主党の二大政党は、もう成立しているのだ。東京都議会選挙の結果は「自民党の歴史的大敗」というが、公明党は議席を一つ増やしていて、二党では9つ議席を減らした。民主党は20も議席を増やしているので、「民主党の躍進」という方が正しい。差の11議席は共産党をはじめとする小政党が議席を減らしていて、小政党がますます小さくなっていくというのが現れている。

野党の小政党は与党が強い時は野党側に様々なオプションがあるから存在出来る。しかし、民主党が政権をとる可能性が高い野党として十分に強いと反与党の票は民主党に流れてしまったというのが今回の構図だろう。二大政党が本格化する中で、共産党や社民党の様な小政党がどうあるべきだろうか。現在の様な、ある意味非現実的な主張を続けて、将来の社会政治環境の変化に備えるのか、それとも民主党に合流して政権の座を得るのか。

社民党は社会党時代に自民党と連立して存在意義を失った。その過ちは繰り返さないだろう。共産党は連立を組まないことを賢明にも選択し続けている。

今回の都議選の結果は実は微妙だ。どの政党も過半数をとってはいない。自民公明はあと3議席で過半数だが、民主党は過半数をとるために10議席必要だ。だが、残りの12議席のうち8議席が共産党だから、連立を組むのは絶望的だ。議長選出すら、共産党が独自候補を立てれば自公に負ける。

民主党にとっては共産党がキャスティングボードを握っているが、自公にとっては必要な駒ではない。これまた微妙な状態だ。

仮に、民主党と共産党が連携という事態になると、民主党から離党者も出るだろうから、自公過半数が成立してしまうかもしれない。第一党なのに議長も出せないじゃ、民主党の沽券に関わるだろう。落ち着き先が見ものだ。

2009年7月12日日曜日

続編か映画

昨日、TBSのドラマ「Mr.brain」が最終回だった。謎を残した終わり方は確実に続編ドラマか映画があることが予想出来る。出演者のレベルと人数から言って、映画でも耐えれそうだが、どうだろうか?

いずれにせよ期待感が残るうちに続けないと忘れられてしまうぞ、と。

2009年7月11日土曜日

意思決定〜会議は躍る、いつまでも…

人間生きていれば意思決定はつきものだ。今日の夕ご飯は何にしよう、とか、この人と付き合おうか、とか、値段をいくらにしよう、とか、誰を昇進させよう、とか。重要なものから、そうでないものまで意思決定の連続だ。

ただ、不思議なことに、重要な意思決定は沢山の人が参加し、そうでないものは少人数で(時には一人で)意思決定することが多い。だが、意思決定は重要であればあるほど一人で、そうでないほどみんなでする方が良いようだ。重要な意思決定は、その場に参加する名誉以上にストレスがかかる。そのために社会的手抜きが起きやすい。また、影響力を誇示する目的で会議を引っ掻き回す人も多い。

意思決定は、基本的にYES−NO−NO batしかない。つまり、代表的な意見を取り上げるためなら最低3人で良い。ただ、意思決定後のアクションには3人では足りないこともあるし、三極を代表するのが一人ずつだと互いに歩み寄るキッカケが見いだしづらい。だから、それよりも多く、しかし倍の6人を超えないようにしたい。

だが、会社の会議で6人以内のものなど滅多にない。あるとしても実務的な調整の場合で、コンセプトを決めたり戦略を決めるのに少人数というのは稀だ。

先日の事業戦略を決める会議では出席者は10人を超えた。これでは創造的な会議は殆ど不可能だ。結局は意思決定はされず、何も決まらなかった。小田原評定とか"会議は躍る"とか、意思決定を少人数でやる重要性についての逸話は多い。日本の首相も一人で意思決定する場面を増やさないといけないと思う。

DQ9 ガイド本と同時発売

ゲームとしての面白さには欠けるなぁ。

確かに、管理監督者ではないな・・・

この辺りのことはあまり気にしていなかったんだけど・・・。

「管理職と管理監督者の違い」(Wikipedeia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/管理職#.E7.AE.A1.E7.90.86.E8.81.B7.E3.81.A8.E7.AE.A1.E7.90.86.E7.9B.A3.E7.9D.A3.E8.80.85.E3.81.AE.E9.81.95.E3.81.84

労働基準法では「管理監督者には残業代を支給しなくてよい」ということになっている。なので、大抵の会社では「課長になると残業代はつかない」ものとなっている。しかし、厚労省は管理監督者を「「経営者と一体的な立場」「出退勤の自由」「地位にふさわしい待遇」などの条件を満たすもの」と定めている。経営者と一体的な立場とは担当事業分野における決裁権を大幅に持っているということであるが、課長にはそんな権限は付与されていないのが通例である。精々、数万円の経費支出について、認める程度であるし、支出にしろ売上にしろ決定権を持っていない。出退勤は一般従業員と同じく決められているし、給与格差は精々数万円だ。これで管理監督者というのは少し無理があろう。

厚労省の基準でいうと、管理監督者として認められるのは取締役クラスの雇用者に限られるのが実態だろう。たとえ部長であってもこの基準をクリアする条件の人は殆どいない。しかし、取締役はそもそも労働基準法の「使用者」にあたるので残業支給の対象とはならない。ならば、そもそもこの「労働者であり、かつ管理監督者」というのが実態として無理があるのではないだろうかと思うのだ。例えば、経営者並の権限を持っているであろう人は多くの会社では部長以上くらいしかいない。更に、一般社員と待遇に大きな差があるか(具体的に言えば、給与面での格差があるか)と言えば、それほどではない。それなのに、管理監督業務と称して上司への報告書作成や部下の報告書処理などで残業が続くとすれば、「課長になるのは嫌」という『草食系サラリーマン』が増えるのは当然かなと思う。

であれば、経営者あるいは経営企画部門の人間としては以下のように考えるのだろうと思う。1)適切な権限委譲を行う、2)管理監督職と言われる課長以上の役職手当を月あたり数十万円以上のレベルにする、3)管理監督職の給与を職域の業績と連動させる。これが所謂「成果主義」がもてはやされた理由ではないだろうか。しかし、やりたいことが「人件費削減」でしかなかったために給料が減ったことが恨まれるだけという結果となった。本来、給与制度や人事制度をいじったりするのは、会社が成し遂げたい成果を実現するために従業員に思い切って働いてもらいたいと思うからだ。だが、制度設計において、この部分は大体忘れ去られる。

ならば、と思うのだ。経営者は会社のミッションとか自分のビジョンを前提として中堅以上、少なくとも課長以上の人とは「契約」を結ぶべきではないだろうか。その契約の中でアウトプットを成し遂げるのが管理職の仕事であるとするならば、待遇もあげてよいし、評価も出来るだろう。逆に、その契約が出来ないというのであれば、一般社員として残業代が支給される待遇で働けばよいのだと思う。それは働き方の選択なのだから、それで良いのではないだろうか。

クールが崩れる夏

7月はテレビの番組改編期である。6月末に一斉に番組が終了し、7月から新番組がスタートする。ところが、TBSは8月スタートが目白押し。というのも、4月の番組改編が大失敗に終わったからだ。そのために8月に大幅な見直しが断行される。

TBSの4月改編は「冒険」と言われた。急激に冷え込んだビジネス環境が広告収入を直撃し、テレビ業界は大打撃を蒙った。そこでTBSは一種の賭けとして4月に大改編を行ったが、結果的にはこれが大失敗だった。なぜ、こんな博打をしたのだろう。

ここにテレビ業界に新しいマーケティングモデルが不足しているのだということに気付く。業界横並びで実験的なマーケティングが不足しているのだ。以前は深夜番組が実験場だったが、深夜とプライムでの視聴者のプロファイルがあまりにも違うため、深夜で成功する番組は「深夜だからこそ」成功する番組となってしまった。3ヶ月ごとのスペシャル番組も新番組の番宣を兼ねるため、似たり寄ったりになってしまい面白みに欠けてしまう。

結局視聴率が稼げるタレントベースの番組作りが、どの局も同じという印象を加速している。広告業界にもう一つの打撃をもたらしたGoogleモデルは広告主の効果測定に対する関心を強め、テレビ局は尚更視聴率に敏感になった。

だが、3ヶ月=1クールという図式が崩れたTBSが改編によって勢いを盛り返したら、各局が横並びを捨てて様々な実験に手を染めるかもしれない。それを少し期待している。

2009年7月10日金曜日

消費傾向による悲喜こもごも

日経に森永乳業のパック型アイスが増産という記事が掲載されていた。このアイス、ふと思い返すと家にもあった。余暇を家で過ごすのが持ち帰りが出来るアイスの需要を増やしたのだとか。別の紙面には「縮む外食」としてファミレスが閉店を続けているというのが載っていた。この二つの記事にはある現象がもたらす影響の両極端が顕れている。

エコ・バブルが始まると言われている。「エコ・ポイント」「エコ・カー減税」。環境対策と言いながら、一方で高速道路料金を値下げするのはおかしいと思うが、これは別のバブルとなるだろう。巨大な太陽電池プラントを開発するとか、風力発電プラントを開発するとか色々いっている。でも、プラント開発で発生するCO2で、削減できるCO2なんか吹っ飛んじゃうんじゃないかな?と思う。これもまたコインの裏表。

ユニクロ最高益更新を真正面から捉えよう

日経新聞 7月10日 朝刊一面
「『ユニクロ』最高益1080億円」

ユニクロが歴代最高の営業利益1080億円を叩きだしたという。この営業利益から、有利子負債の利払いなどを差し引いて、最終経常利益がどれほどになるのかは不明だが、今の経済環境下で利益を増やすというのは驚異的だ。会社でも時々ユニクロの話題を出すのだが、決まって「今は不景気なので売れているだけで、景気が良くなったら真っ先に変われなくなってダメになる」という反応が返ってくる。不思議なものだ。

ユニクロは景気が悪いときでも良いときでも常に成長を遂げてきた。一時頭打ちか?と言われたが、それまでの方針から一転、カラーバリエーションを増やしたり、高機能衣料を開発したりと、価格はそのままで付加価値を高めることに力をいれて成長を果たした。ビジネスの視点から言えば、顧客ニーズの変化に即応して機会をものにしたというところだ。ビジネスパーソンとしては、そのことに真正面から取り組みたいと思う。

成功者が出ると、そのうちダメになるという評価が下されるのは良くあることだが、そういう発言は決まって変化を拒んでいるものの口から出てくる。成功者の多くは環境変化に合わせて自らを変えたもので、自ら変わろうとしないものからは苛められるものだ。白鳥は昔から白かったわけではなく、環境変化にあわせて白くなったのだろうが、最初に白くなった個体はさぞかしいじめられただろう。

だが、結局生き残るのは先に変わったものだ。だから出遅れたものはその変化を良く見て、自分が直面している環境変化を真正面から捉えないといけない。

2009年7月9日木曜日

鳩山・麻生だけではない

『鳩山・麻生の「相似形」
"政策より政局"で決まった民主党新代表』
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20090522/195490/

鳩山・麻生は互いが似ているだけではない。その立場も政治状況も自分達の祖父を演じているかのようだ。遡ってみれば自民党が政権からずり落ちた十数年前の時に首相の座についたのは細川護熙だった。その数十年前に、時の政変の中で様々な政治背景を丸呑みして戦前の政権を作ったのは彼の祖父の近衛文麿だった。小泉純一郎の祖父・又次郎は「扇動政治家」との異名があったという。小泉純一郎のどうどうたる扇動ぶりは筋金入りのものだったということだろうか。

今の『二大政党』もどきの状況も戦前の政治状況そっくりだ。決め手にかける二つの政党が政権を争っている状況下で発生したのが政治不信と二回の軍部によるクーデターであったことを思うと、我々はもっと真剣に我々の代表としての政治家を選ばなければいけないと思う。

政治は如何に変わるべきか?

『期待先行"リバウンド"が怖い民主党
山口二郎・北海道大学教授が語る「2大政党制の意義」』
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20090708/199531/


「山口 再分配は全部ばらまきなんですよ。だから公平で平等なばらまきと不公正なばらまきと2つあって、不公正なばらまきをやってきたのは自民党で、確かに小泉はそこの水道の栓をとめたという面はあるんですよね。もっと公明正大にばらまけば国民は幸せになるんですよ。」

富の再配分を「市場」に任せるか、「政府」が介入するかというのは政治理念の大きなポイントだと思う。山口氏は「公平な」ばら撒きと「不公平な」ばら撒きがあって公平であれば良いと言っているが、完全に公平なばら撒きも完全に不公平なばら撒きもないだろうから程度の問題だ。そして、程度の問題はリスクであり確率だ。つまり、富の再配分をやろうとすると一定程度の不公平さが出来てしまうリスクがあるわけだ。

リスクをゼロにするというのは理想ではあるが、実際にはゼロにはならない。制度設計をするのであれば、リスクが大きかろうが小さかろうが不公平さが最小限ですむように考えなくてはいけないのではないだろうか。例えば公共工事では競争入札が実際には談合によって不正に利用されている。談合を無くすための取り組みは行われているが、それでも減らない。そもそもニーズが小さいところに投資をしようとするのだから、そこでビジネスをしようとしているモノはさっと掠め取って逃げようと思うものだけだ。ニーズが強いところには公共投資が行われなくてもインフラだろうがサービスだろうが民間資本が活躍する。そうなると談合が入る余地はなくなってしまう。

つまり、再配分の規模が大きければ不公正は大きくなり、小さければ不公正は小さくなるとも言える。ならば、と言って再配分をゼロにすることも出来ない。人が生きていくうえで最低限必要な福祉は個人が獲得したり生み出したりしている富とは関係なく享受できなければいけない。だから、再配分の対象となるべき国家の事業は「教育・医療・老後」に限るべきだと思う。そして、経済基盤としての「通貨」と社会基盤としての「警察」、国際社会における地位保全のための「外交」以外は民間で十分に賄えるのではないだろうか。それ以外のものは基本的に民間に任せ、事後的な課題解決をするための監督にのみ集中するべきなのではないだろうか。
現在、1府11省1委員会になっている行政の中から多くが「庁」になってしまって良いと思う。

現在の中央省庁
府(1):内閣府
省(11):総務省、外務省、財務省、文部科学省、厚生労働省、農林水産省、経済産業省、国土交通省、環境省、防衛省
委員会(1):国家公安委員会

こうすれば良いのでは?
府(1):内閣府
省(6):法務省、外務省、財務省、文部科学省、厚生労働省、防衛省
委員会(1):国家公安委員会
庁(5):総務庁、農林水産庁、経済産業庁、国土交通庁、環境庁

そして、思い切って5つの庁の人員を半分くらいにしてしまえば良いのではないだろうか?そしたら、中央省庁の人員も2割くらいは削減出来るし、予算も減らすことが出来るだろう。そういう行政改革を断行しなければ不公正が最小限の行政って実現できないと思う。

2009年7月8日水曜日

2000億じゃ規模が小さすぎる

民主党が政府の無駄遣いを調査した結果、洗い出したのは2000億足らずだったそうだ。もちろん巨額だし、無駄遣いはないに越したことはない。ただ、何十兆にも及ぶ国家予算に比べたら、大した金額ではない。どうもアプローチが間違っているように思う。

国家予算の圧縮は前年比で1割とか2割といった規模でしなければいけないと思う。それには小さなことを積み上げてというのも良いが、思い切ってやめるものを決めた方が良い。あるいは、一気に2割の人員削減を断行した方が良い。

優秀な人材が流出して国家運営に支障が出ると言われるかもしれないが、優秀なら民間で富の創出に力を発揮して欲しい。成熟した経済社会に戦争直後のような統制経済は不要だ。だから、省庁は社会からこぼれ落ちた不合理や不公正を事後に救う程度で良い。さぁ、国家に縛られた人材を解き放て!

2009年7月7日火曜日

電子カルテが問題だ

日経新聞 7月7日 朝刊一面
「パナソニック医療ロボに参入〜まず薬剤師支援」

パナソニックが医療ロボット分野への参入を果たす。薬剤師の調剤支援をするロボットだという。

昔、同じ様なビジネスの立ち上げに関わったことがある。ICタグで医薬品を管理し、調剤などの薬剤師業務を支援するというものだ。ビジネスとしては失敗に終わったが、関わることで面白い視点を得た。

注射薬の振り分けをするロボットは既に複数の大学病院で実用化されている。問題は薬品の種類。全てを網羅しようとすればロボットは巨大になる。使用頻度や薬品のリスクによってロボットで扱うものと棚で管理するものは分けた方が良い。

ロボットを使うには電子カルテとの連携が不可欠だ。これが曲者。電子カルテの普及はまだまだ。手書きのカルテではロボットへの入力の分だけ薬剤師の負担は増える。何でもそうだが、システムに最初に投入されるデータをどうやって作るかが一番重要になる。

関空失敗に学ぶ

日経新聞 7月7日 朝刊一面
「関空路線の撤退加速」

関空に閑古鳥がないているそうだ。開港当初から利用者が増えないことが問題となっていたが、関空が大きな失敗だったことが明らかになった。元々、伊丹空港と関空はそれぞれ国内線と国際線で住み分けをするということになっていた。しかし、それは伊丹空港の発着数を減らし、関空の発着数が思ったように増えないという状況を作っただけだった。

オマケに関空は国内線も発着するようになって、大阪に国内線用の空港が二つあるということになってしまった。それに加えて神戸空港である。需要に対して空港の供給が多くなってしまい、全ての空港で赤字になるという共倒れに終わってしまった。伊丹空港を廃止しなかったことで、人と物の流れが変わらなかったことで、既存の業者や地元は喜んだかもしれないが、結果的には巨額の関空開発費を溝に捨てる結果となった。

福岡空港を移転するという話しが前々からあるそうだ。福岡空港は街中にあるため、拡張することも出来ないからというのがその理由だが、仮に離れた場所に空港が出来たとして、恐らく福岡空港は廃止されないだろうと思う。そもそも、あんなに便利な空港は日本には他に無い。それを廃止することには多くの反対が出るだろう。結果、新空港は国際線を主体とするということになる。だが、福岡空港からは他の国際空港に向かう便もあるのだから、福岡から別の国際空港に飛び、そこから国際線に乗り換えるということが起きそうな気がする。

よっぽど福岡空港と新福岡空港の連絡が便利でなければ関空の二の舞になる可能性が高い。そんなことはやめて、福岡空港周辺地域の買収などに力を入れた方が良いのではないかと思う。

賢い政府は期待できるのか?

日経新聞 7月7日 朝刊一面
「日本の軸を問い直す(上) 今こそ「賢い政府」に」

日経新聞の主幹のエッセーらしく、麻生政権の構造改革つぶしに批判を加えている。更に、小泉改革の負の遺産を「改革の行きすぎ」ではなく「改革の不徹底」と指摘したのは久しぶりに新聞らしいエッセーを読んだ。民主党の一部やマスコミの一部は為にする反対を繰り返しており、小泉改革を批判する。だが、小泉改革は構造改革の「一部」でしかない。小泉政権は全面的な構造改革に対する激しい抵抗を打ち破るために敢えて郵政民営化のみの一点突破で改革を推し進めた。その点で小泉政権は近年になく「賢い政府」だったのだと思う。

小泉政権に続く三つの政権は小泉路線を継承できなかったのではない。小泉政権時代からポスト小泉政権で改革をひっくり返そうとしていた、政界官界の勢力が民主党の力を借りて改革勢力を叩き潰したという方が正しい見方だ。その勢力は各政権の見方側にいて、それが政権の基盤を危うくし、短命で終わってしまった。ことほど然様に政府は「変わらない」ものなのだ。そんな政府に「賢さ」を期待してもよいものだろうか?

"変化"に対して最も早く反応するのは消費者個人である。時代の移り変わりを敏感に感じるのは生活者個人しかいない。次に反応するのはベンチャー企業や目端の利いた中小企業。ベンチャーキャピタルや個人投資家がそれに続く。次は普通の中小企業が反応する。大手企業の中でもベンチャースピリットが旺盛な企業は反応するかもしれない。この辺りで新聞やテレビなどのメディアが気づく。あぁ、ネットメディアはとっくの昔に気づいて反応している。

メディアが反応すると、徐に大企業が動く。大学などの研究機関もそれに続く。変化への対応が大きなうねりになってから、やっと地方自治体が気づく。最後にやっと登場するのが国となる。個人が日々刻々と対応するのに比べて、国は数年単位でしか変化に対応できない。変化に対応して向きを変えた頃にはとっくに違う方向にトレンドが流れてしまっている。"恐竜"とはよく言ったものだ。だから、行政がビジネスに及ぼす影響力は極力小さくしなければいけない。

TBSで「官僚の夏」というドラマが始まった。通産省が「国民車構想」なるものを主導したという設定だという。実際には自動車業界は政府が主導しなかった産業である。政府はこの業界を無視していた。一時自動車会社を整理統合するというので(これによって誕生したのが日産自動車)、自動車メーカーの数を制限するといったことをしようとしたが、それも失敗に終わった。仮にこれが実行されていればホンダは自動車メーカーにはなれなかった。トヨタはGM車を下請けで生産するだけだっただろう。政府が自動車業界を軽く見て、鉄鋼や通信に力を入れたことが、鉄鋼の斜陽を招き、通信のガラパゴス化を招いた。

ある程度民間資本が育ってきた後には、如何に産業育成というものに政府が役立たないかということがここに如実に顕れている。

2009年7月5日日曜日

市場主義の中で何が規制されるべきか

日本の政治は振れ幅が大きすぎる。

バブル崩壊後にアメリカの繁栄を横目で見ていた日本では「市場に任せる」ことの可能性を感じて次々と規制緩和が行われた。その成果は確実に上がり、バブル崩壊があったと言えど日本のGDPは成長を続けた。しかし、今世紀に入って、ホリエモンた村上ファンド、リーマンショックなどがあり、派遣切りや年金問題など社会不安が増大すると、やっぱり市場に任せるなんてとんでもない。規制をしなければダメだと言い出す。

日本は長らく国家が産業を育成し、国民の生活を支えてきた。東南アジアの国々が戦後の復興期に「開発独裁」などと批判されたことがあったが、そのモデルは自民党独裁の日本だった。日本は戦後数十年「開発独裁」国家であり、それが復興を力強く推し進めてきた。そのため、少しでも経済が不安定になったり、社会に不穏な影が落ちると「独裁色」が強くなってくる。

独裁というのは「強力な権力者が多くの弱者を支配する」と思われがちだが、独裁には「多くの弱者が一部の力ある人に依存して、支配してもらう」という構造の場合もある。日本はどちらかと言えば後者で、だから直ぐに「小泉か小沢か」「麻生か小沢か」「麻生か鳩山か」と個人の名前が挙がってしまう。政党政治の基本は個人ではなく、積み上げられた政治理論や哲学によって、独立した政治理念が形成され、それを体現する人を首班としてより近しい意見を持った人が終結するというものだ。ところが日本では人が変わると主義主張は簡単に変わってしまう。

今回の規制強化も「至上主義か否か」という二元論で語られてしまうのは、政治理論や哲学の積み上げがないからで、積みあがっていない薄っぺらさが二元論として現れている。そのような単純な構造に足を掬われないためには様々な側面から政策も経済も見ていって、それらの意見を対等な重みで評価して奥深いやり方を追及するべきなのだと思う。

自動車優先都市−東京

昨日の日経新聞 一面のコラム「春秋」に自転車の3人乗り規制緩和について書かれていた。

母親が自転車に子供を乗せる場合、これまでの規制では二人乗りはOKだが、三人乗りは禁止。だが、現実的に幼い兄弟を持つ母親は無理やりにでも二人を乗せて行動せざるを得ない。そのため、「十分な安全が図れるのであれば」という条件付で三人乗りが解禁された。

だが、同時に「春秋」は我が物顔で歩道を走る自転車にも苦言を呈している。申し訳程度に「自転車専用レーンを設けないことが問題」と言っているが基本的には歩行者と自転車が互いに注意しろと言っているように思う。春秋も指摘するように、これは自転車専用レーンがそもそもない、にも関わらず自転車と言う乗り物の通行を許している点に大きな問題がある。

東京は−日本全体も−基本的には自動車優先社会である。家の近所の横断歩道は横断者が自動車が近づいているので止まることはあっても、自動車が横断者を見つけて減速することすら稀である。自動車側は自分が先に通行するのが当然と思っている。都内では自動車は片側三車線で通行できるところは沢山あるのに、歩行者と自転車が別々に通行できるところは殆どない。そもそも歩道がない場所も多い。道路は殆どが「自動車」のために作られていて、歩行者のためには道は作られない。これは本末転倒ではないだろうか。

一つ提案がある。都内は基本的に自動車の進入は禁止。その代わり、自転車専用レーンを今の自動車一車線分作って、歩道も広げる。自動車は公共交通機関の用途のみ通行可能。よっぽどでなければ、総理大臣も自動車による移動は禁止。安全上必要な場合であれば、装甲車でゆっくり移動。

つまり、「道」を歩行者が優先的に利用するものとして、その次に自転車、最後に必要不可欠な分だけの自動車と利用の優先順位を変えるべきだと思う。

2009年7月3日金曜日

売家と、唐様で書く、三代目

「"3代目"麻生がぶち壊した吉田茂の戦後政治」
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20090702/199182/

55年体制の立役者となった吉田茂。その孫が自民党の、がっぷり四つに組んだ選挙の初めての敗戦を招くようだ。

「売家(ウリイエ)と、唐様(カラヨウ)で書く、三代目」

という川柳がある。三代目にもなると放蕩で資産を食い潰して家まで売りに出すが、趣味人らしく「売家」という文字を唐様の書体で書くというもの。麻生太郎が政権を食いつぶしたとは思わない。食いつぶしたのは自民党の全ての議員だ。

自民党は変わった。どぶ板の大きな政府を標榜し、田中角栄に代表される泥臭い政治から、大上段に構えた改革の剣をドスンドスンと政官界に振り下ろす都会的な政党に変わった。それが、自民党自体の求心力を破壊することとなった。ある議員は昔ながらの大きな保守政党を指向し、ある政治家は小さな保守政党を指向する。中には社会資本主義的な左派も出てきて、自民党の政治思想は空中分解をしてしまった。

この分解劇を演出したのは麻生首相ではない。小泉元首相だ。圧倒的な国民と財界の支持を背景に、党内の守旧派を押さえつけて大改革の先陣を切った。近年なかった長期政権は(5年足らずで長期政権になってしまうのもどうかと思うが)、改革を推し進め、多くの政治家のポリシーを浮き立たせ、省庁を揺さぶった。守旧派は身を潜め、嵐が去るのを待って、安倍・福田に襲い掛かった。

安倍・福田の二代が短命に終わったのは、民主党の強硬姿勢もあったが、自民党が背後から支えなかったことにも原因がある。仲良し内閣とか調整内閣といった「弱い首相」を演出するような発言が相次ぎ、それを自民党の議員は跳ね返さなかった。小泉改革潰しを民主党と一緒になってやったようなものだ。民主党も必ずしも小泉改革に反対ではないものの(規制緩和や官僚改革は民主党と平仄が合った)、政権欲しさに為にする反対を繰り返した。

この記事は55年体制を麻生首相が浪費したかのように言うが、55年体制を破壊したのは小泉元首相である。しかし、破壊された55年体制をゼロベースで再構築しなかったのは麻生首相を含めた自民党自身だ。小泉元首相は「私が自民党をぶっ壊す」と言った。その通りとなった。しかし、再構築までが彼の仕事であるべきではなかっただろうか。確かに総裁多選を戒めるという点で任期満了をもって辞めたのは立派だったかもしれない。しかし、途中で改選を数回やったから多選になっただけであって、総裁だった期間が長かったわけではない。

この三代目は唐様ではなく漫画様で書くようだ。教養が知れる。しかも、漫画論を語れるほどではない。次の選挙で政権が変わっても違う書体で書く三代目が首相の座に就くだけ。変わらなさに祖父たちもびっくりしていることだろう。

山笠のあるけん博多たい!

「博多祇園山笠:王さんら「台上がり」−−13日、集団山見せ /福岡」(読売新聞)
http://mainichi.jp/area/fukuoka/news/20090703ddlk40040346000c.html

山笠である。ちょっと心躍る。

博多の商人は梅雨の頃になると店頭から消える。どこに行っているかというと山笠を作る準備をしたり、飲んだり、子供山笠の指導をしたり、飲んだり、気合を入れたり、飲んだりしているのだ。まあ、基本的に山笠に備えて毎晩飲んでいる。んで、お店はおかみさんが守るという構図だ。なので、九州男児がどうのこうのと格好いいこと言って亭主関白のように振舞うが、基本的には博多の男は奥さんには頭が上がらない。

さて、その山笠に王貞治前監督がお目見え。福岡ダイエーホークス時代から数えて十数年。福岡に居を構え、墓も建て、すっかり博多の人になった王さんがはじめて舁き山に上るというのも驚きだが、是非雄姿を見せて欲しい。

2009年7月2日木曜日

一澤帆布長男、対抗措置の仮処分を申請 兄弟間の争い継続へ

一澤帆布長男、対抗措置の仮処分を申請 兄弟間の争い継続へ
http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/090702/trl0907020726000-n1.htm

この事件の背景を簡単に記述しておくとこうなる。

1905年創業の一澤帆布が一澤信夫(三代目)の元で昔ながらのプロ向けの帆布製品を製造していた1980年に、朝日新聞社に勤めていた三男の信三郎が入社する。この当時、一澤一族で会社にいたのは信夫の弟と四男。その四男は96年に退社する(この時の経緯に今回の騒動の根があるのではないかと推測します)。信三郎は一澤伝統の技を使った消費者向けのカバンの製造と販売を開始し(SPAですな)、全国に知られるブランドに育成する(これまた、四男の屈託があったのではないでしょうか)。

三代目信夫が死去したとき、一澤帆布の代表取締役社長は信三郎だった。信夫は遺言書を残しており、株式の三分の二を三男信三郎夫婦に相続するという内容であった。その後、元東海銀行の行員だった長男信太郎が日付の新しい別の遺言書を持ち出した。その内容は株式の三分の二を長男と四男に相続するというもので、三男には実質的に何も相続させないという内容であった。

遺言書の日付が新しいため、法的には信太郎の持ち出した遺言書の方が有効になる。そのため信三郎はすぐさま遺言書の無効を訴え出るが、最高裁までいって「無効と断定する根拠がない」と敗訴となった。信三郎は取締役を解任された上、会社からの退去を要求される。信三郎は事前に一澤帆布の製造部門を分社化しており、その製造部門を引き継いで新会社を設立した。従業員も全て(信夫の弟も含めて)信三郎に従い、材料である帆布の供給元も信夫の会社との取引をしないと表明し、信夫は窮地に追いやられる。

その後、職人を集めたり、中国に工場を作ったり、と信夫はなんとか一澤帆布再会にこぎつけるが、今回の三男の妻の訴訟で遺言書が無効であると判定され、法的には代表権が認められない状態になった(ビジネス上の登記などとは別)。今回の申請は、三男の弁護士が言うように要求の法的根拠が分からないが、「30人の従業員の地位保全」を持ち出されると難しいことになる。裁判所は基本的には最も立場の弱いもののために動く傾向があるので、仮処分を受理しないと一澤帆布の従業員の地位が保全されないと判断すれば受理するかもしれない。このあたりは長男は上手い。

でも、長男と三男を比べた場合、圧倒的に三男に分があるように思う。というのも、長男側には周囲の支援が殆どないからだ。履歴も長男は家業に殆ど関わっておらず、四男は家業から身をひいている。この状態の二人に先代信夫が家業を譲ると決断する理由が情理両面から見てあるように思えない。この騒動も数年経過している。いっそ、信三郎が一澤帆布の株式を当時の評価額で信太郎に売却する提案をした方が良いのではないか?実質的に現在の一澤帆布は法人としては過去のものと一変している。一澤のブランドの使用を禁止して、その分だけ株式評価額を下げても良い。

もしくは、信三郎が現一澤帆布の従業員の地位保全を約束しても良いだろう。そうすれば長男の申立の根拠はなくなると思う。

衆院選に向けて色々

民主党がマニフェストを公開した。自民党は内閣改造と党人事の変更を検討しているのだとか。どちらも衆院選を睨んだ動き。都議選後にも解散か?という噂もあるそうで、政界は落ち着かない。

麻生総理は総理主導の人事で印象を変えたいと思っているらしいが、党内には抵抗がある。改造人事でポストを失うと選挙を戦えなくなるという思いもあるのだろう。特に現職者やその出身派閥からの抵抗は激しい。でも、それで総理の指導力が発揮出来ないとするなら、自民党は選挙に勝てまい。

(※というようなことを書いていたら、結果的に人事は閣僚の補充で終わってしまった。目玉の東国原知事入閣も(報道先行で、話が上がったかは怪しいが)、党首脳の異動も無かった。麻生総理の指導力が低下という評価は避けられない。当初から閣僚補充だけであったなら、麻生総理は報道を断固否定しておくべきだったし、そうでなければ断行すべきだった。党内実力者達も選挙を睨んでのことなら、表向きは反対しても、強行させて麻生総理の株を上げるべきだったと思う。この騒動で選挙結果はますます分からなくなってきた。)

日経オンラインに選挙における公約と投票行動についての考察が掲載されていた。曰わく、

「人はプラスのリスク(利得)は高く、マイナスのリスク(損失)は低く見積もりがち」
「公約実現の可能性は実績で言えば自民党の方が高く、民主党の方が低い」
「自民党と民主党が共に利益誘導的な公約を掲げると自民党に支持が傾く」
「自民党と民主党が共に増税などの公約を掲げると民主党に支持が傾く」

つまり、利得を得る場合は確実に利を得るために自民党を支持し、損失を被る場合は可能性が低い民主党を支持するというのだ。このエッセイは採用しているコンセプトは間違っていないのだが、肝心の実例への適用で間違っていると思う。

A)100%の可能性で一万円が手に入る
B)1%の可能性で百万円が手に入る

この場合、多くの人はAを選ぶ。

A)100%の可能性で一万円を失う
B)1%の可能性で百万円を失う

この場合、多くの人はBを選ぶ。

これに選挙公約を適用するのであれば、

自民党)80%の可能性で国家予算が10兆円増加する
民主党)20%の可能性で国家予算が40兆円増加する

自民党)80%の可能性で国民負担が一万円増加する
民主党)20%の可能性で国民負担が四万円増加する

となる。この場合、利得と損失(予算と財源)は符合するので選挙の際に「やれ、財源がない」といった話しにはならない。だが、自民党のマニフェストは財源としての増税も、予算を増やす実績もあるが、民主党は「予算は増やさず、増税もしない」といっている。投票する側からすると民間に回ってくるお金の期待値は自民党より小さく、負担増加の期待値も小さいということになる。

実際の投票行動は理屈では推し量れないが、自民党が公共サービス拡充をアピールして勝つか、民主党が国民負担軽減をアピールして勝つか、といったところだろうか。

2009年7月1日水曜日

高齢化する団地

日経の39面に「子供の声ない都営団地」というサブタイトルで都議選の特集が組まれていた。

東京都だけでなく、大規模な団地開発が70〜80年代に行われた政令指定都市などでも同じ問題に直面している。僕の実家は福岡にあるが、70を過ぎた両親が二人で30年以上住み慣れた団地に暮らしている。同時期に入居したご近所さん方も殆どが70を越していて、子供の数も少ない。

先日父親が軽い脳梗塞で入院した。幸い大事には至らなかったが、後遺症が出たなら年老いた母だけではどうにもならない。団地は公園も風化して子供の姿もまばらだ。治安は安定しているので、住みやすいと思うが住人の入れ替えは進んでいない。

5階建ての棟が殆どで、エレベーターがないので高齢者には不便になっている。そこで、提案として、近隣のエリアを区画整理して高層マンションを建て、一部の住人を移れるように出来ないだろうか。マンションは低層階に病院やレストラン、区の出張所などを付設する。空いた団地は若い夫婦などが安く入居出来るようにする。

大規模な団地の問題は人口流入が一時的で変化に乏しいということだ。だから、同時期に高齢化してしまう。人口流入を促す為には、ある程度の割合で空室があって、新しい入居者が出てくる必要がある。そうすれば、様々な年代の人たちがモザイクの様に重なり合って暮らして、街に活力ある落ち着きが出てくる。と、思うがどうだろうか。

2009年6月30日火曜日

すげぇチャンピックス

20年来の喫煙者である。過去に禁煙に挑んだことはない。それが、思うところがあって禁煙に挑戦。

んで、この土曜日に禁煙外来へ。内服薬のチャンピックスを試すことに。土曜日〜月曜日までは一錠を1日一回。何の変化も無く、本当に効くのかな〜と疑問が湧いてきたところで今日から朝晩二回に。

すると、10時頃に一服しに行ったところで変化が。マ…マズイ!タバコが不味い。タバコの煙りもマズく感じる。喫煙所にもいられない。

こんなにも効くとは!恐るべし。

宗教心無き政治は幸せだろうか?

今年の夏は選挙で終わるかもしれない。麻生総理に広島と長崎の市長が選挙を夏にしないでくれと陳情に行ったのだとか。8月6日と9日に選挙がかぶさると式典に影響するからだ。式典を取り仕切るのも、選挙実務を取り仕切るのも、市役所や自治会などだから、行事が重なると双方に影響が出てしまう。そう考えると夏の選挙は避けた方がと思う。

終戦記念日や原爆記念日と並んで夏の風物詩となっているのが「靖国問題」だ。やれ、首相が靖国を参拝するのは首相としてか個人としてか。政教分離の原則に悖るとか。靖国ではなく国立の鎮魂施設を作ったらどうかなんて話も。

首相と個人が分離することはなく、都合よく切り替えが出来る訳がない。サラリーマンだって、○○商事の××部長という肩書きが外れるのは退職した時だ。この「公人としてか私人としてか」という質問自体がアホらしいのだ。だから、参拝する政治家は政治家としての信念をもって参拝して欲しい。

政教分離が話題になるのも夏の風物詩だ。政教分離は特定の宗教の利益をはかる為の政策決定がされてはいけないというものだ。元々はキリスト教に振り回されて十字軍などの政治決断をしてしまった歴史のあるヨーロッパが発祥で、政治と宗教の歴史的関係が違う日本に持ち込んでも実用的ではないと思う。日本では政治に対する宗教の関与が織田・豊臣・徳川という封建体制の確立の中で整理され、江戸期には政府の一機関として組み込まれてしまい、宗教の政治に対する影響力は弱まってしまった。

明治以降の信教の自由化によって活動を活発化させたが、十字軍の様に宗教者が偏狭な価値観によって政治を弄断したことは、日本ではないのだ。起きたこともないことを大袈裟に煽って人々を混乱に陥れる「狼少年」は有害である。国立慰霊施設を「国家が宗教をおこす様なもの」と指弾したのは誰だったか。その指摘は正しいと思う。

政治家が慰霊の為に靖国を参拝するのは大いなる宗教心による。中には為にするものもいようが全くしないより良いと思う。選挙を広島・長崎の原爆記念日に重ねないのも、実利を越えた宗教心によってしか実現しないように思う。

宗教心無き政治は幸せだろうか。


追記
僕は政治家が宗教心(自然や他者への畏敬)をもって政治に取り組んで欲しいと思うが、宗教団体が自分たちの理念実現の為に政治に介入してくることには反対である。宗教の偏狭さ(一般論)は民主主義と相容れないと思うからだ。特に「世直し」を掲げる宗教は反対者を弾圧しがちなので許せない。宗教団体には政治の網から漏れた人々を救い導いて欲しいものだと思っている。

全体主義

SAPIO誌上で小林よしのり氏が沖縄・北海道を「全体主義」と指摘している。沖縄・北海道在住の人はもとより、論壇からも批判があるそうだ。だが、沖縄や北海道など辺境の地が全体主義になるのは当たり前であろう。

梅棹忠夫は「文明の生態史観」で彼が言うところの「悪魔の巣窟」=中央アジアから出てくる遊牧民に脅かされた中国・インド・ロシア・イスラムは彼らに抵抗する為に中央集権の帝国を建設するしかなかったと言っている。民族や国家、コミュニティーの存続が脅かされる時の人の反応がおしなべて中央集権的に、全体主義的になることの証左であろう。現代にあっても存続の危機に直面している国や地域は全体主義的になっている。中国とロシア・イスラムは伝統的に全体主義で、東ヨーロッパも混乱が続く中で全体主義的になる。インドは揺らいでいる。全体主義から最初に脱するのはインドなのだろう。

最大の全体主義国家はアメリカだ。アメリカは集団が自然発生的に出来上がった国ではなく、理念や宗教に基づいて人工的に建設された。だから、その建国の理念が崩れると瓦解するのだ。だから、その可能性に怯えて常に理念を確認し、互いのアイデンティティを確認しあう。それが全体主義の相を形成するのだ。

沖縄と北海道は地理的に国際紛争の最前線になってきた。また、沖縄には日本と中国の間で独立を守る為に緊張した外交を続け、日本の支配下では沖縄の独自性の危機に陥ることが多かった。北海道は入植者のコミュニティーであり、さまざまな事情により故郷を離れて北海道に生き残りをかけた人々の土地だ。

だから、この二つの地域は全体主義的になりやすいし、事実なっているのだろう。全体主義的になってしまったことは歴史の成り行きであり、恥ずべきことでもない。それによって彼らは生き抜いてきた。その事実を認めずに避けて通ることの方が問題である。

国際化時代の現代にあっては辺境であることは大きなアドバンテージだ。新しいビジネスも、新しいカルチャーも、辺境で自然に発生する多様性の中から出てくる。そのチャンスを実にするためにも、全体主義のくびきを脱して多様な意見を許す社会を取り戻さないといけないのではなかろうか。

2009年6月29日月曜日

冤罪事件の再審に警察・検察関係者が出てこないことは適切か

週刊プレイボーイで冤罪被害者の菅家氏と柳原氏の対談が載っていた。二人とも冤罪によって収監され人生を棒にふった。

さて、柳原氏は再審が始まっているが、当時の捜査関係者の証人請求が却下されていて、冤罪が起きた構造がこのままでは明確にならないという事態になっている。

冤罪の再審に捜査関係者の証人尋問が許されないのは不公正である上に再発防止を講じる手だてを失うことでもある。捜査関係者の身になって、どうしてこんなことになったかと考えると、様々な圧力が働いたものなんだろうと思う。上層部や市民、メディアの期待。仲間同士の期待。それらが重なり合って起きたことだと容易に想像出来る。

ビジネスでも同じだが、失敗は関係者の期待や思い込み、時には善意によって引き起こされる。それは実は失敗に至る構造があることがほとんどだ。ビジネスの世界でも、その構造に光を当てて改善を図ることが行われているが、冤罪もその様な観点で解明していって欲しいものだ。

東国原知事騒動

東国原知事が国政に出る場合には自らが総裁選に出馬出来る環境作りをして欲しいと要求して物議を醸している。自民党が受け入れなければ民主党に協力するとも。

地元では知事を務め上げて欲しいという声が優勢とか。政界では「馬鹿にするな」という感情的な意見が多い。マスコミでも批判的な意見を言う人が多いので、マスコミや論壇も反対の様だ。

東国原知事の申し入れは実に理に叶っている。他人に協力を求める時に見返りを要求するのは当然で、通常見返りは「金銭」「役務」「名誉」のいずれ、もしくは全てである。個人のやりとりだと名誉が一番尊く、金銭で贖うのは相手を侮辱していると言われることもある。

なので東国原知事が要求としてそのどちらでもない「役務」を要求したことは良かった。しかし、自民党がだめなら民主党に協力という態度はいけない。結局両天秤に載せて出方を見るという卑怯な態度と見られてしまった。ただ、この騒動は「自民党も民主党も政策に変わりはない」という事実を浮き立たせるかもしれない。

自民党と民主党はその出自から言って親子もしくは兄弟みたいなものだ。しかも、十数年前の与野党逆転以来の政争と自民党の政権復帰をかけたポピュリズムによって双子とも言える程に変容してきた。両党の総裁・代表が自民党創立期の立役者の孫同士であることを思えば、その抱える良いものも悪いものも同じに違いないと容易に想像出来るだろう。どちらも保守本道を主唱しつつ、党内の左派に阿って「大きな政府」に傾きがちなのだ。

戦前・戦中の反省は政治家の役割を制限し、尊敬の念を著さない方向に国民を追いやった。これは政治家自身の目論見も問題もあるが、戦後の論壇にはびこった無政府主義の雰囲気に若い学生が反応したのが原因だ。それは革命思想を生み救いのない犯罪に至った。あの時代に政治と国民生活の間に出来た溝を政治家は埋められないまま今になった。

国民生活から遊離し、双子の兄弟が喧嘩をしているような政治の現実を、今回の東国原知事騒動は明らかにしているように思う。

平均というものについて考える

「平均」というのは良く使う概念である。だが、普段「平均」が意図するところを理解して使っているだろうか?と思う。

世間で一般的に良く使われるのは「算術平均」というものだ。値が3つあったら、合計して3で割るというヤツ。でも、平均はこれだけではない。僕が時々使うものには「幾何平均」と「ベクトル(平均)」がある。

幾何平均は値が3つあるとき、それらを掛けて3乗根するというもの。4つならば4乗根となる。ベクトルは値をそれぞれ二乗して加えた後に二乗根をとるというもの。

幾何平均は単なる平均ではなく、それぞれの値のバランスが良いものの平均値が良くなる。逆に、ベクトルはいずれか一つもしくは複数の値が突出しているものの平均が高くなる。算術平均は特徴はない。

合計点を出したり、平均点を出すときに気をつけなければいけないのは、何のために出すのか?ということだ。特に目的もなく、良い点数のものを選ぶというだけならば、特に平均の出し方にこだわる必要はない。しかし、例えば「バランスの取れたものを選びたい」と思えば幾何平均を使うべきだし、何か特徴のあるものを選びたいと思うのであればベクトルを使うべきだ。

一度、平均を使うときに何のためにやるんだろう?と考えてみてはどうだろうか?

ゆうちょ銀行とかんぽ生命が完全民営化すると経済活動が刺激されるという話し

あるところで僕が郵政民営化に賛成であることについて、「郵政を民営化するとアメリカにお金を吸い取られる」とか「外資が資本を握ってしまって乗っ取られる」という意見を貰った。

「郵政民営化で外資がゆうちょ銀行とかんぽ生命を食い物にする」
「アメリカがたくらむゆうちょ銀行、かんぽ生命乗っ取り」

こういう内容のセンセーショナルなタイトルは「ハゲタカファンド襲来>>企業買収>>資産切売>>資本流出」というロジックで良く目にした。果たしてそうだろうか?

外資に買われるかどうかはその時の経済状態による。ただ、他の金融機関が破綻したもの以外は外資に買われていないのだから、そんなに心配することもない。第一、リーマンショックでアメリカの金融機関を買いたたいたり、買いたたこうと日本の金融機関も動いたではないか。アメリカがゆうちょを買おうとするなら、日本がバンカメを買えば良い。

金融機関に対する投資制限があるのだから、よっぽどのことがない限りゆうちょ銀行が買われることはあるまい。

日本政府が売り飛ばすかもというのは具体的にどうやって?と思う。仮に、ゆうちょ銀行が海外に売り飛ばされても、保有する資産は預金者のものだから、その金がアメリカ人のものになるわけではない。ゆうちょ銀行がアメリカ国債に優先的に投資して、それでアメリカが減税や公共投資をするなんてことは考えられる。ただ、日米の資金バランスが崩れるために政府は保有するアメリカ国債を手放してしまうだろう。ゆうちょ銀行を通じてアメリカに金が流れても、それでは円に比較してドルが安くなるのでアメリカ人は資産を円に投資してマネーは日本に戻ってくる。

結局、国際的な資金バランスは多国間の経済バランスの上で転がる。日本の産業が健全で経済が活発であればどこからマネーが流出しようと結局は日本に戻ってくる。

ゆうちょ銀行が国営であることの最大の問題点は民間金融機関に比べて圧倒的な規模と投資のほとんどが国債であるということだ。日本政府が発行する国債の2割以上はゆうちょ銀行が引き受ける。かんぽ生命を含めるともっと。この巨大な資金供給があることが、政府予算の無秩序な膨張につながっているのだ。

ゆうちょ銀行が民営化して他の預金銀行と同じになったとしたら、その投資の一部は民間に振り分けられる。企業の投資にも決済にも十分な資金供給がされるから企業活動が活発化し経済が刺激されるだろう。

郵政民営化に反対という意見で主張されるのはハゲタカファンドにかすめ取られるとか、かんぽの宿の入札に疑惑があるとかないとか(結局なかったが)、小泉・竹中が利権を握るためとか、本筋の郵政民営化すると何が悪いのかということに反論していない。

2009年6月26日金曜日

通販がコンビニ・百貨店を抜いたということを考える

日経新聞 6月26日 朝刊 一面
「通販、コンビニ・百貨店抜く」

インターネットとカタログ・テレビ通販を合計した通販市場の売り上げが8兆円規模に上り、コンビニと百貨店の規模を抜いたのではないかという話。

最近ではインターネットで普通に買い物をする様になった。自分の消費の割合を考えると規模が逆転するのは当然。ただ、コンビニや百貨店と違うのは業界最大手の楽天ですら、取り扱いは7000億円足らずだということ。

コンビニや百貨店、スーパーやショッピングセンターが最大手は1兆円を越えることを考えると小粒感がある。というのは、ネット通販の開業に必要な資本の規模が圧倒的に安いのだ。そのため開業も継続も比較的小規模でプレイヤーが分散しているというのがネット通販なのだろう。

楽天はその中で、自ら販売をするのではなく、ネット通販のインフラを整備する側に回ったから規模が大きく見える。通販の主体を、自ら仕入れ販売するものと定義すると楽天は通販業者ではなく、市場運営者なのでプレイヤーの規模は桁が二つ変わってくる。

小さな販売主体と、さらに小さな購入主体をマッチングする市場を提供したのが楽天成功の要因だし、凄いところだと思う。記事では「返品ルール整備課題」があると業界の信頼性に疑問を投げかける。楽天はここを突破口として行政=官僚が介入してくることを警戒していて、先の薬事法改正に反対した原因でもある。楽天は今後は業界の秩序を打ち立て行政に対する防壁となることが求められよう。官僚に手を突っ込まれる前にカウンターを食らわせて欲しいものだ。

郵政民営化が良いと思うわけ

あるところで「民営化をする理由は何?」と聞かれたので答えることにした。

国営企業が国営たる理由は何だろうか。三つ考えられる。

1)その事業が国民の福祉に欠くべからざるものであること。
2)その事業が民間企業が展開することが出来ないほど大きな投資が必要であること。
3)その事業が経済合理的には国民が贖えないほど高い価格でしか提供出来ないこと。

郵政三事業をみてみると、この三つを満たすものは一つもない。まず銀行事業である。今や3大メガバンクもあれば、地銀も提携などで力をつけ、地方の辺境にも出張所などのネットワークが張り巡らされている。テレホンバンキングもネットバンキングも地方の不便さを感じないほどだ。地銀同士、メガバンク同士のネットワークもあり、セブン銀行ではATM利用料が無料になるケースがあって、全国サービスのゆうちょがある必然性がない。それでも銀行の支店やコンビニがないという地域には、それこそ官営で金融機関の共同窓口を開設すれば良い。

簡保は全く必要ない。保険の金融機関窓口販売やネット保険など様々な保険があって簡保がなくとも保険サービスがなくなるとか、国民が困るということはない。

郵便はどうか?今やヤマトや佐川のメール便は郵便と変わらない料金だ。全国に配達している。小包が小包が配達出来るのに信書を配達する能力がないなんてことがあるわけない。

こうして見ると三つの条件を満たす事業は一つもない。しかし、社会インフラとして「経済合理性がないから止める」と突然言われてはいけないから国営で事業継続を担保するのだという。つまり、民間企業は経済合理性がないと支店閉鎖などでサービス提供しなくなるというのだ。果たしてそうだろうか?

郵政三事業に共通しているのはサービスネットワークであるということだ。ネットワークを維持するコストは参加者の数に比例し、ネットワークの価値は参加者の数の二乗に比例する。価値は売り上げと思えば良い。つまり、民間企業にとって日本全国を繋ぐネットワークを維持することが利益の源泉なのだから経済合理的に一部から撤退するなんてことはしない。

かつて、交通網が未整備だったり通信技術が未発達だった時代、郵政三事業には大きな意味があった。当時日本全国に信書をどこにでも届けることが出来る郵便ネットワークを作ることは育ち始めたばかりの民間資本には無理だった。銀行も保険も精々地方都市までで、その周辺まではサービス網は広げられなかった。しかし、今ではネットワークを張り巡らす資本十分に育ち、既存の企業もいる。

つまり、時代が変わって郵政三事業が必要ではなくなったのだ。これは日本が豊かになったということの裏返しで大変に良いことなのである。郵政三事業が民営化されるとアメリカに200兆とも300兆とも言われるゆうちょと簡保の資産が奪われるという。「な〜に〜!やっちまったなぁ!アメリカが日本に強盗に来る」

実際には強盗には来ない。ゆうちょと簡保がアメリカに投資するかどうかは彼らの投資判断で、アメリカに投資するのであればそれが魅力的だったからだ。それが嫌なら、ゆうちょから貯金を引き出して、地元の銀行にでも預ければ良い。それか国債を買っても良い。ゆうちょに預けるのと結果は同じだ。

ゆうちょや簡保は投資先が国債に限られるので正しい投資判断能力がないというのは賛成出来る。野放図な投資がされないように、ゆうちょ自身が投資審査委員会などで査定をするべきだろう。金融庁も放漫経営にならない様に監視を強化すべきだ。その意味でメガバンクの頭取経験者が日本郵政のトップに就くのは当たり前のことだ。

「郵政民営化でゆうちょと簡保の金がアメリカに流れる」という定説は、こうして見ると根拠に乏しいことが分かる。アメリカにも優良な投資先があれば流れるだろう。でも、それよりも魅力的な投資先が日本国内にもあるわけで、そういった資金ニーズの高い産業に真っ先に投資される様になるのだから良いではないかと思う。

他にも質問されたことがあるが、まずは郵政民営化が良いと思うわけ−というより、国営でやる理由がないと思うわけについて投稿。

2009年6月25日木曜日

嫉妬は醜い

<a href="http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20090623/198327/?bvr">「有能な部下はいらない!」上司の嫉妬と出世欲</a>

男の嫉妬は醜いっていう話し。

そう。醜いのです。しかも典型的な嫉妬と分からないだけに醜いし自覚もしにくい。

最近こういうことがあった。親会社も一緒になったある重要な会議で、その場では幾つかの重要な事案について情報交換と意見交換が進んでいたのだが、突然そこに出席していた常務が「コレをしろ」「アレをしろ」「これは誰がやるんだ」などと仕切り始めた。全体の流れとしては彼は状況を把握していれば良いだけで、何も発言する必要はなかった。

なんでそうなったのかということについて考察すると、その会議で一番ものが分かっていなかったのが彼だったからだ。実務的な会議だったため、業務現場の現状についての情報交換や意見交換が主なものになった。普段から業務を把握していれば良かったのだろうが、業務が分からないので全く会議に参加できない。それが他の発言者への攻撃になって態度に出てしまったというところなのだろうと思う。

実際、財務関係の実務や金融機関との交渉においては力を発揮できる人なので、こんな所で存在感をアピールしなくとも、と思う。部下が力を発揮するのを喜べる精神というのはとても大切なものだ。

野党のあまりにも愚かな公約

民主党や国民新党などの野党が、政権を奪取したら郵政民営化を凍結することを公約にすることを合意したのだそうだ。なんと…。救いのない話だ。郵政の上場凍結に加えて郵便・銀行・保険の一体営業に戻すと言っている。民主党は「郵便民営化は推進するべきだが、かんぽの宿の売却は不透明なところがあるので追求する」と言っていたが、やっぱり民営化反対だったのだ。

2009年6月24日水曜日

過剰品質

欲しいものが十個あるとして一万円を使えるとすると千円ずつで十個買ったりはしない。五千円で一つ買って、二千円で一つ買い、千円で二つ買って、二百円で四つ買って、百円で残りの二つを買う。
そこで、使えるお金が半分の五千円になったとしたら、五千円と二千円で買ったもののグレードを落として買うことになる。安いものを買い控えても五千円の減収はカバー出来ない。だから、高いもののグレードを落とす。いや、そもそも高いものが必要なのか考え直す。

昨今のアパレル不振は不況によって消費者がこの様に「買い控え」るために起きているのだという。果たしてそうだろうか。アパレルメーカーは今の嵐をやり過ごすためにリストラをして身を潜める。しかし、景気が回復しても往事の売れ行きは取り戻せないのかもしれない。

一昨日の記事でも書いたように、アパレルの売れ方は確実に変わってきた。だから、高い価格を裏打ちする過剰品質を見直して全く新しい商品像を作り上げなければいけないのだろう。

「アタシんちの男子」最終回

昨日、フジテレビの「アタシんちの男子」が最終回だった。

ホームコメディにありがちなご都合主義が随所に見られたが、「家族」というものが血統によって"なる"ものではなく、人と人の喜怒哀楽の積み重ねの中で"作られる"ものだというのがコンセプトだった様に思う。展開として主人公が「母親十か条」という課題をクリアするために兄弟や仲間と協力して進んでいくというのはロールプレイングゲームの様であった。さしずめ高島礼子演じる弁護士の小金井響子はストーリーガイド、田山涼成演じる田辺義男は村の長老といったところか。山本耕史演じる時田修司はゲームの変化をつける蝙蝠キャラで最終的には風に社長を譲るあたりなど美味しいところは持っていった。

最終回でつるの剛士演じる国土豊がどこかの御曹司という様な設定が登場したが、伏線も何もドラマは終わってしまった。母親十か条も最終回で残りの4つがまとめてクリアされていて、ドラマの長さ(1クール11回)についてもっと考えた方が良いのではないかと感じる。最近のドラマは朝日テレビ以外は必ず1クール11回。多少の伏線があるドラマにしようとするとちょっと短いのではないかと思う。

ということで、堀北真希も可愛かったし、それなりに満足。あと、仮面ライダー多くね?

2009年6月23日火曜日

レキジョなんかより年季が入ってます

最近コンビニなどで戦国武将の解説本が売られている。人気なのは真田幸村と大河ドラマで一躍有名になった直江兼続など。ゲームなどで現代的にアレンジされた戦国武将は「格好いい」らしい。ただミーハーなだけでなくレキジョは色んな本でその武将を調べるのだとか。

でも、こちとら小学生の時に子供向けの日本史の読み物を読んで以来の歴史好き。年季が違うのだ。なんといっても最初に読んだ戦いは大化の改新の天智天皇の蘇我討ち。最初にファンになった武将は楠木正成。千早城攻防戦は子供心に興奮した記憶があるが、後に三国志演義などを種本に脚色したものだろうと知って、中国の歴史に興味を移したものだ。

名高い「関ケ原の合戦」は歴史上二回ある。天智天皇の皇子、大友皇子(即位していたとして弘文天皇と諡される)と天武天皇の間で起きた「壬申の乱」が最初である。つまり、天下を二分しその後の日本の形を左右した戦いは共に関ケ原を舞台としていたわけだ。

GoogleMapsで関ケ原の辺りを「地形図」モードで見てみると何故ここが戦いの場となったのかが良く分かる。濃尾平野から琵琶湖に抜けて南下し京都に至るには、関ケ原を通って行くしかない。天武天皇も徳川家康も招集した兵力をいったん濃尾平野で集結させて京に向かったので、ここを通らざるを得なかったわけだ。そして、迎え撃つ側はこの狭い場所で迎え撃つのが戦略となり、ここは古来戦場となる運命にあった。

これ以外にも関ケ原を舞台とした戦いはあったのだろう。それほどに関ケ原は要衝であったのだろう。歴史は戦国時代だけではなく、古代から連綿と続く。その広がりの中で歴史を見ていって欲しいものだと思う。

温暖化対策の目標は低目?高目?


日本経団連、「敗戦」の裏側

「6月10日、麻生太郎首相は日本の温暖化ガス削減の中期目標を発表した。2020年までに2005年比で15%削減するというもの。同4%減を主張したが、受け入れられなかった財界の重鎮たちは敗戦の弁を繰り返した。」

温暖化対策で二酸化炭素などの"温暖化ガス"削減を目指すのはあまり意味がないと思うが、「世界は物語で動いている」ので、これも世界を動かす物語になってしまったということだ。

今回の政府の決定「2005年に対して-15%」が高目なのか低目なのか妥当なのかは分からない。他国はに比べると遜色のない目標と言えるが、ヨーロッパなどは1990年対比で60%の削減を言い出していて、それと比べると1990年以降ずっと排出量が増えている日本では目標が低いと批判されても仕方ないという言説がある。ただし、ヨーロッパは全く排出ガス規制のなかった東欧諸国を統計に取り込んでいて、そこに西欧諸国の「普通の」対策を行うと60%の目標も軽くクリアできるという。日本には対策されていない領域が極端に少なく自動車にしても日本車の排出ガス基準は世界一なのでハンデがあることは間違いない。

そう考えると表の数字の中で民主党の30%というのは何を考えているんだろう?とクビを捻りたくもなる。政権が近づいてきて、この主張を実行に移さないといけなくなったときに慌ててもしかたがない。温暖化ガス削減は企業に対して求めて国民から拍手喝采を夢見ているのかもしれないが、実際には企業が負担した費用は商品やサービスを通して国民のもとに降りかかってくる。そのとき国民が高い負担を忌避したとき、国内産業が痛まないという保証はない。温暖化対策プロモーションはある程度浸透しているようだが、国民は過大な経済的負担を認めてはいない。企業が創出した利益からその負担を拠出することを民主党は考えているようだが、それも笑い話だ(去年のリーマンショックで派遣労働者の雇い止めが問題になったときに、民主党は企業の内部留保を取り崩して雇用し続けろと経営センスのないことを露呈した)。

実現可能で継続可能な温暖化ガス削減は究極的には消費を抑制するということになる。あまり電化製品を使わない、買わない。外食を控える。地産地消。買わなければ企業が利潤を上げることが出来ず、最悪は倒産してしまうが、それを前提としてそういう対策が打ち出せるのだろうか?人間に限らず、地球上に生きている生物がある程度利己的に生きているのは当たり前の話だ。しかし、それもある程度である。継続可能な社会を前提とすれば、企業の使命は社会を豊かにすることで、経済的にも道徳的にも豊かさを追求する。消費者も同じことで、その複雑な人と人の作った組織の揺らぎの中に実現可能な解決策があるのだとおもう。

その意味では今回の温暖化の目標はどっちつかずであまり良い数字とは思えない。まったくやらないか、やるんだったら徹底的にやるか。まったくやらなくても企業は環境対策を講じ続けるものだ。それを信ずるならば、特に民間にプレッシャーをかける必要はない。それを信じないのであれば、実現がものすごく困難な目標を掲げた方が良いだろうと思うのだ。

いずれにせよ、中途半端はいけない。

NO MORE 空港 NO MORE 赤字

日経新聞 6月23日 朝刊 3面
「日航再建 国が「監督」 路線縮小労使関係 遅れる経営改革」

政府は日本政策投資銀行とメガバンク3行が日航に対して行う1000億円規模のシンジケートローンのうち日本政策投資銀行の分に政府保証をつけることで日航再建を支援することを決定した。同時に日航の経営も政府が監視指導する。

日航は何度も経営改革を計画してきたが、不採算路線の縮小が労組や地方自治体、地方議員などの抵抗で進まず抜本的な改革が進んでいない。そもそも日本には空港が多すぎる。話題になった静岡空港も、国内線も国際線も需要が少なすぎる。静岡には産業も多く、それなりに需要がありそうだが、ビジネス客以外で高い運賃を払うかというと疑問だ。需要があったとしても便数が少ないため利用者には不便で、羽田を使う方が便利だ。

それでも静岡はまだ良い方で、その他の地方には需要が明らかに十分にないのに作られた空港が沢山ある。日航は「政策会社」として、これらの地方空港にどうしても路線を作らなければいけない。それが日航の抜本的改革を遅らせる。郵政民営化もそうだが、経済合理性というものを真剣に考えた方が良い。飛行機をいっぱいに出来るほど需要のない地方に飛行機を飛ばすことが地方経済の活性化にはつながらない。空港は寂れ、赤字の一部は地元自治体が負担するなど結局は国民の経済的負担が大きくなる。

今後日本の人口は減少していく。これからは日本国内の航空ネットワークではなく、東アジアの航空ネットワーク全体を考えた上で航空行政を考えなければいけない。その上で不要な空港は積極的に廃止するなどの対応が行政にも求められるだろう。今も空港建設の申請はあるかもしれない。でも空港はもう十分だ。むしろ減らして欲しい。空港も航空会社もこれ以上税金は投下しないで欲しいものだ。

民主党が勝っても郵政民営化は引き返せない

『民主党が勝ったら、郵便事業は…? 「民営化見直し」は"悪手"の恐れ』
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20090617/197893/?bvr

民主党の鳩山代表は政権をとったら真っ先に郵政民営化の見直しを行うとアピールしている。郵政組織票を狙ったリップサービスだ。他にも農家の個別補償を行うなど民主党の公約には既得権益を守護するという姿勢が明白だ。数年前には、自民党=大きな政府
VS 民主党=小さな政府という図式だったように思うが、いつの間に逆転してしまったのか。小泉元首相の仕掛けた郵政選挙でこの図式の逆転が起きた。それまで規制維持、大きな政府推進であった自民党は突如として規制緩和、民力活用に一気に方向転換した。小泉首相は郵政民営化反対派の自民党議員の公認を許さず、対抗候補を擁立してまで規制改革を強行した。その結果、自民党の政策の方向性は小さな政府を指向するものに変容した。

従来小さな政府路線を進めていた民主党は対抗上郵政民営化反対に回らずを得ず、その結果規制維持、既存権益保護の政策を打ち出さざるを得なくなった。つまり、自民党と民主党の政策の逆転を演出したのは小泉首相であると言える。民主党にも旧社会党や社民党など保護主義的な勢力があり、大きな政府を指向する勢力があったこともこの事態を招いた原因の一つだった。そう、民主党が政権をとった場合には小泉行政=規制緩和、民力活用、小さな政府を否定せざるを得ない。来るべき?鳩山行政は規制維持、行政主導、大きな政府となってしまいかねない。

それが郵政民営化見直しに顕れるとすると、この問題は様々な点で将来を占う。仮に、鳩山政権が郵政民営化に伴って郵政民営化関連法を停止する法案を提出し可決されたとすると、ゆうちょ銀行とかんぽ生命が上場されなくなってしまう。郵政民営化の肝はこの二社を民間に開放して、巨額の貯金や保険料を金融市場に流れ込ませようという点にある。200兆円とも300兆円とも言われるお金が金融市場になだれ込めば企業活動の活性化に与える影響は計り知れない。

それに比べると、失礼ながら郵便局の民営化の見直しというのは小さな話しだ。この記事の筆者が言うように、郵便事業は物流視点で言えば「共同配送」専業ビジネスなのだが、民間企業であるヤマト運輸や佐川急便が全国津々浦々に配達をするように、民営化された郵便事業が全国に張り巡らした配送網を切り捨てるなどは自社の競争力を捨てることになるので絶対にやらない。民営化反対派は国民に不安があるという。マスコミは街角でインタビューなんかをしているが、編集にバイアスがかかっているので真実は映していない。

官僚が改革に抵抗する方法はサボタージュとリークと自爆テロなのだそうだ。日本郵政社員も官僚の流れを汲む元公務員。最近の郵便不祥事は民営化を担う民間出身の社長を追い落とすための自爆テロなのだと思う。かんぽの宿問題も郵政社員によるリークで、リーク情報にバイアスをかけて民主党に流したので民主党が飛びついたというところなのだろう。

自民党であれ、民主党であれ、郵政民営化の流れは止められないし止めてもいけない。止めれば郵政社員と郵政官僚は溜飲を下げようが、国民に良いことは一つもない。赤字は税金で補填され、折角の国民の資産である貯金や保険料は訳の分からないハコモノに姿を変える。制度疲労に陥った郵政はいずれにしても民営化するくらいのドラスティックな転換が必要なのだ。