2011年6月25日土曜日

原罪を認める真摯さ

スタジオジブリが「原発抜きの電気で映画が作りたい」という垂れ幕を掲げているらしい。文明の抜きがたい原罪を見つめてきた宮崎監督らしい思いつきだ。この思いつきを実現するのは実は簡単で、自家発電やガス発電を導入すれば良い。コストは高いが、ジブリなら出来そうだ。

原発ゼロの施設運営はそれを売りにすることが出来る。作品の売れ行きにも良い効果をもたらすだろう。しかし、宮崎作品を見ると「脱原発」に繋がる「自然との共生」というものに宮崎監督自身はあまり幻想を抱いてない気がする。クシャナであれ、エボシ御前であれ、文明を代表する人物が最後は文明の原罪を意識しながら社会を良導していく。

文明社会は"自然"とか"原始"に対してどうあっても一定の悪影響を及ぼす。採集・狩猟をベースにした原始社会であっても資源を食い散らかす。自然と調和している様に見えるのは人口の少なさ故にその影響が復元されてしまうからだ。

しかし、人間が種としての繁栄を求めるのであれば、人口の増加は避けられないし、その手段としての開墾という自然破壊は当たり前だ。それを原罪と認識し、受け入れた上で実りある社会を生み出すのが私たちの使命ではなかろうか。エネルギーを動力に変換する行為には、なにがしかの廃棄物質は発生する。だから、その量を如何に少なくするか?という視点が必要だ。"再生可能エネルギー"は自然界に希薄に存在するエネルギーを直接利用する為に自然破壊の規模が大きい。一番影響を小さくする方法は、エネルギーが凝縮したものを利用する場合で、化石燃料はエネルギーが年月をかけて凝縮したものだ。核物質はエネルギーが拡散する前の状態だ。

ならば、原発が最も自然との共生に向いている気がする。もちろん原発だって環境破壊は伴う。生命への影響が不明な放射線も伴う。それは他の発電でも同じなので、何をリスクとして許容するかという決断を誰がするかという問題だ。

全く"クリーン"なエネルギーはない。その原罪と真摯に向き合うべきだと思う。

2011年6月20日月曜日

強いリーダーは不要か?

大西宏さんの「発送電分離は国民の声でしか実現しない」という記事を読んで、政治に限らず、リーダーというものについて考えさせられた。記事の中で紹介されていた「強いリーダーに期待し、依存するのはもう発想が古い」という伊藤穣一さんの言葉(歴史は菅政権を必要とした、いざ「緑茶革命」へ JBpress(日本ビジネスプレス))について、「なら、リーダー不要の経営」ってどういうものだろうか。池田信夫さんが紹介している様に日本の組織構造が「中間組織による分散自律型」であるのならば、正に日本古来の組織こそが「リーダーを必要としない組織」と言えるのではないだろうか。

リーダー不在でもミドルアップによって経営される組織は"貴族階級"や"官僚"が社会運営を担う。大抵の場合、中間組織は社会全体の構成員のうちホンの一部であり、中間組織同士の協力によって円滑な社会運営が行われる反面、利害対立によって社会を歪ませることもある。また、自らの利益を優先して社会全体の利益を損なうこともある。中間組織を打倒して下層の構成員が政治に関与するのが近世の「革命」であったわけだ。

中間組織の代わりに成立したのが"有期独裁制"である民主主義だ。これは中間組織がない社会で政治的意思決定をどのように行うかということに対する一つの答えだ。すなわち、選挙を通じて構成員が権利をリーダーに委譲するという方法だ。ここには「独裁的な方法以外に社会を効率的に運営する方法がない」ということを示している。

単なる独裁ではなく、構成員の意思による権利の委譲がポイントだろう。リーダー不在とは権利を委譲するに足る人物がいないということだろう。逆に、リーダー不要の組織とは、構成員が権利をことごとに行使するということで、昨今流行りの「住民投票」や「国民投票」がこれである。しかし、これが本当に社会を良い方向に導くだろうか。

政治は本質的に"負担の分配"である。国民や住民に税を負担させて各種の公共サービスを提供する。負担より享受するサービスが大きい場合もあれば、少ない場合もある。この格差を"納得"させることが政治である。

それが全員参加の権利行使となれば、負担は避けられ先送りされる。これがこの二十年の日本の状況ではないか。避け得ない負担の不平等を説得する言葉を含めた強力なリーダーシップで納得させ、或いは強制する力を発揮出来なければ政治的に限らず、意思決定など出来ないのではないだろうか。

日本に必要なのは、失われたリーダーではなく、ここ百年持ち得なかったリーダーを持つということだと思う。