2009年6月12日金曜日

不況の中でIT投資が必要なワケ

鉱工業生産の調整が下げ止まり、日経平均も期待感から上昇に転じ一万円台を回復した。マクロには不況脱出の糸口が見えて来たが、消費はなかなか伸び悩んでいる。今年の冷夏の予想も現実になれば消費を抑制する要因となろう。

IT関連の投資は減少の傾向にある。経営者や財務担当者からみると、IT関連費用は無駄に見えるらしい。確かに便利だが、人に出来ることに何故こんな巨額の投資をしなくてはいけないのか、と。システム投資をやらず、人がやるままだったら雇用も維持出来る、と。

だが、彼らに見えているのは目の前のことだけだ。今やっていることを変えずに、ただ皆で耐えるだけで何が変わるというのか。見えざる人ならぬ者の力で事態が魔法の様に変わるとでも思っているのだろうか。

事態を変えるのは、常に自分自身だ。他人を変えることは神ならぬ身としては不可能だ。出来るのは自らが変わることだけだ。変わる、つまりイノベーションだ。

イノベーションにはいくつかの類型があるというが、共通しているのは「イノベーションは既存のものの新しい組み合わせ」だということだ。社内のリソースを様々に組み合わせて試してみることだ。それには最も高価な"人"というリソースを今やっている仕事から引き剥がさないといけない。今の水準を出来るだけ損なわずに。

つまり、「人に出来ること」の中から「ITでも出来ること」をITにさせる様にするのだ。そうすればリソースをイノベーションに向かわせることが出来る様になる。

不況だからこそ、ITに投資するのはこういう理由だ。

異文化交流っちゅうヤツやね

今日はある顧客のところでミーティング。そこのボスはフランス人。日本語は話せるのでコミュニケーションに不都合はない。コストに厳しく、交渉相手としては手ごわい。

同行した営業は苦手と見えて、なかなかストレートな物言いが出来ない。説明を一通り聞いた後に、質問と要望を明確に話してくる。また、分からないことは曖昧な状態では済まさない。

個人的にはハッキリしている人は好きだ。YES or NO がハッキリしていると次のアクションが取りやすい。逆に不満を腹にしまって何も言わない人は嫌いだ。やったことが無駄になるケースがあるから。

でも、ハッキリ腹のウチを見せるコミュニケーションは他の人には不評で、みんな嫌がっている。でも、「そういうタイプの人だ」と素直に受け入れると意外と楽だと思うのだが。

「アイシテル」最終回は撮って出し?

一昨日は日テレのドラマ「アイシテル」の放映日。なかなか緊迫の展開。同じ「家族」「犯罪者」がテーマのフジ「白い春」がコメディタッチなのに比べると抑制された話し運び。

来週は最終回のようだが、予告がないという驚きの展開。静止画の「最終回をお楽しみに」というテロップ。放送事故かと思った。どうも撮影が間に合ってないらしい。

ドラマの最終回が撮って出しというのは珍しくないと思うが、イメージ映像すら流せないとは編集も立て込んでいるのだろうか。

2009年6月11日木曜日

寡占が悪いわけではない

独占とか寡占というと悪いイメージがある。強欲な商人のイメージ。

今日の日経新聞の最終面「私の履歴書」で経済学者の篠原三代平がシュンペーターの発展理論の中で寡占が再評価されていることを紹介しつつ、八幡製鉄所と富士製鉄所の合併−新日本製鉄の誕生を評価している。

ある産業で大きな技術革新が起きるとき、ちょっとしたアイデアで革新が進む場合もあれば、巨大な投資が必要な場合もある。巨大な投資は巨大な企業にしか出来ず、それは独占企業や寡占企業でしかありえない。中小企業だけが市場に溢れていると、新しい商品が次々に生まれる代わりに一つひとつの価格は下がりにくい。大規模生産、システム化された生産ラインなどを整備できないからだ。それが市場に停滞をもたらし産業を衰退させることもあり得る。
農業を見ればそれは良く分かる。農業は1ヘクタール程度の規模の兼業農家が大半を占める。当然システム化された生産ラインなど望めない。1軒1軒の農家の生産性にはバラツキがある。それが孤立しているために生産能力を交換して全体的な生産性を向上させるということは出来ない。独占や寡占がないことによってイノベーションが起こらない典型であろう。

農業政策は未だに「地主−小作人」というヨーロッパの農奴制幻想に取りつかれている。戦後GHQが大地主から土地を取り上げて小作人に分配してしまったのも、それが原因だ。当時のGHQ幹部は社会主義的な理想主義に酔っていた人が多く、それが地に足の着かない憲法制定にも、財閥解体などの資本家攻撃にもつながった。日本経済の弱体化という狙いもあったが、巨大資本の破壊という狙いもあった。皮肉にも戦時体制によって資本集積が行われた財閥解体はイノベーションの発端になり、戦後の技術立国日本を急成長させることとなった。逆に、地主解体は体力のない貧農を大量に生み出し、農業人口が製造業に移動する切っ掛けを作った。GHQの理想主義者がやったことは「豊かな農園」は作り出せなかった。

独占とか寡占を安易に排除しない方が良いということの証明だ。

マンションを売り込まれた話

仕事柄、各種セミナーやビジネスショウなどに出席する関係で、僕の名刺はあちらこちらにばら撒かれている。それでもずっとお誘いはなかったのだが、最近投資話の勧誘が立て続けにあった。会社の同僚にも同じ様に電話がかかってきているようで、なんなんだろうな〜と不思議に思う。

昨日かかってきた電話は「マンション投資」である。この投資話のポイントは次の通り。
・物件は都内(品川区)のワンルームマンションである。
・ローンを組んで物件を購入して、賃料でローンを返済する。
・ローンを完済しても自己資金による支払は殆どないので、完済後は賃料で収入が得られるし、売却益を得ることも出来る。
つまり、「人のお金=借主の払う賃料」でマンションを買いませんかという話し。

うまい話である。んで、裏があると相場は決まっている。

そこで幾つか質問してみる。
僕:「今後10年にわたって人口が減り続け、ワンルームマンションの借主である若年者や独身者が減っていくのに、何故マンションが安定して借りられると思うのか?」
相手:「政府の統計やシンクタンクの推計では東京の人口はまだまだ増加し続けると言われておりますのでご安心下さい」
僕:「政府やシンクタンクの統計や推計は経済成長させたいというバイアスがかかっていて当てにならない」
相手:「それでも増えると言っておりますので」
僕:「日本全国の人口が減るのに東京の人口が増加すると仮定してみよう。すると地方の人口が減るということで、地方の税収は減少していく。すると地方交付税などによって東京から富が移転され、地方経済を刺激する政策がとられる。すると東京は逆に増税になる。また、これほど狭い地域に沢山の人口、つまり需要が増えると全体的な物価は上昇する。すると都市生活者の生活費は高騰していく。しかし、元々高額な給料のもらえる仕事は少ないので、多くの都市生活者は賃金の安い仕事に就かざるを得ない。すると都市では生活できなくなるので地方に行こうかなと思う。地方は都市の税収からの交付金で公共投資に関係する仕事が増えるので就職口もあるし、生活費も安い。そう考えると東京の人口は微増するかもしれないが、最終的には地方にも人口流出して今の水準とそれほど変わらないということになるだろう。その上、都市生活者の中でマンションを借りれるほどの給料を貰う人はますます少なくなるので、マンション需要が増えるとは決していえない。」
相手:「でも、借り手は増えると言っていますので」
僕:「そんなマンション借りれないですよ。自分の給料考えたら分かるでしょう」
相手:「・・・(絶句)」

マンションはあくまでも土地の所有権を持っている人が上に建てたものを賃貸して利回りを取るものだ。彼らのリスク(空き部屋発生)は土地取得に新たな投資が必要ないという部分でヘッジされることになる。最低限の利回りは建物の建設費用ローン返却と固定資産税のみで良い。しかし、普通にマンションを買う場合は建物に加えて土地の所有権を購入することになる。しかも、日本の場合は分譲マンションの価格はプレミアムがついて実質価値(土地取得代金、マンション建設費)の倍近くになる。これはマンションの価格設定がマンション購入世帯の年収を基準として決定されているためで、日本のマンションが高い理由は何もお金をかけて建設しているわけではなく、利益幅が大きいというだけの話だ。
するとプレミアムの価値が建築後いつまで維持されるかということで、これは実は周辺環境や築年数によって全く違ってくる。自分がローンを払い終える25年後にどれほどのプレミアムが残っているかと言えば、殆ど残っていないと思った方が良い。すると、2000万円で買ったマンションは買った瞬間に1000万円に値下がりしたと思うべきだ。
次にローンを賃料で返すということについてだが、ローンをカバーできるほどの賃料収入は期待できない。先ほど言ったように通常の賃貸マンションは土地の所有権を持っている人が貸している。更に彼らはプレミアムにお金を払っていない。つまり競合は明らかに価格優位性を持っているのだ。そのため、賃料は月々のローン返済金額よりも安く設定されてしまう。
最終的に25年後にローンを完済すれば月々の家賃収入はそのまま定期収入となるが、それまでに支払った差額を考えると最初の数年は利益にはならない。そこで売却したとしても数百万円程度でしか売れないか、売るために大幅なリフォームを必要としてしまう。また、賃借人が入れ替わる時のリフォーム代金もバカにならない。
それでも、身銭ゼロで数百万円の資産が手に入ればいいじゃないかという説得も行われる。だが、身銭はゼロではない。ローンを組んでいる。ローンの原資はその人の信用だ。ローンを組めばその人の信用が目減りする。他にお金が必要になっても融資が受けられなくなることだってある。わずかな利回りのために自分の信用を使うのは損だ。

マンション投資話は尽きないだろう。一度自分自身でどうなるかをシミュレーションしてみれば良いのだ。そうすれば色々と判断できるだろう。

自動車動力源の変遷

今日の日経新聞25面に自動車動力源についての解説が掲載されていた。18世紀後半の産業革命と蒸気機関の発明は、馬車の動力源を機械に置き換えた。蒸気機関車の登場だ。
やがて自動車の動力源は大型で制御の難しい蒸気機関からガソリンエンジンに変わった。この時期にガソリンエンジンと動力源の覇権を争ったのは電気モーターである。
記事では電気モーターとガソリンエンジンの争いに決着をつけたのはフォードによるガソリン車量産であったと書かれている。電気自動車は量産化以前に航続距離の短さが問題であったとも。
だが、この両者の違い、勝敗を分けたポイントはエネルギー源の持ち運びの容易さであったと思う。ガソリンは液体であり、様々な容器であらゆる場所に運ぶことが出来る。一方の電気は保存がしづらく、出来ても保存中のエネルギーロスが大きい。そもそも、動力源に使える電気は自然界には存在せず、その発生に他のエネルギー源からの変換が必要になる。更に、その電気を動力にするにはモーターで運動エネルギーに変換しないといけない。ガソリンが燃焼によって直接運動エネルギーに変換されるのに比べて手間がかかるのだ。
自動車が発達したアメリカは国土が広大で、現在ですら電気が供給出来ない地域がある。そんな環境で、燃焼切れに備えて燃焼自体を持ち運べる自動車に軍配が上がったのだろう。
日本は国土が狭い上に隅々まで電気が供給される環境が整備されている。それを考えるとガソリン車よりも電気自動車の方が適しているのかもしれない。更に、電気から運動エネルギーへの変換効率が改善されると電気自動車の方が利便性と経済性が勝ることになろう。
ガソリン小売会社にとっては保有するガソリンスタンドを電気スタンドに置き換えないといけない。ガソリンスタンドと電気スタンドは安全性の観点から併設出来ないだろう。既存の施設のことを考えるとガソリンや水素燃料を電気に変える方法も有望だが、エネルギー変換効率の問題や技術的に高度になることでトラブルが発生するリスクが増えるという問題を避けられない気がする。
50年後の自動車の主役はどうなっているだろうか?個人的には早く空を飛んで欲しいものだが。

2009年6月10日水曜日

GM再生の方向性

「新生GM」のCEOにAT&Tの元CEOウィッテーカー氏が就任するという。氏はAT&Tの前身の一社のCEOを務め、相次ぐ買収で今のAT&Tを作った。インフラ産業である通信ビジネスは資本集積によって利益が増大する。ネットワークの維持コストは規模に比例するが、ネットワークの利用量は規模の二乗に比例するので規模の経済が働くのだ。
自動車産業はどうかというと、生産性は規模の拡大によって良くなるものの、ある一定を越えると逆に生産性が落ちるようだ。生産に関わるプレイヤーが多く、コミュニケーションコストがかかるからだ。生産性は規模の平方根に比例し、コミュニケーションコストは規模の二乗に比例するので、生産性の向上をコミュニケーションコストが上回るようになるのだ。
だから、単一の製品カテゴリーだけを作っている製造業で大規模な会社はあまりない。ここにトヨタの凄みがある。トヨタはコミュニケーションコストの増加を「トヨタ生産方式」というシステムによって、少なくとも規模に比例している程度に抑えている。
GMにはこういうシステムがないし、直ぐに作ろうとしても難しい。ならば、GM再生の一つの方向性として、複数の会社に分割するという手がある。AT&Tがかつてベビー・ベルに分割した様に。
GMが保有する複数のブランドごとに、分割してしまうのだ。販売網だけを共有する中規模の自動車メーカーに分割してしまう。そうすればコミュニケーションコストも削減できるし、意思決定も早くなるだろう。中には、生産を他の工場に委託する会社も出来るだろうし、極端に先進的な車を作る会社も出来るだろう。
いずれ「ベビーGM」が成長して、強いブランドとして復活した時に、改めてビッグGMに統合し直せば良い。
AT&Tはベビーベルに分割されることで他の多様な通信会社の参入を誘い、市場の活性化と競争によって強力な会社に生まれ変わった。ベビーベルの一社は新規参入者を含む競争相手を買収し、ついには親会社であるAT&Tを吸収して巨大な通信会社になった。GMにも同じような未来が待っている可能性はある。

2009年6月9日火曜日

温暖化バブルが怖い

6月になって恒例の様にクールビズが始まった。その途端気温が下がってクールに。景気も相変わらずで上場各社の決算も惨憺たるもので、サラリーマンの懐具合もクールになってしまった。

景気刺激は「環境」がキーワードで、新車購入には補助金、環境対策家電で何に使えるか分からないポイントがつく。アメリカではグリーンエコノミーとか言われていて、ITの世界でもグリーンがついたソリューションがてんこ盛りだ。しかし、ここに来て地球が寒冷化しているのだそうだ。

今年の黒点の活動は低調で、今年の夏は冷夏が予想されている。太陽は周期的に熱くなったり冷たくなったりするらしく、その変化は温暖化ガスの影響など屁でもないようだ。
冷夏になると、昔であれば凶作になって経済が混乱した。今はというと、当時とあまり変わらない。餓死や凍死が頻繁になるわけではないが、冷夏は打撃だ。
例えば、冷たい食べ物、アイスクリームや清涼飲料水などが売れなくなる。服も冷夏では売れない。
クーラーなどの家電も同じだ。冷夏は行楽にも影響する。海水浴も山登りも暑い夏があればこそ盛り上がる。冬に厳冬になれば経済活動自体に影響がでる。外出もままならず、物流も滞る。

今年の冷夏で、消費者が「二酸化炭素と温暖化って関係なくね?」と気づいたら温暖化バブルのはじけ始めだ。政府は消費者心理に無関係に期限が来たら環境補助金や環境減税を止めるだろう。そうすると、人々は温暖化に実態が無かったことに気付く。
飛ぶ様に売れていた環境商品はあっという間売れ残り続出。メーカーには設備投資の償却だけが残り、産業界は大きなダメージをくらう。

バブルも三回目だと驚きも薄れる。四回目だと慣れっこになりそうで怖い。

狭い日本、そんなに急いでどこに行く?

リニア「1県に1駅」 JR東海社長が方針表明(日経ネット)
http://www.nikkei.co.jp/news/main/im20090608AT2C0801N08062009.html

「東海旅客鉄道(JR東海)の松本正之社長は8日、2025年に首都圏—中京圏で開業を目指すリニア中央新幹線の途中駅について「1県に1駅ずつ設置することが適切」との考えを明らかにした。」

夢の乗り物、リニアモーターカー。乗り物が浮いて滑るように走るというのはワクワクするような話だった。それが2025年に実現化するというのはちょっと明るいニュース・・・なのか?
リニアモーターカーは時速500キロで走るのだそうだ。今の新幹線では300キロがいいところ。それでリニアの方が静かとなれば快適な旅になるだろう。けど、東京−大阪で1時間程度ってなると快適も何もない気がするが。
んで、東京−大阪で各県一駅ずつ止まるとすると、8区間を運行することになる。平均すると60キロ程度が駅間の走行距離になる。そこで、加減速している時間はと考えると加速度が毎秒時速1キロだとすると8分ちょっとでその間に35キロ近く走ってしまう。毎秒3キロだと3分弱で12キロ位が加減速距離。毎秒6キロで1分半の6キロ。感覚的には毎秒6キロの加速が合理的なように思う。
でも、加速度6キロってジェット機の加速度の7割くらい。結構きつい衝撃がある。

「途中駅の建設費は「受益の観点から地元負担と考えている」と説明。」

地元負担は結構高額になるはずだ。それでも東京から「ちょっと大阪まで行って来る」と一時間そこそこで行ければ便利な気もする。しかし、そんなに緊急の用事ってあるんだろうか。しかも新幹線よりかなり割高になることが分かっているのに。今の時代、テレビ会議などのコミュニケーションツールが普及している。それでもお金をかけてそんな短時間で行くというニーズを持っている人はプライベートジェットやヘリコプターでもいいのじゃなかろうか。

そんなに急いでどこに行くんだろう?

鳩山更迭を決断するとき

鳩山邦夫総務大臣が日本郵便の社長人事に強硬に抵抗している。抵抗の理由は、「かんぽの宿」を売却しようとしたこと、経営改善が見られないことなど。かんぽの宿は何回か書いたように売却は法で定められたことで売却先の選定にあたっては、応札条件が悪かったことで条件を変更せざるを得なかっただけで、何の疚しいところもない。経営改善が見られないという件については最近の「障害者優遇制度不正」を郵便局側が見てみぬふりをしていたということを取り上げているが、これは民営化前からのもので西川氏に責任があることではない。日本郵便の取締役を選任する外部委員会は西川社長の続投で一致しており、財務省も同様の構え。

鳩山総務大臣=総務省郵政官僚にも言い分はあるだろう。
「ユニバーサルサービスを提供するには国営でなければいけない」
確かに営利会社になれば収支が合わない場所の郵便局を閉鎖するなどのリストラをするかもしれないという可能性はある。でも、物流ネットワークの価値というのは網の目がどれほど広く細かく拡がっているかという点であって、郵便局ネットワークのカバーエリアを削ることが企業価値を損ね、収支を悪化させることは経営者は知悉しているわけで簡単にやめるわけがない。つまり官僚は民間を信用していないということで、民間は直ぐ手を抜くから自分達が監視しなきゃ、いや自分達がやらなきゃと思っているわけだ。でも、その官僚が企画した「かんぽの宿」は経営的に破綻しており、赤字補填に税金が使われているということを忘れてはいけない。

さてさて、この問題は政治と行政、メディアの関係を考える格好のケーススタディになるだろう。
新聞やテレビは鳩山大臣を正義の味方として演出したいようだが、色々と馬脚を表す人なのでなかなか。。。

っていうか鳩山大臣は自治担当大臣として地方経済とか自治体行政とか色々とやることあるんじゃないの?と思う今日この頃。

んで、幾ら仲良しでもそろそろ見切り時じゃないの?麻生さん、とも思う。

仲良しっていうと安倍首相時代も内閣を互いに良く知る同士で固めたので「仲良しクラブ」と揶揄された。それは今も同じなんじゃないか?

鳩山大臣は悪党面なのに妙に人気があると思われているようで、麻生首相も更迭するのには決断が要るのだろう。でも、そこで切れないと麻生首相自体の指導力に疑問が指摘されるようになるだろう。

鳩山更迭で「行政改革を確実に実施する」ということを内外に示して欲しいものだ。

2009年6月8日月曜日

混迷の郵政社長人事

郵政社長人事で鳩山邦夫氏が認めないと騒いでいる。
経営委員会が続投を支持し、政財界でも支持されている西川氏の続投を担当大臣である鳩山氏だけが反対している。
反対するポイントは「かんぽの宿」問題であったり、「郵便特別割引に関わる不正」問題であったりする。
麻生首相は鳩山氏を説得できないでいる。
鳩山氏は西川批判をぶち上げた手前、引っ込みがつかない。
与謝野氏が言うように、政府にとって郵政民営化は「小さなこと」であり、総務大臣としては地方経済の回復など重大なことが沢山ある。
「かんぽの宿」入札には不正は認められず、民営化前から続く「割引不正」は西川氏の責任ではなく、あぶりだされた問題を解消するのが責務である。
という具合に、鳩山氏は追い詰められているように思うが、どうも周囲から聞こえてくる声にバイアスがかかっているらしく、世論も続投に反対していると思っている。
仮に、鳩山氏の横車が通って西川氏が退陣するようなことになった場合、自民党は危機的な状況になる。
民営化をはじめとする行政改革の歯車は逆転し、道路行政も悪化するだろう。
民間企業は政策の先行きに不安を感じ、多くの企業が付加価値を生む企業活動を海外に移すかもしれない。
鳩山氏は元々国営企業であったとはいえ、一民間企業の経営に国家が介入できるということを主張している。
そのことに不安を抱かない財界人はいないだろう。
麻生首相は財界からそのことを突きつけられているに違いない。
麻生首相の選択がどうでるか。
鳩山更迭で決着して欲しいものだ。

地域に根ざさない国会議員って良いものだろうか

http://mainichi.jp/select/biz/katsuma/crosstalk/2009/05/post-18.html
選挙のコスト削減を:勝間和代のクロストーク - 毎日jp(毎日新聞)

勝間和代がテーマを挙げて実名によって意見を表明するコーナー。
今回のテーマは「選挙」。

選挙や政治家がテーマになると以下の様な意見が出てくる。
曰く、
「国会議員は特定の地域に利益誘導になってはいけないから、比例選挙にした方が良い」
「特定の血統によって政治が壟断されてはいけないから世襲を制限しないといけない」
「理念や政策をマニュフェストで示して選ぶ方はそれを評価して投票すればよい」
など。
つまり、国政政治家は
1)天下国家を語るのだから地域選抜ではいけない
2)特定の血統が国政を独占してはいけない
3)理念や政策によって選ばれるべきだ
ということだ。

果たしてそうだろうか?
政治家ってなんだろうということを考えてみると、身近な存在で例えれば企業経営者だ。
企業経営者に必要なことは「不安定な経営環境の中で決断をする能力」「選択したことに対してどのリソースを割り当てるかを判断する能力」「多様なリソースを選択した目標に向かって駆り立てる能力」である。
もちろん、この上に経営理念を示すなどの「コンセプト能力」も加わるが、概ね経営者に必要なのは決断・判断・モチベートであると思う。
この中で最も重要なのはモチベート力であると思う。
たとえどれほど素晴らしい理念や政策を持っていたとしても、それを実現するために多くの(大物や先輩など手ごわい)政治家を巻き込み、(海千山千で吝嗇な)官僚に知恵を振り絞らせることが出来なければ画餅に過ぎない。
モチベート力を判定するのに選挙というシステムはベターである。
政治にも社会にも特定の関心を示さない人も含めて、多くの有権者を惹きつけ投票所に駆り立てることが出来なければ政治家になっても政策を実現することは出来ないだろう。
有権者を投票所に駆り立てるには有権者の最大の関心事に対して政策を約束することが必要である。
それはその地域の問題に根ざしたものであろうし、それを取り上げなければ有権者は政治に何ら期待をしなくなる。
国家理念や国家政策は有権者にとっては遠すぎる。
理念によってだけ政治を語ることも危険である。
理念なき政治よりも理念だけの政治の方が危険なのは我々の歴史が示している。
そもそも国家というものが地方の集まりの中に存立し、地方がより小さなコミュニティによって形成され、コミュニティはその土地に根ざした郷土愛によって成り立っている。
だから国政政治家は地方を地盤とするべきであり、その利害をもって国政で戦い、結果として国家全体でより良い選択を見つけ出すべきなのだ。
それを地域に根ざさない、国家というシステムにだけ根ざした政治家で政策を論じるというのは危険だと思うのだ。
そういった国民の生活から遊離した政治体制は共産主義であれ、社会主義であれ、失敗していることを忘れてはいけない。

だから、国政を預かる人間は、国民の代表としての特定地域の有権者の意を十分に受けるべきであって、その中には身勝手なものもあるだろうから、それを政治家としての見識の中で取捨選択し国会の俎上に上げて議論していくべきなのだろう。そして、そこで有権者を魅了した力で賛同者を内外に作り出して実行していく力をこそ政治家の評価軸としたいと思うのだ。

冤罪対策

先週、所謂「足利事件」で有罪の上で無期懲役となっていた受刑者が、最新のDNA鑑定の結果無実の罪であったと釈放された。17年だったのだそうだ。それを受けて各種ニュースショーでも「冤罪けしからん」という論調の特集が組まれていた。

冤罪は警察と司法の「誤謬」であり、避けるべきことで可能な限りなくしていかないといけないことだと思う。しかし、人間がやる以上ミスは避けられない。だから冤罪に対しては、1)冤罪を引き起こさないシステムの確立
と2)冤罪が判明した場合の救済措置と国家補償 の二つの方向について整備されていなければならない。

冤罪を避けるシステムとしては、「取調べの可視化」などが取り上げられている。冤罪の多くが「自白の強要」によって事件化しているということで、取調べが強制的でないかということについてビデオ撮影などで公開できるようにしようというのだ。どうも冤罪=自白の強要という図式だけが目立っているが、本当にそうだろうか?自白よりも証拠を重視する欧米の司法でも冤罪は発生している。日本は自白を重視しているから、その過程で発生したエラーが問題になるし、欧米では証拠のエラーが問題となるわけだ。つまり、自白が厳密化しても証拠固めにおいて何かしらのミスがあれば冤罪は発生するのだ。
犯罪捜査は「犯人は否認する」という前提で疑うことから始まるので、どうしてもグレーを黒にしようとする力が働く。これは決して悪いことではなく、本当に黒であれば自白が強要されたものであろうと、証拠に疑わしいところがあろうと正義であって、その逆だと警察と司法は非難されるわけだ。そこには警察や司法は過ちを犯してはならないという「過剰な完全性」が求められているようである。しかし、人間がやることで完全なことはない。そのために、「疑わしきは被告の利益」と言われているわけだ。それでもその網をすり抜ける誤謬はあるのだ。
完全に冤罪をなくすことが出来ないとなれば、一つには冤罪を引き起こさないように法の網の目を粗くするという手がある。しかし、それは犯罪を野放しにするということになり、そのバランスは難しいだろう。そこで冤罪が判明した場合の名誉回復や生活保障、国家賠償請求などの制度をしっかりしておく必要がある。個人も国家も過ちを犯す。その過ちを補償するのは国家による名誉回復と金銭補償でしかない。冤罪の発生を認めた上で金銭補償が出来るように政府が基金を用意するなども必要ではないか。

冤罪の可能性がある以上、引き返せない罰=死刑を廃止するべきであるという意見もある。理解できる話だ。でも、死刑以外であっても刑罰を科すと引き返すことは出来ない。逮捕拘留だけでも引き返すことは出来ない。重大事件になれば逮捕時にマスメディアによって顔写真などが報道されてしまう。それを引き返すことは出来ないのだ。だからこそ、強力な権力や権威による「名誉回復」と「金銭保証」をしていかないといけないのだと思う。
冤罪が確定した時点で時の政府は冤罪被害者を招いて陳謝と慰労をするべきだろう。政府以上の権威(つまり、天皇)による慰撫も必要ではないか。もちろん刑事機能や司法機能を改善していくことも必要だ。それでも発生するエラーを救済するシステムを真剣に考えた方が良いと思う。それが冤罪を社会的に「無くす」ことにつながるのではないだろうか。