2009年7月30日木曜日

人生無差別級と投票のススメ

7月22日に「機会平等神話」という記事を投稿したが、その後知人とやり取りをした時の自分の送信を以下に紹介する。

【ここから送信本文】
8月5日号のSAPIOの71Pに深川峻太郎という人が面白いコラムを書いていました。機会均等など絵空事だと。「努力した人が報われる社会」を主張する人は「チャンスを平等に与えてフェアな競争を行う」ということを主張するが、人間の"初期条件"を揃えることなんて出来やしないと。スポーツでは初期条件を揃えるのに「体重別」なんてものがあるが、その内「親の収入別」とか「出身大学の偏差値別」なんてことになりやしないか。などと機会均等幻想を批判していました。

なるほど〜、『人生は「無差別級」』なわけです。親の収入だって、学歴だって、自分自身の学歴も何もかも均等にするなんてことは出来ません。住んでいる地域によって教育程度に差が出たりすることもあります。そもそも、世界的に見れば日本人に生まれついたことは物凄い幸運です。どなたかが言っていましたが、日本は「ホームレスになる自由」がある稀有な国です。アジアやアフリカ、アメリカですらホームレスになる自由はありません。ホームレスになる人はホームレスにしかなれない人なのです。そのことを知れば、過酷な運命を受容する態度というのが人間にとって必要な基本スキルであるような気がします。
【引用本文ここまで】

知人は「人生無差別級」というフレーズにいたく感心してくれた。

とはいえ、民主主義では平等の精神というのが必要ではないのか?という意見もあろう。そこで、「民主主義で平等が必要なのは何故か?」に答えてみよう。民主主義以前、ヨーロッパに封建領主がいた時代、国家の統治は領主だけがやっていた。領主(君主)が何故統治が許されるかというと「神がそれを許し給うた」からだ。

君主はその国や国家を統一する政治的能力が高く、人望もあり他人を凌ぐのだから、神が統治を許したのだ。そして、その能力は子孫に伝えられるから代々その血筋が統治するのは当然だと考えられていた。王権神授説という。これに対し、そんなことはない、人間は皆平等だとは何故言えるのか?

君主の統治は、その血筋の優秀さに根拠が求められる。そんなことはないというなら、君主を圧倒する能力を示さないといけない。人を集めて集団(軍)を作り武力で打倒するのだ。そして戦いに勝った者が新しい君主となる。

つまり、武力だとか、知力だとかが人を分けないという論拠がないといけないわけだ。そうは言っても差があるのだ。有能な人は有能だし、無能な人は無能だ。努力して勉強出来る人もいれば、出来ない人もいる。差があるのにどうして平等だと言えるのか?

そこで考えられたのが「神に比べて」ということだ。万能の神に比べればどれほど有能でも大したことはない。どんなに力があって頭が良くて財力があっても、たった7日間で"世界"を作った神に比べれば大した能力はない。それが人間が生まれながらにしてみれば平等だということだ。

もっと言えば、神の尺度では大差ないのだから(誤差なのだから)気にするなということだ。逆にいうと人間の尺度で分かる差は認めてしまえということになる。神に比べて平等という概念は「だから平等に一票の政治的権利」を保障するものであって、それよりも具体的な諸条件まで平等ということではないのだ。

さて、そう考えて今度の選挙を考えてみれば、みんなの投票はそれがどんな判断に基づくものであっても平等に「正しい」のだ。だから、気軽に投票所に行こうではないか。

新聞が分かっていないテレビの論理

週刊東洋経済の8/1号に「テレビ政治になお懸念」というタイトルで朝日新聞編集委員の星浩がエッセイを寄稿している。今度の衆院選に対するテレビの報道姿勢を懸念しているものだ。7月12日の都議会選挙投開票日に特番を放送した局は民放では1社もなかったということが懸念の出発点になっている。

在京キー局が都議会選挙特番を組めないのは自明のことである。これは、全ての在京テレビ局が「キー局」であるということに由来している。在京局は地方の系列テレビ局にテレビ番組を供給している。在京テレビ局が仮に東京都議会選挙特番を放送すると、全国の系列局でその特番を流すか、自主制作のローカル番組を流すか、映画や2時間ドラマの再放送をするしかなくなってしまう。幾ら地方とは言え、その程度の番組では広告を集められない。そのため、特に日曜日のゴールデンタイムという書入れ時に「東京都」とはいえ地方選挙を無関係の地域で放送するわけにはいかなかったのだろう。それが、在京テレビ局が通常放送を特番に変えなかった本当の理由である。

東京に住んでいると、東京で起こったことは日本全国どこででも「重要」だという気になる。確かに、次の国政選挙の結果を占うという点で東京都以外の住民にも無関係とはいえない。しかし、テレビ放送で「リアルタイム」で解説されてまで見る必要があるかというとそれは違うだろう。都議会の与党がどこになろうと青森県の住人には関係がない。だから、全国放送になってしまう日曜のゴールデンタイムに都議選特番なんかは組めなかったというのが正しい。

ここで見えてくるのは新聞とテレビ局のローカライゼーションの程度の問題だ。基本的に新聞の広告出稿は一部を除いて全国一律となる。そうでなければ紙面をそろえることは出来ない。地方が自由に編集できるのは精々一面程度。新聞社にとって地方は取材拠点では会っても営業拠点ではない。町の瓦版は地元の地方紙に任せればよい。全国紙である自分達は天下国家から重要と思える話題を報道すべきという意識が新聞には見える。

テレビ局も基本的には同じだが、違いは「地方テレビ局」というのは殆どないということだ。地元の情報を吸い上げて、放送するのも、地元の企業の広告ニーズを吸い上げてCMを流すのも、在京キー局といえども考慮しないといけないということだ。そうしなければ、地方局の責任を果たせなくなる。だから、在京キー局の特番は日本全国にニーズが認められるものだけということになる。国政選挙であれば良いが、いくら都議会だろうとローカルな話題は在京キー局では扱えない。

その意味で在京大新聞と在京キー局を比べた場合、新聞社の方がより中央集権的であり、提供する情報もハイレベルであると言える。そこで更に問題になるのは、大新聞の購読数だ。ハイレベルな情報提供に終始しているはずの大新聞の購読者数は異常なレベルで多い。情報の内容から見ても、質から見ても多数の購読者を得られるはずがないのに多いというのがテレビとは別の意味で新聞の歪みを示している。

そして、そろそろ新聞とテレビが系列を組むという体制自体が崩壊しないものだろうか?

成長戦略を語れない人々

今度の衆院選で「日本の成長戦略」が争点になることはなさそうだ。

考えてみれば、如何にバブル崩壊や失われた10年があったとはいえ日本は未だに世界で最も豊かで幸福な国の一つだ。多くの人に「日本がどうしても成長」しなければいけないという切迫感はないだろう。しかし、国債発行残高や人口動態を考えると、このままでひらける展望などない。

しかし、成長は必要なのだ。企業も同じ。事業戦略の話をしていると、今の規模を守ってほどほどに利益を得ればいいという意見が出てくる。社員や取引先、顧客の幸せが満たされれば、今の規模で十分というわけだ。

実はこれ、ビジネスの世界で一番難しいと思う。どんなビジネスであっても、生まれた瞬間から陳腐化が始まる。陳腐化に対応するには不断の革新が必要になる。革新には投資が必要で、その原資は生み出された利益である。負債も利益を担保にしたものと考えると利益は重要だ。

さて、売上が現状維持で会社の規模を変えない、つまり従業員を増やさないとしても、企業は利益を削る三つの課題に対応しなければいけない。一つは陳腐化に伴う価格低下。商品は上市した瞬間から価格が下がる。価格を上げるには、商品のバージョンアップをするしかない。そこには競争相手に負けない革新が必要になる。

二つ目は市場の成熟や全く新しい代替商品の登場による市場の縮小だ。市場は成長するが、最後は衰退するものだ。市場が衰退しない産業はない。事業の根幹を揺るがすこの現象に、企業経営者は早かれ遅かれ対応しなければいけなくなる。

最後は人件費や材料費の上昇だ。従業員を増やさなくても、昇給などによって人件費は上がっていく。特に日本では「同一労働同一賃金」の原則はないので、年齢や職歴の長さによって給料は上がっていく。従業員の平均年齢が高ければ人件費は高くなるし、低ければ安くなるのだ。企業の規模が一定であれば、人員構成は時と共に高齢化していく。定年や退職に伴う新規採用や中途採用は企業にとっては他動的な人材獲得作業であり、必ずしも事業に必要な人材が確保されるわけではない。そうして、費用の増加に効率の低下まで合わさると利益は全くでなくなってしまう。

そう考えると、企業は少しずつでも確実に成長を遂げなければ生き残ることすら危ういということになる。成長の度合いはそれぞれだろうが、いずれにせよ適切な成長率は維持できなければいけない。仮にインフレ率が1%で、陳腐化が2%、市場縮小に伴う価格競争で2%、人件費が3%(売上対比で1%)とあがっていくのであれば、売上は6%以上成長し続けなければいけない。

国家も同じこと。日本は国債と借入金、政府保証借入など合わせて900兆円の借金があるので、その利払いだけで年間8兆円近くになる。日本のGDPが550兆円くらいで税収が55兆円くらいなので、税収の15%くらいは利払いにあてられる。元本償還となると今の税収の水準だといつまでたっても減らない。なので、税収が多くならないと日本の財政健全化は遠のいてしまうということになってしまう。勿論支出の抑制も重要。

税収は税率が変わらない限りGDPに比例するので、税率を上げるのがいやならGDPを大きくする以外にないということになる。つまり、日本の産業規模を今の何倍かに成長させないとダメだということになる。そう、産業の成長戦略ということだ。

他国を見てみると、アメリカは「環境産業」に舵をきった。中国は「辺境開発」でしばらくは成長できる。ヨーロッパも「環境産業」で欧米間の競争が激化するのは目に見えている。先日の米中経済協力は産業政策の重点分野が重複しない両国が手を結ぶことで、互いの成長を促進しようというもので、アメリカの現実主義が如実に表れたものだ。

翻って日本はというと、今度の選挙では「生活防衛」とか「安心国家」とかが主題になるようだ。「国民の幸福拡大実現」が政治の目的である以上、こういったものはどの政党でも同じになるしかない。争点は「何」に重点を置いてそれを実現するのかということだ。GDP成長がなくて、福祉を充実させるということは税率が上がるということだ。「企業税率をあげて、消費税を廃止する」とは社民党や共産党が言いそうな話だが、税率が上がれば企業は従業員の給与を下げざるを得ない。仮に消費税が廃止され、税率が上がったら、従業員の給与が5%下がるだけのことだ。ならば、、、やはり産業が成長して、企業が大きくなり、GDPが増えて税収が多くなるしかないではないか。

そういう議論がこの夏に起きて欲しいと思う。

2009年7月28日火曜日

異常気象幻想・・・

山口と福岡で集中豪雨による自然災害が発生した。まだ「温暖化による異常気象」という言葉がメディアでもネットでも独り歩きしている。さてさて、、、

九州や山口などの日本列島南西部では確かに気温が高かったという。観測史上記録を更新したのだとか。それを以って温暖化による異常気象という主張が出来るのだろうか?

実は日本の平均気温は徐々に下がっている。温暖化を主張する人々にとっては都合が悪いくらいに下がっている。これは困った。

実は気温の変化についての科学的説明は不透明である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:2000_Year_Temperature_Comparison.png
これは様々な調査から導き出された過去2,000年の地球の気温変化の推計であるが、これによると凡そ次のような気温変化が起きたと言える。
1)紀元1000年までは緩やかに気温は上昇していった。
2)紀元1000年を境に気温が下がり、寒冷化していった。
3)紀元1600年を境に再度気温は上昇に転じた。
4)紀元1700年後半から1900年前後まで急激に気温が下がった。
5)紀元1900年を越えて20世紀に入った頃から気温が上昇に転じた。

さて、株と同じで気温は上がったり下がったりするものらしい。中学の化学実験で経験済みだが、温度が高いと水の二酸化炭素含有量は少なくなる。すると、紀元1000年までは二酸化炭素濃度は上昇し続け、さぞかし農作物の生育は良くなったことだろう。逆に紀元1000〜1600年までは寒冷化したので、大気中の二酸化炭素濃度が薄くなり、農作物の生育は悪く、寒冷化も手伝って収穫量が減少したと思われる。日本でもこの頃までは資源の争奪が繰り返されており、その中で武士階級や戦国大名などが成立していった。

かように考えると、二酸化炭素が温暖化を導いたとは言えなさそうだ。二酸化炭素は気温の上昇の結果として現れていて、それが証拠に温室効果ガスが排出されていない時代でも気温は上昇する。いや、その気温変化の「均衡」に対して人類の輩出する温暖化ガスが悪影響を及ぼしているのだ、という主張もある。しかし、過去の気温変化の際に起きたであろう二酸化炭素の大気中濃度の変化以上に人間が排出量を増やしたとは思えない。というのも、大気中の二酸化炭素は3兆トン。日本だけの排出量が13億トンで0.04%。世界合わせても0.5%にも届かない。それが、マクロな気候変動による気温上昇によってもたらされたのか人為によるものなのかなんて分からないじゃないかと思う。

ユニクロ最高益更新を真正面から捉えよう

日経新聞 7月10日 朝刊一面
「『ユニクロ』最高益1080億円」

ユニクロが歴代最高の営業利益1080億円を叩きだしたという。この営業利益から、有利子負債の利払いなどを差し引いて、最終経常利益がどれほどになるのかは不明だが、今の経済環境下で利益を増やすというのは驚異的だ。会社でも時々ユニクロの話題を出すのだが、決まって「今は不景気なので売れているだけで、景気が良くなったら真っ先に変われなくなってダメになる」という反応が返ってくる。不思議なものだ。

ユニクロは景気が悪いときでも良いときでも常に成長を遂げてきた。一時頭打ちか?と言われたが、それまでの方針から一転、カラーバリエーションを増やしたり、高機能衣料を開発したりと、価格はそのままで付加価値を高めることに力をいれて成長を果たした。ビジネスの視点から言えば、顧客ニーズの変化に即応して機会をものにしたというところだ。ビジネスパーソンとしては、そのことに真正面から取り組みたいと思う。

成功者が出ると、そのうちダメになるという評価が下されるのは良くあることだが、そういう発言は決まって変化を拒んでいるものの口から出てくる。成功者の多くは環境変化に合わせて自らを変えたもので、自ら変わろうとしないものからは苛められるものだ。白鳥は昔から白かったわけではなく、環境変化に合わせて白くなった。でも、最初に白く変化した個体はさぞかし仲間内から苛められたことだろう。しかし、生き残るのは自ら変化したものだけ。

「理由のない成功はあるが、理由のない失敗はない」

とは人口に膾炙しているが、成功にだって理由はある。ユニクロの成功は実質的な創業者である柳井氏のパーソナリティによるところはあるが、第一の成功要因は「ロジスティクス」である。原料の調達から生産、輸送、販売にいたるまでのサプライチェーンを最適化して、顧客に魅力的なデザインと価格を安定供給できる仕組みを作り上げたことが成功の主因だ。実はトヨタ自動車の成功要因も同じである。消費財の成功要因は供給力を支えるロジスティクスにあることは今や常識ですらある。

翻って、レナウンに代表される不調なアパレル各社の過去の成功要因は「デザイン」とか「流行発信」であった。それは日本人のファッションに関する知識が不足していたことから、アパレルメーカーが提供するファッション情報が消費を決定づけていたからだ。それが日本人のファッションスキルが向上するに従って、消費者に選択肢と商品をコンスタントに供給し続ける能力が成功要因に変わってしまったということなのだろう。

もちろん、ユニクロだってデザインを開発したり、素材を開発したり、と情報発信をしている。だが、それは消費者のアテンションを惹くものではあっても、消費者を継続的に購入に走らせるものではない。安定した商品供給、安価で高品質な商品が成功を呼び続けているのだ。マーケットに敏感に反応するというのはこういうことなのだと思う。

2009年7月27日月曜日

歴史は繰り返す…のか?

衆院選を控えて各党が事前活動を加速している。政権交代なるか?というのがメディアの関心事で、自民党を政権から引きずり下ろすことが目的であるかの様だ。軽いデ・ジャ・ヴを伴う。

自民党が政権から転がり落ちた16年前、期待を一身に集めた細川内閣は一年に満たず退陣し、こともあろうに自民党と社会党が連立政権を樹立するという事態になり、自民党が復権した。同じことが繰り返されるという観測もある。ただ、この時の非自民政権は大小八党の連立であり本から不安定だった。細川護煕は当初は自民党との連立を模索しており、小沢一郎の手腕によって何とか成立したのだ。

それと比べると民主党は政権を担うだけの力量がある様に思える。この一年で内紛が続いた自民党よりは一体感があるように思える。だが、16年前の非自民に寄せられた夏の太陽の様な熱気はない。郵政選挙の様なスローガンもない。

何を争う選挙なのだろうか。分からない。

この〜樹なんの樹♪

日経新聞 7月27日 朝刊一面
「日立が完全子会社化〜マクセルなど上場5社〜成長事業取り込む」

産業インフラの"日立プラントテクノロジー"、グリーンエネルギーで注目される電池の"日立マクセル"、情報システム関連の"日立情報システムズ""日立ソフトウェアエンジニアリング""日立システムアンドサービス"の5社を、日立が完全子会社にするという。日立本体の同一ドメイン事業との統合が行われるのだろう。特に、システム3社は合併されるのではなかろうか。日立にはコンサルティング会社があるので、それと統合してシステムソリューションを出掛けるというのかもしれない。

日立は「脱・総合電機」を宣言して再建に取り組んでいる。この5社の完全子会社化で読み解くとすると、「グリット送電」などの効率的なエネルギーシステムの供給に力点を置くようだ。電気使用量の変化によって、送電量を変化させる技術には送電機械に加えて統制用のシステムが必要になる。また、電気を貯めたり放出したりする電池も必要。この5社で統合的にこの分野を切り開く意図があるように思う。

2009年7月26日日曜日

価値ある同盟者を探し、彼らにふさわしい場を追求しよう。

デイル・ドーテンの「笑って仕事をしてますか?」より

"価値ある同盟者を探し、彼らにふさわしい場を追求しよう。"

部下を持つ立場になると、どうしても次の様に考えるようになる。

「彼/彼女に何をさせよう」
「彼/彼女をどうやって働かせよう」
「彼/彼女をどうやって評価しよう」

多くの場合、部下を選ぶことは出来ない。上司を選ぶことが出来ないのと同じだ。だから、あまり部下の能力に大きな期待を持つ人というのは少ない。上司に期待する人が少ないのと、これまた同じことだ。

つまり、上司と部下の間に信頼関係が自然発生することは希で、その為に「上司=命令する人」「部下=命令に従う人」という不文律が生まれる。このように上司の権威というのは非常に危ういものなのだ。パワハラとかサラリーマンの「鬱」の原因の一部がここにある。この不幸な連鎖を解消することが出来ないだろうか。

デイルは積極的に優秀な人を求め、その人にふさわしい仕事や待遇を探そうと言っている。自分の部下や上司、同僚、取引先、自分に関わる全ての人のことをどれほど真剣に考えているだろうか。理解しようとしているだろうか。その人のことにふさわしい仕事を探しているだろうか。ビジネスが経営資源(モノ、金、情報)に如何に人が関わって付加価値をつけるかということだと考えると、人が最も付加価値を生み出せる関わり方、すなわち仕事を探すのは経営者の最も優先すべき仕事だと言える。

そう考える方が自分にとっても他人にとっても幸せな気がする。