2011年3月3日木曜日

入試が最優先の事業ならば、大学には常勤職員はいらない

日経オンライン「常識の源流探訪」〜携帯カンニング工夫するヒマに勉強しろよ!〜で伊東 乾が

「そうなんです、学生の単位取得だとか卒業だとか、あるいは卒業後の進路とか、そういうことは大学全体を揺るがすようなことにはなりません。逆に、入試で何かあったら、学長や入試責任者は下手すればクビが飛びかねないかもしれません。そういう現実認識が大学の中にあります。」

と語っている。

なるほど…。大学の本分が高等教育の授業と最高の学習環境の提供であれば、入試はそのサービスを受ける希望者(需要)が大学の定員数(供給)を超える場合にスクリーニングをする為に必要になる。大学の学生は、元々はタダみたいな授業料で教育を受けていた。そこには税金による補填があったので、入試によって税金を使っても、その後に公益に貢献できる優秀な人材を選別するという建前もあった。

文科省が予算を獲得するために無闇矢鱈と大学の新設を許したが、国からの補助金という"需要"があったために参入は盛んだった。通常、参入が盛んになると価格が下がって淘汰されるが、補助金と価格統制があるために価格競争の代わりに学生獲得競争が激化した。学生数は補助金額(売上)を決める要素だから、学生を入学させることが最重要事業となった。入試は実は学生の大学に対するロイヤリティを高める効果がある。

問題の難しさや頭の良い競争相手を叩きのめして勝ち上がっていく過程で学生はその大学の学籍を得ることに満足を得る。だから、そんなに沢山合格者が出て欲しくない。推薦入学やAO試験などは正規の入学者に「あいつらと違って俺の学籍には価値がある」と思わせる装置になる。金メダルでも純金製とメッキでは大違い。だが、推薦だろうと何だろうとメダルには違いないから彼等も満足だ。

斯くして入試という事業が拡大していく。その引き換えに本来の"最高の学習環境"というサービスはお座なりになってしまう。入試がメイン事業ならば、大学には常勤の職員は必要ない。精々冬の3ヶ月間必要になるだけだ。いっそのこと入試に合格したら卒業証書も上げれば良い。

2011年3月2日水曜日

松沢知事が東京都知事に立候補するのは、神奈川県知事の仕事が面白くないからだろう

松沢 神奈川県知事が東京都知事に立候補を表明した。石原知事の了承も取り付けるという政治家らしい根回しを忘れない。石原知事はこういう行為に好感を持つタイプだろうから、応援するに違いない。 
 
神奈川県知事の座を擲って東京都知事に挑戦するのは、それくらい神奈川県知事という仕事が面白くないからだろう。 
 
というのも、神奈川県は県内に横浜市、川崎市、相模原市と政令指定都市を三つも抱えている。神奈川県の人口は900万人で、三つの市を合計するとおよそ580万人。人口の約65%は政令指定都市で県の権限は及ばない。東京に面した三つの市が東京都の連携を阻む様に働いている。 
 
このことから神奈川県知事は「湘南市長」と揶揄されることも多く、日本で第二位の人口の県でありながら、県知事が及ぼせる影響の範囲は茨城県くらいなのだ。これではとてもではないが、面白かろうはずもない。 
 
石原都政を「継承」する方針であろうから、都民の選択が現状維持であれば松沢都知事が誕生するであろう。

痛快なり!松田公太

一昨日おきた「松田公太 菅首相即アポ事件」(By 山内康一)は息苦しい政界で久々に痛快な事件であった。 
 
松田公太の行動が痛快だったのは勿論だが、みんなの党の議員や幹部達がそろって面白がっているのが良い。 
 
こういう事件を笑い飛ばせる集団というのは苦境に強いものだと思う。

2011年3月1日火曜日

入学試験なんかしなければいいんだ

大学入試の問題が掲示板に流出した事件。大学は携帯や通信機能付きの端末を持ち込むことを禁止するそうだ。

ならばいっそのこと入試なんか止めてしまえば良いのに。入学希望者より大学の定員総数の方が多い時代に筆記試験などで合格判定をする意味はあまりない。それよりも入学希望者は全員入学させれば良い。

全員入学させた上で、今の様な出席してれば単位がとれるといったやり方を改め、一定以上の不合格者が出るやり方に変えて、卒業しづらくしたら良い。授業のレベルも上げて、本当に勉強する人しか卒業出来なくすれば、箔をつけるために入学することなんかしなくなる。大学のレベルが"特別に"高ければ、高校や専門学校のレベルも強化される。あの高校を卒業出来れば大学を卒業する力が養われるといった評判は大切だろう。

ソーシャルメディアが普及していて、軍隊が弱いのに、日本で“革命”が起きないのは何故か?

2月24日に「中東の"革命"を見て、中国でも民主化が進むと思ったら甘い!」で後ろ楯としての軍隊の存在が無ければ革命は成功しないと書いた。では、人々の不満や意識をつなぐソーシャルメディアが発達していて、デモも届け出れば自由に出来て、時の政権が民衆弾圧に軍隊を動員する可能性が殆どない日本で"革命"が起きないのは何故だろうか。

「日本は民主主義だし、革命の必要がない」というのは先日までは僕もそうだと思っていた。だが、その民主主義を体現する選挙で何が変わったろうか?幾人もの首相が生まれては消えたが、彼等の内の何人が選挙で約束したことを実現しただろうか。何人が約束を違えることを堂々と説明しただろうか。

中央省庁の役目が終わり、その整理縮小が叫ばれて久しいが、相変わらず官庁は膨張し続けている。あの小泉首相ですら官庁の解体には手をつけられなかった。官僚個人が悪いのではなく、不要なのに無くならないのが悪いのだ。そんな壁を破壊するのに古より政府打倒の暴力闘争があった。

エジプトの民衆蜂起は将にムバラク体制という壁にみんなが立ち向かったわけだ。軍隊が民衆蜂起に敵対しないという予想があったからこそだろう。でも、日本では霞ヶ関焼き討ちは起きない。決して軍隊に暴力で圧殺されたりしないのに。

日本で革命が起きないのは皆が幸せだと思っているからだろう。実際、世界で日本人は圧倒的に豊かだ。貧富の差も小さく、路上生活者ですら世界の貧困者より豊かだ。そんな幸せな社会を革命によってご破算にするのは大きな損失だ。

「茹で蛙」理論というものがある。グラグラ煮たった鍋に蛙をいれると直ぐに飛び出すが、水からゆっくり温めていくと蛙は温度が上がったのに気づかず茹で上がってしまうというもの。実際には水温の変化を感じて蛙は鍋から飛び出すらしい。

不安はあっても豊かな今の日本は蛙が飛び出すほどの温度にはなってないのだろう。政府や官僚が横柄な運営をしない限り、焼き討ちに至ることはないのだろう。とすれば、無能であっても人当たりが優しい菅首相の方が横柄な小沢一郎より、結果的に人を馬鹿にしてしまう鳩山よりマシというのが彼が首相をやれる理由かもしれない。

ならば、日本で革命を起こすには、強権的な政治手法の小沢一郎に首相をやらせてみるのが良いかもしれない。強権的な社会主義政策による財政悪化に疑獄事件が重なれば、民衆が鍋から飛び出す温度に近づくかもしれない。

地方の時代は田舎の時代ではない

「地方の時代」なのだそうである。 
 
宮崎の東国原県知事誕生に続き、大阪の橋下知事が支持を受け、名古屋では名古屋市長選挙と県議会リコール、愛知県知事選挙を川村市長大村候補連合が勝利するという出来事まで起きた。東京都知事選挙は波乱が期待できる。 
 
しかし、これは本当に「地方の時代」の体現なのだろうか? 
 
「地方の時代」という言葉は1970年代からあるのだそうだ。40年も言い続けてその時代にならないということはもう無理なんじゃない?という気もする。地方の時代は換言すれば「地方分権」である。地方の行政サービスは地域ごとの事情に合わせてやった方が良いのだから最小単位自治体に任せて、権限を中央省庁から委譲して欲しいという話しだ。 
 
しかし、掛け声だけで一向に進まない。それもその筈で、地方に財源と権限を渡して自由にさせると言っても、権限はいくらでも渡せるが財源となると疑問が出てくる。多くの地方自治体は、その地域の税収だけで行政サービスも産業振興も出来ない。人口と雇用が東京や名古屋・大阪などの大都市に集中しているため、都市以外の地方、つまり田舎には十分な財源がそもそもないのだ。地方交付税とは、端的に言えば東京で収奪して田舎にばら撒くというもので、これがないと維持できない地方自治体は多い。 
 
その証拠に、東国原知事は一期で知事を退いた。財源、税源が無く、地方交付税は用途が決まっている宮崎のような田舎では「地方の時代」を体現するような行政は決して行えない。つまり、地方分権では力のある中核都市以外は、そのままの姿では存続できないということである。だから、地方分権論議が盛り上がらないのだ。 
 
だから、「地方の時代」という言葉は誤解を招きやすいので「田舎の時代」と言い換えるべきだ。そうすると未だに実現してない理由が分かる。逆にこれからは池田信夫も言うように、「都市の時代」にならなければいけないのだと思う。 
 

日本郵政が赤字転落・・・は当たり前

「郵便事業会社の業績悪化が波及 郵便局会社も赤字転落へ」 
 
「郵便局会社は郵便事業会社やゆうちょ銀行、かんぽ生命保険からの業務委託手数料が収益の大半を占める。11年度の営業赤字を見込むのは、郵便物数の減少に加え、郵便貯金残高や生命保険の保有契約件数の減少で、収益が圧迫されるためだ。」 
 
郵便局を分社化して窓口業務の委託による収益を目指したのは、こういう成り行き任せの赤字を許さないためだった。「郵便物量の減少」「貯金残高の減少」「保険契約の減少」は予想されたことであった。パソコン通信の誕生時点から郵便が電子通信に置き換わるのは予想されたことだった。儀礼的な通信以外は電子化されるのは目に見えていた。しかし、郵便局は「郵便三事業を扱う窓口拠点」である以上はそれ以上の収益源を求めることは難しかった。 
 
そこで郵政民営化と四分社化であったのだと思う。即ち、郵便事業以外の業務受託が出来る自由度を郵便局に与えるということだ。完全に民営化すれば町のサービス拠点としてコンビニと同じ様な働きが出来たのではないかと思う。郵便局がコンビニのフランチャイズになるという選択肢もあった。しかし、民営化が逆行したことで望みのない郵政三事業依存に戻ってしまった。 
 
「郵便事業会社も同日、総務省に11年度の事業計画の認可を申請。1200億円近くの営業赤字を見込む今年度に続き、2期連続の営業赤字を見込んでいる。同社は12年度の営業黒字化を目指しており、今後は経費の約7割を占める人件費削減に向けた労使交渉が本格化する。」 
 
郵便事業の赤字は自業自得である。ペリカン便の統合に失敗して、1+1=1というミラクルな算術を展開してしまった。これで本業の郵便自体に対するサービスレベルの信頼度まで揺らぐ結果となった。日本郵政側が国営事業への返り咲きをたくらんでいる間に、郵便サービス自体の価値が毀損してしまったのだ。今は未だ郵便サービスが法的に独占保証されているので信書の配送は残っているが、ビジネスメール便やダイレクトメールはどんどんJP離れが進んでいる。 
 
郵便局は残業の削減を、郵便事業会社は人件費削減に向けて労使交渉をはじめるというが、日本郵政は亀井静香の肝煎りで非正規社員の正社員化が進んでいる。顧客離れが進んで、収入が減っているのに固定費である社員を増やすというわけの分からない事業方針を政治的に押し付けられて、なんとも不幸な会社であることかと思う。郵便サービスが儀礼的な信書が中心になっていく以上、繁閑の差は激しくなっていく。これを正規雇用で賄うと、よっぽど多能工化をしない限り収益性は良くならない。 
 
こういう結末になるのは去年の夏の騒ぎの頃から分かっていたが、いざこういう結末になると、官僚や政治家に商売に関わらせちゃいけないと強く思う。

2011年2月28日月曜日

デフレギャップの解消には「供給削減」か「需要拡大」しかないのか?

三橋貴明氏が日経オンラインで以下の様に書いている。
「何度でも言う、TPPは「インフレ対策」です」
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20110224/218588/?P=4&ST=money

「日本がデフレから脱却するためには、需給の乖離であるデフレギャップを縮小させる必要があるが、方法は2つある。すなわち「供給能力」を削るか、あるいは「需要」を拡大させるかである。」

そして、氏は

「供給能力の削減とは、企業の工場閉鎖や設備廃棄、それに人員削減などになってしまう。すなわち、リストラクチャリングだ。企業がリストラを推進すると、国内の失業率は上昇する。失業率が上昇すると、当然ながら個人消費は減少してしまう。」

と言い、民主党が政権奪取当初に麻生政権の補正予算を停止した件を批判し、「民主党は「総需要抑制策」をしている」と批判している。

批判はTPPにも向けられ、TPP参加によって日本の産業(農業)にダメージが及ぶと失業が発生しリストラと同じ効果を生むと説いている。

この論では三橋氏は「日本の総需要と総供給」を比較し、総供給に対して総需要が不足しているからデフレも止まらないし、そんな中でリストラすれば更に需要が不足してデフレが更に進むことになると主張している。しかし、この「総需要と総供給」を比較するという点に、「何の需要が不足」していて「何の供給が過多」なのかという視点が欠けているように思う。つまり、日本の需要側のニーズと供給側の構造のギャップに問題はないのかということだ。

例えば、多くの公共団体や公益法人の中にはその役目を終えても存続している企業が多くある。昔は求められていた技術や供給能力も今では不要になってしまったというものもある。JALの例などは、昔は飛行機旅行に対する憧れやそもそも一生に一度といった貴重な体験だったものが、日常的に飛行機を利用するようになったことで旅客航空に対するプレミアムが下がっていった。更に、海外の格安航空会社が示したのは「今の航空運賃が高すぎる」という事実であり、その中には従業員の高い給料や年金負担などがあったわけだ。それが、利用者が航空に感じる価値は下がり(今や出張でもない限りスーツで飛行機に乗り込む人はいない)、「厚サービス・高価格航空の需要は少なくなり」「薄サービス・低価格航空の需要が多くなった」ことで日航という会社は破綻に追い込まれるほどになってしまった。

本来であれば、もっと早い段階で破綻・新会社での再出発が行われ、その過程で給料の切り下げや年金の処理なども出来た。それが今までもつれることになったのは日本の労働環境が硬直的でニーズがなくなった産業やサービスを維持する構造になっていることだ。それが需要側にも消費意欲の減退をもたらし結果としてデフレになってしまっているわけだ。

ここで考え方を変えて、三つの改革を行うことで供給側の構造を変えて需要側のニーズを消費につなげることを目指さないといけない。一つは事業会社の破たん処理を促すということである。事業会社の破綻には、経営者・従業員以上に金融機関の事情により本来破綻するべき企業が破綻していないという背景がある。亀井静香の肝煎りで始まったモラトリアムは金融機関にとっては不良債権隠しのモラルハザードを引き起こした。コレによって破綻したくても出来ない企業がどんどん増えている。

これらの事業会社を、中小から大企業まで、速やかに破綻・再出発に移行できるように促すべきだろう。その為には二つ目に雇用規制の緩和が必要になる。事業会社が事業の一部を残して、他を整理縮小し再スタートを図ろうとしても、実質的に整理解雇が禁止されている状況下では従業員を抱え込んで共倒れするしかない。「知恵を絞って再建させる」といっても全て再建可能な話ばかりでもない。解雇が出来る様にすると共に、今では雇用継続の為にかけられている社会保障を再雇用のための訓練などにシフトしていけば、一時的に失業者が増えても労働力の移転が行われることで失業率は速やかに下がるだろう。

三つ目には産業規制である。各種の参入障壁や許認可を可能な限り撤廃して新規参入を容易にする。1000円バーバーの草分けのQBハウスは参入にあたって保健所の指導など様々な障害があったという。それを乗り越えてなんとか理容業界に参入した。確かに散髪価格が下がるという"デフレ状態"には陥っただろうが、例えば家庭でお母さんが子どもの髪の毛を切っていたケースの多くはQBハウスで切るようになっただろう。散髪をする総数は格段に増えて、QBハウスに続く参入者が既存業者も価格を下げることで、理髪業界は活発化している。これなどは参入障壁が乗り越えられないほど高かった場合は、供給と需要がミスマッチのまま理髪業界は衰退の一途を辿ったであろう。今ではQBハウスなどは海外進出まで果たしている。

確かに三橋氏が言うように、民主党は日本経済をダメにするような政策しか行っていない。「事業仕分け」などは本来ならば「規制仕分け」をするべきだったのだ。と同時に、「省庁仕分け」をして公務員を削減するべきだった。公務員ほど再雇用に有利なキャリアもないであろうから、そうやって労働市場に流出した人材が中小企業やベンチャーに入って新しい市場を生み出していけば、リストラのマイナス効果などあっという間に解決するだろう。三橋氏が言うように、「デフレなんだから需要を喚起する政策を」というのは分からなくもないが、ならば「どれだけの需要を喚起すれば」即ち「どれだけ公共投資をすれば」デフレが解消できるくらい需要が喚起されるのか?というのが問題になるだろう。40兆円などという人もいる。公共支出の乗数効果は高々三倍程度なので、それを期待しても13兆円以上の公共投資をしなければいけない。

この13兆円は一度きりで終わる保証はない。公共投資がはずみ車のように経済を順調に回転させるという実証はないのだ。仮に3年続けたとすると国債を40兆円発行しなければいけなくなる。とても現実味はない。三橋氏は基本的には「価格統制」論者であるようで、以前にも小泉内閣での自由化によってタクシー業界がダメージをうけ、タクシー料金が上がったという。逆に言えば、タクシー料金はそれが妥当だったという事ではないだろうか。規制緩和をすると、思いもかけない影響が様々に起きて、政府としては非常に面倒な状態が生まれる。価格統制や統制経済が好きな人は、こういう偶然性やトラブルが嫌いなのだろう。

しかし、こういうハプニングに挑戦する人がいなければ経済の発展など望めないと思うのだ。