2011年1月21日金曜日

官僚の軍門に下った菅首相

『首相、事務次官に協力訴え 「政治家にも行き過ぎ」  「政治主導」修正、政官一体の取り組み指示』
http://www.nikkei.com/news/headline/related-article/g=96958A9C93819481E0E3E2E2918DE0E3E2E3E0E2E3E39C9CE2E2E2E2;bm=96958A9C93819481E0E3E2E2978DE0E3E2E3E0E2E3E39F9FE2E2E2E2

「菅直人首相は21日午前、首相官邸で各省の事務次官に訓示した。「事務次官と政治家が積極的な協力関係をつくり上げてほしい。政治家にも行き過ぎや不十分さがあった」と述べ、政権交代以来の「政治主導」を軌道修正した。」

菅民主党が官僚の軍門に下りました。恐らく、陰日なたに重ねられたであろう官僚のサボタージュの賜物です。

日本には権力と国民の間の中間集団は「官僚組織」しかありません。この官僚は解雇規制や人事院などというものに守られて永続的に権力と国民の間にあります。アメリカなどでは政権ごとに官僚組織の上層部は入れ替わります。これはそれぞれの政党がシンクタンク(政策立案集団)をもっているためで、政権をとると同時にそのシンクタンクのメンバーが官僚組織の上層部に入り、解雇された官僚は野党のシンクタンクに入ります。日本にシンクタンクが無いのは、喩え政権をとってもシンクタンクのメンバーを政治任用で官僚組織のトップ=事務次官に据えることが出来ないためです。シンクタンクにいても、政策実現には手出しが出来ないのであれば、実現可能性がない政策を自己満足で作文しているだけで、優秀であればあるほど他の道を選ぶでしょう。

菅首相や民主党が「政治主導」を目指したのは正しいことで、行き過ぎどころか最初の一歩すら踏み出していません。問題は政治家の打ち出すコンセプトを官僚組織を含めた既得権益者に遠慮しない政策に纏め上げ、それを実現可能なプランに落とし、その実現を官僚に強制する、能力と権力を持つ実務者がいないことです。既得権益の代表となってしまっている官僚にそれを求めることは出来ません。政治主導を本当に成し遂げたいのであれば、政治任用が出来るポストを拡大し、それと同時に一定以上の地位の官僚の解雇が出来る様にしていかなければいけません。

本来であれば、民主党が政権をとった直後にそれに着手するべきでした。しかし、官公労の抵抗にあった民主党は「政治主導」という掛け声だけで本当の意味での政治主導改革を怠ったのだと思います。

2011年1月19日水曜日

町工場が消える原因には日本の雇用環境の問題があるのではなかろうか?

日経新聞 1月19日 朝刊 九面
「消えゆく町工場」

日本の町工場集積地帯として有名な東京大田区と大阪東大阪市で過去20年間に町工場が半減したのだそうだ。記事では主な要因としてリーマンショックに端を発した金融危機をあげていて、付け足しの様に「後継者不足」を挙げていた。戦後50年代から70年代に30前後で起業した町工場のオーナーがこの20年間で次々に70才を超えて引退したであろうことを考えると、金融危機による需要減よりも後継者不足の方が主な要因であるように思う。

日本の町工場の加工技術に優れたものがあるとして、それは全ての工場に当てはまらない。大企業が頭を下げて発注するような町工場は数えるほどしかない。ほとんどの町工場はありふれた加工機械を操作して加工するだけである。機械を大切にメンテナンスするなどによって品質が安定するようなことはあるかもしれないが、技術革新によって「匠の技」がコンピュータで再現されると普通の町工場の仕事の多くは発注元が内製化してしまう。

引退間近の町工場のオーナーにそれを超えるイノベーションを求めるのは酷な話で、廃業に至るのはやむを得ないだろう。問題なのは廃業した後に新しく若い人が起業しないことで、それは日本の雇用環境にも問題があると思う。日本では「終身雇用神話」があり、「年功賃金」は長期雇用によって担保されるから、大抵の場合は起業のリスクをとるよりは企業への就職の方が人気がある。町工場のオーナーに幾ら優秀な子弟がいても、優秀だからこそ跡を継ごうとはしない。

更に、銀行が経営者に債務の個人保証をさせるために、たとえ優秀な従業員がいても譲ることが出来ない。だから、奇特な後継者に恵まれない限り町工場は一代で終わるしかない。それは日本の「モノ作り神話」の崩壊ではなく、如何に日本のビジネス環境が窮屈かというだけのことだ。大企業をリストラされた人が培った専門スキルと積み増しされた退職金で廃業する町工場を買うというのは、なかなか難しい面が多いだろう。

しかし、企業は自分達にとっては重要でなくなったスキルを持つ従業員を社内に飼い殺しにせざるを得ない。

2011年1月17日月曜日

仮に日本が破綻しても“大連立”に反対する

菅第二次改造内閣に自民党の枢要を担った与謝野氏が入ったことで、彼を橋渡しとする所謂"大連立"を待望する声が聞かれる。改造前から識者の中でも大連立を唱える人もいるし、彼の大新聞の主筆は熱心に働きかけている。しかし、敢えて言う。

「譬え、日本が破綻しようとも大連立には反対する」

反対の理由は「人は満腹になってもお菓子に手を出すもの」だからだ。空腹を満たすという当初の目的が果たされても、そこにお菓子があれば手を出してしまうものだ。「自民党」は「防共」「社会党対策」の為に"大連立"から合併に至った。それがソ連崩壊、中国の転向と目的が果たされても合併したままだった。

あまつさえ、社会党を保守対抗馬としておだてあげることで、その延命に協力した。自民党という一種の「一党独裁体制」は戦後日本を共産革命の浸透から守り、敗戦から素早く立ち直るための「方便」に過ぎなかった。それが「戦後は終わった」と言われても維持されたのは、自民党という共同体が権力を手放したくなかったからだ。それは小沢一郎の「反乱」によって崩壊するかに見えたが、自民党という共同体を破壊したのは小泉純一郎という奇才の登壇まで待たなければいけなかった。

"一党独裁"自民党支配が終焉を迎えた今、日本は改めて多党政治—民主化—に進まなければいけない。"防共"を理由にした保守合同や戦争を理由にした翼攅会政治の再来は民度の成熟を妨げるだけだ。「たちあがれ日本」は保守理念の旗を掲げた。「みんなの党」はリバタリアンに近い。自民党と民主党はどちらもコミュニタリアンとリベラリストが混在していて有権者の選択を妨げる。

日本経済が破綻に直面して危機だからというのは理由にしてはならない。私たちは再び民主化の機会を逃す。第一、敗戦という最大の破綻を短期間で克服した私たちが、財政破綻程度を恐れてはいけない。それよりも二度と破綻しない社会をどのように再建するかを徹底的に議論して選択するべきだろう。