2009年10月3日土曜日

郵政の神話

『「郵便局」は税金の投入もなく黒字だったのに、郵政官僚や天下りのやった箱モノの煽りを受けている。本当は民営化なんて必要がない。』

ある人とのやり取りでこの様な話を聞いた。僕は黒字なら尚更民営化して民間に解放した方がいいじゃないかと思う。黒字なら、民営化したって過疎地の配達はなくならない。赤字ならなくなるだろうが。ただ、この意見では発言者を納得させることは出来ないので他の話をしてみる。

『郵便局に税金が投入されてない』というのは"正しくない"。正しくは、『郵便局には"直接"税金は投入されてない』というべきだ。

郵便局が4社に分割されて、事業としての郵便局が公開される様になった。その収益バランスは明らかに郵貯と簡保に偏っている。つまり、郵貯や簡保で集めたお金で国債を運用して、その収益の一部を郵便事業の運営に充てているのだ。だから、赤字でも郵便事業はやっていける。

税金はやっぱり使っていないから良いじゃないかという意見もあろう。しかし、国債償還の原資は税金だ。税金が間接的に郵便事業に使われているのだ。しかも、郵貯簡保と国債が挟まることによってロンダリングされて分からなくなってしまっている。

だから、郵便事業に税金が投入されていないというのは間違いなのだ。

とは言え、僕が郵政復活に反対なのは何もこんなごまかしが理由ではない。役目が終わった公共事業は整理されるべきだと思うからだ。ダム建設より、無用の箱モノより先に郵政を廃止して、民間企業に事業を払い下げれば良かったのだと思う。

2009年10月2日金曜日

地方再生のアイデア

地方経済が疲弊していると言われる。

「疲弊」と言っても具体的に何がどうなっているのかは曖昧だ。地方財政が逼迫しているというのは今に始まった話ではない。今まで潤沢に供給されてきた地方交付税が減額されたというが、そもそも自分の稼ぎではないのだから最初からアテにするものではない。つまり、地方財政なんてものはとっくの昔に破綻していたわけだ。

地方財政が破綻するのは税収が少ないからで、税収が少ないのは納税者が少ないからだ。人口が減れば納税者も減る。つまり、人がいないから地方経済は立ち行かないのだ。

地方は仕切りと都会に人が出ていくというが、稼ぎ口と使い所がないと人は集まらない。稼ぎ口は農業の機械化と減反で減る一方。使い所は数少ないとなればなかなか人は居つかない。公共工事で雇用を生んでも、消費をする場所がなければ工事が終わると皆金を持って都会に出ていってしまう。だから、公共工事は地方経済の活性化の役には立たないのだ。

例えば、公共工事と一緒にカジノなど「管理しやすい消費」を持ってくれば金は地方に残るが、地方競馬の閉鎖などを見るとそれも通用しなくなった。電話投票や場外は地方が公共工事で回していた金の循環を断ち切ってしまったわけだ。

ボーダーレスとは何も国境というボーダーだけを指しているのではない。自治体の境や都市と地方の境も消し去ってヒト・モノ・カネが最も効率的に働く様に促したのだ。だからといって、自治体だけで使える地域通貨みたいなものを流通させても、そんな使い辛い通貨なんてすぐに淘汰される。

そこで、根本的な質問をしてみよう。

「何故、地方経済を立て直さないといけないのか?」

他の例で言うならば、

「赤字の会社を銀行が何故救済しないといけないのか?」

放漫な経営や筋の悪い商品にこだわっている会社は救済されないし、救済してはいけない。そこで働く人にとって、ニーズのないものを売ったり作ったりすることはとてつもなくモチベーションが下がることだ。だから、働く人を解放する為にも先行きのない会社は潰れるべきだ。

ところが、先行きがない自治体には際限なく税金が投入される。資源もなく、産業を興す力もない自治体が淘汰されることはない。住人は先行きのない会社と同様にモチベーションを落とし堕落していく。自治体が潰れることがあっても良いのではないか?

平成の大合併は自治体の数を減らしたが、弱者連合が出来ただけで強く自活出来る自治体が出来た訳ではない。合併すれば補助金が貰えるということに釣られただけのことだ。

結局、自分の力で生きていないものは弱い。ならば、地方交付税を廃止してしまえばどうだろうか。まずは身の丈にあった自治体経営をしてみてはどうか。

交付税がなくなれば、自治体全域にサービス展開出来なくなるところも出てくるだろう。でも、サービス圏内に転居してもらえば良い。転居が嫌なら、一部のサービスは諦めてもらうしかない。でも、人口が集中して、各種の福祉サービスの効率が良くなれば、住みやすくなるし、人も増えよう。

そうやって、人の密度を高めれば、税金は安くなるし、コミュニティーも成長する。人の密度が高ければ、産業もおきる。

地方経済を再生するには、一度交付税を廃止して見捨ててみてはどうだろうか。その為には今の都市と地方の格差を縮めないといけない。一票あたり5倍近く地方が強い国政選挙の投票格差を解消しないといけない。

2009年9月29日火曜日

モラトリアムで起きることを予想してみる

亀井大臣が「3年程度のモラトリアムを立法化する」と気炎をはいている。かの大臣の暴走と思ったら、鳩山首相もモラトリアムを容認する主旨の発言を過去にしている。さて、このモラトリアムで起きることについて考えてみよう。

まず、企業の規模に応じて返済猶予の規模や期間が定められるだろうが、恐らくその企業の経営状態について明確な規定は出来ないだろう。仮に、過去の営業利益率や総資本経常利益率などに制限を加えるとすると、殆どがモラトリアムの必要がない企業しか残るまい。というのも、経営状態が一時的な環境悪化によって悪くなっていて、将来好転する可能性が分かっている企業に対しては金融機関が何も言わなくても返済猶予をしていく。返済を迫られるのは、環境やその企業自身の問題によって業績好転が期待できない企業に限った話だ。

なので、「中小企業でもこの苦境の乗り切れば再生できるのに返済を迫られて困っている」企業なんていうのはないのではないか。にも関わらず、この制度を立法化するとしたら、その法律の成立までの間に金融機関は追加融資を控えて回収を急ぐことになるだろう。そして新規の融資はしなくなる。だぶついた資金は手堅いところへの融資や国債などに回ってしまう。

いや、リスクが高い借り手でも貸すのが金融機関の社会的存在意義と言われても銀行は嫌がるだろう。例えば融資を続けてモラトリアムが適用されて、銀行自体の経営が立ち行かなくなったとき、政府が支援するというが、それは銀行に政府、つまり金融監督庁の介入を許すということになる。モラトリアムがなく、自らの判断で貸出先を査定していけば政府支援など受けずとも経営できるのが、モラトリアムがあるがために政府支援を受け入れないといけないというのでは本末転倒ではないか。

ならば、モラトリアムではなく期限付きの政府保証をすれば良いのではないか?政府が貸倒れの何割かを保証することにすれば良い。モラトリアムを借り手側の申告制にして、政府がその元本を保証するというのではどうだろう?

でも、銀行が手を引こうとする企業や事業に、景気が回復したからと言ってどれほどの回復力があるのかというのには疑問が残る。銀行の査定に任せて、倒産するものは倒産させてしまっても良いのではないだろうか?本当に必要とされる会社であれば、事業を引き継いでくれる会社は現れるはずで、それも現れないのは本当に倒産させてしまっても仕方がない。むしろ、従業員や経営者が新たな職を探す余裕をもって倒産してしまった方が良いと思う。逆に、それを跳ね返すだけの胆力がある会社であれば、心配せずとも支援を申し出てくれる金融機関は絶対にいる。

それでもモラトリアムをするとなれば、金融機関は更に貸し渋るだろうし、金融監督庁の業界支配は強くなるだろうし、銀行業界は亀井大臣に目こぼしをしてもらおうと付け届けをするだろうし、良いことは起きそうにない。