2009年7月24日金曜日

大手メディアが無視する法廷

医薬品ネット規制訴訟初公判、原告は「省令はネット潰し」と主張 -INTERNET Watch
http://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/20090714_302200.html

これほどの裁判を大手メディアが全く伝えないというのは驚きを通り越してあきれ返る。裁判長が『これは重大な憲法事件だ』と言っているように、行政が特定の業種や業態を狙い撃ちして規制し、その他の業態に便宜を図るというとてもあからさまな「自由資本主義の侵害」であると思う。行政が「国民の幸福に有害である」として規制を行うのは当然だが、今回の規制ではむしろ「国民の幸福を増大している」事業者が被害を受けているというのが問題だ。規制が想定したのは、「副作用や使用に制限が必要な医薬品の販売を規制して薬害被害者の発生を未然に防ぐ」というものだったようだが、そもそも「市販医薬」に重大な副作用をもたらすものは多くない。副作用が心配される医薬品の多くは「処方薬」であり、ネットはおろか大衆薬局ですら販売されていない。それを規制することで国民の安全をはかれたとは片腹痛い。

もっと腹が立つのは、メディアが全くと言っていいほど報道しないことだ。これは広告主であるチェーン薬局に配慮しているためではないだろうか。とすれば、この事件は大いにネット上の草の根運動で盛り上げないといけない。大手メディアが動かないのであれば、勝手連の記者がどんどん広めていくしかない。

平均的な大人は1日に3つ何かを忘れる - GIGAZINE

平均的な大人は1日に3つ何かを忘れる
http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20090724_forget_three_things/

えぇ。忘れますとも。しかも、結構大事なことから忘れます。そういうもんです。

2009年7月23日木曜日

「予算の作り方」を講義する

今日は仕事の終わりがけに予算の話しになった。予算見直しをしていて、その実務をしている人と上司の話し。

予算担当者:「前期実績が90万円の科目があるとして、今期の予算は念の為に100万円にしようという予算の作り方ではいけないのか?」
上司:「90万円の実績が150万円の予算に対するものであれば100万円だって評価出来るから状況による」
僕:「…(絶句)」

僕は経営企画部門に所属しているので上司や同僚がこういう考え方をしていると困る。そこで即席講座。

経営者の立場である経営企画部門の予算に対する態度は、当然のことながら経営者と同じでなければいけない。経営者が考える予算とは、積み上げではなく目標からの分解でなければいけない。仮に、経常利益を3億円だとする(経常利益のターゲットは総資産額や純資産、自己資本などで決まる)。事業ドメインのポテンシャルや自社の実力、経営者の思いなどで売上が150億とすると147億円が事業運営で使えるお金ということになる。

そのお金を「効率よく使う」様に分配するのが経営者の考えるべき予算だ。それには当然ながら変動費率や固定費の水準などの条件があるが、147億の使えるお金を何に重点を置き、何を削減して実現するかという経営者の意思を伝えるのが予算の役割だと思う。その枠の中で創意工夫を凝らし、時には経営者の目標を上回る予算を立案するのが事業担当者の責務となろう。

もちろん、積み上げた予算…というより「予定」あるいは「成り行き」は必要だ。予算と成り行きには差があるもので、その差を埋めるのがビジネスパーソンの仕事というべきだろう。両方ないと改善の為のモチベーションも出てこないが、経営企画部門であれば経営者の目標としての予算に責任を持たないといけない。

という話しを極簡単に話した。まあ、「会計システムなどの経営管理上の基幹システムの導入を業務現場からの吸い上げでやる」というのを「経営管理システムの導入はトップダウンでしか有り得ない」と話したばかりだから予算立案が積み上げ方式なのも当たり前ではある。これが経営の広い視野からの話が通用する様になれば、だいぶ変わっていくのだと思う。

2009年7月22日水曜日

機会均等神話

SAPIO 8/5 号 71ページの日本人のホコロビというコラムが面白かった。曰わく、「運命にはプラスもマイナスもあって、それに立ち向かっていくのが人間の逞しさであり、"努力"というものだ。」

コラムでは世襲議員のことが取り上げられていて、世襲議員にはプラスの運命がまとわりついて、その中での努力があり、それを落とすも落とさないも有権者の責任というのは同感だ。世襲があるから議員になれないと主張する人は、指摘されているように当選はしないだろう。世襲候補者が尻尾巻いて逃げるくらいの力量がない人が出来ることは高が知れている。

さて、世襲候補者は制限された。その内官僚出身も制限されるだろう。いっそのこと抽選にするか。世襲も癒着も官僚化も絶対おきない。世襲制限がバカバカしいと思う理由がここにある。

それよりも、もっとチャレンジし甲斐のある面白い世界に政治がなっていけば良いのだ。

予測せよ!

下期の予算見直しを行っている。何をどう予測するかというのが難しくもチャレンジングな作業だ。

企業には将来に対する根拠のある予測と、企業の求める結果が必要だ。予測と求められる結果の間に「何故、人が働くのか」の答えが横たわっている。予測をなぞるのであれば人は不要だ。予測を上回ることがビジネスなのだろう。

「根拠のある予測」というのは意外に出来てない。例えば前年同月比。去年と今年にどんな違いがあって比較しているのか不明だ。特に、今年の業績を前年同月比でやると、10月以降大変なことになる。

トレンドがどう動いているのかは結構長期に渡って推移を見ていかないといけない。でも精々去年止まり。予測をどういう根拠で算出するかということがもっと求められても良いと思う。というか、求めている。

日食を微かに見た

日食である。曇天である。期待してなかったが、雲の切れ間から綺麗に欠けた太陽が!太陽観察サングラスなんか不要。

いやあ、良かったo(^▽^)o

日食休み

今日は不思議なことに通勤電車が空いていた。学校が夏休みに入ったので、その影響かとも思ったが、昨日は平常通りだったので夏休みだからということでもなさそうだ。すると、日食休みか。

残念なことに悪天候で首都圏では日食は見れそうにない。奄美やトカラ列島も雨らしく、世紀のイベントを楽しめる人は外洋でクルージングする一部の人だけになりそうだ。

日食を毎回見に行っているという人の話を聞いたことがあるが、本当に好きな人は見れないことがあるということをわきまえているという。だが、俄か日食ファンは折角休みをとったのにと不満を募らせそうだ。普段は人もまばらな奄美やトカラで、無用な事件が起こらなければ良いと思う。

2009年7月21日火曜日

賢い消費に踊らない

日経新聞で「賢い消費」についての特集が連載されている。金融危機や所得の減少、ニーズの変化によって消費者が「買うより借りる」「低価格指向」「奢侈品買い控え」などをして消費市場が萎んでいるというのだ。さて…。

個人的には生活に大きな変化はない。家を買ったのはリーマンショックが覚めやらぬ去年の12月。当然新居で使う家具も買ったが、「安くより長く」がモットーで結構な価格だった。僕が特別な訳ではなく同じ時期に家を買った知り合いが一人はいる。さて、必須でも小さくもない買い物をするモチベーションはまだまだ残っているのだ。

消費が小さくなっているのは単に消費者の数が減っているということではないか。国内市場は需要より供給が大きくなっているのだ。価格が下がるのは当然で、供給過多が消費者の選択肢と商品の情報を増やしている。

需要を増やすのは基本的には労働者人口を増やさないといけなくて、残念なことに少子化によってそう簡単には増えない構造になっている。だから、ドメスティックに限れば市場の縮小に如何にアジャストするかは重要なので、日経新聞の様な特集になる。しかし、思い切り考え直せば、ドメスティックを捨てて海外に活路を見いだすべきだと思う。まあ、ドメスティックな新聞の特集にそこまでは求めようもないが。

価値観で投票する

混迷を極めた国会が解散した。正確には衆議院が解散した。「政権交代」とか、新党旗揚げとか、色々取り沙汰されている。選挙公示までの1ヶ月は政治評論家とか、選挙専門家とかがメディアで活躍しそうだ。

さて、自民党では「解党的」出直し選挙と言っているそうだ。思い出せば十数年前、新党ブームに押されて自民党が野党に転落した時に、少なくとも2年くらい野党であったとしたら、非自民党勢力の与党精神の醸成など二大政党への素地が形成されたことだろう。結果的に非自民党勢力の混乱に自民党が漬け込んで復活することとなった。

この頃からしきりに「政策」を戦わせるという言い方が蔓延した。二大政党が基本的な政策を訴えて、有権者に選択して貰うというのだ。所謂マニフェスト選挙といったもの。この動きに違和感をずっと抱えていた。

違和感の一つはマニフェストなどと膨大な情報を有権者が正確に理解し意思を示すという綺麗事加減だ。確かにマニフェストを理解し投票するのは国民の義務という主張は成り立つ。だが、投票自体は義務であっても、その依ってたつところは有権者の自由ではなかろうか。マニフェスト以外にも有権者の判断基準は多様で良かろう。

もう一つの違和感は、我々は何のためにどういう人を選ぼうというのだろうか?ということだ。国会議員のことを「代議士」という。「代理で議論をする人(士)」ということだ。つまり、自分の代理を選んでいるわけだ。

自分に成り代わって国政を議論する人を選ぶということは、決して政策を立案したり実行する人を選ぶというのではない。官僚や民間が提案するアイデアを議論し、有権者の判断を法案に反映させるのが代議士の仕事ではないか。それなのにマニフェストには具体的な法案や政策が盛り込まれていて、必ずしも私の代表を選ぶために必要な政治哲学とか理念が書かれていない。つまり、価値観が分からない相手を自分の分身として選ぶのは無理があると思うのだ。

衆議院選挙の候補者はマニフェストとか具体的な政策にあまり言及せずに、もっと価値観をさらけ出して欲しい。自分の理想とする未来とか、好きなもの嫌いなもの。信条や情熱といったものを教えて欲しいと思う。