2009年3月13日金曜日

物語の中で生きる世界経済

SAPIOで「アメリカのドル廃止」「アメリカの金本位制復帰」「アメロ発行」「日本でペイオフ発動」など物騒な話題が取り上げられていた。それぞれの記事にはある程度の妥当性がありそうな気もするが、どうだろうか?SAPIOは陰謀好きで政治思想的には保守的だが、経済記事は極端に悲観的で時々あれっ?と思う。

今回の記事も極端に危機を煽り、国民の関心を呼び起こそうという意図があるのだろう。しかし、これらの記事には本当に起きるのか?リスクがあるのかと首を傾げたくなるものも多い。

とはいえ、それほど世界経済が、とりわけアメリカ経済が追い詰められているのも確かだ。ただ、記事にある様な政策が仮にとられたとしたら、間違いなく国際的な紛争が発生するだろう。1920年代の大恐慌が世界中の国々の経済に打撃を与え、それによって資源争奪戦が始まり、世界戦争に至ったことを考えると、とても良い選択とは言えない。

すると、世界経済はこのまま崩壊に向かうのだろうか?それよりも、世界の国々がアメリカドルに信任を与えることが発生するかもしれない。もちろん、ドルの本質的な価値はなくなるだろうが、世界中がよってたかってドルに価値をつけて"ドル経済"物語を続けさせるかもしれない。

経済は実体より大きくなっている。しかし、実体の大きさに戻るには先進国はもとより新興国にも辛いことだろう。"裸の王様"のごとく、アメリカをピエロにして経済を支える選択をするのではないだろうか。

現代の多くの国の経済が密接かつ複雑に絡まっている状況で、自己保身によって"都合の良いドル"を使い続けるという選択はあると思う。

2009年3月11日水曜日

合意プロセスの合意

先日、社内のある会合で、そのチームの名称を決めるというアクティビティを行った。
最初に参加者5人が一つずつ案を発表し、それから投票によって決めた。この時に僕は敢えて"どうやって投票するか"を議論するようにした。結果的に一人二票ずつを無記名投票して決定した。

なぜ敢えて投票方法を議論したのか。これは合意プロセスを最初に合意するということの重要性を感じたかったからだ。

どんな話し合いでも、最終的に"合意する"ことが目的だ。ところが、いきなり本題に入りある程度内容が煮詰まったところで、「全員が賛成しなければ合意出来ない」とか「彼我の規模が違うのだから、条件が必要」といった話が出てきて合意に至らなくなるケースがある。今まで話に出てこなかった条件を持ち出されるようなこともある。
これは最初に合意プロセスを合意しておかなかったことに起因する。システム提案の場面や営業交渉の場面でよく発生する。

この様な交渉の場面では、互いに交渉スタイルが分からないものだから、有利に交渉を運ぶために情報は隠されがちになる。しかし合意プロセスをお互いに理解すれば、その疑心暗鬼を軽減することが出来る。

例えば、
�交渉を始める前提条件の確認
�交渉の順番
�合意内容のオーソライズ方法
などを合意すれば交渉や話し合いもスムーズに進むだろう。

励ましの眼差しを向けつつ、他者の才能を見抜き、全員が賞賛するようその才能を支持しよう。

デイル・ドーテンの「笑って仕事をしてますか?」より

"励ましの眼差しを向けつつ、他者の才能を見抜き、全員が賞賛するようその才能を支持しよう。"

"認める"ということなのだと思う。認めるために、人の(部下の、同僚の、上司の)やることをしっかりと見なければならない。他人を観察するということは皆あまり出来ていないのではないだろうか。

昔、初めて管理職になった時に上司から言われたことがある。「1日のうち5分間だけ一人の部下のことを考えろ」。部下が5人いれば一週間で全員のことを考える時間が出来る。ところが、いざ考えようと思っても部下のことがすぐに思い浮かぶだろうか。全員のことを考えられるというのは案外難しい。
部下の中には苦手であったりして考えが及ばないこともある。ましてや、長所短所などと言われるとサッパリ思い浮かばないことも。

思いの外、部下を観察していなかったことに思いあたる。

観察しても、その部下の才能を見抜くことは出来るか。観察にも、ただ単に現状を観察するのと反応を観察するのがある。反応を観察するには条件を変えないといけない。つまり、課題を与えたり、違うミッションを与えたりすることだ。
チャレンジに遭遇すると人は様々な反応を示す。この時に長所や短所が出てくる。同じことを長年させるのは、もしかしたらその人の才能をスポイルすることになるのかもしれない。

観察し、才能を見つけるためにも、やらなければいけないことは沢山ある。

2009年3月10日火曜日

山崎拓の「独裁者」発言

山崎拓氏が小泉純一郎元首相と小沢一郎民主党代表を「金正日と同じ年で"独裁者"だ」と言ったそうだ。小泉氏が今年政治家を引退し、小沢氏も政治生命が危ぶまれるなかで、両者の引退が55年体制の終焉となるといった主旨のことを言ったらしい。加藤紘一議員もこの発言に合わせて、小泉批判、小沢批判を展開したのだとか。

小泉氏も小沢氏も、金正日と並んで"独裁者"と指弾される謂われはない。そもそも、公正な普通選挙で選出され、それぞれの所属政党で多くの賛同者によって代表や総裁となり、総理大臣となった人物と、公正な選挙もなく、血統によって世襲しただけの人物を同列に扱うのはおかしい。
小泉氏や小沢氏が総理総裁や代表になってから十分な"コンセンサス"を取らずに政府運営を行ったり、政党運営を行うのは組織運営の手法の問題であり、それは個性なのだから批判には値しない。
特に、小泉氏の派閥を無視した組閣や政策決定、民間人の多用など、従来の自民党政府の組閣プロセスや政策決定プロセスと違うことが前々から不満だったのだろうが、自身に政治的な"力"が無かったというだけのことで、相談が無かったから相手を独裁者と非難するのはおかしい。
山崎氏と加藤氏は小泉元首相と並んで"YKK"とライバル視されたこともあったが、山崎氏は度重なるスキャンダルで、加藤氏は"加藤の乱"でリーダーとしての欠陥を露わにして、もはや政治生命は終わった様に思う。

ましてや、日本の民主主義の根幹である選挙によって選ばれた議員を独裁者と非難するとは…。

山崎氏と加藤氏こそ政界から身を引いた方が良いと思うのだが。

2009年3月9日月曜日

恐怖の文化

「ゆとりの法則〜誰も書かなかったプロジェクト管理の誤解」トム・デマルコ著より

デマルコは「恐怖の文化」というものを取り上げている。デマルコは名作「薔薇の名前」を例に出してキリスト教文化に根ざした恐怖を説明するが、次の文章はこの恐怖の文化が決して特定宗教固有のものではなく普遍性があると思わせる。曰く、

「恐怖の文化をもつ組織には、次のような特徴がある。

1.口に出しては危険なことがある(「このノルマを達成できるとはとうてい思えない」など)。それが真実であっても、言い訳にならない。
2.それどころか、その懸念が的中した場合、上層部の虫のいい願望がかなわなかった原因はあなたにあることになる。
3.ほとんど達成する見込みのないような強気の目標が設定される。
4.権力が常識に勝る。
5.服従しない者は罵倒され、おとしめられることがある。
6.全体として、能力のない人より能力のある人の方がクビを切られる。
7.生き残った管理者は特に怒っている。だれもが彼らとすれ違うのを恐れている。」

これが「恐怖の文化」であるとしたら、多くの組織は恐怖の文化に支配されている。

このリストの中で見た目で直ぐに分かるのは7.の項目である。管理職がイライラしていたり、部下を叱り飛ばしているのであれば、彼は恐怖によってその"場"や部下を支配しようとしている。でも、恐怖の文化の恐ろしさは1.にあると思う。つまり、「誰もが正直さや誠実さを忘れる」。

正直さや誠実さ、率直さは「宝」である。しかし、このリストが教えてくれるのは、組織では得てして「率直さ」が迫害されるということだ。「王様の耳はロバの耳」とか「王様が裸で歩いている」と言えない組織は事実によって動くことが出来ない。空虚な「願望」によって動く。

もちろん願望は努力によって現実化することがあるので、願望自体を非難はしない。しかし、現実を見据えた上で願望を言い、現実とのギャップを埋めようとする態度と願望だけを追い求める態度は違うものであろう。だから、現実を指摘する率直さは決して非難されてはいけない。