2011年5月3日火曜日

アメリカの“正義”

池田信夫氏のブログ記事「「テロとの戦い」とは何だったのか」http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51704144.htmlのコメントでikedfさんが次の様に書いている。

「「日本人ひとりひとりは礼儀正しいが集団となると恐ろしさを感じる」と言う外国人がいるが、アメリカ人に対してもときどき同様なものを感じる。」

アメリカ人に感じる畏怖は彼らが伝統の背景が希薄な人工国家であることと無縁ではない。アメリカには「建国の精神」なるものがある。それはキリスト教の原理主義的な部分から生み出されたもので、元々は建国時の有力者達が民衆をまとめる為に便宜的に編み出したものだろう。その理念があってこそ、アメリカは国家の体を成し得た。

しかし、この理念は非常に排他的な側面があり、非妥協的でもある。その事が決して有利ではなかったイギリスとの戦いを最後まで戦い抜く原動力となったのだろう。一方で非妥協的な理念は常に敵を必要とした。理念を浸透させる為には、敵を作って分かりやすい構図を用意すれば良い。

イギリス、スペイン、内戦を経て日本やソ連と移り、今では「テロリズム」という"行為"が敵となった。何らかの主体ではなく行為を敵とするならば、その戦いは果てしない。この曖昧模糊とした戦いに熱狂する国民をみた時に怖さを感じるのだ。

池田氏が言うように、この様な熱狂はいずれは冷めてベトナム戦争の時の様に反省がなされるのだろう。しかし、これはまた繰り返されることになると思う。ある意味、伝統を背景に持たないアメリカの"伝統"と言えるものだからだ。

2011年5月1日日曜日

戦時体制の爪痕

5月1日付けの日経新聞朝刊のコラム「春秋」に電力王と呼ばれた松永安左エ門のことが紹介されていた。民間資本による電力産業の発展を追い求めた松永。九州から駆け登り政財界から"王"と言わしめた理想を壊したのは"緊急事態"を盾にした戦中の統制経済と戦後のGHQによる分割だ。

戦中は「経済界の戦時体制への協力」を盾に自由競争を制限して数々の産業で合併を強制し、戦後は経済界が戦争に協力したとして会社を取り上げた。GHQに巣食っていたコミュニストにとって理想的な"無主の企業"が登場した。それは「ガバナンスの欠如」と同義だったわけだ。

今、盛んに東電処理で"国有化"が言われている。国有化が市場価格以上での株式の買い取りを意味するのであれば反対だ。東電を倒産させて〜100%減資させて政府がスポンサーとなって再生するならば良い。実際にはスポンサーになるのも政府とその他の企業が入札して争うべきだろう。

本当に東電が賠償を賄い切れないなら倒産すべきだし、その再生は自信を持って遂行出来る人に任せるべきだろう。