2010年12月29日水曜日

日航労組の「整理解雇無効訴訟」を支持しないワケ

日航が人員整理に「奥の手」整理解雇を実行する。200人の整理解雇対象者のうち、希望退職に応じたのはわずかに30人。170人が整理解雇となった。これに対してパイロットと客室乗務員の労組は訴訟を起こすという。

破綻企業が税金で再生するにあたって解雇出来ないでは、また倒産に至るだろう。国内線にせよ、国際線にせよ、需要より多い路線は経営を圧迫した。再生計画が路線縮小を求めているのは収入と支出のバランスを考えると当然だ。路線縮小は飛行機の削減であり、そこにあるパイロットと客室乗務員の仕事の減少だ。

人が余った場合、多角化企業であれば他の職場や新規事業に吸収出来るかもしれない。しかし、日航は他に200人もの労働需要がない。また、客室乗務員はまだしも、専門職であるパイロットは職場を代わることが難しい。

パイロットにせよ、客室乗務員にせよ、日航という枠を外して見回せば再就職は可能だ。スカイマークなどの新興会社やLCCは人手が不足している。問題は待遇だろう。

スカイマークのパイロットの年収は日航の半分だという。LCCも似たようなものだろう。これはパイロットという職業が成熟して普通の仕事になったということだ。今までよりも低い報酬に甘んじることを良しとするかどうかだ。

整理解雇されるパイロットや客室乗務員は発想を変えた方が良い。これから日本向け航路を開発するLCCは絶対増える。日本の空港を知るパイロットは必要とされるだろう。収入は落ちるだろうが、思い切ってLCCの母国であるアジアの国に移住すれば良い。生活レベルは維持できる。

似たようなことは多くの日本企業にも言える。行き詰まった会社に身動き出来ない従業員がいるのだ。大企業の従業員なら中小企業に、都市部の企業から地方に行くことで生活レベルを維持した上で、より高いレベルの企業で身につけたノウハウを活かして活躍出来る。

2010年12月20日月曜日

官僚制は身近に存在する

民主党のスローガンのひとつは「脱官僚」だった。しかし、官僚制の研究が示しているのは「民主主義の未成熟の結果としての官僚依存」である。すなわち、「官僚を統治する制度としての民主主義の未成熟」が指摘されているわけだ。かつて牛尾電機の牛尾会長が小泉内閣への入閣を請われた時に、「娘が"朱に交われば赤くなる"から政治家にはならないで」と言われて辞退した様に、選挙や政治任用によって優秀な人が政治に参加するのではなく、政治家が"必要悪"とばかりに優秀な人が敬遠する職業となっているのは、国民が国家経営を敬遠するのと同義で、民度が低いと言われても仕方がないだろう。

会社でも同じことで、従業員が経営者にオンブにダッコでは本当に働いているとは言えない気がする。経営者が様々な事情で弱っている会社はたくさんある。その場合にも会社が機能するのは官僚制が敷かれているからだ。危機にあって官僚制が一時しのぎに機能した会社は、延命に役立った官僚制によって滅亡に向かう。官僚制は自己肥大を招くので会社の危機と関係なく組織が大きくなる。危機にあってリストラで組織縮小を図ろうにも細分化された仕事を盾に改善が行われない。

官僚制の打開には組織を粉々にするしかない。血を入れかえて官僚制を排したマネジメントを再構築するのだ。ただし、解雇規制が強く多様な事業展開をしていない中小企業では難しい。血を排出出来ないのでリストラが業績につながり難い。

そう考えると事業再生のオプションって本当に限られている。

2010年12月1日水曜日

エコポイントと地デジで国内テレビ製造業は完全に崩壊するだろう。

テレビの11月一ヶ月の販売台数が600万台を突破したという。単月では過去最高らしいが、今後を考えると明るい話題でもない。この売れ行きは12月から"エコポイント"が半減することを見越したものというが、明らかに買い替えサイクルを越えたものであるので、今後は急激に売れ行きが鈍ることが予想される。

更に、来年の地デジ完全移行の直前にも買い替えが行なわれるだろうが、それ移行はテレビは売れなくなるだろう。数年分の買い替え需要が先食いされた格好なので、数年間は売れない。3Dテレビは地上波放送が全て3Dにでもならない限り売れないだろうし、地デジ対応で投資が嵩んだテレビ局が投資することはないだろう。3Dは映画館業界のカンフル剤というところだろうか。

売れないということは製造のための投資が行われなくなる。開発も細り、イノベーションも起きにくくなる。振興国をはじめとする海外は、ひとつは海外の価格競争力のあるメーカーとの競争には勝てないだろう。加えて、日本で大量に発生した中古アナログテレビが振興国の需要を吸収し、新品の販売余地はドンドン少なくなる。

政府の産業への強い関与や規制がその産業を結果的に潰してしまう好例となるのではないだろうか。

2010年11月26日金曜日

それは首相が学級委員だからだよ

みんなの党の山内康一が菅首相が全閣僚を自衛隊の訓練期間中、在京させる決定をしたことを批判していた。

確かに国防と無縁の閣僚まで在京させる意味はない。しかし、日本の内閣制度の運用では、総理大臣は天皇陛下に任命された国務大臣の筆頭に過ぎず、重要な決済は全閣僚の同意を必要とする。その為、今回の様に有事が発生する可能性が高いと全閣僚を在京させてないと自衛隊出動も決定出来ない。重要なのは、全閣僚のうち唯一選挙によって選ばれた総理大臣の権限が、その総理大臣が選んだ大臣と同程度であるということだ。

職掌範囲でもないことを全会一致にすることで、責任の所在が不明確になり、主体性がなくなっていく。学級会民主主義とはよく言ったものだ。国務大臣が職掌以外に権限を持たず、担当大臣と総理大臣の間で決定出来れば、普天間問題で福島みずほが反対しても問題なかった。あれで罷免しなくてはいけなくなった。国民新党が閣僚を一人出して大きな顔をすることもなかった。

内閣制度を変えないとどうしようもないみたいだ。

2010年11月1日月曜日

内閣支持率急落は当然だ

日経新聞とテレビ東京の世論調査で菅内閣の支持率が40%に急落した。前回が70%超だったので急落ぶりが凄い。しかし、考えて見れば当然だ。

菅内閣の支持率は発足当初は小沢切りなどが評価されて70近い支持を得た。しかし、その後の政権運営で菅首相の指導力が見えなかったことから支持率は低下した。そこで菅首相がやったのは新しい政策実現ではなく、民主党代表選挙という内輪の争いだった。この選挙の間、実に二ヶ月に渡って政治は停滞した。

その代表選挙に菅首相が勝利すると支持率が50%くらいからはねあがった。しかし、菅首相はこの間に国民のための意思決定を何もしていない。何もしてないのに評価だけが上がるのを「バブル」という。そしてバブルは簡単に弾けるものだ。世論調査も代表選挙期間中を"異常値"として取り除けば、菅内閣の支持率は一貫して下落しているのが分かる。簡単に言えば、期待されていた菅首相は一貫して失望の的になり続けているということだ。

2010年10月28日木曜日

貸金業規制の欺瞞

「年収の三分の一を越える貸し出しは出来ません(住宅ローン、自動車ローンを除きます)」という規制のなんと欺瞞に満ちていることか。

何故、住宅や自動車のローンが除外されるのか?そもそも何のための規制なのか?

規制の原点は「多重債務者」にあったろう。無理な貸し付けと借り替えで借金まみれになった人を救済するという。だが、そうなった人には破産を選ぶことも出来る。数年間の不便な暮らしを甘受すれば良い。

グレー金利はそもそも最低金利が低すぎたことに理由がある。グレー金利が違法ギリギリだったために暴力団などの不法者につけこむ隙を与えた。第一、借金をして生活レベルを上げてその返済をモチベーションに頑張るということが考えられない人はよっぽど豊かな階層の人だ。

建築基準法に続く規制強化法案。建築〜に続く官製不況の原因となるのは間違いない。

靖国合祀が戦争被害者を加害者にしたてるという変な理論

那覇地裁に訴えられていた「靖国合祀取り消し訴訟」は敗訴となり原告が控訴することとなった。

あまり強い関心があるわけではないが、原告弁護団の次の言葉に引っかかった。

「神社の無断合祀を認めることで、戦争被害者が加害者と同列に置かれる。」

恐らく所謂"A級戦犯"を指して加害者と言っているのだろう。そして、戦死者は被害者なのだと。

国家間の戦争において、一方の国内に戦争の加害者と被害者がいるというのは可笑しな話だ。封建国家で国民の意思と政府が無関係であれば戦争において両者は対立するかもしれないが、日本の様に選挙によって選ばれた政府の決定には国民が連帯して責任を負うべきだろう。敗戦の責任は追求されるべきだろうが、戦争したこと自体にあの時代に加害者も被害者もない。

軍部が力を持っていたので誰も反抗出来なかったというのはあり得ない。戦時中に東條英機は退陣し、終戦を無役で迎えたのが日本に独裁体制がなかったことを示している。なら、何故あの戦争が止まらなかったのか。ひとつには欧米列強に外交舞台で追い込まれたこと。もう一つは日清・日露・第一次世界大戦と続けて勝者になったことで国民を含めて驕っていたのだ。

世界で同盟国は僅かに二ヶ国。ほとんど"世界"を相手に戦ったに等しい。その戦争を生き残るため、誇りのため、家族のために戦ったのは国民自身だ。政府や軍はその指揮者の役割を演じただけだ。

だから、私たちは自分の父祖が、この幸せな時代のためな戦ったと誇って良い。その父祖を勝たせるために政府と軍が指揮したということだ。決して政府と軍が私利私欲の為に国民を追い立てたのではない。平安の御代から軍人は平時に遠ざけられる損な職業だ。

戦争は避けうるものだし、外交手段としては奥の手だ。その最後の切札を安易に切りまくったことは批判されても良いが、所謂"A級"戦犯が加害者という考えに私は与しない。

2010年10月26日火曜日

相続税増税が格差是正につながると真剣に考えている人がいた

ちょっと古い話だが、原稿が塩漬けになっていたのであしからず。

しばらく覗いていなかったが、久しぶりに見てみるとこんなテーマを取り上げていた。

「相続税上げ階級固定化防ごう」
http://mainichi.jp/select/biz/katsuma/crosstalk/2010/01/post-35.html

噴飯モノである。
切っ掛けは鳩山首相が母親から貰っていた「お小遣い」であるようだ。
それと世襲議員についても言及していた。
よっぽど「世襲」が嫌いらしい。

相続税をあげても鳩山首相のような脱税はなくならない。
むしろ、より水面下に沈み込み、ただでさえ低い相続税の捕捉率が下がるかもしれない。
「階級」ということをしきりに言うが、日本に諸外国のような極端な階級格差はない。

ブリジストンの創業者だって貴族の出身ではない。
今の多くの資産家が戦後の復興のなかで苦労して資産形成した。
それを国が取り上げるというのはどうだろうか?

それより相続税を安くしてはどうか?
鳩山首相でなくとも老人が資産を持ち、その子や孫が経済的に苦労しているということはある。
相続税や贈与税があるため老人が墓場にもっていく資産がなんと多いことか。
それが安くなれば生前に相続をしてしまって、子や孫が消費を活発化させるだろう。

今の不景気の一つに「年功序列や高度成長期型の年金制度設計」によって後払い消費が減退していることにあると思う。
高度経済成長期に薄給で将来の見返りを期待して苦労して働いていた人たちがいざ資産を手にし、年金をもらっても消費意欲がなくなっているのだからそのお金は塩漬けになっている。
そのお金を消費意欲が旺盛な若年層に回せばよい。
一つは贈与や相続。一つは福祉サービスだ。

福祉サービスによって高齢者が世話をしてくれる若年者にお金を支払うのはとても良いことだ。
しかし、「高齢者」=「弱者」という硬直した考え方が福祉サービスを十分な見返りのあるビジネスにすることを阻害している。
これは医療サービスも一緒だ。

では、本当の弱者は誰か?と言えば、規制によって薄給で福祉サービスや医療サービスに携わっている若者達だ。
その若者達に金余りの老人の富を移転するべきだ。
それは徴税と支給ではなく、ビジネスを通して図られるべきだと思う。

2010年10月19日火曜日

仙石氏の真意がボロボロ暴露

参院の決算委員会で自民党の丸山議員によって尖閣問題への対応について仙石官房長官が中国を意識して釈放に関与したのではないかという疑いがなお一層濃くなってきた。丸山氏は仙石氏との遣り取りを以下の様に再現した。

丸山氏「判決まで拘置して強制送還すべきだった」
仙谷氏「APECが吹き飛んでしまう」
丸山氏「日本が中国の属国になる」
仙石氏「属国化は今に始まったことではない」

前段の遣り取りでは仙石氏がAPECを守るために検察に関与して釈放させたことが窺われる。つまり「APECが吹き飛んでしまうので検察に起訴まで強行させないで処分保留で釈放させた」ということだ。更に後段の属国化が「これまでもアメリカの属国化していたのだから、中国の属国と化すことに何の問題があろうか」という意味であれば仙石氏は思い違いをしている。アメリカは確かに日本を使い立てしてきたが、良くも悪くも民主政体であるから対等の同盟条件を整えることが出来る。しかし、中国のような非民主的な政権との同盟関係は、特に日本のように非武装の丸腰では、あっという間に占領の対象になってしまう。徳川家康がなし崩しに大阪城の堀を埋め立てたように、硬軟織り交ぜてなし崩しに軍隊の駐留などをしてくることは容易に考えられる。

仙石氏は「何らかのことを友人関係で話したとすれば、国会で質問されるのは不本意だ」と言っていて、丸山氏の電話には出ないといったようなことを言っているが、これは丸山氏が言ったことを認めたと同じだ。事ほど然様に我が国の内閣官房長官は「脇が甘い」。先日の現役官僚の国会証言に対して「彼の将来を傷つける」と恫喝するなど、ある意味仙石氏は正直な人なのだろうと思う。ホンネがポロリと漏れまくってしまう。

そのホンネがちょっとヤバイ。司法の独立を堂々と蔑ろにする様な尖閣問題処理、中国の属国化も已む無しと考える政治哲学(彼は何を優先しているのか?)、自分の意に染まない発言をした官僚を恫喝する態度のいずれも政府No.2としての見識に欠けると思うのだがどうだろうか?

政治倫理審査会って真面目に制度設計されたのか?

日経新聞に「政治倫理審査会」の流れが図式化されていた。この制度を考えた人は相当不真面目な人だと思う。

まず、審査会開催の申し立てが委員にしか出来ない。しかも委員の三分の一以上が一緒に申し立てないといけないという。更に申し立て人には委員長を含まないといけない。

民主党が与党であるため、委員長は民主党議員だし、委員の三分の二以上が民主党議員になっている。これでは民主党議員を対象とした審査会は絶対開かれない。ましてや小沢一郎だ。

仮に申し立てたとしても審査対象者本人には審査会に出席する義務がない。審査対象者が出席しない審査会など普通の会議にすぎない。いや、座談会か?

まず、申し立て人を有権者全員にするべきだ。一定以上の申し立てがあれば開催し、出席を義務化する。罰則も設ける。というか、倫理を審査するのであれば、政治家の持つべき倫理とは何かについてもっと議論しなければいけない。

もっと意味のある制度にして欲しい。身内の制度でこの体たらく。彼らが作る政策や制度の程度が知れる。

2010年10月10日日曜日

小沢一郎強制起訴は司法のあり方を変えるターニングポイントになるだろうか?

小沢一郎が検察審査会による決定で強制起訴になったことは政界、司法界、論壇で話題を呼んでいる。小沢一郎が離党や議員辞職を拒否したことも様々な議論を招くネタとなった。しかし、たかだか経済事犯の疑いによる起訴にみんな騒ぎすぎではないだろうか。

確かに、小沢一郎ほどの世俗的権威を持っている人が疑いをかけられるのは良い事ではない。しかし、ただ通勤電車に乗っているだけで痴漢の嫌疑をかけられる現代社会にあって、社会的地位がある人ほど犯罪に関わってしまうものだろう。ただ、これまでは如何に嫌疑があろうとも、確実な証拠でもない限り起訴されなかった。特に政治家などはよっぽどの場合でなければ裁判の場には出てこない。

「李下に冠を正さず」と言うが、さらには「正しても裁かれなければ良い」とでも言うが如く、法廷に上ることが徹底的に「恥」とされている様に思う。だが、司法に関わるものが人間である以上、「間違い」は避けられない。「間違って起訴される」ことも「間違って起訴されない」こともある。だから、裁判の結果無罪になることがあるわけだ。

裁判における「有罪率」は99%に上るが、それは検察が完璧な捜査をして起訴したというよりも、判事が有罪を疑う可能性がある事案は起訴しなかっただけだ。なにがしかの事案に対し、100%許されないというものから100%許されると判断されるものまであるとして、何%許されないことに対して有罪を申し渡すかは、その社会の規範による。その規範は時代により変わっていくので、適度に修正されないといけない。裁判員制度はその修正を促すものだ。

今までの日本の裁判では有罪/無罪の判断を実質的に検察が行い、量刑を判例に照らして判事が行う。弁護士は有罪を前提として情状酌量による減刑を勝ち取る技術を期待される。

しかし、仮に事実認定は別にして事実に対する有罪/無罪の判断が「市民」に委ねられるとすれば、裁判を通して市民に犯罪に対する規範が共有されるきっかけとなるかもしれない。それによって法曹人に期待されることは大分変わってくるだろう。

2010年9月15日水曜日

民主党代表選挙に関するイロイロな意見について

参院選の後の、日本経済が円高と株安で打撃を受ける中、国会を開会せずに党内抗争に明け暮れた菅政権の1stシーズンが終わった。最終回に代表選挙勝利で締めるあたり、ドラマとしての出来もなかなかのもの。代表選挙が明けてネットでも色んな意見が被歴されている。その幾つかをいじってみよう。

「事実上の首相公選」

民主党代表選挙が与党であるからと首相公選に比するのは言い過ぎだろう。ならば自民党の過去の党首選挙は殆どが首相公選と同等と言えるのか?実際には党代表や党首を選べるのは党員のみである。そして、私的な政治集団である政党の代表者は必ずしも"民主的"に選ばれる必要はない。

公選に対して私選は「構成員の恣意」が許される。その選挙が首相公選と同等というのは言い過ぎだろう。これを拡大解釈すれば、共産党の"恣意的に"選ばれた代表者が国家元首となる隣国やその向こうの大国も"民主的"と強弁出来てしまう。

「総取り方式の党員サポーター票は結果ほど得票差はない」

これは小沢シンパのブログで見かけた。投票後に総取り方式になったワケではあるまい。その方式への対応を含めての代表選挙なのだから、恨みがましいというものだ。これと同様に、

「菅首相が勝ったのではなく、小沢一郎に対する世論の反発に負けただけ」
「菅首相を小沢一郎に対する批判票で勝ったので支持されたワケではない」

という意見もあった。これは菅首相を民主党に、小沢一郎を自民党に変えると昨年までの選挙結果についての説明になる。確かに"消極的"な選択としての菅首相であり、民主党であった。かと言って、だから選挙で勝った菅首相や民主党がないがしろにされてはいけない。ルールに則っての結果を尊重する前提がなければ、そもそも選挙方式にする意味はない。ならば有力者が話し合いで決めるべきだろう。

結果ほど得票差がないのは確かだが、得票差の程度が問題なのではなく、得票差があることが重大だ。一票でも多く票を得たものが勝利者であることが選挙のルールであり、勝負においては勝つか負けるかで中間はない。代表の座が一つしかない以上、得票でも菅首相が勝ったことが大切なことなのだ。

先の投稿でも書いた様に小沢一郎が選挙に強いというのは幻想で、実際には敗けが遥かに多い。だから、今回の結果の理由は「小沢一郎が選挙に弱かったから」としても良いのではないだろうか?

民主党代表選挙

呆れるほど、呆気なく、菅首相圧勝となりました。

イロイロ理由はあるでしょうが、結果的に「小沢一郎は選挙に弱い」ということが明らかになった選挙でした。

小沢一郎が選挙に強いというのは"都市伝説"の類いです。自民党幹事長だった時に衆院選を勝利に導いたのは彼の力というよりは当時師事していた金丸氏の力によるものでした。自民党を離党してからも、先の参院選に勝つまでは負けっぱなし。

更に、党内抗争にはからっきしなのが小沢一郎です。自民党を離党したのも竹下派の主導権争いに負けた結果で、離党後も民主党に落ち着くまでは度々解党に至るほど、内部抗争に弱いのです。

好対照なのが小泉純一郎で、彼は度々党首選挙に挑み敗れても干されることはなく、かの"加藤の乱"を工作して失敗に終わらせ、最後は近年久しく無かった長期政権を成立させました。圧巻は郵政選挙での圧勝。自民党VS民主党ではなく、自民党内の改革派VS守旧派という構図にすることで民主党の存在感を希薄にさせました。

そう考えると民主党、自民党ともに"ポスト小泉"への脱皮を果す人材に欠けているということではないでしょうか。

2010年9月11日土曜日

KARAを見ていて気づいたこと

雑誌で最近人気のアイドルを眺めていて、AKB48とKARAを比べて気づいたことがあった。KARAはAKB48に比べると全員同じ印象を受ける。よく見てみると、その答えは"鼻"だと気づいた。

そう。KARAはメンバー全員が同じ様な鼻の形をしているのだ。AKB48と見比べてみれば明らかだ。そして、韓国系のタレントの印象が同じなのも理由は一緒だと思う。

噂を再確認した一日。

2010年9月7日火曜日

買う“中国”と怯える“日本”

最近、鉱業資源から天然資源まで中国が"買い漁って"いるという話題が度々メディアに登場する。中国では共産党幹部によるトップ商談が激しく、日本の政財界でも関係閣僚のトップ商談を望む声が一部で聞かれる。かつて日本にビッグ3の意を受けた政治家が乗り込んで来たが、結果はご覧の通り。

企業が政治に依らず、マーケティングによって危機を乗り越えると世界で戦える競争力が身につく。逆に、政治によって勝つものは何れ政治に依存する。アジアでは経済に政治家が与える影響が強いため、商談に政治家が出てきた方が良い場面もある。しかし、マーケティングの優劣ではなく政治力で勝っても先は知れている。

中国が資源を買い漁ったり、中国の企業に勢いがあるのは当然だ。かの国には旺盛な消費力を持つ中流階級やその予備軍が沢山いる。かつて日本がそうであった様に消費はうなぎ登りに増えて活況を呈するだろう。しかし、日本が労働人口が減少すると共にバブル崩壊になった様に、中国でも労働人口の減少と経済成長の低迷に直面するだろう。

今は中国は買い漁るだろうが、ピークが来ればおさまる。それよりも日本が成長する道を探らなければいけない。政府が短く力のない少ない手で探すよりも、沢山の民間の手でいろんなところを探れば良いのではないだろうか?そのために必要なのが規制緩和なのだと思う。

何も怯えることはない。そんなことに煩わされるよりも自分達の問題に立ち向かおう。

2010年9月2日木曜日

便乗値上げと正義と

NHKで有名になったサンデル教授の「これからの正義の話をしよう」の最初のテーマは「便乗値上げ」だ。災害などにあたって生活必需品やサービスの価格が通常の何倍にもなるというのは"フェア"か?という問題だ。この問題では品物やサービスを買う側の理論は分かるが、供給する側の理論の考察はどうであろうか。

例にあげられたハリケーンによる被害。その渦中では供給する側も被災者である。買う側と同じ様に明日の生活に不安を抱えている。というのもアメリカの様な国では自然災害によって社会インフラが破壊されると域外からの供給がストップする。あっと言う間に供給不足となる。

小売店ならば次の仕入れが不透明なので、今ある品物でいつも以上に稼がなければ従業員に給料が払えなくなる。サービス業なら超過需要に対応する為に休むことが出来なくなる。価格の高騰は需要を制限し、供給する側を守るために働く。

サンデル教授も言うように、高価格は超過需要に対する域外からの供給を呼び込む為に働く。「いや、価格が上がらなくとも域外の供給者が来るという道徳が必要」というのは正しい。しかし、その正しさは域外の供給者が自分の顧客を捨てて馳せ参じることまで許すだろうか?

ここに「政治」が登場するのではないか?事前に規制を行うことで歪みを助長するより、事後に補償したり、余りにも酷いケースでは返金させるなどすれば良いのではないか。超過需要に応えた供給者はそこでの稼ぎを原資に不便をかけた顧客に値下げなどをするかもしれない。

便乗値上げが禁止された場合、そこには供給統制が登場する。配給である。平等な分配を目指すほど、統制する力は強化される。

それは「政府」に短期的に許されるかもしれない。であれば、便乗値上げを"禁止"するよりも"非常事態"を宣言して政府が流通を統制するべきだろう。しかし、政府は「思った以上に」賢くない。変化への即応は限定されていて、すぐに行き詰まるだろう。それならば、流通を自由にさせて事後的に不平等を是正する方が良いと思う。

2010年9月1日水曜日

民主党代表選挙に小沢一郎が出馬表明

小沢一郎が愈々首相への道に王手をかけた。民主党の代表選挙がこれほど注目されるのは、与党の故。そこに小沢一郎が絡んできてかつての大与党自民党には全くスポットが当たらない。

小沢一郎出馬の観測に反応して菅首相の支持率が上がったという話は驚き。ハッキリしたのは世論調査の支持率には「対立相手に対する批判票」が相当数混じっているということだ。これでは先の選挙も国民の何が示されたのか良く分からなくなる。

とはいえ、民主党が国民の目に見える形で党の方針を争い、訴えるのは良いことだ。どういう結果であれ、"開かれた"民主党のイメージを作るのに成功するかもしれない。菅続投となれば世論の「雰囲気」とも合致して結果的に支持を広げるかもしれない。それを見越して党の為に一肌脱いだのなら小沢一郎は立派なもの。

ただ、代表選挙の討論が"抽象論"で終わる可能性はある。菅も小沢も基本的には財政出動による景気回復を狙っている。「バラマキ」と言われようとお構い無し。二人の違いは「子分」がいるかどうか程度。その意味では小沢首相は菅首相よりも官僚を従わせて事を進めることが出来るかもしれない。

しかし、僕は菅・小沢両氏の政策を評価していないので、もう一つの展開に期待する。すなわち、民主党分裂というシナリオだ。同時に自民党も分裂し、政策の基本方針によって複数に再編されると良いと思う。

この代表選挙が21世紀を代表するイベントとなるか、茶番劇に終わるか、民主党議員の選択にみんなが注目している。

2010年8月20日金曜日

真田信之

なんとなくだが、真田というと「幸村(信繁)」よりも「信之」の方が好きだ。幸村は英雄視されて様々なドラマがあるが、真田を大名として後世に伝えた信之の方が凄いと思う。

信州の一豪族で一時は徳川とも対立した真田が家康の知遇を得て譜代大名として遇されたのは信之の非凡さを物語る。また、真田は「プロモーション」にも優れていた様だ。幸村の伝説もそうだが、かの「武田24将」などの信玄重臣をあげるとき真田が三人も取り上げられる。これには江戸幕府の中に残された武田遺臣の系統で、真田が最も重用されたことに由来すると思う。

幸村が名を上げ、それに信之の実績とプロモーションが加わり未だに根強い真田ファンがいるのだろう。

2010年7月29日木曜日

温暖化ではなく、環境汚染の問題だろう

今日の日経新聞に「温暖化対策 先進国で失速」というタイトルの記事が踊った。アメリカは中間選挙を控え、ヨーロッパは景気回復を優先し、「ポスト京都議定書」に向けた国際合意成立の見通しがなくなったという。

温暖化と「温暖化ガス」の因果関係は議論があり、温暖化ガス排出を削減する意味には疑問が残る。その意味で今回棚上げされたのは良かったと個人的には思う。それより問題なのは米中の「豊富な天然資源」を背景にした環境汚染の放置である。

アメリカと中国にロシアを加えた三国は広大な領土とそこに埋蔵される豊富な天然資源を富の源泉としている。中露は最近になるまで資源が眠る中央アジアを支配することが出来ず、逆に存亡を脅かされてきた。いまや三国とも資源埋蔵地の支配を確立した。更に、その資源の採掘にあたって発生する環境汚染を広大領土が拡散してくれる為に放置している。

アメリカはさすがにその被害を放置しては国民の支持を失うので改善されているが、中露はまだ改善されてない。むしろ悪くなっている。

かつて日本も資源開発や産業成長の過程で環境、特に人間の住環境が犠牲にされた。それが今では工場で使われた水が使用前より綺麗になって排出されるほどになっている。この産業が社会に及ぼす悪影響を排除する技術は日本は世界でもトップだと思う。

この環境保全技術を米中露に売っていくことが日本の競争力向上につながるのではないだろうか。素晴らしい技術を税金を使って浪費するのではなく、世界に売っていくチャンスではないかと思う。

2010年7月27日火曜日

明智光秀謀反の理由についての考察

NHKでは「竜馬伝」が大人気だそうだ。その竜馬には「明智光秀の末裔」という噂がある。土佐を治めていた長曽我部氏は明智光秀とは姻戚関係にあったから、あり得ない話ではない。

その明智光秀が本能寺でなぜ信長を討ったのかは長年の謎である。曰く、「明智光秀の母親が見殺しにされた恨み」「何かと虐げられていた恨み」などの怨恨説は根強い。ただ、学術的には裏付けがないのだそうだ。

光秀は謎の多い人物だが、どうやら信長よりも年長であったらしい。本能寺の変当時は還暦に近かったかもしれない。すると、本能寺の変の原因は別に求められるかもしれない。

光秀の嗣子は当時満14歳だった。老いを感じた光秀が明智家の行く末を慮った時にどう考えたろうか。光秀は織田家中、重臣筆頭だった。信長が自身を弑逆出来る程の軍勢を与えたのがそれを証明している。外様家臣でそこまで出世するのは光秀の優秀さと共に信長の「能力に応じて引き立てる」という合理性も示す。

光秀が高齢で力を発揮出来なくなった時に、若年の嗣子を取り立ててくれる信長ではない。長年の忠臣であっても能力がなければ追放する信長が自分が引退したら明智家をどのように処遇するか光秀は憂えたのではないだろうか。その不安と恐怖が光秀を謀反に駆り立てたのではないだろうか。

光秀は信長を討った後、「ぼ〜っ」としている。秀吉が大返しをしなくても、周囲には光秀を討たんとする勢力が沢山あるのに何もしていない。足利将軍家を何度となく襲った近畿の緒大名のごとく、光秀に「背徳感」はなかっただろう。下剋上の時代、主君を打ち倒し主家を乗っとるのは普通だった。信長を同じだ。

しかし、信長亡き後光秀に誰も着いて来なかったのは、下剋上が許されない秩序形成が出来上がっていたということではなかろうか。事実、秀吉にせよ家康にせよ主家乗っとりには長い時間と既成事実と大義名分を積み重ねている。

つまり、光秀は信長を恐れ明智一族を守る為に謀反を起こしたが、下剋上の古い感覚で当然支持されると思っていたのが、誰も支持されず孤立してしまったということだろうと思うが、どうだろうか?

2010年7月20日火曜日

みなしごハッチ

「みつばちハッチ」という映画が上映されている。30代以上の人には「みなしごハッチの大冒険」として知られる。

もともと、母親を拐われ"みなしご"になったハッチが様々な出会いを通して成長し、母親と再会する物語。今も昔もハッチの様に親と生別あるいは死別して頑張って生きていた人は沢山いて、そういう"みなしご"と差別される境遇の人に向けた応援ドラマでもあった。同時に"みなしご"を囲む社会に対する"啓蒙"でもあった。

ところが、みなしごハッチの物語はみなしごが差別用語としてメディアで使用自粛になってから全く放映されなくなった。同様の例に「タイガーマスクのエンディング」がある。

言語が社会の中でコミュニケーションに利用される以上、「差別をする行為」があればそれは言語に表れる。社会から差別行為が無くなれば差別用語は淘汰され無くなっていく。しかし、この使用自粛は因果関係を逆転させ、差別用語が公の場で使用されなくなれば差別がなくなると言っているかの様だ。

さて、かの悪名高き「文革」や「焚書」の様に文化を犠牲にする差別用語使用自粛でどれくらい差別がなくなったのか?実証して欲しいものだ。

2010年7月13日火曜日

入るを図って出ずるを制す

参院選は民主党の"大敗"に終わった。敗戦の要因は色々と分析されるだろうが、メディアを見ていて「消費税についての菅首相の発言」についての評価が分かれている。曰く、「菅首相の消費税に関する発言が"ブレ"た」「菅首相は財務省の「売上税」以来の悲願に加担している/洗脳されている」「菅首相の発言は唐突であり、国民への説明のしかたも下手だった」などなど。意外に、「今の財政状況を考えると将来的な増税は避けられないということは"有権者に理解"されている」という論調が多いように思う。

だが、いずれの意見でも、「財政健全化の為に増税已む無し」とか「経済活性化を図るために法人税を引き下げて、以って税収をむしろ増やす」などというものはあるが、「財政健全化の為に社会保障を削減する」というものはない。「入るを図って出ずるを制す」というが出費が抑えられない限り増税は焼け石に水である。そして、国の歳出の中に占める社会保障費は今や50%に迫ろうかという勢いである。更に、子ども手当や高校無料化などの支出が追い討ちをかける。

池田信夫氏がビジネスウィークで言っているのが正しいとすれば、日本では若者は老人に食い物にされている。少なくとも老人は自分達の稼ぎで自分達の面倒を見ているのではない。戦後日本の復興に邁進してきた老人にその程度の役得が合っても良いという意見もあるが、それを言い出したら日本の悲惨な侵略から守った先人達に対する恩義など、世代間でお返ししなければいけないことは累積されていく。結局世代間の「恩義」「報恩」というのは相殺されるもので、基本的には自分達の稼ぎで自分達の面倒をみなければいけない。

ということは、社会保障費の中でも高齢者向けの社会保障費が「過大」になっているということになる。ならば、過大になっている社会保障費を削減するということが先決ではなかろうか。つまり、高齢者が貯蓄を取り崩しながら余生を過ごすという老後モデルの推進である。

もちろん、過剰な官僚組織をスリム化する=解雇を含めた人員削減を行うというのは大前提であるが、そんなことで歳出の半分を超えんとする社会保障費はどうにもならない。だから、現状の給付水準を含めて切り下げる施策=高齢者の貯蓄を切り崩して消費に回す政策が必要ではないかと思う。

2010年7月9日金曜日

複雑にしない税制

消費税論議が一気に加熱した。菅首相は財政健全化を考えているんだ、というポーズを見せる程度だったのだろうが、今更引っ込みがつかなくなったみたいだ。なので所得によって税を還付するとか言い出す。

他の制度もそうだが、複雑になればなるほど事務の手間もかかるし、制度の隙間を狙った不正が起きる。日本ではサラリーマン以外の所得を把握する術がないため自営業者の脱税が跡を絶たない。同じ様に消費税の還付を所得によって行うと所得が把握されていない自営業者が不正な還付を受けようとするかもしれない。

納税額を増やすには納税者番号などの運用が考えられるが、住基ネットと同じくリベラル系の政治家の反対で立ち消えとなるだろう。彼らは個人の所得が常に政府に把握されることを嫌うが、一番それを嫌うのは税金を払いたくない自営業者だろう。そして、損をするのはサラリーマンということだ。

日本郵便によるゆうパック遅延混乱について

この問題の発端は去年の鳩山事件に遡る。鳩山の弟の方が総務大臣となって、自治体行政はほったらかしにして日本郵政民営化を反動させるべくかき回していた。その混乱の中で10月のJPエクスプレスへのゆうパックとペリカン便移行を粛々と進めていた日本郵政。

鳩山更迭でやっと前進するかに見えた郵政民営化。それが衆院選にかかった為に暫時停止。鳩山政権誕生によって民営化の先行きが不透明になり、亀山大臣が就任することで郵政再国有化が志向されることになった。ここで、JPエクスプレスにゆうパックとペリカン便が譲渡されるのではなく、郵便会社にペリカン便が合流するという事態に。

結局、封書配達のインフラと小包配達のインフラの違いを理解出来ない人がかき回したのが運の尽き。せっかく追いつきかけたヤマトと佐川の背中は遠く霞んでしまった。年賀状の大量廃棄など配達品質に課題がある郵便会社。復活出来るのか?

2010年7月2日金曜日

円高になる理由が分からない

1ドル=86円

かつてバブルに踊った頃、円高を背景に日本企業や個人が海外の資産を買い漁った。

当時の日本は空前の好景気に沸いていた。その原資は子育てが一段落ついて可処分所得が増えた団塊世代の旺盛な消費だった。有り余るマネーが野放図に土地投資に向かい、どんな事業もソコソコの成功を収めた。バブルは日本の歪な人口ピラミッドが招いた徒花だった。

しかし、今回の円高は意味が分からない。バブル崩壊後、失われた10年などと言われながら円は高いままだった。お蔭で日本企業はただでさえ高い生産性を際限なく改善し続け、更に海外に生産拠点を移し、いわゆる"デフレ"を招いた。"景気回復"を旗印に歴代政府はバラマキを続け、小泉政権で一時的に減ったものの、現在では財政状態は最悪だ。

そんな先の見えない日本で円が買われ円高になる理由が良く分からない。欧米経済が金融危機を脱し日本は置き去りになった。ギリシャの財政破綻は欧米経済を痛めたが、日本の財政も破綻寸前なのは変わらない。ギリシャを見ていると破綻の原因となった放漫政治が過大な"ポピュリズム"に基づくものだと分かる。

小泉政権後、日本は折角の財政健全化への道を自ら塞ぎ、ギリシャの様に「政府が雇用を創出する」とまで言い出した。際限ない財政支出はいつか破綻を招き、預貯金を通じて国債に投資されている国民の資産を奪うだろう。その時に目敏い投資家は円を売り浴びせ鞘をとって儲けるに違いない。それは金に汚いとか言うことではなく、状況を利用する知恵だ。

そう考えるとこの理解不能な円高も様々な思惑が絡みあった結果なのだろう。そして、円高は決して日本経済を利さないだろう。

2010年6月25日金曜日

決勝トーナメント

今日の朝から日本で沸き起こった感動は清々しいものだった。

決勝トーナメントへの進出は正直難しいのでは?と思っていた。確かに「負けなければ良い日本」と「勝たなければいけないデンマーク」では心理的にも日本の方が優位だ。だが、立ち上がりからボールを支配してコートを大きく使って攻めるデンマークは日本より余裕も力もあった。最初の本田のゴールはFKが決まるはずがないという油断だったのだろう。

日本を含めてそれまでの試合ではFKは1点しか決まってなかった。日本チームも何度となくFKを浮かして外していた。だが、本田のFKはキーパーの手をすり抜けて決まったのだ。

デンマークがあの位置でFW陣をファール覚悟で潰しに来るのは戦術として決まっていたのだろう。日本チームもあのくらいの位置で何度となくFKを蹴られている。だから、あのゴールはその常識を超えた本田の個人技が光った。遠藤のFKはベテランならではの相手の裏をかいた、いや相手をオチョクっているかのようなものだった。

本田がこじ開けたデンマークの動揺を遠藤が拡げた。結局、デンマークには勝利の為のオプションが極端に減ってしまい、パワープレイに走らざるを得なかった。日本チームは上背のある外国チームとの対戦で準備が十分だったからパワープレイは都合がよかったかもしれない。

ただ、この三戦で日本チームは「日本サッカーの型」を見出だしたような気がする。イタリアやブラジル、イギリスなどの強豪国が持っているような、ハマると必勝というような型を。

次は29日。また、夜更かしだ。

2010年6月24日木曜日

鳩山首相の失敗は安倍首相、麻生首相の失敗と同じ

鳩山政権が短命に終わったのは必然であった。小泉政権が「経済成長」という実利を追求したのに対して、それに続く安倍政権は「美しい日本」という保守イデオロギーを声高に主張した。小泉政権の「規制緩和経済成長路線」を郵政民営化反対議員を復党させることで曖昧にした。そのために他で良い政策を行っていても全体的に反動に見えてしまった。

安倍首相の人気の理由は若さに代表される既得権益との対決であった。それが元来の保守思想の表明によって、どちらかと言えばソフトな保守である無党派が鼻白らんで離れていったのだ。麻生首相も同じだ。

民主党が連続して国政選挙で大勝した理由は選挙中は少なくともイデオロギーが見えなかったからだ。それが鳩山首相が「友愛」イデオロギーを持ち出したことでソフトな保守の無党派が距離を置いた。鳩山首相の最大の勘違いは普天間基地が有権者の関心事だと思ったことだ。

誤解を怖れずに言えば普天間基地は多くの有権者にとって関心の外だ。日米安保賛成しているわけじゃなくとも日米関係が悪化することで日本が不安定になることには反対する。「最低でも県外」は日米関係をはじめとする外交の安定があってこそで、それが出来るならやれば良いんじゃないという程度の感心だった。それがフワフワした友愛イデオロギーと沖縄基地問題で元気になる社会党のサヨクイデオロギーのダブルパンチで有権者は嫌気がさしたのだ。

結局、政界や「論壇」が乗り越えていないイデオロギーの枠を有権者はとっくに乗り越えているのだ。

小泉首相に有権者があれほど熱狂した理由は彼がイデオロギーではなく「郵政民営化」をはじめとする規制緩和改革という政策だけで勝負したからだ。残念なことに自民党や彼の後継者は彼の靖国参拝や帰国した拉致被害者を北朝鮮に行かせなかった保守的な行動が支持されたと勘違いして安倍首相は「美しい国、日本」とぶちあげてしまった。鳩山首相も一緒だ。有権者は「脱官僚」に期待して鳩山民主党を応援した。

菅首相はその轍を踏まないだろうか?

2010年6月22日火曜日

菅首相によれば、生産性をあげなくても企業は生き残る

http://www.j-cast.com/m/2010/06/21069238.html

菅首相が街頭演説で「日産自動車の社長の給料が高いのは首切りがうまかったからだ」「すべての会社で首切りした社長が偉いなら日本中に失業者が溢れてしまう国民全体を考えたらリストラする経営者ほど立派というのは大間違いだ」

と言ったのだそうだ。

現実主義者としての菅首相はユートピアを夢見るポピュリストとしての菅首相に負ける様だ。たとえ理想があったとしても理想実現のための第一歩が砂山では頂上には辿り着けない。たしかに、「リストラしない経営者」の方が立派である。しかし、正確には「リストラせずに倒産させない経営者」が立派なのだ。

かつて記者会見で「社員が悪いんじゃありません。経営者が悪いんです。」と泣きわめいた経営者がいた。彼の会社は倒産する訳だが、立派な経営者だったのでクビ切りをしなかった。その結果何千人もの失業者を生み出した。(正確にはこの社長すら敗戦処理を押し付けられただけであり、その責任の多くは実質的な決裁権を離さなかった会長にある)

つまり、「リストラをして倒産を回避した経営者」は「リストラをせずに倒産した経営者」より余程立派だということだ。当時の日産は倒産寸前だった。ゴーンがリストラをしたのは何万人もの倒産による失業者を出すより立派だった。

なにより日産が倒産寸前まで追い詰められたのは高すぎる従業員の人件費が理由の一つだ。日本では年功賃金と解雇規制で一人あたりの人件費は上がる一方だ。逆に生産性を向上させる改革や商品開発は停滞していた。付加価値を生む仕事がおざなりになって生産性がまったく上がらないのだ。

それでも会社の利益がそこそこあれば、無理して生産性をあげる必要がないと安住するのを「大企業病」という。成果に重きをおかない大企業や官僚機構にありがちなことだ。そんな状態の日産に乗り込んだゴーンはたしかにリストラを行ったが、それは必要なリストラだった。

「生産性が上がらないが人件費は上がる」→「開発費を抑える為に商品競争力が落ちる」→「競争力がないので売り上げが下がる」→「人件費以外のコストを切り詰めるが仕事のやり方を変えないので生産性は上がらない」→「業績が悪くても組合は他社と同じ水準の昇給を求める」→「売り上げが下がり生産量は落ちているのに解雇出来ないので生産能力が過剰で生産性改善のプレッシャーがかからない」→…。

こういう状況を打破するには過剰な能力を先に落とすしかない。それによってマインドが変わると自然と生産性が上がり利益が出て持ち直してくるのだ。世の中の全てのリストラが必要なものとは言えないが、少なくとも菅首相が批判した日産のリストラは必要だった。これが必要ないとなれば、努力しなくとも生活が豊かになるユートピアがどこかにあるのだろう。

2010年6月21日月曜日

相撲会の野球賭博騒動に関して

賭博は何故いけないのかという問いに対する明快な答えはない。公営ギャンブルや極私的な賭けまで世間で許されている賭博は多い。なので、事件になるものとならないものの区分けは司法関係者でも意見が分かれるのだそうだ。

しかし、今回の騒動は「野球賭博」だから事件になったと言って良い。かつてプロ野球が今ほどメジャーなスポーツではなかったころ野球賭博はプロ選手を巻き込んだ大掛かりなものだった。賭博に関わって野球会から追放された人もいた。大物プロ野球選手とヤクザが仲が良いとかいう話も賭博と無関係ではないし、野球選手のファッションがチンピラ風なのも同じだ。

相撲にせよ野球にせよ、ボクシングなどの格闘技でも賭博とは無縁ではない。というのも、プロスポーツが元来賭博から得た利益によって選手を養うものだったからだ。大金持ち同士が自分のお抱えの相撲取りを戦わせて自慢し合う。相撲取りは旦那からの手当てとその試合を興行し賭けの胴元で一儲けした親分からも小遣いを貰う。江戸時代にヤクザと相撲取りが義兄弟の契りを交わすのは当たり前だった。

戦後はそこに野球が加わりプロ野球はスポーツとしての体裁が整うまでは、オーナーも山師の様な人も多かった。この事はプロスポーツの本質を示していると同時に賭博が決して暴力団だけのものではないことも示している。

マスコミは今更ながらに「野球賭博」や相撲取りとヤクザ社会のつながりを取り上げるが、これは数十年に渡って続けられてきたことで、これまでのマスコミの怠慢も問題にされるべきだろう。

相撲も野球もこれまで少なからず裏社会と関係してきたことは率直に反省すべきだろう。その上でなるべく健全な興行がうてる努力をして欲しい。そしてマスコミは公になってから騒ぐのではなく、正しい報道をして欲しいものだ。

2010年6月19日土曜日

賢い政府はクラウドに劣る

菅首相の支持率が高いらしい。でも実は安倍首相よりも低く、福田首相よりも少し高いだけ。この程度の支持率は高いとは言えない。そんな菅首相の支持率は彼の主張にあるのでは…とも思ったが、どうだろう。

彼は「増税しても政府が賢い使い方をすれば高い経済効果がある」と言った。でも、自民党が公共事業をばら蒔いても経済効果はほとんど無かった。だから、菅首相は「賢い」という枕詞をつけるのだが、事前に客観的にそれが「賢い」かどうかを判定する方法があれば、この主張は正しい。

しかし、社会を単純に紐解いて正しい答えを導き出すことは出来た試しがない。なのに選挙で主張されるのは「私達は対立候補よりも正しい選択が出来る」ということばかり。政府に正しい選択が理屈や実績がないのに何故そんな言葉に騙されるのだろう。

菅首相を始め、社民党や自民党の左派(亀井氏など)などの中道左派の人たちに共通するのは「限りない自己の無謬性に対する自信」と「傍迷惑なまでの正義感」である。それは同時に「有権者を愚民と見なすエリート(選民)意識」と「政敵を悪人に仕立てるプロパガンダを正当化する卑怯さ」を持っている。要は「俺が一番頭が良くて正しいのだから、多少馬鹿な国民を騙したとしても結果的にばら蒔きでみんなを豊かにしてあげるのだから文句を言うな」というものだ。これは彼の金正日の考え方にも共通する封建領主の意識だ。

残念ながら、このような自身の考え方の危うさに当人達はナカナカ気付かない。封建制度下の一部のエリートが意思決定することで招く失敗を避ける為に生まれたのが「多くの利害関係者が対等に取り引きすることで最適な選択を継続する"市場"」というものだ。市場には希望すれば誰もが参加可能である。19世紀から21世紀にかけて世界がそれまでの何倍もの勢いで成長したのは、それまで一部のエリートだけの力で行われていた投資や意思決定が市場を通してみんな=クラウドの叡智を集めたからだと思う。

菅首相は財務省の考え方に傾倒するのは自身に官僚と同じ「選民意識」や「無謬性」があるからだが、これからの時代はエリートが意思決定するのではなく多くの人が意思決定に関わるシステムを作ることが重要になる。だが、菅首相が考えるのはみんなより政府の方が賢くあることが出来るという前時代的な封建社会なんだと思う。

2010年6月12日土曜日

菅首相の現実主義者としての華麗な約束の破り方に期待

亀井大臣は今国会での郵政法案成立が見送られるのに対して辞任して支持団体に義理立てした。それと共に参院選後の臨時国会で郵政法案を最優先で成立させるという覚え書きを菅首相と交わした。さすが老獪である。

菅首相は総選挙でのマニフェストを方針転換することとした。普天間基地も日米合意を遵守することを早々に表明し、無用な期待を煽らない様にした。

節操がない様に見えるが実利を積み上げようとする現実主義的な姿勢は評価出来る。参院選後に実利を優先して亀井国民新党との約束を華麗に反古にして欲しいものだ。

2010年6月11日金曜日

今やC=H=NでK>SにMはなし。次はFTだと

今朝のニュースで富士通と東芝が携帯事業を統合するのだとか。今やNECと日立とカシオが事業統合し、京セラは三洋の事業を買収、三菱は撤退と「ガラパゴス」と言われた日本の携帯業界にも淘汰の嵐が吹き荒れる様だ。

ただ、それでも世界に伍する規模には程遠い。あと数段の変革が必要だろう。

2010年6月10日木曜日

慶次郎

原哲夫が漫画化したことで知名度が一気に上がり数年前の大河ドラマではミッチーが演じた前田慶次郎。若々しく前田利家よりも若造に描かれていたが、実際は利家と同世代だという。記録にあらわれた時には既に老境で武人というより教養人であった。

生年は1533〜1541の間ということなので、一番遅い1541年でも上杉家で押し掛け助っ人をした関ヶ原の戦いでは還暦ということになる。マンガでは老いた利家をからかったり秀吉を爺扱いしているが、自分も同じ爺いである。

可能性としては彼に同名の息子がいて記録の混同があるかもしれない。ただ、慶次郎が利久の死を契機に前田家を出奔するのは彼が齢50にもなろうかという時。なんとも頑固で元気な爺いではないか。

2010年6月7日月曜日

福島大臣と辻本副大臣の罷免と辞任で思ったこと

社民党が主張を曲げずに女をあげて連立離脱をしたのが、鳩山辞任ですっかり過去の話になってしまった。しかし、社民党から内閣入りしていた二人の辞任の様子が印象的だったので書いておく。

二人は共に辞任の挨拶を部下達の前で行い感極まって泣くシーンが見られた。辻本氏は記者達に対して「どんな伏魔殿かと思っていたが、本当に良い人ばかりで…」という様なコメントを残していた。本当に妖怪が棲んでいるわけもなく、普通に人間が一生懸命働いているのだから当たり前のことだ。そんなことで、すっかり官僚に取り込まれた姿を見るにつけ、政治家には経営者と同じく「孤独に堪える才能」が必要だと思った。

ただでさえ社会主義的な思想は官僚主義と親和性が高い。ソ連の官僚機構の発達振りをみれば良く分かる。だから、この連立政権の「脱官僚」は掛け声にしかならない。何故なら政権の目指すものと官僚機構が目指すものが基本的に一致しているからだ。

菅政権も基本的にその性格を逃れられない。だから、官僚機構が何を巡らしてくるかを有権者は見抜かないといけない。

「マニフェスト」という方法を疑う

大西氏がアゴラに投稿している議論は面白い。

http://agora-web.jp/archives/1028757.html

更に、突っ込んで考えてみると、有権者は投資家の様に真剣に政権の振る舞いを考えないといけないということだろう。選挙の時や自分が関心があることにだけ注目するというのでは株価に一喜一憂する素人投資家にすぎない。株式投資では、そういう人はプロに食い物にされる。

株式投資なら素人のままで良いが、選挙は何回も経験するのだから、プロフェッショナルにならないといけないのではなかろうか?

2010年6月2日水曜日

郵政再国有化の悪夢

日本郵政は再び国有化されることになりそうだ。あれほど国民の指示を得た政策が何故逆転してしまったのだろう。そして、再国有化の後に待つ経済再転落に今から気が滅入る。

郵政は「世界で最も成功した社会主義国家−日本」の象徴だ。相当程度の市場規模と参入意志がある企業がいるにも関わらず国営企業がシェアNO.1を誇っているとき、その国が自由主義国家であるとは信用されないだろう。郵政は正に「不当に」シェアを得ていると言って良く、公平な競争を阻害している。

見渡せばJALにしても新聞やテレビにしても国家の庇護によって不当に利益を得ている企業や業界がなんと多いことだろうか。しかし、その庇護の蔭で確実に国富は蝕まれていく。国富はGDPの成長であり、GDPは国民所得の総和だ。つまり、郵政を放置しておくことは国民の所得を縮小させることになると知るべきだ。

2010年5月14日金曜日

人類複数起源説

「ネアンデルタール人:ヒトと混血の可能性 ゲノムを解析」(毎日新聞)
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20100507k0000m040136000c.html?inb=fr

現生人類とネアンデルタール人のゲノムを比較したところ、混血の可能性が疑われるという話し。

半村良は「石の血脈」で人類は複数の起源を持つというストーリーを描いている。異種混血により、突然変異が吸血人類を生むというのはSFだが、人類が複数の起源を持つというのは新鮮な考えだった。それが一部で証明されたようだ。しかし、もっと考え方を進めれば、アフリカ紀元以外の紀元を持つ現生人類に近い原人がいてもおかしくない。オーストラリア、南アメリカはその生物の宝庫であるが、現生人類と違う起源の人間がいても良いのではないか。

将来、ゲノム解析が精緻を極めれば、もっと沢山の人類起源が推定できる証拠が出てくるかもしれない。南アメリカのジャングルにアフリカ起源ではない人類の化石が眠っていると思うと、とてもロマンを感じる。

2010年5月11日火曜日

普天間基地問題に関する考察

【南沙諸島を他山の石とせよ】
南沙諸島の問題を見るにつけて、領土・領海問題で中国に気を許すことは出来ないと思います。メディアの論調を見ていると、「沖縄の負担」にばかり焦点があたっていて「国土保全」や「国益維持」についてはなかなか論じられません。社民党や民主党・亀井氏の様な左派の政治家は沖縄の負担を取り除けばそれでOKという感じですね。しかし、中国との間には領海境界に関して未解決の問題があり、中国はお得意の「実効支配による既成事実化」に勤しんでいて、それに対し日本政府は「遺憾」を示すばかり。

【ここ四半世紀は天然資源が重要】
天然鉱物資源に乏しい我が国にとって、中国との境界にある油田は貴重な資源です。人口の減少と文科省と日教組のタッグによる教育破壊で人材によるアドバンテージが消えつつある現在、今までのように付加価値で儲けて、海外から天然資源を購うというのは長続きしないでしょう。アメリカが教育破壊が徹底的に進んでいるにも関わらず、未だに世界一なのは一つには世界から頭脳を大学に集めているということもありますが、最後には天然資源や農作物による取引で相手を凌駕できるからです。
日本はそのアドバンテージを最高学府を引き上げることではなく、初等教育を引き上げることでアメリカにキャッチアップしました。

【日本の新しい競争力を見出すまでは領土問題には拘れ】
その強みを「ゆとり教育」でずたずたにした以上、政治は国民が高い付加価値を上げられなくとも政府主導で世界に対抗しなければいけません。その最重要テーマが外交であり、資源防衛となるのです。資源防衛の基本は辺境の隣国との境界が不明瞭な地域にある資源を手にするということです。交渉相手を叩きのめす背景には(残念なことではありますが)武力的な背景が欠かせないと思います。アメリカのGHQの理想主義者が書いた憲法9条などを金科玉条のごとく大切にするのであれば、どうやって日本の国益を守るかに答えて欲しいものです。

【国家と個人を分離することは出来るのか?】
社民党や左派の政治家の主張を聞いていると、「国家」と「個人」を対立する概念として描いているように思います。これは鳩山首相も似た思想を持っています。しかし、個人が家族や友人・知人をはじめとするコミュニティに包まれ、そのコミュニティを制度的に維持する戸籍法などの民法、地方自治体があって、その自治体が国家を形成し、国家運営に投票を通じて個人が意見を反映していくという構造は国家と個人が「分かちがたい」ものであることを示していると思います。つまり、理想的には国家の利益と個人の利益が寄り添うべきなのだと思います。

【維新の志士は故郷を捨てたわけではない】
しかし、維新の志士達が藩士の立場を超えて日本人としての意識に脱皮したように、主権国家の国民が地球市民として脱皮することは期待されるべきでしょう。しかし、それは維新の志士達が目指した「革命」が日本国家の利益を通して自らの郷土を潤したように、あくまでも世界の利益が日本の利益を通じて個人に還元されるように考えなければいけないのではないかと思います。そして、その前提には幕藩体制が日本の国益という共通目的をもてたように、諸外国あるいは特定交渉国と共通の利害を持ちうるのかということ、もてる様な提携関係を築く活動というのが欠かせないと思います。

【共通利害を持つまでには「衝突」を含めた厳しい交渉過程がある】
薩長が坂本竜馬の仲介によって同盟を結ぶまでには、互いに戦争を繰り返し犬猿の仲と言われました。しかし、その争いの中で互いを理解しやがては協力するまでになり明治政府の中核となっていったわけです。薩長のように多くの血を流して維新を乗り越えた藩は明治になって大きな利益をえることとなりました。逆に、お家大事に過ごしてきた諸藩は廃藩置県の中でどんどん埋没してしまいました。

【激しく争っている米露中は、同盟前の薩長なのかもしれない】
常に緊張を孕んでいる米露・米中・中露の関係は同盟前の薩長のようなものなのでしょう。米露は戦後一貫して激しく争い、互いを知り尽くしていると言っても良いでしょう。米中は似ています。他民族を、かたやキリスト教に根ざした民主主義で、かたや伝統的な均等主義に通じる共産主義で統合する「人工国家」と言えます。中露は互いに合理的に共産主義を利用してきた中央集権帝国主義国家としての共通点があります。そして、互いに大きな違いも持っています。それが外交上のストレスとなって度々トラブルとなりますが、それの乗り越えるたびに紐帯を深めているような気がします。

【ストレス回避が日本外交の後進性】
翻って日本は外交交渉の場では、それは政治的でも通商的でも、ストレスを回避する方向に動き損をしているように思います。今回の普天間問題も、実は政治的にはアメリカと正面から交渉を進めているわけではなく、単に「想い」と称する国内向けのメッセージだけを鳩山首相が発信しているだけです。そのため、憶測・曲解・不信が募り日米間のこの問題に関する解決の選択肢を狭めているように思います。結局、散々沖縄を煽った挙句、県外に基地移転はせず、訓練だけは徳之島に一部移し、その補償として沖縄と徳之島双方に交付金が与えられ、そのお金は公共工事に使うしか道はなく、「コンクリートに逆戻り」という形になるのではないでしょうか。

古川

2010年5月7日金曜日

世界で二番ならやらない方が良い

昨夜の報道ステーションでテムザックの創業社長の高本氏が「去年の事業仕分けでスパコン事業に対して蓮紡議員が『何故世界で二番じゃダメなのか』というのを聞いた時に『この国は世界一を狙ってないんだ』と(残念に)思った。」ということを話していた。

あの言葉は蓮紡議員とその周囲が「分かってない」ことを如実に示した。問題は「スパコンで世界一になった後に日本の競争力強化に如何に利用するのか」ということと「もっと安くする方法はないのか」である。「二番でも良いのではないか」というのは世界で何が争われているかを理解していない。

大前研一が十年前に指摘したように、インターネットの普及によるコミュニケーション革命によって、全ての人が一番のものを見つけ出せるようになった。人が一番ではなく二番以下に手を出すのは、一番の存在を知らないからだ。一番の存在は今やブログやツイッターであっという間に拡がる。二番は一番にアクセス出来ない時の代替でしかない。

だから、世界は一番を争っている。一番が市場を独り占めする時代に二番では駄目なのかというのはセンスがない。それならやらない方がマシなのだ。

蓮紡議員があの場面で「日本は『コンクリートから人へ』の掛け声のもと、"ソフト"に投資を集中するからハードからは撤退する」とでも言えばそれは立派な見識だったろうと思う。しかし、彼女の言葉は「順位を決めないゆとり教育」と同じだ。ナンバーワンよりオンリーワンというが、オンリーワンは『一番』に他ならないと思うのだが。

2010年5月5日水曜日

誰も満足しない結果

普天間基地移設問題は鳩山首相が引っ掻き回した挙句、当初合意の名護市内と鹿児島県の徳之島に移設するという案を首相が持ち出した。

しかし、このアイディアは誰の入れ知恵かは分からないが、関係者の誰も満足しない最悪の結果をもたらすだろう。第一に日米両政府はキャンプシュワブ沿岸への移設を長い期間かけて合意形成してきたのに無駄になってしまった。アメリカにとっては二ヶ所に基地が分かれるのは不満が大きいだろう。日本政府は移設先の補償など、予算措置も含めて不満が募る。

鳩山首相の『県外』移設に煽られた沖縄県民は基地が残ることが不満だろう。更に、町を二分して争って一度は基地を受け入れ、鳩山政権の甘言に乗せられて受け入れ拒否を表明した名護市住民は、基地賛成派も反対派も強い不満を隠せないだろう。そして、鳩山首相の「最低でも県外移設」に巻き込まれた恰好の徳之島にとっては晴天の霹靂だろう。鳩山首相が徳之島に影響力を持つ引退した政治家を頼ったことも不満を助長した。

当の鳩山政権も不満だらけだ。非現実的な非武装を唱える社会党は政権離脱をかけてアメリカ軍の国外退去を主張していたから、これが鳩山政権の最大限の成果だとすると政権離脱をせざるを得ない。政権に恋い焦がれる福島党首の憤懣は大変なものだろう。

鳩山首相はGW中の沖縄訪問で国外移設どころか県外移設すら断念したという内容の発言をしたらしい。まぁ、徳之島移転を打ち出すよりは理にかない、妥当な結論だ。ただ、最後の足掻きか、桟橋方式での飛行場建設を言い出している。これでは地元建設業者は工事に参加出来ず(桟橋方式は技術的に地元業者には不可能)、地元経済への貢献も出来ないので、これで全ての関係者に不満が残る結果となった。

交渉では、全ての関係者が満足することが最良の結果だ(WIN−WIN)。しかし、それが望めない場合は一部の人に不利な結果とする次善の策を選択する。(WIN−LOSE)しかし、鳩山首相が選んだのは全ての人が不幸になるLOSE−LOSEの結果であった。この一点だけでも鳩山首相がリーダーの適性を欠いていると思うのだが。

2010年4月28日水曜日

法曹のプロのおかしな考え方

民主党小沢幹事長に対する「起訴相当」の判断に法曹界からは検察の不起訴裁定を擁護する意見が出ている。検察審査会が何故起訴しなかったのか?と疑問を持った証拠も「法律のプロは100%有罪に出来る確証はない」と判断するものだとか。しかし、「100%有罪」にする必要はない。そもそも、裁判は有罪という検察の主張とそれ以外の被告の主張を公開の場で争い、第三者の裁定を受けるもので、争った結果有罪にもなれば無罪にもなる。更にその過程や裁判での論争が社会規範の形成にもつながるのだ。

今回審査会が起訴相当と判断したのは、有罪かどうかは裁判の結果なのだから、これだけの証拠があるなら裁判の場で争いなさいということなのだと思う。日経新聞で上脇神戸学院大大学院教授が「今回の議決は『疑わしきは被告人の利益に』という刑事裁判の原則を正しく理解していないのではないか」と言っているが、彼は間違っている。そもそも、これは裁判の判決ではない。小沢幹事長は被告人でもない。逆に、起訴をする立場としては「疑わしきは訴える」べきだ。勝算のない事件を起訴しないというのは検察の「保身」であり、その保身は国民の不利益だと思う

それでも鳩山首相が小沢幹事長をナカナカ解任出来ないと思うワケ

検察審査会が27日に民主党小沢幹事長の政治資金規制法違反について、検察が下した「不起訴裁定」を覆し、「起訴相当」という判断を下した。小沢幹事長は同日辞任などの意志がないことを表明したが、再捜査で起訴となっても、不起訴となって再び「起訴相当」で強制起訴となっても、民主党には大きな打撃だ。ここまで来ると鳩山首相が解任をするか?ということが焦点となるが、ナカナカ解任とはならないだろう。

小沢幹事長が解任されない理由を夏の参院選と絡めて「選挙に強い小沢を外せない」ということに求める向きがある。だが、小沢幹事長の強さの源泉は選挙に強いことではない。というのも、小沢氏が率いた選挙で勝ったのはこの二回だけ。それまでは負け続けだ。そして政権奪取に至った選挙での勝因は社民党と国民新党の間で交わされた「選挙協力」である。

この選挙協力にあたって決して反りが合うわけもない三党の接着剤となったのが小沢幹事長だった。つまり、小沢幹事長の地位は今や民主党の中だけではなく与党三党から支えられているのだ。民主党が社民党と国民新党の協力で勝てたのと同時に、そのお陰で与党政権入りが出来た旨味は両党にとっては手放せないものだろう。

鳩山首相はただでさえ不安定な政権運営が危うくなるような決断はナカナカ出来ないだろう。だから、小沢幹事長解任はないと思うし、それよりはギリギリで一定の権限を保持したまま小沢氏が辞任するシナリオの方があり得ると思う。

2010年3月30日火曜日

金融事業の利益で郵便事業の赤字を穴埋めする歪さに目を瞑るのは愚かだ

日本郵政に政府が3分の1以上を出資して再国有化する方針を政府が打ち出した。郵便サービスの維持には金融事業の利益による穴埋めが必要と3事業の一体化を堅持し、金融事業の収益力強化のために郵貯の預入限度額や簡保の保険限度額の緩和する。

全国一律の郵便サービスを維持するためには赤字補填が必要と経営努力を無視して良いという方針は郵便サービス現場のモチベーションを下げることになるだろう。コスト改善や品質改善の努力が評価されることがないからだ。この数年の日本郵政の社内はかつてないほどの活気に溢れていたのだそうだ。改革は一方で既得権を失うことに対する反発を生みながら、他方ではチャレンジにワクワクする高いモチベーションを生む。その支えが外れた後の日本郵政からは優秀な人材から流出する現象がおきるのではないか。

金融事業の黒字を郵便事業の赤字補填に使うのは、預金者や保険加入者に対して不誠実ではないか。預金者により多く帰せる利子や安く出来る保険料を郵便事業に使うのであれば、「郵便事業募金口座」「郵便事業募金保険」として明記すべきだろう。更に、郵貯と簡保のリターンは国債の償還からなので、そこから一部を郵便事業に回すということは遠回しに郵便事業に税金を投入するということだ。

仮に、郵便サービスが公益法人で税金を投じてでもやらなければならないなら、郵便局だけに限った公益法人にすれば良い。それを誤魔化すのはいただけない。

金融サービスを公益法人が手がける必要は全くない。地方であれどこであれ、いまや金融サービスのなんらかの窓口がないところはほとんどない。僅かに残る地域にサービスを提供するコストを無関係のユーザーから徴収するのは不公平である。

国債の引き受け手を増やすために、財政規律が正常化するまでは「必要悪」という人もいる。頷ける意見だが、郵政再国有化を主張する人で財政規律まで考えている人はいない。野放図に財政拡大を画策するだけだ。

結局、「財政拡大による財政赤字」という間違いを、「公益法人の拡大による民業圧迫」という間違いでカバーしようという時点で恥の上塗りなのだ。

UNIQLOをデフレの元凶の様に言う愚論

サピオの読者投稿欄に「ユニクロがデフレの悪玉という記事が増えた」というものがあった。投稿はそんな記事を批判したものだが、整理をしておかなければと思った。

UNIQLOが(正確にはファーストリテイリングが別ブランドで)1000円を切る値段でジーンズを発売出来るのは、生産国(中国とかアジアの国々)の人たちを低賃金で酷使しているから、とか、国内でも安い賃金で労働者を虐げているという話が流布されている。安く海外で作るから国内の雇用が失われているとも。さて、ここで価格とか利益というものを良く考えてみないといけない。価格の構成は、ざっくり書けば以下の様になる。

価格=限界費用+粗利益…A
粗利益×販売数量=固定費+営業利益…B
営業利益=営業外損益+純利益…C

純利益は事業のトータルの儲けとなり、配当や投資の原資となる。(実際は会計上はコストが発生するが、実際に現金の移動を伴わないものを除いた営業キャッシュフローが投資の原資となるが)

この式で「限界費用」とは商品を一単位売るのにかかるコストのことでユニクロの場合は工場から仕入れる服がこれにあたる。ユニクロを批判する人はこの工場からの仕入れが安く買い叩かれていると主張する。ユニクロは確かに最安値の仕入れ価格で工場から買っているだろう。だが、そこには理由がある。

工場の経営を同じ様に考えてみると彼らの限界費用は生地や糸となる。この生地や糸を彼らは大量に安く仕入れることが出来る。ユニクロが製品を全部買ってくれるからだ。ユニクロが買えば買うほどB式の左辺が大きくなり右辺を賄える様になる。右辺が変わらなければ、数量が大きくなると粗利益を小さくすることが出来る。

粗利益が小さくなれば、限界費用は変わらないので価格は下げられる。ユニクロ自身も強力な販売力で数量を大きくすることで粗利益を下げている。ユニクロにとっての固定費は主に販売員なので、店舗あたりの店員を少なくする努力が重ねられている。例えば、ハンガーに商品を吊るしておくと客が広げた商品を畳む人手がいらないので店員を減らせる。GUの店舗はこの方法でユニクロよりも安い価格設定が出来る。

斯様にユニクロは大量販売と低コストオペレーションを徹底することで低価格を実現している。ユニクロのデザイナーは他のブランドよりも条件は良くないのだそうだ。その条件も偏に低価格で商品を提供するためだ。

ユニクロが低価格で商品を提供することは消費者の可処分所得を増加させ、消費者を豊かにする。販売店が増えて雇用も増やす。ユニクロはアパレル業界が「当たり前」の様に思っていた高価格と高利益に挑戦したのだ。そのイノベーションは見習われこそすれ、批判される様なものでは決してない。

2010年3月12日金曜日

百貨店の明日

日経ビジネス、東洋経済、エコノミストが続け様に「百貨店衰退」の特集を掲載した。

百貨店衰退の理由や今後の展望を自分なりに記しておく。

百貨店はかつて日本が貧しかった時代には、そのファシリティーも扱う商品も高級で贅沢なものだった。しかし、みんなの生活レベルが上がってくると、その魅力は色褪せてしまった。百貨店が売りにしていた「夢の様な空間」はすっかりディズニーランドに奪われてしまった。非日常性では郊外のアウトレットモールにすら見劣りする。

「夢の空間」がそんなに沢山作れるわけではないのだから、それを売りに出来るお店は限られる。東京なら高島屋本店くらいだろうか。他は広さを除けばファッションビルと変わらない。そこに夢空間を求めることは出来ない。

外商に代表される顧客ごとのカスタマイズされたサービスはAmazonのリコメンデーションシステムで、安価に提供出来るものだということが示された。サービスがシステム化でフリーになったことは衝撃である。

百貨店には既に売るべき商品がなくなってきた。基本に立ち返る時なのだと思う。即ち、「最良の商品を最良の価格」で提供するのだ。サービスは消費者に商品知識が足りなかった時代の穴埋めでしかない。今は消費者の方にこそ情報がある。

百貨店の明日を考えた場合、従来のサービスをベースとした高級店は全国で十店舗くらいだろう。そのほかはファッションビル化や専門店化が進むだろう。

少子高齢化は都市への人口集中を促すだろうから百貨店の閉鎖は加速していく。業態を変える店も出てくる。それは「百貨店の衰退」と見れば悲しいことだが、新しい業態の小売店が興ると考えれば何も悪いことばかりではない。

映画「フラガール」では炭鉱町が観光に業態を変える様が描かれた。寂しい思いはあれど、新しいビジネスに切り開く姿は感動を与えた。百貨店の興亡も同じだ。僕は新しい小売店の姿が出来上がることを楽しみたいと思う。

2010年3月1日月曜日

オバマを越えて

オバマ大統領が禁煙に失敗したらしい。

無理に止めるものでもない気がする。

ストレスフルな大統領という仕事では止めるのは大変だろう。

「喫煙する人は意志が弱い」

という意見もあるそうだ。

意志が強固な喫煙者を何人も知っているから関係ない気がする。

逆に、意志の弱い嫌煙家もいる。

さて、オバマは大統領になった時点で「意志の強い喫煙者」であることは間違いない。

禁煙に成功する人は沢山いるが、大統領になるほどの成功を得る人は少ない。

今回の報道で禁煙出来た人も出来なかった人もオバマを身近に感じるかもしれない。

しかし、僕はあれほど注目される人物がタバコに手をのばしてしまう環境の厳しさがあるのだろうなと思う。

禁煙を継続できる環境に感謝する。

2010年2月22日月曜日

“見積もる”

未来を予測するのは難しい。

それでも未来に立ち向かわなければいけないか弱き人間にとって、未来を見積もる手法は未だに確立していない。

システム開発をしていた頃、色々な見積もり方法を試してみた。

ファンクションポイントだとか。

でも、開発実績のデータ蓄積が出来ていない未熟な組織で有効なのは、エンジニアやプログラマーのKKD(経験・勘・度胸)の精度を高める方法が良いのではないかと思った。

具体的には開発成果物毎に最頻値、最大値、最小値を出させて加重平均する方法だ。

開発プロジェクトでは同じ種類のタスクはナカナカないので、成果物の種類によって見積もるのは誤差が大きくなりすぎる。

そんな誤差をエンジニアやプログラマーの経験は埋めてくれるのだが、大抵の場合は過剰な見積もりをする。

それを加重平均で除してやれば精度を高めることが出来る。

マネージャーやチームのコミュニケーション能力が高ければ他の方法もある。

エンジニアやプログラマーが隠し持つ余裕時間を奪って管理する方法だ。

これはマネージャーとメンバーの信頼関係が大切になる。

もちろん、先の方法でも信頼関係は必要だ。

しかし、最初の一歩としては、いきなり余裕時間を管理するよりやり易いだろうと思う。

2010年2月7日日曜日

支配されたがる人も世の中にはいる

池田信夫さんが「政治家や官僚には自分が正しいというバイアスがある」ということを書かれていた。先日、ツイッターでの意見交換で、それが政治家や官僚だけのことではないと思った。

すなわち、政治家や官僚などの「支配する」側だけでなく、一般の「支配される」側にも、同じバイアスがある。それは「(自分は別だが)国民は愚かなので、政治家や官僚が正しく導くべきだ(そして、自分は支配する側にいるべきだ)」。()内は僕の偏見だが、意外とこう考えている人は多い。

民主主義と封建制度や独裁制度を比べると、民主主義ほど人民に厳しい制度はない。封建制度や独裁は支配側が全てを与えてくれるので被支配者は楽だ。逆に支配者は忙しい。民主主義では全員が応分に政治上の意思決定に関わらないといけないので大変。

大変なのは嫌なので、とにかく楽をしたいと「パンと娯楽」を求め権利を放棄したことで、古代ローマ帝国とナチスドイツは生まれた。民主主義に独裁の萌芽が隠されているということで、それを逃れるには皆が努力するしかない。

しかし、一番良いのは政治家や官僚が活躍しないですむ世の中だと思う。

携帯を変える

先週の日曜日に携帯を変えた。

基本的にキャリアを変えるつもりはないので機種だけを交換。

携帯も端末代金を月々の使用料金から分離しなければいけないので料金制度が複雑になった。

端末代金を通話料から分離しなければいけない理由は僕には謎。

サービス利用に不可欠なものの料金(主に固定費)を少額ずつ利用者が負担するのは良くある話。

レストランで「席料」をとらないところは飲食代金に席料が含まれる。

それがサービスモデルを多様にするわけだ。

なんで政府が介入してまで変えたのか?

政府がNTTの大株主であることと関係があるのだろうか?

2010年1月28日木曜日

正しい中央集権を作ろう

地方分権をして地域経済を発展させよう。

その意気や良し!僕は道州制移行を伴う地方分権に賛成している。過去何回か繰り返された自治体合併は中途半端でこれ以上繰り返しても実にならない。都道府県に手をつける時だ。

ただ、その為のステップとして、正しい中央集権の確立を提唱する。今みたいに省庁縦割りで屋上屋を重ねる様な中央支配ではなく、官僚の知的能力の粋を集めたMECEな中央集権だ。

だが、これは無理だろうと思う。そもそも省庁はこれが正しい役割分担と思っているのだ。だから、いつまでも省庁同士、中央と地方の間が曖昧で地方分権は進まない。

だから、一番良いのは先に省庁を半分にする解体だろう。

2010年1月27日水曜日

乗数効果の勉強を

「子ども手当て」で消費が増えて景気回復

昨日の参院予算委員会で、自民党の林議員が「子ども手当ての乗数効果は」との問いに、仙石大臣が「1以上であることは間違いない」と答えた。

どうも双方とも乗数効果を理解していないのか、質問の度に審議が中断したらしい。乗数効果は貯蓄性向の逆数なので、国民が所得を貯蓄に回そうとすればするほど下がったいく。悲観的な国民心理ではいくら子ども手当てがばらまかれても大した効果はない。乗数効果を改善させるのは国民を楽観的にさせる環境だ。

そのために生活の安心をと子ども手当てをばらまいても将来的に増税で回収されると考えれば、消費性向は下がってしまう。いま盛んに「国家財政は赤字ではない」という論陣を張っているグループがいるが、子ども手当てに合わせた消費性向を上げるためのプロモーションなのではないだろうか。だとすれば、そのプロモーションは難し過ぎて共感を得られないだろうと思う。

ともあれ、乗数効果なんて難しい議論をするのなら政治家の人たちも勉強した方が良い。

2010年1月26日火曜日

抜本的な規制緩和を

日経新聞 1月26日 朝刊 7面
「認定こども園縦割り見直し」

2010年度に制度改正を行って、普及促進を図るのだとか。

縦割りの弊害という以前に規制に守られた公営の幼稚園や保育所の人件費は高すぎる。新規参入の機会費用も高いので、生産性が上がらずに利用者が増えない。

品質を守る規制は必要だが、量を確保する制度も必要。

2010年1月25日月曜日

アパレルの新しいビジネスモデルの考察

百貨店が売上不振に喘いでいる。今に始まったことではないが売上が年々縮小していくのだ。スーパーも頭打ちで、低価格化が進んでいる。この変化に一番影響を受けているのがアパレル業界だ。

アパレル業界は元々盛衰が激しいが、最近は老舗でさえ簡単に倒産する。売れないのだ。百貨店不振の半分くらいはアパレル商材の売れ行き鈍化だ。

景気が持ち直せばまた売れるようになる、というのは幻想で、百貨店で売られていたような洋服が売れる日は戻っては来ない。

ならば新しいアパレルのビジネスモデルを考えないといけない。

1)洋服の型紙をネットで無料ダウンロード出来るようにする
2)布や糸の通信販売をする
3)裁断済みの生地を売る
4)縫製のQ&Aをオンライン化する
5)縫裁学校と提携して紹介料を受け取る
6)縫製済みの製品を売る
7)提携修理店でのを修理を受け付ける
8)古着交換サイトを運営する
9)古着チャリティーを主催する
10)デザインコンテストを開催して商品化する

ポイントは洋服をデザインするだけのビジネスにしないということ。今までのアパレルビジネスはデザインで稼いでいたが、これからはデザインはただであげてしまって、その商品に関わる全てをサービスとして売ってしまえば良い。

先に「第二」を作る

何でもそうだが、改革は難しい。"抵抗勢力"という奴のしぶとさは驚く程だ。その抵抗を一気に無効化させるウルトラCが「第二」を作るというものだ。

第二を作って、オリジナルと全く違うアプローチで新しいものを作る。オリジナルが陳腐化し、弱体化したら潰すか吸収してしまう。今日、ツイッターを使った電波少年企画を始めた「第二日本テレビ」。このアプローチは正しい。

ビジネスでも新規事業を既存事業の中に位置付けると大抵失敗する。古い成功体験や陳腐化した資源に引きずられるからだ。だから新規事業は爪弾きに見えるくらい端っこで、既存事業と無関係に進めた方が良い。

日本中に「第二」がたくさん出来れば良いのに…

2010年1月21日木曜日

大きく変えて、調整する

知り合いとやり取りしているメーリングリストに投稿した内容を多少編集して再録する。今の自分の立ち位置を記録するという意図もある。

破壊を伴う「創業」に踏み出せる人はほんのわずかではないかと思う。歴史上は創業と守成の双方を成し遂げた人は何人かいるが、それは相当の運の良さというものもあっただろう。ソニーやホンダ、Panasonicなど創業の人と守成の人が同時期に、あるいは多少の前後をもって揃ったときに、本当に大きな成功が得られている。

今の日本はシステムが故障している程度であればまだしも、動作条件が変わってきているので役に立たないというのが大きな問題なのだ。手直しでは間に合わず、ベテランは経験があるだけに全く分からないという状況に見える。だから、役に立たないシステムを徹底的に叩き壊す必要があるのだ。ベテランの知識や既存のシステムが役に立たないことが分かっても、ベテランは既存システムを使い続けようとするものだ。そんな時に本当に必要なのは、そんな役立たずのものを思い切って叩き壊す勇気だ。

自民党は四半世紀前に役目を終えた「戦後復興のための開発独裁型統治システム」を固守し、そのために「経済発展の為の分散型自由経済活動システム」の発達を制限してきた。その破壊をパフォーマンスも含めて提唱したのは小泉純一郎と結党当時の民主党だった。

「自己責任と自由意思を前提とした市場原理を貫徹することにより、経済構造改革を行う」

これは未だに民主党の経済政策の総論として掲げられているものだが、政権をとった後の民主党は市場原理を目の敵にしているかのよう。

結局、マイナーチェンジでなんとかやってきた日本システムは抜本的な改革に迫られている。鳩山首相はこの政権交代を「明治維新」になぞらえた。明治維新では多くの改革が実行された。その中でも廃藩置県を伴うヒトモノカネの流通の自由化が最も大きく日本の発展に寄与したと思う。「入鉄砲に出女」と言われるほど江戸へのヒトの出入は制限されてた。また江戸の外の往来も、大川に橋が掛けられないなど、ヒトの移動をさせないことを前提としたのが徳川時代だった。それは経済性を犠牲にして、秩序を優先したことによる。お陰で江戸時代は社会的には安定していたが、栄養状態は悪く寿命も短かった。

それを明治維新は全く変えた。スタートこそは藩「主」を藩「知事」に置き換えただけだったが、度重なる統廃合を推し進め、封建君主から統治権を剥ぎ取った。ヒトの往来は庶民の「村人」意識を「国民」意識に拡げさせた。国民国家「日本」の誕生がそこにあったのだ。さて、この日本を新しい時代に向けてメジャーチェンジする為に、統治単位と統治体制を大幅に変えてしまわないといけない。民主党は地方分権や道州制について言及しているので、それは是非実現して欲しい。徴税や公共投資、住民政策の多くを中央政府から地方自治体に移管して、中央集権体制を大幅に変えてしまう。そんな大胆な改革を期待する。しかも、そんなに時間をかけずに。

明治維新はその終了は諸説有るが明治20年頃には終わったようだ。廃藩置県にいたっては明治4年に断行された。平成の時代にもっと短い実現を望んでもおかしくは無い。諸制度全ては5年程度、道州制への移行は1年くらいでやって欲しいものだ。

「茹で蛙」という逸話がある。蛙が煮立った鍋の中で茹で上がってしまうというものだ。これは少し誤解されているのではないかと思うが、正確には「グラグラ煮立った鍋に蛙を放り込むと"熱っ"とばかりに飛び出してくるが、水に入れて少しずつ加熱していくと熱くなったのに気付かずに茹ってしまう」というもの。少しずつ起きる変化には人は鈍感で、気付いたときには手遅れ。でも大きな変化にはさすがに対応できる。だから、変化を起こすなら大きく、というのがこの教訓ではないかと思う。もちろん、大きな変化では何かと影響が大きくなる。しかし、大きく動かしてから微調整したほうが良いのではないか。だから、自治体を少しずつ統合して四半世紀くらい掛けて道州制に移行なんて話しではなく、道州制に移行してからより良い状態に調整して自治体の統合や住民サービスの変更をすれば良いと思う。

テレビや新聞のサラリーマン記者は基本的には「職務」として"ジャーナリスト"をしているのであって、「使命」として"ジャーナリスト"をしているわけではない。僕は「あぁ、マスコミは決して庶民のことは分からないよ」と思ったのは去年の春闘を扱った報道のときだった。春闘では「ベア・ゼロ回答」を労働組合が受容れて、そのことに組合内外から色々と意見があった。マスコミは仕切りとそれを報道していたが、僕は春闘で話題に上るような会社はベア・ゼロであっても「ボーナス満額回答」であったことをマスコミはもっと問題にするべきだろうと思った。世間ではボーナスがゼロであったところがほとんどで、ベアなんて考えも及ばない。しかし、下請け企業にそれほどの思いをさせた元請企業の多くはボーナスを満額支給して、それをマスコミの社員記者を含めて不思議と思わないことに驚いたものだ。

テレビや新聞は今転換期にさしかかっている。総務省はなんとか彼らを助けたいようだ。原口大臣は政権奪取前にテレビで政権をとったら電波料を下げると露骨な利益誘導をしていた。地デジはNHKの新しい利権になったかの様だ。地デジ対応のための投資によって弱った地方テレビ局は在郷キー局に益々支配され、メディアの多様性は失われるばかり。それでも赤字になるだろうが。地デジ化で空白となった電波帯は新しい無線ビジネスの為に開放されるのかと思いきや、どうも怪しい。地デジ化が延期になって、電波帯が空かないかも・・・という話しもある。

新聞は「押し紙」で発行部数を偽装していて、独禁法に抵触している状態。コンビニで売れ残り弁当の値下げが禁止されていたのを批判していたが、業界統制価格で横ならびの上、規制に守られて価格を固定している業界が価格戦略やブランド戦略に心血を注いでいる会社を批判できるのか?と思う。これらのメディアも早晩インターネット上の無料メディアに押されて、やがてはビジネスモデルが崩壊してしまうだろう。それを塞き止めるには、何よりも「信頼される」是々非々を論じるメディアになるということではないかと思う。

2010年1月18日月曜日

ドラマ「ヤマトナデシコ七変化」の感想

「ヤマトナデシコ七変化」は漫画原作なのだそうだ。
原作どおりなのだろうから仕方が無いのだが、色んな要素が合わさったドラマだなと思った。

1)ヒロインを変身させる:野ブタ。をプロデュース
2)主人公とヒロインが滅茶苦茶強い:オトメン
3)人気の美男子四人:花より男子
4)ご褒美のために主人公が課題をクリア:アタシんちの男子(舞台の洋館も同じ場所。あとキーマンとして高島礼子が出演)

んってことで、メインキャストのうち3人までがジャニーズ。これは「有閑倶楽部」と同じか。

まだ、始まったばかりだが、漫画原作のドラマは何かとコミカルになるもので、これもコメディタッチラブストーリーになるのだろうから、続けてみるかはちょっと微妙・・・。

でも、今やテレビ局企画のオリジナルドラマって作りにくいんだろうな・・・と思う。スポンサーを集めるのには「原作が人気」か「脚本家が人気」のどちらかが必須で、前者の場合は小説ってこともあるんだろうが、読者層は圧倒的に漫画の方が多いので、どうしても漫画が原作になってしまう。後者は橋田壽賀子とか倉本聰ってところ。

2010年1月15日金曜日

小沢疑惑について

一昨日の強制捜査から、大手メディアでは華麗にパスされた観のある石川議員の元秘書の暴露など小沢一郎周辺の疑惑は深まるばかりだ。メディアは静観、ネットは賛否両論という感じ。

小沢擁護派は
・検察の横暴、国策捜査だ!
・小沢一郎は衆議院選挙で禊を済ませたからいいじゃないか(これは鳩山首相なども言っている)
・「出来る」政治家はダーティーな部分があるが、仕事が出来るんだから良いじゃないか!
などという。

検察が所謂「正義」を振りかざして、有為の人物を陥れるという話しはリクルート事件や「国策捜査」で有名になった佐藤優事件で有名になった。でも、彼らが言うように本当に謂れの無いことなのか?というのは疑問だ。確かにリクルート事件では当時の「常識」として未公開株の譲渡が法に触れるかというのは微妙であった。しかし、何等かを譲り渡して便宜を図ってもらおうという意図に問題が無かったかは意見が分かれよう。

佐藤優氏と鈴木宗男氏の関わった国境を越える事件では「国益と法」が争われるのかもしれない。ただ、法の遵守を考えると摘発が不当であったとまではいえない気がする。ただ、他にも触法行為はあっただろうし、見逃されている人は他にいるだろうという話はあるだろう。法の公平性の面で、検察が責められる点はあると思う。つまり、「やらな過ぎ」ではないか?と思うのだ。首相が思わず「国策捜査」と口走ってしまったが、そもそも政治的思惑から独立することが要求される検察は、法や倫理、国益や公益に即して捜査を行うしか寄る辺は無い。その意味で、検察の捜査は全て「国策捜査」な訳で、そのこと自体が批判されるというのはおかしな話だ。

政治家には「選挙万能理論」がある。有権者にもあるのかもしれない。選挙で禊を受けたのだから良いだろうというものだ。これを僕は「学級会民主主義」と呼んでいる。クラスでガキ大将が窓ガラスを割ったと問題になって、「小沢君を許しても良いと思う人、手を上げてください」と言っているようなものだ。正解は、先生がガキ大将をこっぴどく叱らないといけない。遊びだろうとなんだろうと、不注意で窓ガラスを割るということについてキチンと反省させなければいけないのであって、それをみんなで許してよいか決める問題ではない。

選挙をくぐれば「原理・原則」を曲げてよいというのは日本だけに通用する民主主義だ。民主主義には国民の評価の前に「法」というものが厳然としてある。それを曲げてはいけなくて、変えなければいけない。小沢一郎の疑惑は追及されなければいけなくて、それを辞めるのは曲げることになる。それが嫌ならば、政権党のうちに当選した議員のための特別恩赦制度を立法化するべきだろう。それでも、そんな不公平な法律は憲法判断として廃案されるべきだろうと思う。

出来る政治家は汚いことにも手を染めているものというのはイメージとしては分かる。しかし、汚いことをしなければ政治家として手腕がふるえない人が本当に有能なのだろうかということは考えたほうが良い。僕はこれは間違っていると思う。違法なことをする人は、有能ではなく、心が弱い人である。その弱さも含めて人であるのだから、間違ったら償えばよいし、やり直せばよい。それを言い訳するのは究極に弱い人なのだと思う。

鍛えること、鍛えられること、成長することを放棄するのか!

教員養成「6年も…」
「志望者減る」現場不安
日経新聞 11月18日 39面


教員の質向上の為に養成期間を6年に引き上げる民主党のマニフェストがあるのだとか。今の教員の質が悪いのかということは僕には分からない。ただ、インセンティブによってパフォーマンスが向上するということは分かる。それでも、6年制にすることが解法かというと疑問がある。

薬剤師の養成期間が6年になって発生したのは志望者の減少だという。薬剤師になる機会費用が1.5倍になった為に志望者が減ったのだ。しかし、薬事法の改定によって薬剤師の需要は増えた為に結果的に質が下がった。

結局、質の向上には「競争」が必要であり、競争を促すのは規制緩和だと思う。すなわち、能力が足りない教員の解雇が出来なければ、教員の質向上は果たせない。

2010年1月12日火曜日

繁閑打破

昨日は成人の日だった。日本各地で20才になった女性が晴れ着を身にまとい、男性は少し見栄えの良いスーツを身につける。女性は朝から美容院に行き、最近では男性もめかしこむ。

あの大量の晴れ着は一体どうなるのだろう。ほんの一部はタンスに眠るだろうが、ほとんどの場合は貸し衣装なのでお店の倉庫だ。次のシーズンを待つ。
着付け係は目の回る様な忙しさから解放され、仕事からも解放される。着付けスキルの市場価格は昨日とそれ以外で10倍くらい違うかもしれない。

これが少しずつ売れれば消費者は安く買え、供給側も安定して仕事が出来る。成人式を市役所がやる必要があるのかという意見もあるが、それよりも実施日を分散した方が意味がある気がする。

崖に続く楽な選択

今、ある事業再生に取り組んでいる。

その事業はマーケットがただでさえ年率数%縮小し、この一年では一割以上縮小した。長く寡占状態が続いたため、特にトップ企業は高コスト体質になってしまい、市場縮小をキャッチアップしている二番手以下よりも業績が悪化し、破綻寸前となっている。事業再生には大幅な改革が必要で、業界の幾つかの(あるいは、殆どの)慣習や常識を破らなければいけない。

さて、事業責任者と話をすると、これ以上コスト削減は出来ないと言う。現場のことを知りもしないで数合わせしてもしょうがない、とも。マーケットが縮小する中で競争が激化し利益がとれないのは"当たり前"なのだから、他で稼ぐべく新規事業を開拓して欲しいなどと言う。

確かに、マーケットが縮小している時の事業責任者は辛い。ある意味、マーケットを創造しようと言う新規事業開発者より辛いだろう。だが、後がないベンチャーと違って、なまじ他の事業などがある為に言うことが甘くなる。

この事業責任者は"甘い"。一般的に寡占業界のトップ企業は二番手以下が太刀打ち出来ないくらいのコスト競争力がある。大抵の場合、業界品質を決めることが出来るし、規模の経済を働かせることも出来る。事実上の標準(de facto standard)を握っているため、市場動向を何処よりも早く入手し、競争相手に先駆けて対応することが出来る。

ところが、この事業は業界をリードすることが出来ず、規模だけはトップクラスだが、コスト競争力は劣り、市場対応も遅い。全てが悪い方向に向かっている。

なら、この事業の向かうべき方向性はどうあるべきか?

まずは、徹底的なコストカットだ。実際には節減したリソースをカット(解雇など)することは難しい。だが、「生産性」を向上させることでリソースの空きを作ることが重要なのだ。リソースに空きが出れば、外部から調達しているものを(全てではないが)内製化出来る様になる。内製化率が上がれば、すなわち調達率が下がれば限界利益率が改善するため損益分岐点が下がる。

アウトソースの利用について誤解があるのは、自分たちのリソースから零れた分を外部から調達しようとすることが多いと言うことだ。だが、本来ならば需要がこぼれるほど沢山あるならば、自分たちのリソースを工夫して遣りきるのが正解で、アウトソースを使うのは、付加価値の低い単純作業でない限りは止めた方が良い。外注は「需要が少なくて安定していない部分」に限って行うべきで、十分な需要があるならば内製化するべきなのだ。

だが、こういうことが出来ないと後はない。そう分かっていてもなかなか方向転換出来ない。崖に続くと分かっていても歩き続けるものなのだ。

JALの再生計画に思う

JALの再生計画は法的整理を経て行われるものとなる可能性が高くなった。

僕は当初からJALの再生計画は法的整理で行う以外に道はないだろうと思っていた。加えて、政府による支援も避けた方が良いと思っている。というのも、確かにJALが倒産して飛行機が飛ばなくなるなんてことがあると困る・・・なんて思うこともあるが、実際にはJALが飛ばなくても殆どのケースではあまり困らない。国内線に関して言えばJRがあるし高速バスもある。日本は国土が狭いので、仮に飛行機による移動がなければ時間が二倍かかるなんてことになっても半日以上になることはない。海外便で言えば、同じルートを飛んでいる航空会社はいくらでもいるので、乗り換えればよい。もちろん、飛行機が足りなくなるだろうし、パイロットも不足するだろうが、飛行機もパイロットもJALからいくらでも出てくるので困らないだろう。

JALが政府支援によって救済されないことで困るのは地方選出の国会議員くらいだろう。それ以外の人は「困る?」と聞かれれば「困る」と答えるだろうが本当に困る人はいないだろう。

2010年1月8日金曜日

ドラマ「JIN-仁-」の続編が話題になっているという話について

昨日、TBSのドラマ「JIN-仁-」の最終回を見た。
当然、ビデオで。年末に録画しておいたのだが、忙しくて見るのが遅くなってしまった。

最終回自体については野風の乳癌手術のエピソードで終わる為、原作の連載でも最初のほうのエピソードで終わった感じだ。だから、続編があるかということについてはドラマの終わらせ方から言っても「あるんだろうなぁ」と思う。

ただ、原作のファンの意見で書くと
1)南方仁はキャラクター的には大沢たかおよりむしろ内野聖陽の方が似合っていた。原作における南方仁は大沢たかおが演じたような思い悩む姿よりも果敢に挑戦する野性味のある印象だからだ
2)南方仁のキャラクター設定や未来というオリジナルキャラクターを除くと原作を踏襲していて漫画作品のドラマ化としては好感が持てた

というところ。

原作では初回に登場した包帯男の正体についてもある程度明らかになっている。原作を読んでいない人には野風が手術するために身請け話が流れたり、咲が結納の日に破談にさせたりというのが強引に感じたかもしれないが、原作の通りなのだから変なエピソードにならなくて良かった。

さて、続編があるとして、壮大な計画とこじんまりとした計画を考えてみた。

「JIN-仁- Season10」くらいまで続ける。

原作の連載がクライマックスに差し掛かっているので、連載との進み具合の心配をせずに数年にわたってドラマを作るということも出来る気がする。すると、

Season2:新生仁友堂編〜今回のラストで辰五郎が建設中だった仁友堂が完成してそこでのエピソードを中心に展開
Season3:横浜編〜横浜でヘボンに会ったり生麦事件に遭遇したりといったもの
Season4:新撰組編〜京都で新撰組と絡む
Season5:さらば野風編〜野風が日本を去り、咲と結ばれる
Season6:東海道中編〜江戸から京都への道中記
Season7:寺田屋事件編〜連載中のエピソード
Season8:・・・・

って感じではどうだろうか?Season6までをドラマでやって、Season7は映画っていうのもあり。