2009年4月27日月曜日

世襲論を超えて・・・

国会議員の世襲制限が議論をよんでいる。

この議論のきっかけはメディアによるものだと思うが、メディア側も揃って世襲批判ということでもない。
そもそもメディア側にも「XX代続いた記者」とかいるし、マスコミほど縁故就職が激しい職場もない。

世襲が批判されるのは何故だろうか?
一般的にある人が生み出した「価値」を引き継ぐ基準は「血縁」に従う。
これは政治家に限らず事業や思想など多岐にわたる。
事業を引き継ぐための効率的なシステムが伝統的には世襲に求められているのだ。

世襲を超えるためのシステムとして最初に考案されたのが「禅譲」だ。
トップが人材を選出してその人に価値を譲る。
禅譲には婚姻が絡む場合が多い。
前代のトップの娘婿が次代を託されるというのは良くある話だ。

最も新しい選出方法が選挙となる。
企業においては役員会から選出したり、外部から招いたりするのはこれだ。
政治でも色々と制約はあるが、選挙が世襲を超えるために実施されている。
それでも世襲はなくならない。

禅譲には、正確に有能な人材を選ぶことが出来るか?という問題がある。
選挙では、一つにはコストがかかる。
玉石混交の候補者から多くの選挙人が選ぶというのは実は不経済なのだ。
それと、選挙人が選ぶことに「倦む」という問題もある。
また、選挙人が扇動されるケースもある。
禅譲にせよ選挙にせよ、その制度的限界を感じたときに再び世襲に舞い戻る。

日本の政治を振り返っても、世襲と禅譲と選挙が繰り返されている。
江戸時代でさえそうだ。
四代家綱の死後、宮家の血筋に禅譲されることが検討された。
吉宗は候補者からくじ引きで引き当てられたという伝説がある。
最後の将軍慶喜はそれまでの働きによって推挙された。

世襲を超えるのに人類は数百年に及ぶ時間を必要とした。
世襲を超えた世代交代システムの確立には更なる時間が必要だろう。
しかし、それはいずれにせよ「特権者の自制」による外はなく、特権者の自制はその他大勢の人たちの「常識」によって規定されるのだろうとも思う。
世襲論を超えるには多くの人が特権に関わる責任について深く考えて自制するモラルを身につけることなのだろうと思う。

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