2011年6月9日木曜日

憲法改正論議を!

みんなの党の松田公太議員が「憲法を国民の手に」(http://ameblo.jp/koutamatsuda/entry-10915964306.html)という記事を投稿している。「憲法96条改正を目指す議員連盟」の設立総会に参加したというものだ。

> この世に完璧なものなどありません。
> 最も重要な原則は遵守しながら、時代にあわせて改善していく必要があるものは改善して行く。当たり前のことだと思います。

日本の憲法が制定後一度も改正されたことがないというのは異常である。というのも、今の憲法は実質的に被占領時代にアメリカによって「押し付けられた」ものと理解されているからだ。GHQによる”新”憲法の制定前には多くの政党が憲法改定草案を発表している。自由党や進歩党、共産党に社会党も発表している。面白いことに、社会党の発表した憲法改正草案では天皇が維持されていることだ。

これらの憲法改正論議がGHQ統治終了後になぜ再燃しなかったのかは不思議である。時の吉田茂首相が経済復興を優先して憲法改正をさせなかったという話しが真しやかに唱えられているが、憲法改正草案を提出していた左派政党が、GHQ撤退後に「護憲」に走っているのは不思議だ。反米独立を謳いながら、GHQ謹製憲法を守るというのは矛盾しているだろう。

結果的に、「護憲」は55年体制と言われた時代の自民党と社会党にとって都合が良いものだったのだろう。自民党にとっては安全保障の最重要関係国としてアメリカを寓する背景として、GHQ時代の憲法を死守して友好を示したものであろう。社会党にとっては、GHQ憲法の「国体弱体化」を狙う条項は都合が良かった。社会党が1946年に発表した改正要綱の3分の2以上は現在の憲法は満たしている。

それが長く憲法改正が実現しなかった背景であろう。それに加えて松田議員が紹介している96条の3分の2規定で改正のハードルが高くなっている。この改正を目指すということについては賛成する。賛成するが、この3分の2規定を改正すること自体が3分の2以上の賛成を要するというのは大きな矛盾であろう。

憲法改正にあたって、それが何条であろうと改正に反対する議員の数は3分の1以上いるということになる。その3分の1以上は、自分達のアドバンテージを弱める改正に賛成するのは通常であれば考えられない。それが実現するとすれば、この議員連盟側の粘り強い説得-言葉の力-によるしかないだろう。

2011年6月8日水曜日

忠誠と盲信の違い

「君が代」の起立斉唱を教職員に業務命令として強制できるかどうかということについて、大阪の橋下知事が条例を提出したり、最高裁で起立命令が合憲と判断されたりということで、話題になっている。この「君が代」問題は「国旗掲揚」問題と並んで定期的に公立教員業界=日教組を中心に騒動になる。君が代・日の丸への反対については理論の定石があり、
 
「君が代は帝国時代の国歌であり、歌詞は天皇崇拝の意味合いが強い」
「日の丸は侵略戦争を起こした軍隊の象徴である」
 
といった理由だ。
 
傍論としては、「敗戦国であるドイツが戦後国旗と国歌を変えたのに日本は"反省"がない」というものもある。
 
これらの主張に対する反論としては
 
「君が代の"君"とは天皇を特定するものではない」
「日の丸は多少のデザインの変遷はあるが、日本を示す意匠としては伝統があり相応しい」
「第二次大戦を"侵略戦争"ではない」
 
といったものがある。
 
こういったことは実はあまり本質ではない。というのも「国旗や国歌というものは当該国や民族の長い歴史の中で有識者や指導者によって恣意的に選定され制定される」ものだからだ。だから、「国民投票によって国歌や国旗を決めよう」といった話はあるが、これは何の正当性もない。そもそも、国民投票によって決めるということは反対者がいるということであり、反対者は決まった国旗や国歌に対する態度はどうするのか?という、ともすれば民族分裂!みたいな話にも発展する。だから、「俺達にも国旗や国歌を決める権利を与えろ」という主張は退けられて当然である。
 
では、この問題の本質は何か?ということである。これらの議論に通底しているのは、「国家主体に対する忠誠とは何か?」という問題である。国歌・国旗が象徴する主体がそれが天皇という個人であれ、国家という機関であれ、"忠誠"を誓うことに対する抵抗がこの反対には籠められている。だから、国歌や国旗が何であろうと反対は続く。
 
であれば、彼らはなぜ国家に忠誠を誓うことに反対するのだろうか。「太平洋戦争において無批判に戦争を受け入れたことが多くの犠牲を生んだ」というのは正しい。あの戦争では、誰の意思決定もなく、圧倒的な好戦ムードが戦争に対する批判を封殺した。好戦ムードは日中・日露・第一次の打ち続く戦争に連勝したことで醸成された。
 
誰の意思にも依らず始まった戦争は結局は国民には止められなかった。その贖罪意識が国家の否定に繋がっているならば、それは間違っている。それは国家に対する忠誠とは違うからだ。
 
忠誠とは「忠」と「誠」から成る。「忠」は相手に「真心を尽くす」という意味であり、「誠」と同義で最上級の真心を尽くすということだ。この真心を尽くすとは何か?忠の類義語からその真意が分かる。忠の類義語は「孝」である。
 
親に尽くす様に国家や主君に尽くすというのが忠誠の本当の意味だ。では、何がなんでも親に従うというのが孝行であろうか。中国の思想では忠孝とは「主君に/親に従い、その行為をなぞる」ものとされる。これは度重なる戦乱を抑える方便であったが、それによって中国は戦乱によってしか成長出来ない国として長く停滞した。
 
「君、君たらずば、臣、臣たらず」という言葉が示すのは、国を想い親を想って諫言することで、或いは既存の考えを覆すことで、より良い成長を遂げることの大切さを示している。これが真心を尽くすということではないだろうか。その意味で無批判に盲従することは不忠であり、不孝なのだと思う。

2011年6月3日金曜日

菅首相の退陣時期に対するドタバタについての所感

菅首相が"退陣宣言"と引き換えに不信任案否決を手にしたが、会見などで「福島原発の低温安定化などの一定のメド」がついてからの退陣という認識を明らかにしたことで、早くとも秋口、遅ければ来年初頭まで続投する意欲をみせた。鳩山由紀夫などは「約束が違う」と嘆いているだろうし、退陣宣言を聞いて否決に回った賛成派も「騙された」と感じただろう。昨日の昼間の退陣宣言でも「メドをつけてから」とは言っているらしいので菅首相が全く嘘を言っているわけではない。しかし、幾ら退陣宣言をしたからとは言え否決に転じた方も矛盾している。

野党の提出した不信任案に賛成しようとした人たちは「菅首相ではこの難局を乗りきれない」と口々に言っていた。なのに菅首相が「メドをつけて退陣する」と言ったら矛を収めるとは頭が悪い。「難局を乗りきれない」とは「メドをつけられない」ということだ。だから延々と続投することになる。不信任賛成派は菅首相が辞任会見をするまで手綱を緩めるべきではなかったが、善良な鳩山前首相に従ってしまった。

結果的に菅首相に続投のお墨付きを与えてしまった反対派は大量離党でもする以外にやることがなくなった。

2011年6月2日木曜日

こんな時期に不信任なんて非常識な!という意見に対する反論

自公が提出した内閣不信任案は否決となったが、提出以前から「こんな時期に不信任なんて」とか「被災者のことを考えろ」といった意見が聞かれた。そんな意見には反対だ。

不信任を否定する意見の骨子は

1)一時たりとも遅延させることの出来ない被災者支援の遅れにつながる
2)一時たりとも遅延させることの出来ない福島原発対応に穴が空く

しかし、今までの菅内閣の実績を見てみると、1)被災者支援はNPOに丸投げで補正予算は遅々として進まず、2)福島原発は初動を含めて対応がお粗末で、東電救済ばかりが目立つ。菅内閣が"遅い"だけなら未だしも優先順位が自分勝手で、国民の為になってない。

だから、一時的な停滞があったとしても、能力がないものを替えるというのは正しい。無能なものを替えないのは組織としては不誠実だろう。

2011年5月27日金曜日

QCD(F/S)->E/I

製品だろうがサービスだろうが、それを構成する要素はトレードオフの関係にある。品質:Quality、コスト:Cost、納期:Deliveryの三つは良く知られている。最高の品質を実現しようとするとコストは膨大になり、納期は長くなる。コストを最小にすると品質は犠牲になり、納期は無視される。とにかく納期を短くしようとすると品質は保証されず、コストは高くなる。

これは1)人材は有限であり、2)時間は有限であり、3)資源は有限であるという物理的な制約によるものだ。しかし、最近これら三つの要素に加えてもう一つ加えなければいけないのではないかと思う様になった。それは機能/サービスレベルである。機能やサービスレベルを品質に含めて考える場合が多いがそれでは混乱する。最高の鉛筆は機能はたった一つしかないが品質は上等である。

UNIQLOはスタンダードなカジュアル衣料に絞らながら、高品質を実現している。マクドナルドは規格化したオペレーションで安価で品質の良い食事を提供する。逆に、ディズニーリゾートは品質と機能を高めるためにコストは高い。しかし、その品質と機能が客の心を掴み高い価格でもリピーターを生むのだ。

Appleはどうか?iPod、iPhone、iPadは品質は良いが高い。購入までに待たされることもある。機能はと言えば、そんなに高機能ではない。機能はユーザー自身がインストールしたり、時には開発したりする。

ユーザー自身が開発するという点でこれらのiシリーズは正しくパーソナルコンピュータの後裔である。なら、こんな未完成なものにこれほど多くの人が魅了されるのだろうか。そこには体験:Experience や感動:Impression といったものがある。物理的な制約に閉じ込められたQCDF/Sと違い、これらには限界がない。問題があるとすればそのような製品やサービスを開発するにあたって、大抵の場合は"上司"という人には理解されないものだ。

だから、感動的な製品やサービスを生み出すのは多くの場合は上司を持たない起業家になるのだろう。

2011年5月26日木曜日

連続性で見るべきものを非連続に見、非連続で考えるものを連続的に考えるヒト

世の中には"連続的"に変化するものと"非連続的"に変容するものとがある。ビジネスで言えば"事業改善"と"事業改革"は連続的な打ち手と非連続な業態あるいは業容変化という違いがある。連続的な改善は「Kaizen」という国際語にもなっている様に今やトヨタ自動車のお家芸だ。しかし、そのトヨタも創業事業である豊田織機を見限って自動車製造に乗り出すのは連続的な発想では辿り着かない。それは「連続的に考えるべきもの」と「非連続に考えるべきもの」があるということだろう。

連続的に考えるものに日々の事業管理がある。前年や前月、前週や前日の結果を評価して何らかの打ち手を考え実行し、その結果を検証して次の手を考えて実行する。この所謂"PDCA"サイクルを回して改善を積み重ねるのは現場責任者だ。粘り強く端々に目配りする実直なタイプが合っている。

非連続な思考を要するのは事業環境の変化によって、改善では追いつかないほど悪化した事業の再生や改革などである。これは今の事業が置かれた環境の徹底したリサーチと深い洞察、あらゆる可能性を排除しない自由な発想が化学変化を起こして発現する。論理的な思考と論理を逸脱する発想を合わせ持ったバイタリティ豊かな人が必要だ。改革は一人では出来ないので周りを巻き込み没頭させるカリスマも必要だったりする。

ところが、連続的な改善を任された責任者が突拍子もないアイデアを振り回してみたり、非連続な改革も求められる人が改善テーマしか持ち出せなかったりする。例えば、コスト改善による収支改善を求められる製造部長が新しいサービスや商品開発に手を出すなどということだ。或いは、抜本的なコスト構造の改革を望まれているのに桁が一つ小さい改善テーマを持って来ることがある。これは一つにはその人の能力が足りないというのが理由だ。

連続的な改善を非連続なアイデアで乗りきろうとする人には基本的なオペレーション分析のスキルが不足しているケースが多い。なので何が問題なのかをデータで把握出来ない。そのために改善すべきポイントが分からず、改善点がないので思い切った手を打とうとする。重要なのは非連続な発想にもデータは必要なので、天才でもない限り、大抵は役に立たないということだ。

非連続に連続的な改善を持ち出す人も基本的なスキルが足りない。データに強い場合が多いので問題を把握しているのだが、アイデアの出し方が分からないので思い切った提案は難しい。しかし、どちらもその責任を負わせた側にも問題がある。能力が足りないものを何の教育も無しに責任を負わせるのは経営者の見識が足りない。

更に、非連続な発想を経営者としての信頼を背景として引き出せないのは経営者の責任だろう。大抵の場合、そういう立場の経営者も追い詰められていて、取り組む課題が混乱していることが多い。何を優先して、限られたリソースを何に注ぎ込むか?

そう。自分が投入出来るリソースが限られていることに気付いてないケースも多い。自分自身の時間も含めて、不調な事業にあっては投入出来るリソースが僅少のことが多い。なのに不要不急のことにかまけていることが多い。

事業にあたって、「連続的な」テーマと「非連続な」テーマがどちらかだけということは少ない。基本的に、連続的な改善で補えないギャップを戦略的に埋めるのが求められる姿だろう。しかし、見栄えの良い非連続な戦略的打ち手に真っ先に飛び付くヒトが多い。今の場面で求められているモードを見極めないといけない。

2011年5月13日金曜日

東北の復興が利権にならない政治家のリーダーシップを望む

SPA!5月17日号で勝谷誠彦が"塩害利権"に言及している。今回の津波で洗われた沿岸地域の農地を三年かけて土を入れ替えて"土地改良"するのだそうだ。こういうことには直ぐに補助金が出る。しかし、耕作放棄地が沢山あるのだから、こんなことにお金をかけずにそういう過疎地への移住を奨めるべきだという。

有明干拓事業でも感じたが、何故耕作不適地にわざわざ農地を拓こうとするのだろうか。あの干拓事業で農地が出来る長崎は入り江と山勝ちな地形で農業には不向きである。干拓事業が持ち上がったのは長崎の人口が今以上に増えて食料が不足するから干拓事業開始当初は増加する人口増に備えて農地を拡大して農業生産を増やすのは意味があっただろう。しかし、実際には人口は減少して農地拡大は不要になり、耕作放棄地の増加でも食料が不足することは全くおきてない。最初の条件が変わっても当初計画を変えられないのは官僚主義の悪弊である。

こういう無駄や矛盾を解消して全体最適を図るのが政治家の役割であろうと思う。