2008年1月11日金曜日

明智光秀の謎・・・

去年の12月にテレビ朝日で「信長の棺」の完結編として「敵は本能寺にあり」が放映されていた。本能寺の変で明智光秀が織田信長を討ち果たした事件は400年以上経っても大きな謎として語られている。陰謀説?光秀天海説など諸説入り乱れている。

そんな時、ある雑誌に戦国史研究家の谷口克広氏の『信長と消えた家臣たち』という書籍の紹介を読んだ。氏曰く、

「光秀は『乱』の当時67歳で、老い先短いわが身と幼い子供たちのことや、先に追放された佐久間信盛のことを考えて、保身のために信長に反乱したのだ」

という。光秀が67歳というのは、そういう記述の入った書籍が残されているらしい。これまではあまりにも老齢すぎて、ライバルである秀吉との間で年齢差が ありすぎるということで無視されていたものらしい。しかし、この書物が正しいとすれば光秀の反乱は追い詰められてのことであり、事件の謎が解かれる。

そこで光秀という人物をもっと調べてみると、祖父は光継という人らしい(はっきりはしない)。この人物は東美濃に勢力を張った人物で、機を見るに敏で当時 台頭していた斉藤道三に娘を輿入れして勢力を維持していたそうだ。その娘が産んだのが濃姫で、後に信長の正室となる。濃姫が1535年頃の生まれというか ら、その母である道三正室は1510年代の生まれということになろう。光継の生年ははっきりしないが、その息子、つまり光秀の父親である光綱は濃姫の母と 同じ1510~20年代生まれということになる。
光秀が「本能寺の変」の時に55歳であるとすると、1527年頃の生まれとなり、父親が1510年の生まれとすると17歳のときの子供ということになる。 しかし、67歳が本当だとすると1515年の生まれとなる。濃姫の母と年齢が離れていたことも考えられるが、もしかしたら光秀の父と伝わる光綱が光秀のこ となのかもしれない。すると、光秀は信長正室の叔父ということになり、譜代家臣でもないのに出世した理由も理解できるではないだろうか。

信長は「実力本意で抜擢をする」という印象があるが、それは豊臣秀吉を取り立てたから、という印象に過ぎない。実際には重臣の殆どは「身内」で占められている。

滝川一益-乳兄弟(恒興)の従兄弟
丹羽長秀-女婿(信長養女を娶っている)
徳川家康-娘を嫡男に嫁がせる
池田恒興-乳兄弟

他にも前田利家にも娘を嫁がせるなど、身内で周りを固めることに腐心している。そう考えると、明智光秀が信長と深い姻戚関係があったとしても不思議はない。

そう考えると「本能寺の変」は現代風に言えば、専務(恒興)が首にされるのを間近で見、平取(秀吉)に追い立てられて立場を危うくした常務が社長を除いて自ら社長になろうとした、と見ることが出来るかもしれない。

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